九州の指定暴力団である道仁会(福岡県久留米市)と浪川会(福岡県大牟田市)のトップが、突然引退を発表した。2組織は2006年から約7年間にわたって一般人1人を含む14人の死者を出す熾烈な抗争を行ない、一般人を恐怖に陥れた。不倶戴天の2組織のトップがなぜ同時に引退することになったのか。暴力団取材の第一人者・鈴木智彦氏がレポートする。 * * * 通常、暴力団組織の支配者は、終生トップの椅子に座り続け、死ぬまで引退しない。加えて両名とも、求心力を失って座を追われた訳でもない。身を引く必然がないのに絶頂期に引退する……30年近く暴力団取材を続けてきた私にも、ちょっと解せない事態だ。事実、こうした形の引退劇は、これまでの暴力団社会に類型がなかった。
【緊迫の引退届の一部始終】大牟田署を訪れた浪川総裁 テレビの記者の突撃に見せた表情
道仁会四代目・小林哲治会長は、業界きっての実力者だった。これまで何度も暴力団社会の難題を仲裁・取り持ちしてきた。
「組織と組織の間に立てる親分は限られている。実力が必須なのはもちろん、業界全体が認める実績が必要になる」(広域団体幹部)
暴力団は「殺られたら殺り返す」という弱肉強食の掟を信奉している。実績とはすなわち抗争経験を意味する。喧嘩の出来ない親分はどこまでも舐められ、弱い暴力団には一切の発言権がない。
道仁会の歴史は抗争の連続だ。そのため暴力団たちは道仁会を畏敬し、そのトップに時の氏神を託すようになった。
一方の浪川会・浪川政浩総裁も、暴力闘争の渦中に生きてきた。最大の試練は道仁会との分裂抗争だったろう。
2006年6月、道仁会の三代目人事を巡って村上一家や永石組らが離脱し、新団体である九州誠道会を立ち上げた。ほどなくして道仁会と誠道会は激しい抗争に突入する。
分裂抗争は、離脱派が圧倒的な不利である。というより、ほぼすべてが失敗している。暴力団社会には、自組織の分裂を回避し、クーデターを防止するため、理由の如何に関わらず他団体の離脱派を認めず、爪弾きにするシステムがある。「親分がいうならカラスも白い」と、トップの絶対性を喧伝するのも、結局はクーデター防止のためだ。
そのため誠道会は旗揚げ当時から四面楚歌だった。誠道会の初代会長や浪川氏は、それぞれ六代目山口組中核組織の山健組(当時)トップ、ナンバー2と兄弟縁組みをしていたが、彼らは内心、誠道会を支援したくても、組織上、クーデターを認められない。表だって支援ができず、誠道会は最初から最後まで、単身で抗争を乗り切るしかなかった。
私は2006年の結成式から誠道会を取材しているが、彼らは想像を絶する孤立無縁だった。多くの暴力団がすぐに潰されると予想していた。いつ殺されるか分からぬ緊張感の中、たくさんの組員が辞めていった。幹部たちはもちろん、末端の組員さえヒットマンに狙われた。四六時中、無差別に銃口を向けられる生活は、まともな神経では耐えられなかったはずだ。
仲間たちが次々に殺された。特に浪川氏は最重要殺害対象で、ヒットマンから執拗に狙われていたはずだ。取材中、道仁会側の車両とカーチェイスになったこともあった。浪川氏は誠道会の若頭として陣頭指揮を執り続け、その後、二代目会長に就任する。
両者は足かけ8年に渡って抗争を繰り広げ、計47件の事件が発生した。パフォーマンスでしかない乗用車による車両特攻などは行なわれず、最低でもマシンガンで銃撃したり、手榴弾を投げ込んだり、事務所を全焼させた事件ばかりだ。2011年8月、道仁会の小林会長宅に乗り込んだ78歳のヒットマンは、二丁拳銃とマシンガンを所持し、侵入した庭で手榴弾を爆発させるというランボーのような襲撃を実行した。発砲事件が起きれば躊躇なく弾丸を身体に撃ち込み、一般人を含む14人が殺された。幸い一命を取り留めても、頭を撃たれて寝たきりとなったり、銃創が原因で早世した幹部などは数字に含まれない。
泥沼の抗争にようやく終止符が打たれたのは、2013年6月11日だった。この日、道仁会と誠道会の幹部が久留米署に出頭し、抗争終結の宣誓書と、解散届を提出した。11年前のこの日も、私は久留米署で取材していた。
当日、記者クラブメディアに対し、暴力団側の要望が伝えられていた。「車のナンバーを映すな」と「警察署を訪問した暴力団に対し、一切質問をするな」という2つである。
ひとつめは分からないでもない。が、出頭した幹部に質問するなという要望を受け入れられるはずがない。当然、蹴飛ばすと思っていたが、記者クラブメディアはすんなりその要望を受諾した。暴力団を恐れたのか、警察に気を遣ったのかは分からない。どちらにせよ、飼い慣らされたマスコミの従順さは、私をひどく落胆させた。
ともあれ、こうして抗争は終結し、暴対法による特定抗争指定も解除された。その後、浪川氏は解散した誠道会勢力をまとめ浪川睦会を立ち上げ、現在の浪川会に名称変更して今に至る。
二大巨頭突然の引退は、以下のように進められた。
まずは5月27日、道仁会が久留米市の拠点で継承式を挙行した。小林四代目会長は引退して先代となり、福田憲一理事長が五代目会長を襲名したのだ。九州の暴力団組織の親睦団体である四社会はもちろん、親戚の住吉会なども参列し、実話誌の取材も入った。こうした来客は、実質的な証人役を兼ねている。彼らの前で引退を表明した小林氏は自分のメンツに懸け、もう二度と暴力団社会の表舞台に立てない。
「小林さんは宴席にも出てこなかった。堅気になった以上、福田五代目の横には座れない。もし出席するなら、堅気はヤクザの末席に座ることになるが、かつての親にそんな対応も出来ない。場が混乱するので遠慮したのだろう」(襲名式に出席した某組織幹部)
一方、浪川会側はすでに組織のトップを梅木一馬会長に譲っており、道仁会のような式典は不要だった。他団体宛に引退通知は発送してあるが証人がいないこともあり、浪川会本部のある大牟田市の警察署に出向いて、引退を届け出るという。
5月29日午後1時20分、浪川総裁と梅木会長を始めとする執行部三役、加えて浪川氏と共に引退する3名の組員が、2台の最新型トヨタ・アルファードに分乗して大牟田署に姿を見せた。
大牟田署の前には全国紙のキャップと実話誌カメラマンの他、地元テレビ局1社の撮影班が待機していた。署内に入って行く浪川会一行を追いかけ、我々もダメ元で大牟田署に侵入した。すぐ静止させられると思ったのだが、存外見逃され、階段を三階まで上ったところでようやく追い出された。後ろを見ると、我々に釣られて警察侵入したテレビカメラが、警察からこっぴどく叱られていた。ただし、警察は我々雑誌屋を完全無視で、一方的に名刺を要求したあとは、空気のように扱った。
それから約40分後、関係者一同らが出てくると、テレビ局の記者が果敢にも浪川氏にカメラを向けた。
「浪川さん、なぜ今回、引退を決意されたのですか?」
浪川氏は記者を手で制し、「また後から」とだけ答えて車に乗った。馴れ合いの構図から脱却すれば、地元メディアもここまで暴力団に突っ込むと知り安堵した。
「また後から」との言葉通り、引退表明の理由については、浪川氏本人からコメントが出た。当人がコメントを出すのも、現役時代には一度もなかった。
「道仁会の前会長である小林氏の、平和を希求する姿勢に共鳴して、自分も小林氏とともに引退しようと決意した」
抗争が終結してからも、道仁会と浪川会の間には、常に緊張感が漂っている。道仁会はとりあえず抗争を止めたが、組織を割って出た浪川会の独立を認めたわけではないからだ。お互いに殺し合った過去は、いつ何時、怨嗟を再燃させるか分からない。が、抗争の最前線にいた両者が引退すれば大きな節目となり、分裂の最終的な解決に一歩近づく。そのための引退だったという意味だろう。
浪川会は既成事実としてすでに独立状態だが、道仁会がそれを認めない以上、暴力団社会は浪川会と一線を引かねばならない。全国の暴力団すべてが参列した工藤會の溝下秀男総裁の葬儀に誠道会(現浪川会)だけが不参加だったように、浪川会はいまだ義理事に呼べない。もしルールを破れば、道仁会に喧嘩を売ったことになってしまう。分裂問題の完全解決はまだ先なのだ。
私は浪川氏に「今後、ヤクザ社会には関与しないのか?」と質問した。
「堅気であれ渡世人であれ、今後、自分が一般人として、社会生活を築いていくために激励してくれる人とは、どなたでも付き合いをしていくべきじゃないかと思う」
どう解釈したらいいのか難しいが、警察に引退を届け出て、マスコミを通じて引退を表明した以上、浪川氏もまた二度とヤクザ社会の表舞台には登場できない。現役暴力団は明確に堅気を下に見て対応を変えるが、浪川氏だけが例外とはならない。警察は記者クラブメディアに、「引退を悪用する」と吹聴していると聞いた。しかし、引退を撤回することはできず、暴力団としての浪川氏はこの日で完結している。
◆取材・文/鈴木智彦(フリーライター)