広島市に原子爆弾が落とされてから、今日8月6日で79年となる。「リトル・ボーイ」と名付けられたその新型爆弾によって、市街地は一瞬で焼け野原となり、1945年(昭和20年)12月末までに約14万人が命を落としたと言われている。
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この悲劇を実際に体験したのが、被爆者のひとり、山本定男さん(93)。山本さんは、広島県立広島第二中学校2年生だった14歳の時、爆心地から約2.5kmの東練兵場で被爆した。現在は、原爆の記憶を風化させないよう、被爆体験を後世に語り継いでいる。
原爆投下直後、山本さんはどんな光景を目撃し、どのように生き延びたのか。ノンフィクション作家のフリート横田氏が山本さんに取材し、当時の惨状を聞いた。(全2回の1回目/2回目に続く)
14歳のときに被爆した、山本定男さん93歳(撮影=フリート横田)
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月曜日の、晴れた夏の朝のできごとだった。
科学観測機、写真撮影機の同型2機を従えたB29爆撃機「エノラ・ゲイ」号は、数時間さかのぼる真夜中2時前、新型爆弾を搭載して太平洋の小島・テニアン島を離陸、6時間半かけ長駆2700キロを飛び、日本本土上空へ迫っていた。
向かう先は、確定していなかった。4か月前は17か所もの候補地があり、5月には4つにまで絞られ、この日未明、気象観測機が小倉、長崎、広島と3つの都市に向かっていたが、最終目的地はいまだ揺れていた。
朝7時15分頃、先発の気象観測機から連絡が入る。「広島上空は晴れ」。――4日前に決まった第1目標都市のまま、変更の必要はない。新型爆弾の投下都市はこのとき定まった。3機は、機首を広島へ向ける。どの航路が選択されようとも救いのない道であった。

広島は、日清日露戦争時は兵員集結と出発の地であり、太平洋戦争末期は西日本の軍を統括する第二総軍司令部もおかれる軍都でありながら、主要都市が空襲で壊滅する時期にあってもほとんど焼かれていなかった。街の東西の幅は、おおよそ5km。新型爆弾の効果測定をするにふさわしい直径3マイル(約4.8km)以上の市街地に合致したからだと言われる。
一発の爆弾でどれほど建物が破壊されるか、どれほど人が死傷するか、焼け野原では効果が測れない。乏しい物資や粗末な食事に日々耐えながら、働き、暮らしていた約35万の人々は、街が、自分が、実験対象に決まったことなど知る由もない。

8時15分、広島市街地上空に到達したエノラ・ゲイ号は、35万人の頭上に、人類史上はじめて、原子爆弾を投げ落とした。
79年前の今日、昭和20年8月6日の朝のこと。
「リトル・ボーイ」と名付けられた原子爆弾は約43秒間落下したあと、地上600mほどで突如、核爆発を起こした。
爆発点の温度は瞬時に摂氏数百万度となり、0.2秒後には直径400mの火球が発生、強烈な熱線が放出され爆心地周辺の地表面は摂氏3000~4000度に達し、秒速440mの爆風が放射状にあらゆるものをなぎ倒し、約10秒でほぼ市街全域にまで到達した。
鉄の融点は約1500度である。爆心地から約1.2km圏内で熱線を直接受けた人々の皮膚は焼き尽くされ内臓までも破壊され、ほとんどの人が即死するか最重度の火傷を負い、半径2km圏内のほとんどの木造家屋は全壊した。
街は朝10時ごろから午後2時ごろを頂点にして終日燃え続け、大量に放出された放射線により、1km圏内の人はたとえ爆発の瞬間に生き残れたとしても、数日のうちに多くが亡くなった。街は崩壊し、悲鳴とうめき声が響く地獄となった。

この火球を見た人が、今も健在だった。山本定男さん。昭和6年生まれの93歳。山本さんはあの日、広島県立第二中学校(広島二中)の2年生、14歳の少年だった。
「なにしにきたんじゃろうか」
少し前、空襲警報はすでに解除されていた。
全国各都市が大編隊での夜間絨毯爆撃を受けているなか、上空にはたった3機のB29。山本さんも2機はわかった。このとき2年生は陸軍の演習場・東練兵場で草取り作業をしていた。芋畑に転用されていた原っぱのような場所。生徒たちは草を引き抜く手をとめて空を見上げた。夜間でもなく大編隊でもない、こんな朝に。偵察だろうか。
するとB29は反対方向へきびすを返した。「逃げているのか」――と思った途端、「大爆発。巨大な岩が一瞬で砕け散るような音」のあと、強烈な熱風で山本さん含む200人ほどの生徒たちは吹き飛ばされた。東練兵場は爆心地から2.5kmの距離だった。
顔の左半分に大やけどを負いながらも、すぐ立ち上がった山本さんが広島駅のほうをみると、巨大な火炎が空高くたちのぼっていた。爆発直後、数秒のうちに発生したと言われる直径400mもある火球を、山本さんは目撃したことになる。

近くの尾長天満宮に避難したが、傷の手当は天ぷら油をぬってもらうだけだった。夕方、練兵場より東側にあった自宅にたどり着くと家は破壊されていたものの家族は全員無事。ただ叔母の安否がわからない。爆心地から400mほどの場所に暮らしていたので、翌7日、様子を見に行くことにした。
街はまだ燃えている。道に座り込んでいる男性に眼を向けると、上半身は骨のみになっていた。小学校1年の甥の行方もわからない。東練兵場はすでに救護テントが並んでいたのでそこへ探しに行こうとすると、
「ゴム風船のように膨らんどった」
道端には上半身裸の兵士たちの遺体が並べられていた。激しいやけどのためにその体は膨れ上がっていた。

救護所にいた1人の若い女性に目が向く。着物は身に着けていない。背中一面の大やけどである。看護師さんが白い薬をはけで塗っていた。「むごい」の一語。やっと、叔父と叔母が救護所に収容され手当を受けていることがわかって見舞いにいくと、どちらも怪我さえしていなかった。しかし叔父は被爆から6日後、叔母は8日後に亡くなってしまった。2人とも、強烈な放射線を浴びていたのだった。

強烈な被爆体験を持つ山本さんには、あの日から80年近く経った今も忘れられない思いが、もう1つある。それは「1年生のこと」。
旧制中学は5年制である。終戦間際になると高学年の生徒はおもに軍需工場へ動員された。工場は結果的には爆心地から離れていて、直撃を免れた生徒も多い。このことからも原爆が軍事施設より市街地の攻撃を目的としていたことが分かる。
一方、国民学校高等科と中学校の低学年1、2年生は、建物疎開作業に駆り出されていた。空襲時の延焼を防ぐため、予め建物を間引いて帯状の火除け地を作るのである。連日の作業による学業の遅れを取り戻すため、1年、2年生は夏休み中も授業と作業を1日置きに交互で行った。山本さんら2年生は、6日は登校日だった。学校へ行っていれば市内中心部を歩くことになって、
「完全に私は死んでる」
ところが前日5日、引率の教師より指示が出た。「明日は練兵場で芋畑の草取りをしてもらう」。これで山本さんたち2年生は助かった。1年生は建物疎開作業だった。場所は本川に架かる新大橋(現在の平和記念公園の西側)付近の土手、爆心地から500mの場所であった。整列し、引率教師から点呼を受けていたころ、爆発が起きたとみられる。

前の日は1年生たちが作業していた場所で、自分も同じ作業をしていた。草取り作業に駆り出されなかったら――。偶然のめぐりあわせへの思い。
「(後になって)あのあたりの瓦をみたら表面が一瞬で溶けてね、綺麗に泡状になっていた。物凄い高熱の衝撃をね、1年生たちは頭から浴びた。1年生はみんなこの場所でね……非業の死を遂げたとだけ、ずっと思っていました。学校からも詳しい説明はなかった。ところが、分かったんですよ」
爆心地で1年生はそのまま亡くなったと長年思っていた山本さん。力を込めて続ける。
「実際は3分の1はその場で亡くなって、(残る生徒のなかには)必死になって自分の家へ帰って亡くなったり、道端で力尽きて死んでる子、川に流された子もいた。1年生はそういう状況だったと、はじめて、テレビで知ったんです」
〈「お母ちゃんと叫びながら、子どもが川に飛び込んだ」死者14万人の“広島原爆”を体験した被爆者(93)が語る、“非業の死”を遂げた子どもたちへの思い〉へ続く
(フリート横田)