〈母は小学校入学直前に突然死、父は“同級生の母親”と交際して家出…小2で一人暮らしになった47歳芸人が語る、幼少期に味わった“孤独”「僕にはゲームしかなかった」〉から続く
フジテレビ系列のドキュメンタリー番組『ザ・ノンフィクション』で壮絶な生い立ちが話題になった、ゲーム芸人・フジタさん(47)。小学校入学直前に母親が急死し、その後、父親が同級生の母親と暮らすようになったため、小学生にして一人暮らしを強いられた。
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フジタさんの父親が、育児放棄してまで一緒に暮らすようになった同級生の母親は、いったいどんな人物だったのか。彼女やその子どもに対して、フジタさんはどんな思いを抱いていたのか。本人に話を聞いた。(全3回の2回目/3回目に続く)
ゲーム芸人・フジタさん 杉山秀樹/文藝春秋
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――フジタさんが小学2年生の時にお父さんが家を出て行って、フジタさんの同級生であるK君の母親と一緒に暮らし始めたそうですが、その女性はどういう人だったのですか。
フジタさん(以下、フジタ) ヤバイ人でしたね。僕が父親から殴られているのを見ても止めませんでしたし、僕の父親のことを「私の子どもを虐待しないのがいいところ」と、悪気もなく僕の目の前で言っていましたから。ちょっと接しちゃいけないような人でした。
父親がどうしてあそこまで入れ込んでしまったのかは、わからないです。でも男の人を丸めこむのが上手いというか、今思えば洗脳だったんじゃないかな、とも思います。
――当時、フジタさんはK君やそのお母さんのことをどう思っていましたか。
フジタ もともとK君とは仲が良くて普通に遊んでいたんですけど、父親がK君親子と暮らすようになってからはK君も僕に対してマウントというか、僕の父親のことを「自分の父親だ」という感じになってきて。
K君がいなければ、僕に対する虐待もなくなると思ったので、正直「K君を殺せばいいんじゃないか」と思ってしまったこともあります。

――どういった時にそう思ったのですか。
フジタ 当時、ガス銃とかエアガンというものが流行っていて、子どもでも使えるようなものだったんですね。自動販売機にヒビが入るくらい強い威力で弾が飛び出るんですが、ある日、K君が僕の額に向けてそれを撃ったんですよ。
すごい腫れて、それを父親に見せて「K君はこんなやべえことするんだよ」と言ったら、怒るどころか「大丈夫、大丈夫」と言って笑ったんです。その時に、殺意というか「K君を殺そう」と思いましたね。
――K君に注意すると、K君のお母さんに嫌われるかもしれないと思ったのかもしれませんね。
フジタ そうだと思います。せめて謝らせてくれたりすれば話は違ったと思うんですけど、僕がそんな目に遭っても注意すらできないのか、と。K君の母親もその事件は把握していましたが、何も言いませんでした。
――K君のお母さんとフジタさんの関係性はどうでしたか。
フジタ 2人きりのときに嫌なことをされたとかはなかったんですけど、中学に入学して、これまで給食だったのがお弁当に変わったんですね。そのタイミングで、僕のお弁当をK君の母親が作ることになって、それまでもらえていた食費や生活費を父親が渡してくれなくなったんです。
でも、僕はどうしてもK君の母親が作ってくれたお弁当を口にすることができなくて。

――それは精神的なものが原因で?
フジタ そうですね、初めて弁当箱を開けた瞬間に強烈な吐き気に襲われて、一口しか食べられませんでした。父親に文句を言ったり、弁当を残していることがバレると殴られるので、次の日から僕は毎日お弁当を捨てて、何も食べずに過ごしました。
そうすると父親は、毎日弁当箱を空にして帰ってくる僕を見て気を良くしたようで、今度は弁当以外の夕食なんかも、K君の母親が作った食事を持ってくるようになったんです。もちろんその夕食も食べられないから、昼も夜も食事をとらなくなって。
――健康面に影響はなかったのですか。
フジタ みるみる痩せていきましたね。栄養失調だったのか、毎日熱っぽくて歩いているだけでも息切れがして、下痢が続くようになりました。同級生のお母さんから「栄養失調じゃないか」と心配されたり、食費分のお金を借りたりすることもありました。
それから数ヶ月経って、ようやく父親が異変に気付いて食費の支給が再開されるようになりました。

――当時、ご親族などで心配してくれる方はいましたか。
フジタ 父親のお姉さん、僕の伯母に当たる人はすごく良くしてくれて、父親に対して「家に帰れ」とずっと説得してくれていましたね。K君のお母さんのことを、本当にひどい人間だと言ってくれていましたし、味方でいてくれました。
ただ、伯母が父親のことで泣いているのを結構見たことがあったので、父親のことが怖かったんだと思います。だからあまり強くは言えない、という事情はあったのかもしれません。
――その後も、K君親子との家族の関係は続くんですか。
フジタ 中学くらいになるともう家族で集まることもなくなって、多分K君が嫌がるようになったんだと思いますけど、会うことはなくなっていきましたね。
僕は中学を卒業して、高校を1年生のときに辞めたあと、お笑い芸人を目指すようになったんです。それから20代になって実家から引っ越して、僕が一人暮らしをするようになってからは、父親ともほとんど絶縁状態になりました。

――連絡を取ることはあったんですか。
フジタ たまに連絡がくることはありました。「元気か」みたいな電話くらいですけど。ただ実家にはK君とその子ども、そしてK君の母親が居座っていたので、僕の入る隙はなかったし、あまり行きたくなかったので。
――お父さんとK君の母親は、結婚しなかったのですか。
フジタ 向こうは相続のことを考えて結婚してほしがってたみたいですけど、兄の大反対があったので、父は籍を入れなかったようです。兄は戸籍上、どうしても内縁の妻(K君の母親)の子どもになることは避けたかったようですし。
――2人はずっと一緒に暮らしていたんでしょうか。
フジタ いや、何年か前に父親から連絡があって「とにかく家に来てほしい」と言われて行ったんですが、そのときには内縁の妻も、K君一家も家にいませんでした。
K君は結婚して子どももいるんですが、妻が精神的に不安定な人だったそうで、今はもう外に出られないような状態らしくて。だからK君の母親は、おそらく孫の面倒を見るために出て行ったんじゃないかと思います。
――その間も、お父さんは内縁の妻と関係が続いていたのでしょうか。
フジタ 父が認知症になるまでは、毎月お金を渡していたようです。月々10万円くらいですかね。月にどれだけ会うかにもよると思うんですけど、それくらいは。
父親が認知症になったことに最初に気付いたのは内縁の妻だったと思うんですけど、特に何もしなかったようですし、その月に父親名義での借金が100万円くらいになっていて。だからうまいことやっていたのかなって。

――それから内縁の妻は介護に関わったりしなかったのですか。
フジタ ノータッチです。父親が金を渡さないようになってからは疎遠になりました。30年以上も続いて、金を渡さなくなったら関係を切るというか、情が湧いてないのはすごいですよね。
写真=杉山秀樹/文藝春秋
〈20代で絶縁した父から突然「遺産も家もお前に相続する」と言われ…父親から虐待を受けた47歳芸人が、それでも“認知症の親”を介護したワケ〉へ続く
(吉川 ばんび)