〈中2で不登校→17年間“引きこもり生活”→31歳で精神科病院に入院…「死ぬ一歩手前」まで追い詰められた50歳男性が語る、幼少期の複雑な家庭環境〉から続く
就学や就労などの社会的参加を避けて、長期間、家庭にとどまり続けている「引きこもり」。内閣府の調査によると、日本には現在、約146万人の引きこもり当事者がいるという。
【写真を見る】17年の引きこもり生活で、髪は膝下まで伸び、歯はボロボロに欠け、身体はガリガリに…後遺症と闘っている糸井博明さん50歳
兵庫県丹波市で生活支援員として働く糸井博明さん(50)も、14歳から31歳まで17年間、引きこもりを経験したひとりだ。長期の引きこもりによって、「死ぬ一歩手前」まで心身が疲弊。31歳のときに精神科病院の閉鎖病棟に入院し、統合失調症と診断された。
糸井さんはいったい、どのような引きこもり生活を送っていたのか。17年間の引きこもりから脱却するきっかけは何だったのか。話を聞いた。(全3回の2回目/3回目に続く)
糸井博明さん 山元茂樹/文藝春秋
◆◆◆
――中学2年生で引きこもりになってしまった糸井さんに対して、ご家族はどのような対応だったのですか。
糸井博明さん(以下、糸井) 最初は母から「学校に行きなさい」と言われていたと思うんです。でもその頃には私の体が大きくなっていたから、壁をドンドン叩いたり、暴れたりして反発していました。
それでも母は、しばらくは私のことを気にかけていたんですけど、日中は自宅兼店舗で美容師の仕事をしていて忙しいし、私がうるさくするとお客さんに迷惑がかかるから、次第に放っておくようになって。
――お母さんと話し合うようなことは。
糸井 なかったです。幼い頃から自分だけ狭い部屋をあてがわれたり、学習教材を買い与えられなかったりして、愛情を注いでもらってないと思っていたから、母との信頼関係が構築できていませんでした。
――お父さんやおばあさんからは何も言われず?
糸井 父は外に働きに出ていたし、小学校の高学年から口をきかなくなっていたから、そもそもコミュニケーションを取っていなかった。
祖母には、幼い頃は入信教育と虐待のようなしつけをされていたけど、中学生になってからは力が強くなって、抵抗できるようになっていたので、何か言われたら暴れて反発して。
――食事は家族と一緒にしなかったのですか。
糸井 最初の頃は、お昼にスーパーのお弁当とか、近くの中華料理屋の出前のラーメン、喫茶店のピラフなんかを買い与えられていました。
でも、食事のときに家族と同席することはなかったし、同じものは食べなかった。家族とはコミュニケーションを取らないようにしてました。
――家族のことを完全に拒絶してしまった。
糸井 そうです。あとは、母への抵抗から髪の毛を切らず、伸ばしっぱなしにしたりもして。
――なぜ髪の毛を切らないことが、お母さんへの抵抗なのですか。
糸井 母は美容師なのに、いつも私の髪の毛をバリカンで剃って丸刈りにしていたんです、小さい頃から。それに対する不信感もあったから、母親に髪を切らせないことで、「怒っているぞ」「許さないぞ」という気持ちを示そうとして。
結局、17年間も髪の毛を切らなかったから、最終的には膝下くらいまで伸びてしまいました。
――身体を張って自身の気持ちを訴えようとした。
糸井 ひげも剃らなかったし、風呂にも入らず、服も着替えず、歯も磨かないという生活がずっと続きました。
そうしたら、歯が悪くなってしまって。虫歯を放置していたら、歯がボロボロに欠けてしまったんです。だから硬い物は食べられず、惣菜パンとか、柔らかいものしか食べなくなりました。
――治療には行かず?
糸井 もともと劣等感が強いうえに容姿も悪くなっているから、外に出ることが怖くなってしまったんです。だから歯の治療や病院にも行けなくて。
――そういう生活を送っていたら、健康状態も悪くなるのでは。
糸井 歯が欠けてしまって食べられるものが少ないし、治療にも行けないから、自室に持ち込んだオーブントースターと玉子焼器で、やわらかいパンケーキや具のないお好み焼きを作って食べていました。そしたら、ガリガリに痩せてしまって。最終的には、177センチで57キロまで体重が減ってしまいました。
――精神状態への影響は?
糸井 お風呂に入ってなくて身体は不潔なのに、手を何回も洗わないと気が済まなくなってしまって。強迫性障害の症状だと思うんですけど、心理的な不安や恐怖心からそういう行動をとるようになったのかもしれません。
31歳のときに統合失調症と診断されるのですが、いま思えば、引きこもり生活の前期からその兆候があったように思います。
――ご家族のことを拒絶されていたそうですが、助けを求めたりはしなかったのですか。
糸井 しなかったし、できなかった。ただ、母に対して、無言の訴えをしたことはあります。ティッシュペーパーの上に欠けた歯のかけらを並べて、差し出したんです。助けてくれとも何も言わずに。「あなたのせいでこうなった、どうしてくれるんだ」という思いが伝わればと。
――それに対して、お母さんは何と?
糸井 何も言わなかったし、私のことを医療機関や福祉施設に連れて行こうともしなかったです。
母は中卒で美容師になって、職人のように働いてきた人だから、そういう知識がなかったんだと思います。
――当時は、今みたいにネットで調べることもできないから、社会的な支援にたどり着きにくい状況だった。
糸井 そうだと思います。当時は、引きこもりという言葉自体もあまり社会に浸透していなかった。それに昔は、自分の子どもを精神科に連れていくことに抵抗がある親は多かったと思うんです。母も「恥ずかしい」みたいな気持ちがあったはずです。
――当時のご自身の状態は、どのようなものだったと思いますか。
糸井 もう頭がおかしくなっていたと思います。自分の異常性もわかっていました。
鏡を見たら、ヒゲはボーボーだし、歯は欠けてなくなっているし。自分で髪を切らせていないのに、髪が伸び放題になった自分が嫌で、醜くて、許せなくて。自分はまともな人間じゃないと思っていました。
――社会に復帰したいという気持ちは。
糸井 そんなチャンス、自分にはないと思っていました。その当時から、「就職氷河期」とか「派遣切り」といった言葉をニュースで見聞きしていて。高卒や大卒の人でも就職活動で落とされたり、クビになったりしているのに、学歴も職歴もなく、容姿への劣等感も抱いていた自分が社会に出られるわけがないと。
ただ、もし社会に出たら周りについていけるように、勉強だけはしておこうと思って。英和辞書を丸写ししたり、NHK教育テレビで放送されている『NHK高校講座』を見てノートに書き写したりしていました。
――社会復帰を諦めきれなかったわけですね。
糸井 そうです。それに、このまま死んだら、私の存在がなかったことにされるんじゃないか、私が幼い頃から感じていた痛みも苦しみもなかったことにされるんじゃないか、と思うようにもなったんです。もし死ぬとしても、それだけは嫌だった。
その思いがピークに達したときに、紙テープで血染めの歯形を作って、それをA4の便箋に貼って弁護士事務所と医療機関の2か所に送ったんです。
――血染めの歯形?
糸井 自分の歯形です。上歯と下歯の本数を調べて、歯が欠けている部分もわかるように紙テープの裏側に描いて。それを自分の血で染めたんです。一緒に血で染めた1万円札も同封して送りました。
――なぜそのような行動を起こしたのでしょう。
糸井 自分が生きた証を残したかった。だから「助けてください」というメッセージも書きませんでした。助かるとも思っていなかったし、血染めの歯形を送って、そのあとは死ぬんだろうと思っていました。
でも、それがきっかけで医療関係者が私の家に訪ねて、精神科の閉鎖病棟に強制措置入院することになったんです。引きこもってから17年が経過した、31歳のときでした。
撮影=山元茂樹/文藝春秋
〈「当時の自分は異常だった」「でも、恋愛や就職を諦められず…」17年間“引きこもり”だった50歳男性が、大学に入学して社会復帰を果たすまで〉へ続く
(「文春オンライン」編集部)