進化についての仮説は、しばしば、多くの人に真実と理解されてしまい、「常識」のように受け止められていることがあります。 「精子を冷却するために、陰嚢が進化した」というのも、よく聞く“常識”ですが、はたして本当なのでしょうか?
進化に関する仮説には、けっこう怪しいものが多い。そのなかには、世間に広く普及して、常識の域に達しているものさえある。そういう怪しい進化仮説に足を掬われないためには、常識を疑うことも必要だろう。
私たちヒトは有性生殖をする生物である。女性は卵を、男性は精子を作り、両者が受精して受精卵となる。そこから新しい人生が始まるわけだ。
ところが、じつは私たちの体温は、精子を作るためには高過ぎる。そこで、ヒトの男性は、陰嚢という器官を体外に突き出して(というか、ぶらさげて)、そのなかに精巣を入れている。こうすることによって、精巣を冷やしているのだ。私たちの体内の体温は約37度に保たれているが、陰嚢のなかはそれより少し温度が低くて、だいたい34度ぐらいになっている。そして、34度前後が精子を作るのにいちばん適した温度なのである。
そのため、陰嚢が進化したのは、つまり精巣が体外へ脱出したのは、37度という高い体温に耐えられなくなったためである、という説がまことしやかに広まっている。これは、何の問題もない当然の説のように思えるけれど、でもよく考えるとおかしな話だ。精巣を冷却するために陰嚢が進化したとは、ちょっと考えにくいのである。
さて、順番に考えていこう。
まず、精子が形成されるために、私たちの体温は本当に高過ぎるのだろうか。そう、これは本当だ。「なぜ陰嚢が存在するのか?」についての研究は19世紀の終わりから始まった。
かわいそうな話だが、犬などの動物で精巣を腹のなかに戻すと、精子が形成されなくなるのである。もちろん、こういうかわいそうな実験だけでなく、現在までにさまざまな研究が行われ、数多くの結果が報告されている。それらを総合的に考えると、精巣を体温より低い温度に保つ役割が陰嚢にあることは確実である。
陰嚢が精巣を冷却するための構造であることは、水中に棲む哺乳類の知見からも支持される。
たとえば、イルカには陰嚢がない。これは泳ぐときに邪魔になるからだと考えられるが、魚などの小さな捕食者に狙われやすいという理由もあるかもしれない。
ともあれ、イルカの精巣は体内にあるので、高い体温に晒されてしまう。そのため冷却装置がついている。尾びれや背びれなどを流れる血液は、海水で冷やされるので低温になる。そういう低温の血液が、心臓から精巣に流れ込む血液に混ざるようになっているのだ。
精巣を体内に収容するためにわざわざ冷却装置を進化させたのであれば、これは陰嚢が精巣を冷却するための構造であることの決定的な証拠にもなるだろう。
さて、ここまで証拠が揃っている以上、陰嚢が精巣を冷却しているのは間違いない。でも、落ち着いて考えてみよう。
たしかに陰嚢は精巣を冷却しているけれど、だからといって陰嚢が精巣を冷却するために進化したとはかぎらない。精巣が陰嚢に入ったために、低い温度で精子を作らなければならなくなったので、精巣が低温に適応しただけかもしれない。つまり、精巣を冷却するために陰嚢に入ったのではなく、陰嚢に入ったために精巣は低温に適応したのかもしれないのだ。順番が逆の可能性もあるということだ。
ここで思考実験をしてみよう。いくつかの証拠から、哺乳類の祖先では精巣が腎臓の近くにあったと考えられている。
そこから陰嚢まで移動するのは、けっこう長い旅路である。最終的に陰嚢に辿り着いた暁には、たしかに精巣は冷却されるだろう。
しかし、辿り着くまでの期間は、別に冷却されるわけではない。そうであれば、陰嚢に向かって精巣が移動する理由がない。高い体温に晒されながら、陰嚢に辿り着けば冷却されるという夢に向かって、精巣が移動していく……なんてことは進化では起こらないのだ。
別の視点からも、陰嚢の進化における冷却仮説を検討してみよう。
哺乳類は大きく3つのグループに分けられる。カモノハシなどの単孔類と、カンガルーなどの有袋類と、私たちを含む有胎盤類だ。そして有胎盤類は、さらに3つのグループに分けられる。ゾウなどのアフリカ獣類と、アリクイなどの異節類と、私たちを含む北方真獣類である。
このなかで陰嚢を使って精巣を冷却しているのは、有袋類と北方真獣類だけである。単孔類と異節類とアフリカ獣類の精巣は、体内にあるのだ。
この場合、陰嚢の進化にはいくつかのシナリオが考えられるが、おもなものは2つである。
かつてはすべての哺乳類が陰嚢を持っていたが、単孔類と異節類とアフリカ獣類はそれを失ったというシナリオと、もともと哺乳類は陰嚢を持たず、有袋類と北方真獣類で陰嚢が独立に進化したというシナリオだ。
そして、事実は後者のシナリオである可能性が高い。なぜなら、有袋類と北方真獣類では、陰嚢と陰茎の配置が異なるからだ。カンガルーなどの有袋類では、陰嚢が陰茎の前にある。このように、ある器官の配置が異なる場合、それらは別々に進化した可能性が高いのである。
精巣が陰嚢という体外にある哺乳類がいる一方で、精巣が体内にある哺乳類もたくさんいるのだから、高い体温と精子形成が根本的に相容れないものではないはずだ。
そもそも哺乳類の体の中で進行している現象のほとんどは、体温でもっともうまく機能するようになっている(たとえば、私たちの体内にある酵素が働く最適温度は37度である)。そして多くの哺乳類でも、精巣は体温でうまく機能している。
そうであれば、陰嚢を持つ哺乳類の精巣が低温に適応している方が、不自然である。もともと精巣は体温に適応していたのだが、何らかの事情で体外に出たために、二次的に低温に適応するようになったと考える方が自然ではないだろうか。
さきほどイルカの話をしたが、イルカは北方真獣類に含まれる。そのため、イルカの祖先の精巣は、すでに体外に出て低温に適応していた可能性が高い。つまり、体内へ逆戻りしたのだ。その場合は、精巣を体内で低温に保つために、冷却装置を進化させることもあり得るだろう。
つまりイルカの例も、陰嚢の進化における冷却仮説を支持するものではないということだ。
それでは、冷却仮説に替わる説としては、どんなものがあるのだろうか。
一つには、オスがメスに対して性的なアピールとして使うために陰嚢が進化した、という説がある。これはディスプレイ仮説と呼ばれ、鮮やかな青色の陰嚢を持つマンドリルやサバンナモンキーなどが、その例とされる。
しかし、ディスプレイ仮説には、冷却仮説と同じ問題がある。たしかに現在は性的なアピールとして使われているかもしれないが、それが陰嚢が進化したときの理由とはかぎらない。とくに、腎臓の近くにあった精巣が体内を移動し始める理由を説明することができないので、有力な説とはいえないだろう。
また、別の説としては、腹圧が上昇したために精巣が体内を移動して、最終的には陰嚢に収まって体外へ出たという説がある。
激しい運動で肉体を酷使すると、腹部が圧迫されて、前立腺から精液の一部となる前立腺液が尿道へ漏れることがある。これは、前立腺には出口をしっかりと閉じる括約筋がないためとされる。括約筋がない理由はよくわからないが、射精に影響するからという意見もある。
ともあれ、激しい運動をすると、腹圧の影響で、オスの生殖器に不都合が起きることがある(前立腺はオスにしかない)。そのため、腹圧を軽減するために精巣が体内を移動し始め、最終的には陰嚢に収まって体外へ出たというのである。
この仮説は全力疾走仮説と呼ばれ、精巣が陰嚢に収まって体外に出たことだけでなく、精巣が体内を移動する理由も説明できる点が魅力的だ。
しかし、陰嚢が進化した種(カンガルー、コアラ、イヌ、ウマ、ラクダ、ヒトなど)が、進化しなかった種(カモノハシ、ゾウ、マナティ、ハイラックス、アリクイ、ナマケモノ)より激しい運動をする種かというと、やや疑問が残る。何となくそんな気もするけれど、陰嚢が進化するかしないかといった大きな違いを生み出すほど、運動量に違いがあるだろうか。
それに、哺乳類より体温が高く、哺乳類より激しい運動をする鳥類の精巣が体内にあることも、やや疑問である。もっとも、鳥類については、哺乳類と系統的に離れているので、単純に比較することに意味はないかもしれない。
このように、陰嚢の進化については決定的な説がなく、まだ分からないことが多い。しかし、だからといって、冷却仮説が正しいことにはならない。
たしかに現在の陰嚢には精巣を冷却する役割があるだろうが、昔もそうだったとはかぎらない。少なくとも進化に関する冷却仮説は間違いだろう。
常識も、ときには当てにならないということだ。
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