(前編はこちら)
――引退はいつ決めたんですか?
【平野】新型コロナが広がった2020年です。コロナ禍ではライブが制限されて、毎月1000万円単位の赤字が出て最終的には2億円以上を借金した。それが、憂鬱(ゆううつ)で、憂鬱で……。
しかも、一緒に暮らすかみさんとは半年も口をきいていない。「オレもそろそろ80か……」と考えた瞬間、かみさんに下の世話をさせるわけにはいかないと考えるようになったんです。
2017年に、引退した役者や脚本家、ミュージシャンが終の棲家にする高齢者施設を舞台にした「やすらぎの郷」(テレビ朝日系で放送)というドラマがあったでしょう。ぼくも「やすらぎの郷」のような施設で、落ち着いた余生を過ごしたかった。
我が「やすらぎの郷」を求めて方々から資料を取り寄せ検討したどり着いたのが、房総半島にある千葉県鴨川市の高級老人ホームでした。入居者の資格が60歳以上の自立型老人ホームです。
入居の決め手となったのが、景色。高台にタワマンのようにそびえたつ22階建ての老人ホーム。その18階にあるぼくの部屋からは鴨川湾が見わたせる。昼は山の緑が、夜は町の灯りが美しい。夜に走り抜ける外房線の列車はまるで、銀河鉄道のようでした。そんな景色に囲まれて、毎日、酒を飲んで、音楽を聴いて、本を読んで、散歩する……。
しかもぼくの自室は65平米の広さで、キッチンもついている。館内には、レストラン、図書館、露天風呂、ジム、カラオケ、ビリヤードなどの娯楽施設まである。スタッフも親切。提携する亀田病院によるサポートもある。なんて素晴らしい環境だろう。死ぬまでここにいるんだろうな、と感動していたんですが、1年で飽きました。
入居者のほとんどが元会社役員などで金を持った年寄りです。それに3分の1はほぼ寝たきりで、3分の1が車椅子か杖が手放せない。残りの3分の1が健康な高齢者。ぼくが入居者のなかではもっとも健康だったかもしれません。だから、共通の話題はないし、話したとしてもこれまでの人生が違いすぎて全然面白くない。
施設では定期的にイベントがあり、入居者みんなでバスに乗って「イチゴ狩り」や「芋堀り」をするんです。でも「オレは行かないよ。ひとりでいいよ」という話になっちゃう。
一番許せなかったのが、慰問にきたバンド。彼らはベンチャーズしか弾けなかったんですよ。「よりによって俺の前でベンチャーズを演奏するか」って。もう嫌になっちゃった。
そんなことが一事が万事で、入居者とも話さないし、イベントにも参加しないから、部屋にこもりがちになっていって、毎日が憂鬱になってくる。
ドラマ「やすらぎの郷」では、元脚本家や俳優、ミュージシャンたちが、夜な夜な施設内のバーに集まって知的に語り合う、そして時には恋もする。あんな環境があるのではないかと期待していたんですが……。
――そもそもその高級老人ホームにはいくら支払ったんですか?
【平野】我が「やすらぎの郷」の入居金は人によって違いますが、ぼくの場合は6000万円。それを払ったら終わりではないんですよ。
共益費や基本サービス料などで毎月20万円弱が徴収される。個人的な支出として生活費や交通費、電気水道料金、酒代などがあるので、全部で毎月35万円くらいの支出になっていました。もし入居した77歳から90歳までそこで生きていれば、入居金と合わせて1億円はかかっていた計算になります。あそこでは死ぬまでに1億円かかるわけです。
さらに追い打ちをかけたのが、過疎地域の現実です。ぼくは元気だから、鴨川でロック喫茶や音楽喫茶でもやろうかと考えていたんです。
でも町には喫茶店すらない。若者がいないから商売にならない。いや、若者だけではなく、町を歩いても人に会わない。しかもぼくらは地域住民から嫌われているから、仮に店を開いても地域の人はこなかったかもしれません。
――施設の入居者と地域住民の間には溝があったということですか?
【平野】地域の人たちは、僕がいる老人ホームは金持ちしか入れない施設だと知っていますからね。どうしてもそういう目で見られる。
でも、当初は諦めていなかった。鴨川市長や施設を運営する不動産会社の経営者、東京の著名人を巻き込んで過疎問題を考えるトークイベントでもやろうかと施設の担当者と話したんです。
向こうも、ぼくがロフトの創業者だと知って、コンサートやライブもやりたいという話で盛り上がった。でも、その後、担当者はパタリと姿を現さなくなった。なぜなら、ぼくが学生運動で2回パクられていたのを知ったからです。
極め付きが、地域住民とのすれ違いです。ぼくは地域のテニスサークルに入っていました。
ある日、サークル仲間が新しいサングラスを自慢していたので、何気なく茶化してしまった。すると相手は「ちょっと金持っているからって、偉そうに……」と激高した。周りにいた人たちも無言で黙認した。地方特有の人間関係にげんなりしてしまった。
そんなときに部屋から太平洋を見たんです。すると水平線の先に歌舞伎町のネオンが煌めいている気がした。ドミニカでもそうでした。
レストランが赤字でめげているとき、世界でもっとも美しいと言われるカリブ海を眺めたんです。すると新宿のネオンが瞬いているような錯覚におそわれた。そして思ったんですよ。このまま本を読んで音楽聞いて酒飲むのはいいけど、このまま死んでいくのかって。
いつ死ぬか分からないけど、無駄に流れていく時間が辛かった。ここは、オレがいる場所じゃない。新宿に帰りたいと。
――結局、どれくらいの期間を過ごしたんですか?
丸2年ですね。
僕の場合は、入居時に一括で6000万円払っています。退去にいくらかかるのか調べてみると、77歳から90歳になるまでの13年間が想定居住期間となっていて、その期間を施設で暮らすと、全額が償却される契約だった。
ですが、その期間内に退去だったので、入居金の2割弱――約1000万円が問答無用で持っていかれた。
2年間で、居住費、食費などを加えると、2000万円くらい使った計算。部屋の原状回復費用もかかる。退去には馬鹿馬鹿しいほどの金がかかった。それでも、東京、新宿に戻りたかった。
――何か新しい事業のアイディアはあるんですか?
【平野】久々に東京帰ってきたけど、やっぱり面白いよね。トー横とか、なんか新しいもの作っているなという感じがするし、メイド喫茶の女の子とか見て感動しちゃった。
今後はどうだろうね。08年にコマ劇場がなくなったでしょう。ぼくは都はるみや北島三郎をコマ劇場の客席の真ん中で見ていました。新宿の変化でいえば、コマ劇場がなくなったのが一番悲しい。演歌の殿堂がなくなったわけです。
だから演歌をちゃんと聴けるライブハウスをやってもいいかな、と。あとは「やすらぎの郷」ならぬ「やすらぎのロフト」なんていう場をつくるのもいいかもしれませんね。
———-平野 悠(ひらの・ゆう)ライブハウス経営者1944年8月10日、東京生まれ。70年代に烏山、西荻窪、荻窪、下北沢、新宿にライブハウス「ロフト」を次々とオープン。その後、海外でのバックパッカー生活、ドミニカ共和国での日本レストランと貿易会社設立を経て90年代初頭に帰国。1995年、世界初のトークライブハウス「ロフトプラスワン」をオープンし、トークライブの文化を日本に定着させる。著作に『旅人の唄を聞いてくれ! ライブハウス親父の世界84カ国放浪記』(1999年/ロフトブックス)、『ライブハウス「ロフト」青春記』(2012年/講談社)、『セルロイドの海』(2020年/世界書院)など。———-
(ライブハウス経営者 平野 悠 インタビュー・構成=ライター 山川徹)