人生、いつ何が起こるかわからない。ある程度、長く生きてきた人間なら、誰もがそう思うことがあるだろう。そして窮地に陥った人間が、常識外の行動をとることがあるのも知っているはずだ。人はいつでも理性に基づいて冷静な対応ができるわけではない。
【写真を見る】「夫が19歳女子大生と外泊報道」で離婚した女優、離婚の際「僕の財産は全部捧げる」と財産贈与した歌手など【「熟年離婚」した芸能人11人】「本当にそうですよねえ。自分でもわけのわからないことをすることってありますからね。僕自身はそういうタイプの人間ではないと思っていたのに……。自分を裏切るのは自分自身かもしれません」

笑うしかないといった感じで、大曽根卓哉さん(50歳・仮名=以下同)は言葉を吐き出した。突然訪れた波乱に、「取り返しのつかないことをした」とつぶやく。30代半ばで起きた“事件”も、乗り越えた卓哉さんだったが… 25年連れ添った妻との間に、23歳になるひとり息子がいる。その息子が20歳のとき、「結婚する」と言いだしたのが、卓哉さんの人生の転換点となった。「うちの息子は親の目から見ても晩生だったから、20歳で、しかも大学生なのに結婚すると言われて妻も僕もパニックでした」 相手は息子より20歳年上、ふたりの子どもをもつ女性だった。「ごく普通に」育った 卓哉さんは、首都圏のサラリーマン家庭に生まれ「ごく普通に」育った。パートで働く母と父はどちらも底抜けに明るかった。6歳上の兄と4歳上の姉がおり、彼は伸び伸びと育った。中学高校ではバスケットボールにはまり、大学時代も同好会でバスケットをやりながら、アルバイトに学業にと励んだ。「本当にごく普通でした。同じクラスの佳葉子とつきあい始めたのは大学3年のときで、卒業して3年目に結婚したんです。わりと早めの結婚でしたけど、うちの両親が早い結婚だったので、子どもが大きくなってから夫婦で楽しんでいる姿を見ていた。ああなれたらいいなと思っていました」25歳で結婚し、27歳のときに息子が生まれた。もっと子どもがほしかったが、それだけは叶わなかった。共働きだったから、息子の清志さんを1歳になる前から保育園に預けた。ひとりっ子ながら息子は物怖じしない社交的な子になったのではないかと彼は言う。「小さいころから調子のいい子でした。保育園に迎えに行くと、4歳くらいでもう女の子を口説いていた(笑)。僕は妻と知り合う前にひとり彼女がいただけで、恋愛には疎かったから、誰の血筋なんだかと笑っていたんですよ」30代半ばで起きた“事件” 平和な家庭は続いていたが、彼が30代半ばのころ、母親が失踪するという事件が起こったことがある。なんと母が不倫をしていたのだ。仲がいいと信じていた両親に、そんなできごとがあったのが信じられなかった。「あのとき初めて、人生、案外厳しいかもしれないと思いました。同時期、勤めていた会社が吸収合併という憂き目にあって、僕、失職してしまったんです。家庭も仕事も、絶対的なものなんてないんだというのは、よくわかっていたつもりです」 彼は先輩の紹介で転職し、母は父に請われて家に戻った。父がどうして母を許したのか、彼はのちに父に尋ねたことがある。「父は『40年以上、一緒に生活してきたんだ。今さら壊してなるものか』と言いました。母が不倫した原因はよくわからないんですが、相手は初恋の人だったらしい。年いって、初恋の人に再会したら気持ちが舞い上がったのかなあ。人生の先が見えている年齢だったからこそ、最後の賭けみたいな気持ちだったのか、あるいは単純に突っ走ってしまったのか……。それ以後も、両親は何ごともなかったかのように暮らしていましたよ。母が特に遠慮しているふうでもなかった。ふたりの心中はわかりませんけどね。父も母もこの数年で亡くなりました。なんだかんだあっても、最後はみんないなくなっていく」 そう、最後は誰もがいなくなっていくだけ。それが人生なのだとわかっていながら、人はあがく。生まれたときから死に向かっているだけなのに、そのときどきの感情に翻弄されたり喜怒哀楽に身をやつしたりするのは、ただ生きているだけでは物足りないという人間の性なのか。「僕は周りを見ながら、それほど喜怒哀楽を求めるわけではなく、感情を乱されるようなこともなく生きてきましたが、母の不倫と失業だけはちょっと心乱れましたね」3人と1匹に 妻の佳葉子さんは、卓哉さんよりずっとアクティブな女性だという。仕事をしながらの子育ても楽しそうだったし、どんなに忙しくても文句を言うことはなかった。文句を言うより先に、「卓哉、今晩は風呂掃除、任せたからね、よろしくね。私、もうダメだから早寝するから」と言って寝てしまう。ひとりでがんばればいい、私が我慢すればいいというタイプではなかったから、一緒に生活していて楽だった。「息子の教育に関しても、諍いが起こるようなことはありませんでした。本人がしたいようにすればいいという点で一致していたから。全然教育熱心な親ではなかったから、息子本人が『ねえ、うちはどうして勉強しなさいって言わないの?』と言ったことがあって、夫婦で爆笑しました」 もうひとりほしかったとふたりとも思っていて、それだけがわだかまっていたが、あるとき息子がずぶ濡れになりながら子犬を抱いて帰ってきた。「雨の中、捨てられてたんだ。死んじゃうよと中学に入ったばかりの息子が泣いていたんです。家族で犬を温め、ときどき温かいミルクを飲ませながら朝までみんなで見守って病院につれていった。犬は少し弱ってはいたけど大丈夫だったので、うちで飼うことにしました」 小さな命を3人で見守ったことで、家族の一体感が強まったような気がすると卓哉さんは懐かしそうに言った。大事に育てられた犬は今も元気だという。熱に浮かされている息子 その後、清志さんは無事に第一志望の大学に入学。これで一安心とホッとしたところに、息子からの「結婚宣言」だ。卓哉さんと佳葉子さんは驚き、どういう人なのかまず聞いた。「ちょっと年上のバツイチなんだけど、と息子が言うわけです。ちょっと年上っていくつよと聞くと20歳上だという。ちょっとじゃないじゃないと妻が大声を出した。バツイチで子どもがいるのかと聞くと、『14歳と10歳の子がいる』という。ふたりの子は父親が違うとも言っていました。バツイチのあとつきあっていた人との間にできたのが下の子で、相手とは結婚しなかったそうです。うーん、と僕らは唸りました。『会ってもいないのに反対するの』と息子が言うから、まず、君はまだ大学生である、大学を卒業してから考えてもいいんじゃないかと。すると息子は大学を中退して働くと言い出しました」 熱に浮かされている若い青年に、何を言っても無駄だと卓哉さんは思った。だが、ここで止めなければ息子が暴走するだろうことも想像できた。 知り合ったのは大学近くの喫茶店だという。彼女はその近くに住んでいて、ときどきやってくるらしい。会いに行くしかないと卓哉さんは心を決めた。後編【息子と妻に不倫がバレて家庭崩壊へ…その後、“ごく普通のいい子”だった50歳がとったゲスい行動とは】へつづく亀山早苗(かめやま・さなえ)フリーライター。男女関係、特に不倫について20年以上取材を続け、『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』『人はなぜ不倫をするのか』『復讐手帖─愛が狂気に変わるとき─』など著書多数。デイリー新潮編集部
「本当にそうですよねえ。自分でもわけのわからないことをすることってありますからね。僕自身はそういうタイプの人間ではないと思っていたのに……。自分を裏切るのは自分自身かもしれません」
笑うしかないといった感じで、大曽根卓哉さん(50歳・仮名=以下同)は言葉を吐き出した。突然訪れた波乱に、「取り返しのつかないことをした」とつぶやく。
25年連れ添った妻との間に、23歳になるひとり息子がいる。その息子が20歳のとき、「結婚する」と言いだしたのが、卓哉さんの人生の転換点となった。
「うちの息子は親の目から見ても晩生だったから、20歳で、しかも大学生なのに結婚すると言われて妻も僕もパニックでした」
相手は息子より20歳年上、ふたりの子どもをもつ女性だった。
卓哉さんは、首都圏のサラリーマン家庭に生まれ「ごく普通に」育った。パートで働く母と父はどちらも底抜けに明るかった。6歳上の兄と4歳上の姉がおり、彼は伸び伸びと育った。中学高校ではバスケットボールにはまり、大学時代も同好会でバスケットをやりながら、アルバイトに学業にと励んだ。
「本当にごく普通でした。同じクラスの佳葉子とつきあい始めたのは大学3年のときで、卒業して3年目に結婚したんです。わりと早めの結婚でしたけど、うちの両親が早い結婚だったので、子どもが大きくなってから夫婦で楽しんでいる姿を見ていた。ああなれたらいいなと思っていました」
25歳で結婚し、27歳のときに息子が生まれた。もっと子どもがほしかったが、それだけは叶わなかった。共働きだったから、息子の清志さんを1歳になる前から保育園に預けた。ひとりっ子ながら息子は物怖じしない社交的な子になったのではないかと彼は言う。
「小さいころから調子のいい子でした。保育園に迎えに行くと、4歳くらいでもう女の子を口説いていた(笑)。僕は妻と知り合う前にひとり彼女がいただけで、恋愛には疎かったから、誰の血筋なんだかと笑っていたんですよ」
平和な家庭は続いていたが、彼が30代半ばのころ、母親が失踪するという事件が起こったことがある。なんと母が不倫をしていたのだ。仲がいいと信じていた両親に、そんなできごとがあったのが信じられなかった。
「あのとき初めて、人生、案外厳しいかもしれないと思いました。同時期、勤めていた会社が吸収合併という憂き目にあって、僕、失職してしまったんです。家庭も仕事も、絶対的なものなんてないんだというのは、よくわかっていたつもりです」
彼は先輩の紹介で転職し、母は父に請われて家に戻った。父がどうして母を許したのか、彼はのちに父に尋ねたことがある。
「父は『40年以上、一緒に生活してきたんだ。今さら壊してなるものか』と言いました。母が不倫した原因はよくわからないんですが、相手は初恋の人だったらしい。年いって、初恋の人に再会したら気持ちが舞い上がったのかなあ。人生の先が見えている年齢だったからこそ、最後の賭けみたいな気持ちだったのか、あるいは単純に突っ走ってしまったのか……。それ以後も、両親は何ごともなかったかのように暮らしていましたよ。母が特に遠慮しているふうでもなかった。ふたりの心中はわかりませんけどね。父も母もこの数年で亡くなりました。なんだかんだあっても、最後はみんないなくなっていく」
そう、最後は誰もがいなくなっていくだけ。それが人生なのだとわかっていながら、人はあがく。生まれたときから死に向かっているだけなのに、そのときどきの感情に翻弄されたり喜怒哀楽に身をやつしたりするのは、ただ生きているだけでは物足りないという人間の性なのか。
「僕は周りを見ながら、それほど喜怒哀楽を求めるわけではなく、感情を乱されるようなこともなく生きてきましたが、母の不倫と失業だけはちょっと心乱れましたね」
妻の佳葉子さんは、卓哉さんよりずっとアクティブな女性だという。仕事をしながらの子育ても楽しそうだったし、どんなに忙しくても文句を言うことはなかった。文句を言うより先に、「卓哉、今晩は風呂掃除、任せたからね、よろしくね。私、もうダメだから早寝するから」と言って寝てしまう。ひとりでがんばればいい、私が我慢すればいいというタイプではなかったから、一緒に生活していて楽だった。
「息子の教育に関しても、諍いが起こるようなことはありませんでした。本人がしたいようにすればいいという点で一致していたから。全然教育熱心な親ではなかったから、息子本人が『ねえ、うちはどうして勉強しなさいって言わないの?』と言ったことがあって、夫婦で爆笑しました」
もうひとりほしかったとふたりとも思っていて、それだけがわだかまっていたが、あるとき息子がずぶ濡れになりながら子犬を抱いて帰ってきた。
「雨の中、捨てられてたんだ。死んじゃうよと中学に入ったばかりの息子が泣いていたんです。家族で犬を温め、ときどき温かいミルクを飲ませながら朝までみんなで見守って病院につれていった。犬は少し弱ってはいたけど大丈夫だったので、うちで飼うことにしました」
小さな命を3人で見守ったことで、家族の一体感が強まったような気がすると卓哉さんは懐かしそうに言った。大事に育てられた犬は今も元気だという。
その後、清志さんは無事に第一志望の大学に入学。これで一安心とホッとしたところに、息子からの「結婚宣言」だ。卓哉さんと佳葉子さんは驚き、どういう人なのかまず聞いた。
「ちょっと年上のバツイチなんだけど、と息子が言うわけです。ちょっと年上っていくつよと聞くと20歳上だという。ちょっとじゃないじゃないと妻が大声を出した。バツイチで子どもがいるのかと聞くと、『14歳と10歳の子がいる』という。ふたりの子は父親が違うとも言っていました。バツイチのあとつきあっていた人との間にできたのが下の子で、相手とは結婚しなかったそうです。うーん、と僕らは唸りました。『会ってもいないのに反対するの』と息子が言うから、まず、君はまだ大学生である、大学を卒業してから考えてもいいんじゃないかと。すると息子は大学を中退して働くと言い出しました」
熱に浮かされている若い青年に、何を言っても無駄だと卓哉さんは思った。だが、ここで止めなければ息子が暴走するだろうことも想像できた。
知り合ったのは大学近くの喫茶店だという。彼女はその近くに住んでいて、ときどきやってくるらしい。会いに行くしかないと卓哉さんは心を決めた。
後編【息子と妻に不倫がバレて家庭崩壊へ…その後、“ごく普通のいい子”だった50歳がとったゲスい行動とは】へつづく
亀山早苗(かめやま・さなえ)フリーライター。男女関係、特に不倫について20年以上取材を続け、『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』『人はなぜ不倫をするのか』『復讐手帖─愛が狂気に変わるとき─』など著書多数。
デイリー新潮編集部