2024年の年間訪日客数が3600万人を超え、過去最高を更新。また旅行者数増に加え、円安効果で消費額も軒並み急増し、日本経済に少なからぬ影響を与えるまでになったインバウンド。だが、これほどの盛況ぶりでも、日本人がその恩恵を実感できない状況にいる。いったいなぜなのか。
【画像】京都・錦市場で外国人観光客に飛ぶように売れている“牛串”
インバウンド政策で日本に外貨が落ちれば、きっと国民は豊かになる――。しかし、それはもう幻想だと気付かれつつある。恩恵があるのは観光とその関連企業くらいで、実はそこの従業員ですら蚊帳の外だった。
都内の中堅ホテルのスタッフが肩を落としてこう話す。
「最近はよく宿泊料とサービスが見合ってないとクレームが来ます。それはそうですよ。人手不足やSDGsを盾にサービスを削減して、値段は数年前の2倍以上ですから。
そのうえ、訪日客対応の負担も増えているのに我々の昇給は雀の涙。しかも最低賃金クラスの外国人スタッフがどんどん入ってくるので、経営者が我々の賃金を上げる理由がない。数字しか見てない会社は『生産性が上がった』と大喜びでしょうが」
昨年の訪日外国人旅行消費額は過去最高の約8.1兆円を記録した。中でも、その恩恵を最も受けるのがホテル業界だ。
「東京ホテル会」の調べによると、24年12月の東京の平均客室単価は約1万9000円。コロナ禍前の19年同月は約1万1000円だった。
円安の影響で電気代やリネン費などの運営コストも上昇しているが、それを差し引いても客室あたりの粗利は19年比で2~4倍程度に膨らんでいると見られる。
一時落ちていた稼働率も、現在はほぼコロナ禍前の水準まで回復しており、まさにホテルは荒稼ぎと言っていい状況だ。
しかし、冒頭の証言のように、従業員の賃金は安いまま。ホテル業界の求人情報を見ても、都内の正社員ですら月23万円~の募集が多く、国内屈指の名門ホテルでも、アルバイト求人であれば一般の飲食店と大差ない。
コロナ禍からの回復基調が鮮明になった『令和5年賃金構造基本統計調査』(厚労省)によれば、インバウンド産業である『宿泊業,飲食サービス業』の月額給与は前年比0.8%増の25万9500円と、依然、業種別で最低水準のままだ。
そのうえ、レジャー産業は今や中国など外国資本の進出も活発で、儲けている会社が日本企業とも限らない。中国在住歴が長かったジャーナリストの北上行夫氏が警鐘を鳴らす。
「中国には『一条龍(一匹のドラゴン)』と呼ばれ、消費者の囲い込みを目指すビジネスの慣習があります。観光業でいえば、航空券→宿泊→現地ツアー→ショッピングまで一貫して行なうワンストップサービスのことです。
彼らは物流拠点まで日本に作り、アプリ上で決済まで済ませられるので、日本に外貨が落ちているとすら言えず、日本の税務当局が捕捉するのは難しいでしょう。ウィンウィンの関係などありえません」
治安面も心配だ。訪日外国人による万引き被害も増えており、警察庁によると、21~23年の1件当たりの被害額は8万8531円に上る。これは、日本人容疑者による被害額(1万774円)の8倍以上で、まさに“爆盗み”の様相だ。
このようにインバウンドによる“観光公害”など、オーバーツーリズムが引き起こすデメリットは格段に色濃くなっているのだ。
一方で、期待する経済効果については、訪日客8.1兆円の消費額に加え、その経済波及効果を考えても、GDPに占める割合はせいぜい2~3%。日本経済全体に与える効果は元から限定的で、とても日本経済をけん引する産業にはなりえないだろう。
観光産業の雇用者自体は増えたが、その内訳は外国人材が多く、彼らの賃金は低いため、業界全体として賃金が上がりにくい状態に変わりはない。
しかも、国内は失業率がすでに最低水準の人手不足状態だ。雇用を増やしたというより、人手不足の中、他業種から奪ってきた、というのが実態に近いともいえる。
インバウンド依存度が高い北海道・ニセコ地区などでは、介護人材が観光業に流出して介護事業所の閉鎖が報じられるなど、人材の奪い合いは地域生活にも悪影響を与えかねない。
それでも、最終的に地域に住む人が経済的に潤えば、政策目標は果たせているとも言えるが、残念ながらそんな形跡は一切ない。
例えば、人口あたりの訪日客宿泊数が大都市ではトップの京都市住民の懐具合はどうか。所得を反映する個人市民税収では、当初予算ベースで18年の1093億円から24年には1126億円と、たった3%程度しか増えていない。
市民税が累進の所得税と連動していることを考えると、全国平均と同様に物価上昇を反映した実質ベースの所得はほぼ上がっていない情勢だ。
その一方でインバウンド政策は国民に対する負担が大きすぎるのだ。
特に深刻なのが局所的なレジャー物価の高騰。宿泊施設や、一部飲食店など、有限な消費財に需要が集中することで、需給バランスを崩し、局所的に“狂乱物価”となってしまう。
日本人が行きたいところは外国人の行きたいところとも重複するため、円安で購買力にまさる訪日外国人に買い負けて、排除されてしまう。
全国紙経済部記者が言う。
「もともと日本人がそこまで行かなかった地域ならまだしも、日本人が行きたい京都や東京のホテルまで高騰しています。円安で海外旅行はおろか、インバウンド政策の影響で日本人は自国の旅行ですら行きにくい世の中になってしまいました。
京都では、日本人の延べ宿泊数はすでにホテル代が高騰していた19年同月比からさらに19%も下がっていて(京都市観光協会・24年7月データ月報)、現在の宿泊者数における日本人比率は半分以下になっています。
日本人観光客が減ったことで、外国人が関心を示さないような店は逆に閉店に追い込まれています。かつて『京の台所』と言われた錦市場は1本数千円の“インバウンド牛串”を並べる店ばかりになり、地元住民はもちろん、日本人観光客もほぼ寄り付かなくなってしまいました。
その結果、長年、軒を連ねた惣菜店や漬物店など多くの伝統的な店が閉店を余儀なくされたのです。京都を知ってもらうどころか、京都の伝統が現在進行形で失われていっているのです」
国民に恩恵がないどころか、逆に日本の風情まですり減ってしまうインバウンド政策。テレビは「外国人に人気!」と繰り返すが、喜んでいられる話ではないのだ。
前出の経済部記者が言う。
「そもそも観光業の振興は、他にめぼしい産業がなく失業率が高い国や地域が、雇用を生み出すために取る政策です。しかも、観光業は社会的な生産性向上にはあまり寄与しないとも言われています。
例えば工業やIT、社会インフラの発展は、国民に直接の経済的恩恵がなくても、技術や開発が進展することによって便利な社会を享受できるという恩恵があります。
しかし、観光産業が発展し、飲食店やホテルができても、サービスを利用する人以外には恩恵がありません。そのうえ、労働集約型産業で多くの人材を必要とし、人手不足社会では他業種に悪影響をもたらし、物価上昇にも繋がります」
残念ながら今のインバウンド政策は、日本人の需要減は想定されていなかった。物価高により、購買力が劣る日本人は排除され、円安で購買力にまさる外国人に顧客対象を置き換え、同時に街の性質や風情も変わってしまう政策ともいえる。
ネット上では、インバウンドに批判的な論調に対し「排外主義」批判が起こるが、実際には「排内(日)主義」的な政策と言えなくもない。
なお、民間調査によれば、今の訪日旅行の決定要因の6割は円安だという。昨年来日した3687万人の訪日客の半数以上は日本が安いから来ている客ということになる。
30年の政府目標は昨年の1.5倍以上の6000万人であり、これは、逆に言えば国民がさらに円安で苦しみ、訪日客の集中によってレジャー物価がさらに高騰するような状況を政府・自民党が目標設定しているとも言えなくもない。
国民のための政策と考えた場合、インバウンド政策にはもともと大きな矛盾があるのだ。
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取材・文/九戸山昌信