ここ5~6年ほどの間に、何度か夕張の町を訪れる機会があった。
【画像】財政破綻に廃線、ホテル閉鎖… 現在の「夕張」を写真で一気に見る
最初に行ったときは、まだ夕張の市街地まで鉄道が通じていた。北海道の山の中、際立って過疎が進んでいる町ともなると、たどり着くだけでもなかなか苦労しそうなイメージがある。
ところが、実際にはそういうことはなく、むしろ東京から見ても案外近いといっていい。
鉄道が通っていた時代なら、新千歳空港からひと駅だけ乗って南千歳駅。そこで石勝線の各駅停車に乗り継げば、そこから終点の夕張駅まで揺られるだけだ。空港から夕張駅までざっと2時間。列車の数がめちゃくちゃ少ないという難点はあるにせよ、夕張はそんなに秘境めいたところではない。
夕張駅に向かう鉄路は2019年春に廃止になってしまったが、代わって町外れのターミナル・新夕張駅から路線バスが夕張の市街地に通じている。
財政破綻から約20年。廃線、ホテル閉鎖も経験したいま、夕張は…… 鼠入昌史
こちらも鉄道時代と同じく運転本数が潤沢とはいえないけれど、1~2時間おきに走っているから、とにかく夕張の市街地に行くことだけが目的ならば、それほど困ることはない。
夕張の市街地は、夕張山地の谷あいに沿って細長く続く。開けているのは夕張高校や夕張市の拠点複合施設「りすた」のあるあたりやかつて大夕張鉄道が分かれていた清水沢、また鹿ノ谷・若菜といった一帯にも市街地が形成されている。
ちなみに、高倉健と倍賞千恵子でおなじみ『幸福の黄色いハンカチ』のロケ地跡があるのは若菜地区。いまでもファンが足を運ぶという。
そして、いちばんの市街地といえるのが、かつての夕張駅より北側に広がる一帯だ。
たった1面1線、棒線のホームがいまも残る夕張駅。とんがり屋根とその上の風見鶏が愛らしい旧駅舎には飲食店が入る。その奥にあるのが、ホテルマウントレースイだ。
といっても、マウントレースイはホテルとしては営業を休止中。裏手のマウントレースイスキー場だけが営業を続けている。
閉ざされたリゾートホテルと列車の来なくなった終着駅。この組み合わせだけでも、もうなんだかだいぶ寂れたというか、廃れたというか、そういう印象を抱かせるに充分だ。
だいたいの人は、夕張といったら“財政破綻した町”というイメージを持っているに違いない。そんなイメージ、先入観にぴったりの、夕張駅跡の風景である。
小さなロータリーとセイコーマートの脇を抜け、夕張駅跡から北に進む。すると、10分ほど歩けば夕張の中心だ。立派な構えの市役所もあるし、その周りにはいくつかの建物が並ぶ。いつだったか、このあたりで食べたカレーそばは美味かった。なんでも夕張の名物らしい。
さらに市役所前の一帯から志幌加別川を渡って北に抜けると夕張本町、つまり夕張のいちばんの中心市街地に出る。かつてはまさに一大繁華街、多くの商店が軒を連ねて活気に満ちて、北の端には百貨店まであったという。いまでもその当時の面影はほんのりと残り、「ゆうばりキネマ街道」なる看板も掲げられていた。
が、かつて百貨店があったところに建てられたホテルはこちらも営業休止中。シャッターが降りている店も目立つし、すっかり廃墟のようになってしまった建物もちらほらと。町中を歩いていても、中心地だというのにほとんど人の姿を見かけることはない。
夕張市は深刻な財政難から2007年に財政再建団体に指定された。全盛期には11万人を超えていた人口も、いまでは6000人台にまで落ち込んでいる。
2011年には鈴木直道現北海道知事が市長に就任してその清新さが注目されたし、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭も1990年以来開かれている当地のビッグイベント。マウントレースイに外資が進出し、外国人観光客で賑わったこともあった。
が、そうした中でも人口の減少には歯止めがかかっていない。結局、中心市街地を北に抜けるまで、人とすれ違うことはなかった。
そんな寂しさに耐えつつも、さらに市街地の北に歩を進めてゆく。すると、閉鎖されて廃墟と化した花畑牧場のさらに奥に、広大極まる空き地が見えてきた。その真ん中には、「夕張希望の丘」と書かれた大煙突がぽつねんと。近づくと、どうやら駐車場のようだが……。
空き地の入口には進入禁止の案内表示があり、さらに「金属散乱…進入したらパンクの危険」などというおっかない表示もあった。そして、「この広大な廃墟は…かつての歴史村遊園地・大駐車場」。つまり、この場所にはかつて遊園地があった、というわけだ。
その遊園地とは、石炭の歴史村の一角に1983年にオープンしたアドベンチャー・ファミリー。
一帯には遊園地に加えて「ロボット大科学館」や「知られざる世界の動物館」、他にも水上レストランに大劇場といった施設がひしめいていた。夕張とロボットにどんな関係があるのかはわからないが、とにかく夕張の町の北の端に、一大レジャーランドがあったのだ。
けれど、そのほとんどはなくなった。残ったのは金属片が散らばった駐車場の跡と遊園地の残骸、そして夕張の歴史を伝える夕張市石炭博物館くらいである。
言うに及ばず、夕張は石炭の町だった。明治初期から開発が手がけられ、多くの入植者によっていくつもの炭鉱が拓かれた。
日本を代表する産炭地・炭鉱都市として発展し、最盛期には人口11万人超、24のヤマがあって、町中には石炭を運ぶ列車がひっきりなしに行ったり来たり。夕張が日本の近代化を支えたといっていいほどの、大きな役割を果たしてきた町なのだ。
夕張の主要な炭鉱は、北炭(北海道炭礦汽船)の夕張鉱業所・平和鉱業所と三菱の大夕張鉱業所の3つ。特に、北炭の夕張鉱業所は規模が大きく、周囲には無数の炭鉱住宅が建ち並び、近接する夕張本町の商店街は圧倒的な賑わいを得ていた。
そんな夕張炭鉱の跡こそが、廃墟になった駐車場。「希望の丘」の煙突は北炭の大煙突、文字通りの炭都・夕張のシンボルだ。
そんなわけだから、まさに周辺は北炭の企業城下町。炭鉱で働く人とその家族、彼らの生活はすべて北炭の丸抱えで、家賃水光熱費から映画まで、なんでもかんでも北炭の負担、つまり無料で提供されていたという。
しかし、石炭の時代は終わり、徐々にヤマも減っていく。ヤマが減れば仕事がなくなるわけで、人口も減少。ピーク時の1960年からわずか15年、1975年には5万人ほどにまでなってしまった。
そうした中で、石炭に次ぐ新たな産業として夕張市が打ち出したのが観光だった。
その頃には、常磐炭田が常磐ハワイアンセンター(現在のスパリゾートハワイアンズ)に転換して成功した先例があった。その二番煎じというか2匹目のドジョウというか、少なくとも職にあぶれた炭鉱労働者たちを食わせねばならなかったのだから、夕張市も必死に知恵を絞ったのだろう。
そうして生まれたのが、遊園地をはじめとするレジャーランドだったのである。
実際、「炭鉱から観光へ」の転換はそれなりに結果も出ている。1970年代末には年間50万人に満たなかった観光客も、レジャーランドができてからは3倍以上の180万人を超えるまでに。
さらにその後もホテルを建てて映画祭を催し、ありとあらゆる手を打って観光への傾斜を強める。純粋に民間の手による事業はほとんどなく、市が出資した第三セクターでの運営であった。
しかし、そもそも閉山対策に500億円という大きな負担を強いられた上での、超をいくつつけても足りないほどの積極財政である。
そこにバブル崩壊後の観光客激減が加わって、観光施設は赤字が続く。それはもちろん市が補わねばならず、ついに行き詰まったのが財政破綻というわけだ。
財政破綻、財政再建団体に指定された直接の原因は、ヤミ起債だった。このあたりの詳細は省くが、簡単にいえば悪さをして帳簿をごまかしたのだ。加えて第三セクターの放漫経営なども明らかになって、まるで“悪い見本”みたいに叩かれた。
が、本当の原因はどこにあるのだろうか。
石炭を「黒いダイヤ」などとさんざっぱら持ち上げて、どんどん掘れどんどん掘れと増産を求め、得られた石炭で進んだ日本の工業化。
ところが、エネルギー革命で石炭が要らなくなったら、まるで何ごともなかったかのように石炭の町が苦境に陥ったことからも目を背けた。
いわば、世間から見捨てられた炭都が、生き延びる道として不慣れな観光を選び、その結果の財政破綻。いったい、誰が夕張を笑うことができようか。
そんな寂しくなった夕張の町を歩き、新夕張駅に戻るためにバスに乗った。最初はガラガラの車内だったが、ゆうばり小学校からはたくさんの小学生たちが乗ってきた。
子どもたちの声は東京だろうが夕張だろうが変わらない。町を歩いて石炭博物館で夕張の歩みを学び、歴史の残酷さを感じたところでの子どもたちの姿。北炭の大煙突、「希望の丘」などよりもよほど、彼らの声に希望を感じたのであった。
(鼠入 昌史)