天皇陛下は2月23日、64歳の誕生を迎えられた。天皇陛下と皇后雅子さまは2023年6月にインドネシアを訪問されたが、適応障害で療養中の雅子さまが国際親善のために外国を訪問されたのは約21年ぶりのことだった。皇后に即位されてから5年が経ち、最近はお出ましの機会が増えている。しかし、ある宮内庁幹部は、皇族の中で人権侵害を一身に受け続けてきたのが、雅子さまだと語ったのだ――。
【画像】天皇皇后両陛下はインドネシア現地で歓待を受けた 時事通信社
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2023年12月9日に雅子さまは60歳の誕生日を迎えられた。皇后に即位されてから5年が経ち、コロナ禍も徐々に収まり、最近はお出ましの機会が増えている。とくに9月16日には「全国豊かな海づくり大会」ご臨席のために北海道を訪問され、10月7日には「特別国民体育大会」のために鹿児島を、15日には「国民文化祭」などのために石川県を訪問され、ここ数カ月の過密な日程をすべてこなされている。「インドネシア訪問を経て自信を得られた」と見る宮内庁関係者も多い。
「石川県を訪問された際には、飛行機の機材トラブルで、急遽、予備機に乗り換え、小松空港に到着されたのも予定より1時間半遅れのことでした。式典の遅延も仕方のない状況でしたが、両陛下は金沢市内のホテルで昼食をとる予定を飛ばして、空港内で昼食を済ませ、わずか20分で着替えも終えられた。そして式典会場に直行することで、見事に遅れを挽回されたのです。これほどの臨機応変な対応は以前の雅子さまでは考えられないことで、感動を覚えました」(皇室ジャーナリスト)
2023年6月、インドネシアを訪問された雅子さま 時事通信社
かつての雅子さまは、体調不安を理由に、公務の“ドタキャン”や途中退出をする場面が、頻繁に見られた。だが、最近は予定された公務に9割以上の割合で、参加されているという。宮内庁担当記者が語る。
「最近は、当日の行事開始の1時間前や、極端な場合は数十分前になって、ようやく宮内庁から『両陛下のご参加になりました』と発表されることが多いです。聞くところによると、雅子さまご本人も自分の体調がどうなるのか、本当に直前まで分からない。前日から万全だと言えるのは、よほど稀なことなのです。それが適応障害の特徴なのだと、我々は理解するしかありません。ただ、逆に言えば、そうやってご自身の体調とうまく付き合い、慎重に見極められるようになった。公務の参加日程を増やせるほどに、ご回復されてきたということです」

以前、本誌記者が秋篠宮家について取材をしていた時のこと。宮内庁幹部が「眞子さまと、佳子さまは結婚をして、皇室を出たいお気持ちがある」と語ったうえで、その背景として皇室の知られざる実情を明かしてくれた。
「個人の人権が一切守られていないのが、今の皇室という場所です。選挙権や戸籍も無く、職業選択の自由や信教の自由も持たず、財産権も制限されている。どこへ行くにも側衛官が付き、何をするにも両陛下や警察庁長官、そして総理大臣に逐一報告されてしまう。皇族方は、監視下での生活を余儀なくされています。赤坂御用地や御所など、高い塀に囲まれた空間で、幽閉されているのと同じです。あるいは囚われの身にあると言ってもいいかもしれません。
現在、17人の方がいらっしゃる皇族の中で、精神面で鬱的な状況に陥っていない方は、1人もいません。皆さま、それを押し隠して公務や儀式に臨まれている」
煌びやかな生活を送っているかのように見える皇室には、実は「人権侵害」が蔓延(はびこ)っているという。さらに、この宮内庁幹部の話は思わぬ方向に広がる。皇族の中で人権侵害を一身に受け続けてきたのが、雅子さまだと語ったのだ。
「1993年に雅子さまは今の天皇と結婚されて皇室に入られたが、当時は、今以上に人権擁護など考えられない組織でした。体調が悪くても『公務に出るのが当たり前』と言われて、無理を押してご臨席され、なかなかお世継ぎが出来なかった時期には、『早く。国民が待っているから』と批判される。これらは人権侵害以外の何ものでもありません。

雅子さまはハーバード大学、東大、外交官という華々しい世界を歩まれてきましたが、突然、皇室に入られた。そこで人権が侵害されている状況を目の当たりにするわけで、雅子さまは、『一体、どうなっているの?』と強い疑問を抱かれたのです。
そんな皇室の環境に馴染めなかったからこそ、『適応障害』と診断されることになった。雅子さまは現在に至るまで、一貫して『皇族は人権が守られない立場でよいのか』という問題意識を抱いていらっしゃる。ご結婚されてから、ずっと戦い続けてこられたのです」
92年、皇太子の「僕が一生全力でお守りしますから」というプロポーズに心を打たれて、雅子さまは結婚を決意された。外交官のキャリアを捨てることに悩まれる雅子さまの背中を押したのも、皇太子の「外交官として仕事をするのも、皇族として仕事をするのも、国のためというのは同じ」という言葉だった。
93年6月9日、曇り空からわずかに陽光が射し込む中で、結婚パレードが執り行われ、沿道には約19万人もの人々が押し掛けた。白色のローブデコルテを身に纏い、オープンカーからお手振りをされる雅子さまは、幸せいっぱいの輝かしい笑みを浮かべていた。
しかし、皇室では「お世継ぎを」と頻りに急かされる過酷な現実が待っていた。宮内庁の幹部たちは、雅子さまのご懐妊を最優先する態勢を敷いた。その背景には天皇皇后のご意向があると言われていた。

マスコミが、お世継ぎを期待する記事を報じるたびに、お二人は記者会見で「コウノトリの機嫌に任せる」と答えざるを得ない。そのうえ、海外訪問も95年の中東訪問以降は、2002年までの8年間、1度もなく、懊悩の日々が続いた。
「雅子さまは一見すると仕事に生きる女性で、皇室でも外交の道でこそ自己実現を望まれていたように思えます。たしかにその面はありますが、皇室にとってのお世継ぎの重要性については、何よりも深く自覚されていましたし、『何人でも産みたい』というご覚悟だったようです。ただ、それでもお二人の間には子供ができなかった。そんな状態が何年も続き、雅子さまは有形無形のプレッシャーに押しつぶされていくのです」(前出・宮内庁担当記者)

本記事の全文は『文藝春秋』2024年1月号と、『文藝春秋 電子版』に掲載されています(雅子さま還暦「内なる戦いの30年」)。
(「文藝春秋」編集部/文藝春秋 2024年1月号)