〈「血液が両手の指の間から大量に溢れ出して…」2人の命を救った”通りがかりの民間人”が見た、壮絶すぎる光景《秋葉原通り魔事件から今日で16年》〉から続く
16年前の2008年6月8日、加藤智大死刑囚(死刑執行済)は東京・秋葉原の交差点に2トントラックで突っ込んで通行人5人をはね、降車した後に通行人ら17人を用意していたダガーナイフで刺した。結果、7人が死亡し、10人が重軽傷を負った。
【現場写真】西村さんが2人の命を救った秋葉原の路地の様子
この事件現場で、民間人ながら救命活動に参加したのが西村博章さん(39)だ。西村さんが治療に当たった3人のうち、少なくとも2人は一命をとりとめたという。
秋葉原通り魔事件に偶然居合わせ、2人の命を救った西村博章さん
病気やけが人が出たときにその場に居合わせ、応急処置にあたる人を「バイスタンダー」と呼び、英雄視されることも多い。しかし突発的な事態に対処するため巨大なストレスがかかり、西村さんも救命活動の後に体調を崩し、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を患った。
「16年経った今でもPTSDの治療を受けています。普段から体の倦怠感がありますし、気圧の変動などで体調を崩します。一度崩れると1カ月以上不調が続くので、作業や仕事に差し支える状態です。特に電車の中で小さい子が突然騒ぎ出したり、不意打ちで大きい衝撃があったときにフラッシュバックの症状が出て、救急搬送されることもありました。
1年に1回くらいの頻度で救急搬送されていて、事件後から今までに19回ありました。最近は減って来たのですが、まだ完全にはコントロールできていません。救急搬送までいかなくても発作は日常的にあり、そのときのために薬を持ち歩いています」

西村さんが救急医療に興味を持ったのは、テレビ番組がきっかけだったという。
「5歳くらいの頃に、『世界まる見え!テレビ特捜部』で、海外の救急隊が活躍する番組をやっていたんです。当時は日本に救急救命士という資格ができたばかりでしたが、海外では救急救命でも高度な医療処置をしていることを知りました。僕は目に障害があり、両親からは『救急の仕事にはつけないから諦めなさい』と言われていました。それでも諦められず、独学で勉強して臨床工学技士の資格などを取っていました」
西村さんは秋葉原での事件以前にも救命活動の現場に遭遇したことがあったが、複数の患者がいる現場は初めてだった。しかも、当初は医療従事者は現場に西村さん1人だけ。そのため、もし救急車が到着した場合、治療の優先順位を決めるトリアージをすることになった。
「過去にも電車の中で倒れた人を介抱したことはあったのですが、その時は意識もありましたし、命に関わる状況ではありませんでした。しかし秋葉原では、同時に複数の人を見なければいけなかったうえに、刃物の傷なので命に関わります。
何より辛かったのは、トリアージ(治療の優先度を決めること)の判断を自分1人でしなければいけないことでした。その人が助かるのか、誰を後回しにするかを判断するのはとても怖いことで、すごく精神的な負担になりました。なので後にテレビ報道で、2人が助かったことを知った時は本当にほっとしました」

しかし西村さんが治療に当たった3人目の男性は、残念ながら亡くなっていたことが後にわかった。
「テレビ報道で、3人目の男性が亡くなっていたことを知りました。さらに事件当時、トリアージにミスがあったという報道もありました。私自身も目の問題もあり、混乱した現場で自分が把握している情報をちゃんと伝えられたとは言えません。ミスのニュースを読んで、『自分がミスをしたのではないか』と不安になり、辛かったです。事後検証が行われていることも知らず、後から知りました。なので私はヒアリングを受けていないんです」
これらのトリアージの経験の精神的な負担からか、西村さんは事件後に頻繁に悪夢を見るようになった。
「当時のことに関連する夢は今でも見ます。例えば街中を歩いていて、倒れている人が何人もいるという夢だったり、救命活動をしているときに傷口からあふれた血が自分の手に触れる感覚が蘇る夢だったり。血液の臭いを感じる夢もあります」

16年がたった今も、心の整理ができていないという西村さん。そんな思いをしているのは自分だけかもしれないと孤独感に襲われることもあるという。
「こうした辛い気持ちから、『もう二度と救命なんかやらない』って思うこともあります。事件後に休学して地元に帰りましたが、たまたま市の広報誌で、応急手当てを市民に教えるためのボランティア団体ができたことを知りました。それでしばらく考えて、市民の方に応急手当てを教える資格を取り、市民に教える活動にも参加しました」
さらに事件当時の経験を研修で話すこともあった。
「視覚障害があり、救命活動でPTSDを患ったという経験が珍しいからか、消防や海上保安庁の方向けの研修で話をすることがありました。私自身も『このまま救命活動をやめたくない』という思いがあり、救急医療の大学院に進学しました。体調悪化で休学をした時期もありましたが、なんとか今年3月に大学院の修士課程を終えて、救急救命学修士を取りました」
これまでにも救命活動を続けている西村さんだが、事件現場の救命は秋葉原事件が今のところ最初で最後だ。
「僕は事件の直接の被害者ではありませんが、僕の人生もぐちゃぐちゃになりました。犯罪被害者等支援給付金や、PTSDで通院していた6年間の医療費の支給は受けられましたが、大学を卒業後にPTSDの症状が悪化しました。生活の支障はあっても給付金の算定基準は事件当時の収入で、僕は大学生だったので、支給額は0円。もともと視覚障害があり、さらに精神疾患があるとどこも雇ってくれない。だからブラック企業でもやめられず、倒れるまで働きました」

自力ではどうにもできない人生を送るようになっていた西村さんは自殺を図ったこともある。
「今でもやっぱり月単位で体調を崩してしまう状況です。本当に就業はできないだろうなって感じます。今後は、お金のかからない論文博士を目指しています。普通の仕事にはもうつけないなって感じます」
西村さんは救命活動により後遺症を負い、秋葉原からは足が遠のいた。ただ、事件のあった6月8日だけは毎年供養のために現場を訪れるという。

「3人目の方は無念だっただろうなという思いがあります。他の被害者の方に対しても供養の気持ちだけは伝えたい。救命活動をした現場付近と、献花台に花を置いて手を合わせます。ただ去年は献花台のところですごく写真を撮られて、フラッシュバックが起きてしまって気分が悪くなりました」
秋葉原事件から16年が経った今も、西村さんの後遺症は続いている。
「救命処置にあたって、その後遺症によってその後の人生が崩れてしまった人間がいることを知ってほしいです。また、今後、私と同じように応急手当てにあたって後遺症を受けた人がちゃんと助けられる社会システムが構築されてほしいと思います」
(渋井 哲也)