「火病ってる」、「しょせん女の脳は」…。末期がんを患いネット右翼に心を支配された父の「小さな言葉」に傷つけられ続ける毎日に筆者は言葉を失い、心を閉ざしてしまった。
「父はなぜネット右翼に染まってしまったのか」、「本当に、これでよかったのか」
最後の最後まで対話の姿勢を見せることなく父を看取ってしまった筆者は答えの出ない自問自答を繰り返すことになる。父の「死」を哀しむことができない筆者が抱えた「わだかまり」の正体は一体何だったのだろうか。思想の違いによって分断された家族の失望と落胆、愛と希望を綴った『ネット右翼になった父』より、一部抜粋・再編集してお届けする。
『ネット右翼になった父』第1回
元号が変わって間もなく、がこの世を去った。77歳。ステージ4の肺腺がんと告知されてから3年頑張ったが、どうしてもから飲みいできなくなると、急速に痩せ衰えて逝ってしまった。
けれど、あまりにもすんなりと常活に戻れてしまう、映画や説の中の「息」のようにの死を哀しめない分がいる。そんな分に対してとして何かけたものをモヤモヤ感じつつ二度目の命を迎えた頃、わだかまりの輪郭がくっきりと浮き彫りになってきた。
晩節のは、どうしてネット右翼的な思想に染まってしまったのだろうか?
遺品整理としてのノートパソコンの中を覗くのは、きな理的苦痛を伴う。ブラウザのブックマークを埋める、嫌韓嫌中のコンテンツ。偏向を通り越してまず「トンデモ」レベルな保守系まとめサイトの数々。
前のはち歩けなくなる直前まで地域福祉や住のネットワーク作りに奔していたが、デスクトップにはそうした業務のファイルに交じって、ファイル名そのものが「嫌韓」とされたExcelデータがあり、中はYouTubeのテキスト動画リストだった。
はじめは、あれ?という違和感程度だったように思う。末期がんの告知を受けた後、それまでは年に一度二度帰る程度だった実家に毎顔を出して、に一度の診断にを出して同するようになった。
久々に帰った実家で、帳に整理されたの書斎のデスクや枕元に何げなく置かれた「正論」「WiLL」などの右傾雑誌の数々。その頃は、相変わらず知的好奇の幅が広い男だなと思った程度だったのだ。
はとにかく多に好奇をす物だったし、退職しても即座に語学留学でらく中国に滞在するような向学の塊だったからだが、そこから毎顔を合わせるようになると、毎回のように僕はのさな葉に傷つけられることになった。
病院に少し声のきな集団や服装に違和感のある々がいると、「あれは中国だな」とつぶやく。「最近はどこにっても三国ばっかりだ」と、誰に向かうでもなくう。
「病(ファビョ)ってるなんてうだろ。なんでも被害者感情に結びつけるのはの病気だな」
中韓に向けての露骨な批判をにするに、葉を失った。火病ってるなんて葉を使う時点でどんなコンテンツに触れているかがわかるし、あたかもそれが誰にでも通じる共通語かのように語る時点で、閉鎖的なコミュニティの中でが常識を失っていることを感じた。
『「しょせん女の脳は」と口にする父…病床の父が好んだYouTubeから聞こえてくるのは偏向発言の数々だった』へ続く。
【つづきを読む】「しょせん女の脳は」と口にする父…病床の父が好んだYouTubeから聞こえてくるのは偏向発言の数々だった