原爆投下から79年となる6日朝、広島は平和を願う祈りに包まれた。
昨年5月に広島市で先進7か国首脳会議(G7サミット)が開かれた後も、ロシアのウクライナ侵略が長期化するなど厳しい国際情勢が続き、被爆者らの心に重くのしかかる。それでも語り、伝えることを諦めない人たちがいる。
寝坊して助かった自分と、命を落とした136人の学友。「生き残ったのは、無念のうちに死んでいった彼らの思いを伝えるため」。平和記念式典に初めて参列した山口県周南市の折出真喜男さん(92)は原爆死没者慰霊碑に手を合わせ、証言を続ける決意を新たにした。
79年前の8月6日。旧制修道中(広島市中区、現修道中・高)の2年生だった折出さんは、広島市中心部から約8キロ離れた広島県坂町の自宅から午前6時半の汽車で学校に向かう予定だったが、寝坊をした。
午前8時15分。駅で汽車を待っていると、空にB29が見えた。朝の空襲警報はすでに解除されている。不思議に思い、眺めていると、次の瞬間、空いっぱいに黄色い閃光(せんこう)が広がり、爆発音が聞こえた。きのこ雲が広がるのが見えた。自宅に引き返すと、母のとめ代さんに「よく無事で帰ってきた」と出迎えられた。
やがて、家の近くの道を皮膚が垂れ下がり、大やけどを負った人たちがぞろぞろと歩いてきた。街は被爆者であふれ、近くの小学校が救護所となった。「誰か知り合いが運ばれて来ているかもしれない」。翌7日、小学校に向かった。
教室でござの上に横たわる同じ年頃の少年が目に入った。枕元の名札を見ると、修道中の同級生だった。全身にやけどをして目も見えない状態でかすかに息をしていた。ショックと申し訳なさで声を掛けられなかった。数日後、教室から少年の姿はなくなっていた。
同学年の生徒のほとんどは、広島市中心部で空襲に備えて建物を壊す「建物疎開」の作業中に被爆して亡くなった。「自分は汽車に乗り遅れたために助かってしまった」。自身も親戚を捜しに父親と広島市内に入って被爆したが、後ろめたさから体験はずっと胸にしまい、家族にも話さずにいた。
転機は、80歳を過ぎてからだった。地元のロータリークラブの会合で、会員がそれぞれの人生を語ることになり、「同級生らの思いを伝えたい」と当時の体験と向き合った。これを機に近くの小学校で証言をするようになった。
「自分が残されたのは、13歳で死んでいった彼らの思いを伝えるため」。心のわだかまりは使命感に変わった。
慰霊碑に刻まれた「過ちは繰返しませぬから」の言葉。証言の時、必ず子どもたちに「『過ち』とは何ですか」と問いかける。ロシアのウクライナ侵略やパレスチナ自治区ガザでの戦闘が続く現状を念頭に、こう続ける。「戦争とは、勝つために何でもするということ。これからどんな時代が来るか分からない。悲惨な過去を繰り返さないよう、過去から学んでほしい」
折出さんは式典に参列後、「同級生たちの顔が次々と浮かび、平和な今を迎えられなかった彼らを思って手を合わせた。最後まで語り続けたい」と語った。(広島総局 山下佳穂)