夫婦で旅行に行きたい、趣味に没頭したい、習い事を始めたい……定年後にやりたいことは人それぞれですが、夫と妻が同じ気持ちであるとは限らないようで……。ゆめプランニング代表の大竹麻佐子CFPが、夫が定年を迎えた夫婦の事例をもとに、老後の資金形成における注意点について解説します。
山田健一さん(65歳・仮名)は製造業で40年以上勤めあげ、このたび定年を迎えました。
入社してすぐ、日本はバブル期に突入。当時、景気はよかったものの長時間労働が当たり前で、健一さんも例外なく深夜までの残業や休日出勤を強いられました。バブル崩壊とともに経済は低迷し、倒産の不安に怯える日々が始まりましたが、それからも会社中心の生活に変わりはありません。
そして時は流れ、定年退職の日。
「退職金の2,000万円は、これまで苦労をかけた妻のために使いたい……」
そう思った健一さんは、翌朝リビングで妻の美佐子さん(61歳・仮名)に声をかけました。
「……いままで苦労をかけたな。本当にありがとう。なにか、欲しいものはないか?」
口下手な健一さんは、長年妻とあまり会話ができずにいました。しかし、心では妻のために新車でもジュエリーでもなんでも買うつもりでした。そして、もし欲しいものがないと言われたら、勇気を出して温泉旅行を提案しようと企んでいたのです。
しかし、美佐子さんの口から出た言葉は、健一さんの予想とはかけ離れたものでした。
「退職金、2,000万円だったわよね? 半分の1,000万円がほしいわ」
「……? 待て、いったいどういう意味だ?」
混乱する健一さんと対照的に、妻は冷ややかに言いました。
「お仕事、お疲れさまでした。子育ても終わったことだし、これから第2の人生よね。私も、あなたと離婚して自由になりたいの」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 突然なにを言い出すんだ!」
突然突きつけられた“三行半”に思わず悲鳴をあげる健一さん。ですが、退職した翌日に退職金2,000万円の使い道について口にするのは、正直に言って少し“遅すぎる”といえます。
健一さんががむしゃらに仕事に打ち込んでいたころ、妻の美佐子さんはパートで月10万円ほどを稼ぎながら、たった1人で子育てに奮闘し、長年家庭を支えてきました。
美佐子さんは、これまで健一さんが時間と労力とエネルギーを仕事に注いでくれたことには一定の敬意を表していました。とはいえ、美佐子さんが家事を一手に引き受けてくれていたからこそ、安心して仕事に打ち込むことができていたことも事実です。
しかし、健一さんは妻に1度も「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えたことがありませんでした。家計の管理や子育て、自治体とのやり取りなど、美佐子さんになにを聞かれても「任せる」で済ませていたのです。美佐子さんは夫のこうした態度が許せませんでした。
健一さんの言い分としては、長年の感謝の気持ちがあるからこそ「妻の望みを叶えてやりたい」と定年のタイミングで声をかけたとのこと。
しかし、たとえ長年連れ添った夫婦であっても、信頼関係は「コミュニケーション」によって生まれます。お互いの信頼関係がなければ、当然思いは伝わりません。
美佐子さんにとって、感謝もなく真摯に向き合ってくれない夫との信頼関係は、ずいぶん前から崩れていたのでした。
実は、美佐子さんは数ヵ月前から知り合いのファイナンシャルプランナー(FP)に相談していました。
「もう限界なの。子どもも大学を卒業して子育てから手が離れたし、自由になりたくて。いまはパートで月10万円くらいの収入だけれど、もし離婚したらもっと働いて自分の生活費は自分で賄うつもり。だけど、もうすぐ旦那に2,000万円の退職金が入るのよね……できれば退職金の半分は欲しいんだけれど、可能なのかな?」
離婚にあたっては、それまで夫婦が協力して築いた財産を分け合う「財産分与」が適用されます。そのため、退職金だけでなく、結婚後に購入した持ち家や金融資産、今後受け取る年金受給権の分割が可能です。
ただし、財産分与の対象となるのは、「婚姻期間中」に相当する部分のみ。したがって、退職金について本来認められるのは、勤務期間43年に相当する2,000万円の半分ではなく、婚姻期間30年分(約7割)相当の半分である約700万円です。
上記のようにFPが説明すると、美佐子さんは「なるほど……そうなんだ。そこらへんの詳しい話は弁護士に相談してみようかな、ありがとう」と事務所をあとにしました。
そして、夫に離婚を宣言した美佐子さん。美佐子さんの固い決意に、健一さんは渋々同意。その後は弁護士を交えつつ、財産分与について話し合いました。
その結果、自宅については、健一さんの親から引き継いだものであることから、健一さんが住み続けることに。また、年金分割は請求しないことにしました。
しかし、退職金のほか、これまで夫婦で貯めてきた金融資産とあわせて計算した結果、2,000万円を美佐子さんが受け取ることで合意に至りました。
自宅と年金受給権は守れたものの、月18万円の年金と預貯金残高500万円で、健一さんはこれから1人で暮らしていかなければなりません。健一さんは生活費を稼ぐために、近所のガソリンスタンドでアルバイトを始めました。
「これまでなんのために必死に働いてきたんだろう……」
健一さんは肩を落とします。
一方、小さなアパートを借りて自由な生活を手に入れた美佐子さん。当初予定していたよりも多くの現預金を受け取ることができ、現時点で生活費の心配はありません。とはいえ、毎月の賃料に加えて光熱費や通信費などの支出負担は想定以上です。「いつまで働けるんだろう」と、将来への不安はありつつも、ようやく手に入れた自由を満喫しているようでした。
我慢しながら2人での生活を継続するのか、経済的に厳しくても新しい生活への1歩を踏み出すのか……どちらが正解かは人それぞれです。
人生100年時代といわれ、定年後の時間が長くなりました。日々のコミュニケーションを大事にしつつ、早めに計画を立て、心も身体もお金も心地よい状態でセカンドライフを送りたいものです。
大竹 麻佐子ゆめプランニング 代表ファイナンシャルプランナー(CFP)相続診断士