11月15日、創価学会の池田大作名誉会長が東京都内の自宅で老衰のため死去した。95歳だった。日本最大規模の宗教団体を長年率い、1964年に公明党を創設してからは政界でも大きな影響力を発揮してきた。
【画像】若かりし日の池田氏は女性誌で「スター」扱いだった
宗教団体のありかたが問われた2023年、池田氏の死は今後にどんな影響を及ぼすのか。2010年に「週刊文春」に掲載された記事を期間限定で再公開する。
(初出:「週刊文春」2010年12月2日号/年齢・肩書等は公開当時のまま)▼▼▼ 池田氏の姿が見えないまま、主不在で迎えた創立80周年記念日は盛り上がらず、創価学会に異常事態が続いている。氏の健康状態は学会幹部すら知らされないトップシークレットとされ、Xデーがいよいよ現実味を帯びる。怪物かカリスマか、その実像に改めて迫る。池田大作氏 2008年撮影 時事通信社 ひと目で妹とわかるほど、その顔はよく似ていた。「私は一番下ですから、小さい頃はいっぱい可愛がってもらいました。たまに家で会うと『女の子はきれいにならないと駄目だよ』とか、『挨拶できるようにしなさい』『本をいっぱい読みなさい』って言われるんです。どっちかというと、親のような気持ちで接してくれたんじゃないかと思います。だから、先生の中ではいつまでも私は15、6歳という気持ちじゃないですか」「もう別世界の人でございますので。ただ、眩いばかりで尊敬しております」――最近、電話で話をしたりすることは?「とんでもありません。もう別世界の人でございますので。ただ、眩いばかりで尊敬しております」――手紙をもらうことも?「それとなく知らせてくださる方がいます。私の方からは(聖教)新聞を見たときにお手紙を出したりです」――返事はありますか?「それはありません。間に入った人から『喜んでいました』という連絡があって、近況などを知らせてくれますからね」 こう語るのは、初めてマスコミに登場するという池田大作名誉会長(82)の実妹である。10人きょうだいの末妹は、現在も関東地方に健在だが、この妹でさえ、兄と直接会うことも、話をすることもできないのだという。兄のことを「先生」と呼ぶ妹は、池田を“神様”のように思っているのだろう。その“神様”が、今年の5月13日から学会員の前に姿を見せていない。 公称800万世帯という巨大教団・創価学会(以下、学会)。言論弾圧事件、「月刊ペン」事件、1億7000万円金庫事件など、様々な事件で世を賑わす一方、公明党を通じて国政にも大きな影響を保持している。昭和35年に第三代会長となって以来、社会からの厳しい批判や、宗門との対立にもかかわらず、池田は学会に君臨し続けてきた。 その池田の半年にわたる不在という異常な事態である。「脳梗塞で順天堂病院に入院」とか「心筋梗塞で慶応病院に入院」といった重篤説が流れる中で、11月18日、学会は創立80周年記念日を迎えた。しかし、「名誉会長も、この日までには体調を整えて出てくるだろうと言われていたのですが、結局姿は見せなかった。本来なら大々的に記念イベントを行うはずなのに、名誉会長不在ではそれも出来ない。記念勤行会だけで、機関紙でも80周年のことよりも100周年を目指せと煽ってばかりです」 ある創価学会関係者は言う。現在、名誉会長の健康状態は「池田家しか知らない」といわれるほどトップシークレットで、本部でもそのことを口にすることすらタブーなのだそうだ。 11月18日、22日付で聖教新聞は池田の“近影”を掲載しているが、「会員から本部に池田さんの体調についての問い合わせが多く寄せられていましたから、不安を払拭しようという狙いですね。21日にあったという米大学の学術称号授与式も、紙面通り行われたのかどうか、幹部からも疑問の声が出ています」 なお、本稿は、「賛美でも批判でもない、第三者の目で池田大作という人物を書く」ことを目的としている。そのつもりで池田に関する過去の膨大な資料を読んでみたが、私なりに気がついたことがいくつかある。たとえば、池田を批判する人は、「戸田城聖第二代会長のときはよかったが、池田になっておかしくなった」というが、資料を読む限り戸田と池田の二人は非常によく似ている。戸田が学会の基礎を作り、池田がそれを発展させたとしか思えないのである。池田氏と学会との出会いは、同級生に連れられて参加した「座談会」 池田が会長に就任した当時の会員は約100万世帯。それが最盛期に800万世帯(公称)を超えたという。この巨大集団をいかにして作り上げたのか。取材からおぼろげに浮かび上がった私の池田大作像は、宗教家というより、「創価王国」ともいえる巨大でアクティブな組織を作り上げた稀代のオルガナイザーであった。 創立記念日とされる11月18日は、学会の初代会長・牧口常三郎が『創価教育学体系』を出版した日である。戦前の名称が『創価教育学会』だったことでもわかるように、宗教団体というより、会員を日蓮正宗の信者に限定した教育学の研究集団であった。この組織を資金的に援助したのが事業家で、のちに第二代会長になる戸田である。 戦時中、伊勢神宮の神札を祀るようにと強制されたが、牧口も戸田も拒否したために投獄され、牧口は獄死した。戦後、戸田は「創価学会」と名称をあらためる。資金繰りのために小さな出版社や小口金融をはじめるが、それほど信仰に熱心ではなかったらしく、会員も三千名程度だった。 学会では日蓮正宗の信仰を伝えるために少人数で語り合う場を「座談会」と呼ぶ。昭和22年8月、昭文堂という小さな印刷会社で働いていた19歳の池田は、同級生に連れられて東京・大田区の座談会に出席した。池田と学会の出会いだった。座談会に行った理由を池田は〈終戦の反動でなにかやりたいという気持ちがあって〉(『宗教と信仰の心理学』)とのちに語っている。学歴も金もなく、未来に希望を見出せない中で、自分の居場所を探していたのだろうか。――池田は昭和3年、東京・大森の海苔業者の五男として生まれた。本名・太作(たさく)(のち大作に改名)。きょうだいは戦死した長男を含めて10名と子だくさんのうえ、父親の仕事は下請け程度だったから貧を極めた。池田の『私の履歴書』によれば、小学校2年のときに父がリウマチで寝たきりになり、生活はさらに困窮したという。彼が通った東京市萩中国民学校の卒業写真を見ると、子供たちの服装は詰め襟服と国民服の2種類に分かれている。同級生によれば「貧しい子は国民服しか着られなかった」という。もちろん池田は国民服だった。 池田は19歳で入信したものの、自らすすんでというわけではなかったようで、当時の不安な気持ちを、昭和30年頃にこう語っている。〈前の信者さんたちが牢獄へいったということが気になりました。全部の宗教に反対するから必然的に弾圧される、その時はどうしようか、寝ても覚めても考え、やめるのは今のうちがよいと考えました〉(同前) 彼の入信は、この座談会で初恋の人と巡り会ったからとも言われる。相手は3歳下の三宅妙子だった。「日比谷の有楽座で一緒に映画を見たりした」という。その彼女に、当時池田はこんなラブレターを出していた。「将来大物になりそうな雰囲気はまったくなかったなあ」「雁の便り頂き幾たび讀みくりかへした事でせう」で始まる手紙は、互いの若さを詩的な文章で讃えたあと、こう綴っている。「貴女と二人の間に永久に清らかに尊い結びの有る事を信じます。御本尊を頼り、ほかに眞実の心をふれ合せる事の出来る人を見出したことを感謝して居ります。“別れない! 誰が何んと云っても永久に別れない! 肉体だけは汽車や汽船で別れても、固くふれ合った生命を何んの力で分け得るか。眞の情愛は永久に別れない”と。徒爾(とじ)な考えを律してお互に勵し合って頑張りませう。親愛なる妙子さんへ大作」 二人の恋は成就しなかったが、彼女は今も池田をよく憶えているという。「映画を見に行ったときでした。『宇宙の星を宝石にして君にあげたい』なんて言われましてね。でも、あの人は私の手を握るくらいで、ほんとに純情でした。かと思うと、『いつか必ず指導者になってみせる』と大見得をきったり。アクが強いというか存在感があるというか、人を惹きつけるものは持っていましたね」 昭和24年、池田は三宅の母の紹介で、戸田が経営していた日本正学館という出版社に就職した。編集室は西神田の学会本部ビルにあった。池田の右腕といわれた原島宏治の息子で、元東洋哲学研究所研究員の原島昭によれば、「昼は日本正学館の編集部ですが、夜は創価学会の本部になった」という。 ジャーナリストの塩田丸男は、このビルの3階に間借りしていた『日本婦人新聞』で働いていたが、池田や戸田と1年半ほど交流があったと話す。「戸田さんは威張っていて付き合いが悪かったけど、池田は腰が低くてね。僕なんか、『大作、タバコ買ってこーい!』なんて言うと、素直に『ハイ!』って買いに行くんだ。気だてのいい青年だったが、将来大物になりそうな雰囲気はまったくなかったなあ」 やがて、戦前の大手出版社が復刊し始めると売れ行きがばったり止まり、たちまち日本正学館は破綻した。この時分、池田は学会に入ったことで親から勘当同然になり、アパート暮らしをはじめている。 戸田は、かねてから準備していた小口金融の東京建設信用購買利用組合(以下、建設信用組合)をつくり、池田ら日本正学館の社員を移転させた。ところが、庶民相手の金貸しはまたたく間に経営が行き詰まり、昭和25年に大蔵省から営業停止をくらう。戸田は組合法違反で逮捕されるのをおそれ、名を変えてひそかに姿をくらました。 人生最大のピンチに立ちながら、戸田はしたたかにも、のちに学会と両輪のように動くことになる大蔵商事と東洋精光という2つの会社を立ち上げている。大蔵商事は高利貸しのほかに、保険と不動産を扱い、東洋精光は大蔵商事の担保流れ品を処分する会社である。表に出られない戸田は、愛人を社長に据え、営業のすべてを池田に任せた。 大蔵商事は開業当初から大当たりした。池田は金融の世界が水にあったのか、一説には月20万円の収入があったという。現在の貨幣価値なら500万円弱になる。当然、そこには無理な取り立てもあったことは想像できる。「病人の布団をはいだ」式の噂もあったが、それを確認するため、池田と一緒に働いていた古参幹部を直撃した。「ダメ、ダメ」と逃げるその人物に、「池田は剛腕でしたか?」と問いを投げると、「だいたいのところは」と述べ、「(今まで言われていることで)合ってるんじゃないですか」と言った。作り上げられた「指導者への絶対服従のシステム」 が、池田もさすがに強引な取り立ては気が進まなかったのか、のちに、「大蔵商事では一番いやな仕事をした。どうしてこんないやな仕事をするのかと思った」(社長会記録)と語っている。当時の池田は、戸田の命令を忠実に実行する男だった。それにしても、この大蔵商事がなぜ学会と両輪のように動くのか。前出の原島昭が言う。「当時、市井から資金を調達すると月3分(年利36%)の利息でした。でも大蔵商事は、これは広宣流布のためだからといって、学会員から場合によっては月2分(年利24%)で集めたんです。これを月5分(年利60%)から7分(年利84%)で融資するのですから、学会員が増えれば増えるほど儲かるという仕組みになります」 実際、学会員が増えるにつれて大蔵商事の収益も大きくなり、戸田は営業全般を取り仕切る池田に一目置くようになる。池田が学会幹部で砂糖取引会社常務だった白木薫次の二女・白木かね(香峯子)と結婚したのはこの頃だ。 猛烈なインフレと大蔵商事のおかげで建設信用組合の負債を返済するめどが立った。さらに昭和26年には正式に法的制裁を免れ、戸田は再起を誓って学会の第二代会長に就任する。 まず学会の組織改革に手をつけた。宗教団体にはめずらしく、軍隊組織をまねて、戸田を頂点に、本部―部隊―隊―班と、命令系統を一本化し、指導者である戸田への絶対服従のシステムを作り上げたのである。 さらに聖教新聞を創刊し、生活にゆとりのある会員からは金を出させようと財務部も設立。仕上げは、学会を宗教法人にすることだった。しかし本来、学会は信者の団体にすぎない。日蓮正宗という宗教法人の下に、さらに創価学会という宗教法人を置くには無理がある。当時、日蓮正宗の宗門(僧侶の団体)も大反対したと、宗門関係者はいう。「かなり議論されました。そして一宗教二法人は認めないという決議を宗会でしたのです。学会員は宗会議員たちをつるし上げましたが、いつの間にか戸田さんは当時の法主日昇猊下(げいか)とのトップ会談でこれを認めさせるんです」 戸田が学会の未来をどう考えたかわからないが、すでにこの時点で、学会が日蓮正宗から離脱する種がまかれたといえる。 大蔵商事での活躍で戸田の信頼を得た池田は、昭和28年に男子部第一部隊長、29年に青年部参謀室長と駆け足で出世階段を昇っていく。ちなみに、青年部というのは戸田の親衛隊のような組織である。同時に「会長先生の耳目となる」(聖教新聞)情報部も設置され、池田は最高顧問を兼任。学会の情報網の中枢に立ったのである。しかし、学会内の席次は37位と、決して上位ではなかった。 事態が急転するのは昭和33年。戸田が58歳で急死したのだ。そしてこの2年後に、池田は若冠32歳で第三代会長に就任するのだが、居並ぶ先輩を押しのけて、なぜ会長になれたのか。なにしろ、池田は自ら「(私が折伏(しやくぶく)しても)だれも信心しないのですよ」と語るほど折伏がヘタなのである。学会内では致命傷のはずなのに、なぜか池田は戸田の死の翌年には理事に就任。同時に「理事室を代表して、事務局および各部を統括する」総務のトップにつき、あっという間に学会ナンバー2に駆け上がったのだ。 元学会幹部の一人は、「戸田先生亡き後、当時の学会幹部は、空中分解しかねない創価学会をどう支えるかで頭がいっぱいでしたが、池田だけが会長の座を狙っていたのです」という。しかし、戸田が作ったヒエラルキー型組織では、トップの交代が壮絶な権力闘争に変わることはよくあることだ。そのことに誰も気づかない中で、池田だけはそういう嗅覚を身につけていたということだろう。とはいえ、30歳そこそこで、どうやって会長の座を狙えたのか。「貧乏だった青年たちの面倒を見て、自分の基盤を学会内に作っていった」「当時貧乏だった青年たちの面倒を見て、自分の基盤を学会内に作っていった」と古参幹部は言う。大蔵商事で稼いだ金をふんだんに使ったのだろう。しかし、これだけでは無理である。さらに前出の原島昭は「私の父(原島宏治)を始めとした古参幹部が池田を支持したからです」と言った。 のちに公明党初代委員長になる原島宏治は、戦前から学会の中枢にいた人物で、温厚で実直な性格から、他の幹部たちも信頼を寄せていた。しかし、原島はなぜ19歳も年下の池田を支持したのか。昭は言う。「建設信用組合の破産で、戸田会長の責任を追及するグループがあらわれ、反学会組織ができました。その首謀者に母が紹介した人が何人かいたため、昭和27年に母が文京支部婦人部長を辞めさせられました。その翌年4月に池田は文京支部長代理になるのですが、役職を奪われて失意のどん底にいる母に和歌を贈るなどして懸命に慰めたのです。それ以来、私の両親は心底、池田を支持するようになりました」 戸田が亡くなった直後から、池田は足繁く原島と会い、やがて「誰が反対しても、私(原島)は池田を推薦すると言い出し、原島先生が言うならと、みんな池田を支持するようになった」と昭は言った。 もっとも、私には池田を会長に就かせたのは、彼の野望だけが理由ではなかったように思う。当時、戸田からの信頼も厚く次期会長と目された石田次男は、「誠実だが欲がなく、病弱だった」(古参幹部)といわれ、理事たちも不安を感じたはずだ。むしろ、戸田なき後の混乱する学会をまとめるために、強引な取り立てもやってのける池田の実行力に期待したのではないだろうか。池田は、なるべくして第三代会長になったのである。〈「ナンバー2を嫌って、人を育てなかった」池田大作氏が創価学会で“究極の権力構造”を作り上げるまで〉へ続く(「週刊文春」編集部/週刊文春 2010年12月2日号)
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池田氏の姿が見えないまま、主不在で迎えた創立80周年記念日は盛り上がらず、創価学会に異常事態が続いている。氏の健康状態は学会幹部すら知らされないトップシークレットとされ、Xデーがいよいよ現実味を帯びる。怪物かカリスマか、その実像に改めて迫る。
池田大作氏 2008年撮影 時事通信社
ひと目で妹とわかるほど、その顔はよく似ていた。
「私は一番下ですから、小さい頃はいっぱい可愛がってもらいました。たまに家で会うと『女の子はきれいにならないと駄目だよ』とか、『挨拶できるようにしなさい』『本をいっぱい読みなさい』って言われるんです。どっちかというと、親のような気持ちで接してくれたんじゃないかと思います。だから、先生の中ではいつまでも私は15、6歳という気持ちじゃないですか」
――最近、電話で話をしたりすることは?
「とんでもありません。もう別世界の人でございますので。ただ、眩いばかりで尊敬しております」
――手紙をもらうことも?
「それとなく知らせてくださる方がいます。私の方からは(聖教)新聞を見たときにお手紙を出したりです」
――返事はありますか?
「それはありません。間に入った人から『喜んでいました』という連絡があって、近況などを知らせてくれますからね」
こう語るのは、初めてマスコミに登場するという池田大作名誉会長(82)の実妹である。10人きょうだいの末妹は、現在も関東地方に健在だが、この妹でさえ、兄と直接会うことも、話をすることもできないのだという。兄のことを「先生」と呼ぶ妹は、池田を“神様”のように思っているのだろう。その“神様”が、今年の5月13日から学会員の前に姿を見せていない。 公称800万世帯という巨大教団・創価学会(以下、学会)。言論弾圧事件、「月刊ペン」事件、1億7000万円金庫事件など、様々な事件で世を賑わす一方、公明党を通じて国政にも大きな影響を保持している。昭和35年に第三代会長となって以来、社会からの厳しい批判や、宗門との対立にもかかわらず、池田は学会に君臨し続けてきた。 その池田の半年にわたる不在という異常な事態である。「脳梗塞で順天堂病院に入院」とか「心筋梗塞で慶応病院に入院」といった重篤説が流れる中で、11月18日、学会は創立80周年記念日を迎えた。しかし、「名誉会長も、この日までには体調を整えて出てくるだろうと言われていたのですが、結局姿は見せなかった。本来なら大々的に記念イベントを行うはずなのに、名誉会長不在ではそれも出来ない。記念勤行会だけで、機関紙でも80周年のことよりも100周年を目指せと煽ってばかりです」 ある創価学会関係者は言う。現在、名誉会長の健康状態は「池田家しか知らない」といわれるほどトップシークレットで、本部でもそのことを口にすることすらタブーなのだそうだ。 11月18日、22日付で聖教新聞は池田の“近影”を掲載しているが、「会員から本部に池田さんの体調についての問い合わせが多く寄せられていましたから、不安を払拭しようという狙いですね。21日にあったという米大学の学術称号授与式も、紙面通り行われたのかどうか、幹部からも疑問の声が出ています」 なお、本稿は、「賛美でも批判でもない、第三者の目で池田大作という人物を書く」ことを目的としている。そのつもりで池田に関する過去の膨大な資料を読んでみたが、私なりに気がついたことがいくつかある。たとえば、池田を批判する人は、「戸田城聖第二代会長のときはよかったが、池田になっておかしくなった」というが、資料を読む限り戸田と池田の二人は非常によく似ている。戸田が学会の基礎を作り、池田がそれを発展させたとしか思えないのである。池田氏と学会との出会いは、同級生に連れられて参加した「座談会」 池田が会長に就任した当時の会員は約100万世帯。それが最盛期に800万世帯(公称)を超えたという。この巨大集団をいかにして作り上げたのか。取材からおぼろげに浮かび上がった私の池田大作像は、宗教家というより、「創価王国」ともいえる巨大でアクティブな組織を作り上げた稀代のオルガナイザーであった。 創立記念日とされる11月18日は、学会の初代会長・牧口常三郎が『創価教育学体系』を出版した日である。戦前の名称が『創価教育学会』だったことでもわかるように、宗教団体というより、会員を日蓮正宗の信者に限定した教育学の研究集団であった。この組織を資金的に援助したのが事業家で、のちに第二代会長になる戸田である。 戦時中、伊勢神宮の神札を祀るようにと強制されたが、牧口も戸田も拒否したために投獄され、牧口は獄死した。戦後、戸田は「創価学会」と名称をあらためる。資金繰りのために小さな出版社や小口金融をはじめるが、それほど信仰に熱心ではなかったらしく、会員も三千名程度だった。 学会では日蓮正宗の信仰を伝えるために少人数で語り合う場を「座談会」と呼ぶ。昭和22年8月、昭文堂という小さな印刷会社で働いていた19歳の池田は、同級生に連れられて東京・大田区の座談会に出席した。池田と学会の出会いだった。座談会に行った理由を池田は〈終戦の反動でなにかやりたいという気持ちがあって〉(『宗教と信仰の心理学』)とのちに語っている。学歴も金もなく、未来に希望を見出せない中で、自分の居場所を探していたのだろうか。――池田は昭和3年、東京・大森の海苔業者の五男として生まれた。本名・太作(たさく)(のち大作に改名)。きょうだいは戦死した長男を含めて10名と子だくさんのうえ、父親の仕事は下請け程度だったから貧を極めた。池田の『私の履歴書』によれば、小学校2年のときに父がリウマチで寝たきりになり、生活はさらに困窮したという。彼が通った東京市萩中国民学校の卒業写真を見ると、子供たちの服装は詰め襟服と国民服の2種類に分かれている。同級生によれば「貧しい子は国民服しか着られなかった」という。もちろん池田は国民服だった。 池田は19歳で入信したものの、自らすすんでというわけではなかったようで、当時の不安な気持ちを、昭和30年頃にこう語っている。〈前の信者さんたちが牢獄へいったということが気になりました。全部の宗教に反対するから必然的に弾圧される、その時はどうしようか、寝ても覚めても考え、やめるのは今のうちがよいと考えました〉(同前) 彼の入信は、この座談会で初恋の人と巡り会ったからとも言われる。相手は3歳下の三宅妙子だった。「日比谷の有楽座で一緒に映画を見たりした」という。その彼女に、当時池田はこんなラブレターを出していた。「将来大物になりそうな雰囲気はまったくなかったなあ」「雁の便り頂き幾たび讀みくりかへした事でせう」で始まる手紙は、互いの若さを詩的な文章で讃えたあと、こう綴っている。「貴女と二人の間に永久に清らかに尊い結びの有る事を信じます。御本尊を頼り、ほかに眞実の心をふれ合せる事の出来る人を見出したことを感謝して居ります。“別れない! 誰が何んと云っても永久に別れない! 肉体だけは汽車や汽船で別れても、固くふれ合った生命を何んの力で分け得るか。眞の情愛は永久に別れない”と。徒爾(とじ)な考えを律してお互に勵し合って頑張りませう。親愛なる妙子さんへ大作」 二人の恋は成就しなかったが、彼女は今も池田をよく憶えているという。「映画を見に行ったときでした。『宇宙の星を宝石にして君にあげたい』なんて言われましてね。でも、あの人は私の手を握るくらいで、ほんとに純情でした。かと思うと、『いつか必ず指導者になってみせる』と大見得をきったり。アクが強いというか存在感があるというか、人を惹きつけるものは持っていましたね」 昭和24年、池田は三宅の母の紹介で、戸田が経営していた日本正学館という出版社に就職した。編集室は西神田の学会本部ビルにあった。池田の右腕といわれた原島宏治の息子で、元東洋哲学研究所研究員の原島昭によれば、「昼は日本正学館の編集部ですが、夜は創価学会の本部になった」という。 ジャーナリストの塩田丸男は、このビルの3階に間借りしていた『日本婦人新聞』で働いていたが、池田や戸田と1年半ほど交流があったと話す。「戸田さんは威張っていて付き合いが悪かったけど、池田は腰が低くてね。僕なんか、『大作、タバコ買ってこーい!』なんて言うと、素直に『ハイ!』って買いに行くんだ。気だてのいい青年だったが、将来大物になりそうな雰囲気はまったくなかったなあ」 やがて、戦前の大手出版社が復刊し始めると売れ行きがばったり止まり、たちまち日本正学館は破綻した。この時分、池田は学会に入ったことで親から勘当同然になり、アパート暮らしをはじめている。 戸田は、かねてから準備していた小口金融の東京建設信用購買利用組合(以下、建設信用組合)をつくり、池田ら日本正学館の社員を移転させた。ところが、庶民相手の金貸しはまたたく間に経営が行き詰まり、昭和25年に大蔵省から営業停止をくらう。戸田は組合法違反で逮捕されるのをおそれ、名を変えてひそかに姿をくらました。 人生最大のピンチに立ちながら、戸田はしたたかにも、のちに学会と両輪のように動くことになる大蔵商事と東洋精光という2つの会社を立ち上げている。大蔵商事は高利貸しのほかに、保険と不動産を扱い、東洋精光は大蔵商事の担保流れ品を処分する会社である。表に出られない戸田は、愛人を社長に据え、営業のすべてを池田に任せた。 大蔵商事は開業当初から大当たりした。池田は金融の世界が水にあったのか、一説には月20万円の収入があったという。現在の貨幣価値なら500万円弱になる。当然、そこには無理な取り立てもあったことは想像できる。「病人の布団をはいだ」式の噂もあったが、それを確認するため、池田と一緒に働いていた古参幹部を直撃した。「ダメ、ダメ」と逃げるその人物に、「池田は剛腕でしたか?」と問いを投げると、「だいたいのところは」と述べ、「(今まで言われていることで)合ってるんじゃないですか」と言った。作り上げられた「指導者への絶対服従のシステム」 が、池田もさすがに強引な取り立ては気が進まなかったのか、のちに、「大蔵商事では一番いやな仕事をした。どうしてこんないやな仕事をするのかと思った」(社長会記録)と語っている。当時の池田は、戸田の命令を忠実に実行する男だった。それにしても、この大蔵商事がなぜ学会と両輪のように動くのか。前出の原島昭が言う。「当時、市井から資金を調達すると月3分(年利36%)の利息でした。でも大蔵商事は、これは広宣流布のためだからといって、学会員から場合によっては月2分(年利24%)で集めたんです。これを月5分(年利60%)から7分(年利84%)で融資するのですから、学会員が増えれば増えるほど儲かるという仕組みになります」 実際、学会員が増えるにつれて大蔵商事の収益も大きくなり、戸田は営業全般を取り仕切る池田に一目置くようになる。池田が学会幹部で砂糖取引会社常務だった白木薫次の二女・白木かね(香峯子)と結婚したのはこの頃だ。 猛烈なインフレと大蔵商事のおかげで建設信用組合の負債を返済するめどが立った。さらに昭和26年には正式に法的制裁を免れ、戸田は再起を誓って学会の第二代会長に就任する。 まず学会の組織改革に手をつけた。宗教団体にはめずらしく、軍隊組織をまねて、戸田を頂点に、本部―部隊―隊―班と、命令系統を一本化し、指導者である戸田への絶対服従のシステムを作り上げたのである。 さらに聖教新聞を創刊し、生活にゆとりのある会員からは金を出させようと財務部も設立。仕上げは、学会を宗教法人にすることだった。しかし本来、学会は信者の団体にすぎない。日蓮正宗という宗教法人の下に、さらに創価学会という宗教法人を置くには無理がある。当時、日蓮正宗の宗門(僧侶の団体)も大反対したと、宗門関係者はいう。「かなり議論されました。そして一宗教二法人は認めないという決議を宗会でしたのです。学会員は宗会議員たちをつるし上げましたが、いつの間にか戸田さんは当時の法主日昇猊下(げいか)とのトップ会談でこれを認めさせるんです」 戸田が学会の未来をどう考えたかわからないが、すでにこの時点で、学会が日蓮正宗から離脱する種がまかれたといえる。 大蔵商事での活躍で戸田の信頼を得た池田は、昭和28年に男子部第一部隊長、29年に青年部参謀室長と駆け足で出世階段を昇っていく。ちなみに、青年部というのは戸田の親衛隊のような組織である。同時に「会長先生の耳目となる」(聖教新聞)情報部も設置され、池田は最高顧問を兼任。学会の情報網の中枢に立ったのである。しかし、学会内の席次は37位と、決して上位ではなかった。 事態が急転するのは昭和33年。戸田が58歳で急死したのだ。そしてこの2年後に、池田は若冠32歳で第三代会長に就任するのだが、居並ぶ先輩を押しのけて、なぜ会長になれたのか。なにしろ、池田は自ら「(私が折伏(しやくぶく)しても)だれも信心しないのですよ」と語るほど折伏がヘタなのである。学会内では致命傷のはずなのに、なぜか池田は戸田の死の翌年には理事に就任。同時に「理事室を代表して、事務局および各部を統括する」総務のトップにつき、あっという間に学会ナンバー2に駆け上がったのだ。 元学会幹部の一人は、「戸田先生亡き後、当時の学会幹部は、空中分解しかねない創価学会をどう支えるかで頭がいっぱいでしたが、池田だけが会長の座を狙っていたのです」という。しかし、戸田が作ったヒエラルキー型組織では、トップの交代が壮絶な権力闘争に変わることはよくあることだ。そのことに誰も気づかない中で、池田だけはそういう嗅覚を身につけていたということだろう。とはいえ、30歳そこそこで、どうやって会長の座を狙えたのか。「貧乏だった青年たちの面倒を見て、自分の基盤を学会内に作っていった」「当時貧乏だった青年たちの面倒を見て、自分の基盤を学会内に作っていった」と古参幹部は言う。大蔵商事で稼いだ金をふんだんに使ったのだろう。しかし、これだけでは無理である。さらに前出の原島昭は「私の父(原島宏治)を始めとした古参幹部が池田を支持したからです」と言った。 のちに公明党初代委員長になる原島宏治は、戦前から学会の中枢にいた人物で、温厚で実直な性格から、他の幹部たちも信頼を寄せていた。しかし、原島はなぜ19歳も年下の池田を支持したのか。昭は言う。「建設信用組合の破産で、戸田会長の責任を追及するグループがあらわれ、反学会組織ができました。その首謀者に母が紹介した人が何人かいたため、昭和27年に母が文京支部婦人部長を辞めさせられました。その翌年4月に池田は文京支部長代理になるのですが、役職を奪われて失意のどん底にいる母に和歌を贈るなどして懸命に慰めたのです。それ以来、私の両親は心底、池田を支持するようになりました」 戸田が亡くなった直後から、池田は足繁く原島と会い、やがて「誰が反対しても、私(原島)は池田を推薦すると言い出し、原島先生が言うならと、みんな池田を支持するようになった」と昭は言った。 もっとも、私には池田を会長に就かせたのは、彼の野望だけが理由ではなかったように思う。当時、戸田からの信頼も厚く次期会長と目された石田次男は、「誠実だが欲がなく、病弱だった」(古参幹部)といわれ、理事たちも不安を感じたはずだ。むしろ、戸田なき後の混乱する学会をまとめるために、強引な取り立てもやってのける池田の実行力に期待したのではないだろうか。池田は、なるべくして第三代会長になったのである。〈「ナンバー2を嫌って、人を育てなかった」池田大作氏が創価学会で“究極の権力構造”を作り上げるまで〉へ続く(「週刊文春」編集部/週刊文春 2010年12月2日号)
こう語るのは、初めてマスコミに登場するという池田大作名誉会長(82)の実妹である。10人きょうだいの末妹は、現在も関東地方に健在だが、この妹でさえ、兄と直接会うことも、話をすることもできないのだという。兄のことを「先生」と呼ぶ妹は、池田を“神様”のように思っているのだろう。その“神様”が、今年の5月13日から学会員の前に姿を見せていない。
公称800万世帯という巨大教団・創価学会(以下、学会)。言論弾圧事件、「月刊ペン」事件、1億7000万円金庫事件など、様々な事件で世を賑わす一方、公明党を通じて国政にも大きな影響を保持している。昭和35年に第三代会長となって以来、社会からの厳しい批判や、宗門との対立にもかかわらず、池田は学会に君臨し続けてきた。
その池田の半年にわたる不在という異常な事態である。「脳梗塞で順天堂病院に入院」とか「心筋梗塞で慶応病院に入院」といった重篤説が流れる中で、11月18日、学会は創立80周年記念日を迎えた。しかし、
「名誉会長も、この日までには体調を整えて出てくるだろうと言われていたのですが、結局姿は見せなかった。本来なら大々的に記念イベントを行うはずなのに、名誉会長不在ではそれも出来ない。記念勤行会だけで、機関紙でも80周年のことよりも100周年を目指せと煽ってばかりです」
ある創価学会関係者は言う。現在、名誉会長の健康状態は「池田家しか知らない」といわれるほどトップシークレットで、本部でもそのことを口にすることすらタブーなのだそうだ。
11月18日、22日付で聖教新聞は池田の“近影”を掲載しているが、
「会員から本部に池田さんの体調についての問い合わせが多く寄せられていましたから、不安を払拭しようという狙いですね。21日にあったという米大学の学術称号授与式も、紙面通り行われたのかどうか、幹部からも疑問の声が出ています」
なお、本稿は、「賛美でも批判でもない、第三者の目で池田大作という人物を書く」ことを目的としている。そのつもりで池田に関する過去の膨大な資料を読んでみたが、私なりに気がついたことがいくつかある。たとえば、池田を批判する人は、「戸田城聖第二代会長のときはよかったが、池田になっておかしくなった」というが、資料を読む限り戸田と池田の二人は非常によく似ている。戸田が学会の基礎を作り、池田がそれを発展させたとしか思えないのである。
池田が会長に就任した当時の会員は約100万世帯。それが最盛期に800万世帯(公称)を超えたという。この巨大集団をいかにして作り上げたのか。取材からおぼろげに浮かび上がった私の池田大作像は、宗教家というより、「創価王国」ともいえる巨大でアクティブな組織を作り上げた稀代のオルガナイザーであった。
創立記念日とされる11月18日は、学会の初代会長・牧口常三郎が『創価教育学体系』を出版した日である。戦前の名称が『創価教育学会』だったことでもわかるように、宗教団体というより、会員を日蓮正宗の信者に限定した教育学の研究集団であった。この組織を資金的に援助したのが事業家で、のちに第二代会長になる戸田である。 戦時中、伊勢神宮の神札を祀るようにと強制されたが、牧口も戸田も拒否したために投獄され、牧口は獄死した。戦後、戸田は「創価学会」と名称をあらためる。資金繰りのために小さな出版社や小口金融をはじめるが、それほど信仰に熱心ではなかったらしく、会員も三千名程度だった。 学会では日蓮正宗の信仰を伝えるために少人数で語り合う場を「座談会」と呼ぶ。昭和22年8月、昭文堂という小さな印刷会社で働いていた19歳の池田は、同級生に連れられて東京・大田区の座談会に出席した。池田と学会の出会いだった。座談会に行った理由を池田は〈終戦の反動でなにかやりたいという気持ちがあって〉(『宗教と信仰の心理学』)とのちに語っている。学歴も金もなく、未来に希望を見出せない中で、自分の居場所を探していたのだろうか。――池田は昭和3年、東京・大森の海苔業者の五男として生まれた。本名・太作(たさく)(のち大作に改名)。きょうだいは戦死した長男を含めて10名と子だくさんのうえ、父親の仕事は下請け程度だったから貧を極めた。池田の『私の履歴書』によれば、小学校2年のときに父がリウマチで寝たきりになり、生活はさらに困窮したという。彼が通った東京市萩中国民学校の卒業写真を見ると、子供たちの服装は詰め襟服と国民服の2種類に分かれている。同級生によれば「貧しい子は国民服しか着られなかった」という。もちろん池田は国民服だった。 池田は19歳で入信したものの、自らすすんでというわけではなかったようで、当時の不安な気持ちを、昭和30年頃にこう語っている。〈前の信者さんたちが牢獄へいったということが気になりました。全部の宗教に反対するから必然的に弾圧される、その時はどうしようか、寝ても覚めても考え、やめるのは今のうちがよいと考えました〉(同前) 彼の入信は、この座談会で初恋の人と巡り会ったからとも言われる。相手は3歳下の三宅妙子だった。「日比谷の有楽座で一緒に映画を見たりした」という。その彼女に、当時池田はこんなラブレターを出していた。「将来大物になりそうな雰囲気はまったくなかったなあ」「雁の便り頂き幾たび讀みくりかへした事でせう」で始まる手紙は、互いの若さを詩的な文章で讃えたあと、こう綴っている。「貴女と二人の間に永久に清らかに尊い結びの有る事を信じます。御本尊を頼り、ほかに眞実の心をふれ合せる事の出来る人を見出したことを感謝して居ります。“別れない! 誰が何んと云っても永久に別れない! 肉体だけは汽車や汽船で別れても、固くふれ合った生命を何んの力で分け得るか。眞の情愛は永久に別れない”と。徒爾(とじ)な考えを律してお互に勵し合って頑張りませう。親愛なる妙子さんへ大作」 二人の恋は成就しなかったが、彼女は今も池田をよく憶えているという。「映画を見に行ったときでした。『宇宙の星を宝石にして君にあげたい』なんて言われましてね。でも、あの人は私の手を握るくらいで、ほんとに純情でした。かと思うと、『いつか必ず指導者になってみせる』と大見得をきったり。アクが強いというか存在感があるというか、人を惹きつけるものは持っていましたね」 昭和24年、池田は三宅の母の紹介で、戸田が経営していた日本正学館という出版社に就職した。編集室は西神田の学会本部ビルにあった。池田の右腕といわれた原島宏治の息子で、元東洋哲学研究所研究員の原島昭によれば、「昼は日本正学館の編集部ですが、夜は創価学会の本部になった」という。 ジャーナリストの塩田丸男は、このビルの3階に間借りしていた『日本婦人新聞』で働いていたが、池田や戸田と1年半ほど交流があったと話す。「戸田さんは威張っていて付き合いが悪かったけど、池田は腰が低くてね。僕なんか、『大作、タバコ買ってこーい!』なんて言うと、素直に『ハイ!』って買いに行くんだ。気だてのいい青年だったが、将来大物になりそうな雰囲気はまったくなかったなあ」 やがて、戦前の大手出版社が復刊し始めると売れ行きがばったり止まり、たちまち日本正学館は破綻した。この時分、池田は学会に入ったことで親から勘当同然になり、アパート暮らしをはじめている。 戸田は、かねてから準備していた小口金融の東京建設信用購買利用組合(以下、建設信用組合)をつくり、池田ら日本正学館の社員を移転させた。ところが、庶民相手の金貸しはまたたく間に経営が行き詰まり、昭和25年に大蔵省から営業停止をくらう。戸田は組合法違反で逮捕されるのをおそれ、名を変えてひそかに姿をくらました。 人生最大のピンチに立ちながら、戸田はしたたかにも、のちに学会と両輪のように動くことになる大蔵商事と東洋精光という2つの会社を立ち上げている。大蔵商事は高利貸しのほかに、保険と不動産を扱い、東洋精光は大蔵商事の担保流れ品を処分する会社である。表に出られない戸田は、愛人を社長に据え、営業のすべてを池田に任せた。 大蔵商事は開業当初から大当たりした。池田は金融の世界が水にあったのか、一説には月20万円の収入があったという。現在の貨幣価値なら500万円弱になる。当然、そこには無理な取り立てもあったことは想像できる。「病人の布団をはいだ」式の噂もあったが、それを確認するため、池田と一緒に働いていた古参幹部を直撃した。「ダメ、ダメ」と逃げるその人物に、「池田は剛腕でしたか?」と問いを投げると、「だいたいのところは」と述べ、「(今まで言われていることで)合ってるんじゃないですか」と言った。作り上げられた「指導者への絶対服従のシステム」 が、池田もさすがに強引な取り立ては気が進まなかったのか、のちに、「大蔵商事では一番いやな仕事をした。どうしてこんないやな仕事をするのかと思った」(社長会記録)と語っている。当時の池田は、戸田の命令を忠実に実行する男だった。それにしても、この大蔵商事がなぜ学会と両輪のように動くのか。前出の原島昭が言う。「当時、市井から資金を調達すると月3分(年利36%)の利息でした。でも大蔵商事は、これは広宣流布のためだからといって、学会員から場合によっては月2分(年利24%)で集めたんです。これを月5分(年利60%)から7分(年利84%)で融資するのですから、学会員が増えれば増えるほど儲かるという仕組みになります」 実際、学会員が増えるにつれて大蔵商事の収益も大きくなり、戸田は営業全般を取り仕切る池田に一目置くようになる。池田が学会幹部で砂糖取引会社常務だった白木薫次の二女・白木かね(香峯子)と結婚したのはこの頃だ。 猛烈なインフレと大蔵商事のおかげで建設信用組合の負債を返済するめどが立った。さらに昭和26年には正式に法的制裁を免れ、戸田は再起を誓って学会の第二代会長に就任する。 まず学会の組織改革に手をつけた。宗教団体にはめずらしく、軍隊組織をまねて、戸田を頂点に、本部―部隊―隊―班と、命令系統を一本化し、指導者である戸田への絶対服従のシステムを作り上げたのである。 さらに聖教新聞を創刊し、生活にゆとりのある会員からは金を出させようと財務部も設立。仕上げは、学会を宗教法人にすることだった。しかし本来、学会は信者の団体にすぎない。日蓮正宗という宗教法人の下に、さらに創価学会という宗教法人を置くには無理がある。当時、日蓮正宗の宗門(僧侶の団体)も大反対したと、宗門関係者はいう。「かなり議論されました。そして一宗教二法人は認めないという決議を宗会でしたのです。学会員は宗会議員たちをつるし上げましたが、いつの間にか戸田さんは当時の法主日昇猊下(げいか)とのトップ会談でこれを認めさせるんです」 戸田が学会の未来をどう考えたかわからないが、すでにこの時点で、学会が日蓮正宗から離脱する種がまかれたといえる。 大蔵商事での活躍で戸田の信頼を得た池田は、昭和28年に男子部第一部隊長、29年に青年部参謀室長と駆け足で出世階段を昇っていく。ちなみに、青年部というのは戸田の親衛隊のような組織である。同時に「会長先生の耳目となる」(聖教新聞)情報部も設置され、池田は最高顧問を兼任。学会の情報網の中枢に立ったのである。しかし、学会内の席次は37位と、決して上位ではなかった。 事態が急転するのは昭和33年。戸田が58歳で急死したのだ。そしてこの2年後に、池田は若冠32歳で第三代会長に就任するのだが、居並ぶ先輩を押しのけて、なぜ会長になれたのか。なにしろ、池田は自ら「(私が折伏(しやくぶく)しても)だれも信心しないのですよ」と語るほど折伏がヘタなのである。学会内では致命傷のはずなのに、なぜか池田は戸田の死の翌年には理事に就任。同時に「理事室を代表して、事務局および各部を統括する」総務のトップにつき、あっという間に学会ナンバー2に駆け上がったのだ。 元学会幹部の一人は、「戸田先生亡き後、当時の学会幹部は、空中分解しかねない創価学会をどう支えるかで頭がいっぱいでしたが、池田だけが会長の座を狙っていたのです」という。しかし、戸田が作ったヒエラルキー型組織では、トップの交代が壮絶な権力闘争に変わることはよくあることだ。そのことに誰も気づかない中で、池田だけはそういう嗅覚を身につけていたということだろう。とはいえ、30歳そこそこで、どうやって会長の座を狙えたのか。「貧乏だった青年たちの面倒を見て、自分の基盤を学会内に作っていった」「当時貧乏だった青年たちの面倒を見て、自分の基盤を学会内に作っていった」と古参幹部は言う。大蔵商事で稼いだ金をふんだんに使ったのだろう。しかし、これだけでは無理である。さらに前出の原島昭は「私の父(原島宏治)を始めとした古参幹部が池田を支持したからです」と言った。 のちに公明党初代委員長になる原島宏治は、戦前から学会の中枢にいた人物で、温厚で実直な性格から、他の幹部たちも信頼を寄せていた。しかし、原島はなぜ19歳も年下の池田を支持したのか。昭は言う。「建設信用組合の破産で、戸田会長の責任を追及するグループがあらわれ、反学会組織ができました。その首謀者に母が紹介した人が何人かいたため、昭和27年に母が文京支部婦人部長を辞めさせられました。その翌年4月に池田は文京支部長代理になるのですが、役職を奪われて失意のどん底にいる母に和歌を贈るなどして懸命に慰めたのです。それ以来、私の両親は心底、池田を支持するようになりました」 戸田が亡くなった直後から、池田は足繁く原島と会い、やがて「誰が反対しても、私(原島)は池田を推薦すると言い出し、原島先生が言うならと、みんな池田を支持するようになった」と昭は言った。 もっとも、私には池田を会長に就かせたのは、彼の野望だけが理由ではなかったように思う。当時、戸田からの信頼も厚く次期会長と目された石田次男は、「誠実だが欲がなく、病弱だった」(古参幹部)といわれ、理事たちも不安を感じたはずだ。むしろ、戸田なき後の混乱する学会をまとめるために、強引な取り立てもやってのける池田の実行力に期待したのではないだろうか。池田は、なるべくして第三代会長になったのである。〈「ナンバー2を嫌って、人を育てなかった」池田大作氏が創価学会で“究極の権力構造”を作り上げるまで〉へ続く(「週刊文春」編集部/週刊文春 2010年12月2日号)
創立記念日とされる11月18日は、学会の初代会長・牧口常三郎が『創価教育学体系』を出版した日である。戦前の名称が『創価教育学会』だったことでもわかるように、宗教団体というより、会員を日蓮正宗の信者に限定した教育学の研究集団であった。この組織を資金的に援助したのが事業家で、のちに第二代会長になる戸田である。
戦時中、伊勢神宮の神札を祀るようにと強制されたが、牧口も戸田も拒否したために投獄され、牧口は獄死した。戦後、戸田は「創価学会」と名称をあらためる。資金繰りのために小さな出版社や小口金融をはじめるが、それほど信仰に熱心ではなかったらしく、会員も三千名程度だった。
学会では日蓮正宗の信仰を伝えるために少人数で語り合う場を「座談会」と呼ぶ。昭和22年8月、昭文堂という小さな印刷会社で働いていた19歳の池田は、同級生に連れられて東京・大田区の座談会に出席した。池田と学会の出会いだった。座談会に行った理由を池田は〈終戦の反動でなにかやりたいという気持ちがあって〉(『宗教と信仰の心理学』)とのちに語っている。学歴も金もなく、未来に希望を見出せない中で、自分の居場所を探していたのだろうか。
――池田は昭和3年、東京・大森の海苔業者の五男として生まれた。本名・太作(たさく)(のち大作に改名)。きょうだいは戦死した長男を含めて10名と子だくさんのうえ、父親の仕事は下請け程度だったから貧を極めた。池田の『私の履歴書』によれば、小学校2年のときに父がリウマチで寝たきりになり、生活はさらに困窮したという。彼が通った東京市萩中国民学校の卒業写真を見ると、子供たちの服装は詰め襟服と国民服の2種類に分かれている。同級生によれば「貧しい子は国民服しか着られなかった」という。もちろん池田は国民服だった。
池田は19歳で入信したものの、自らすすんでというわけではなかったようで、当時の不安な気持ちを、昭和30年頃にこう語っている。
〈前の信者さんたちが牢獄へいったということが気になりました。全部の宗教に反対するから必然的に弾圧される、その時はどうしようか、寝ても覚めても考え、やめるのは今のうちがよいと考えました〉(同前)
彼の入信は、この座談会で初恋の人と巡り会ったからとも言われる。相手は3歳下の三宅妙子だった。「日比谷の有楽座で一緒に映画を見たりした」という。その彼女に、当時池田はこんなラブレターを出していた。
「将来大物になりそうな雰囲気はまったくなかったなあ」「雁の便り頂き幾たび讀みくりかへした事でせう」で始まる手紙は、互いの若さを詩的な文章で讃えたあと、こう綴っている。「貴女と二人の間に永久に清らかに尊い結びの有る事を信じます。御本尊を頼り、ほかに眞実の心をふれ合せる事の出来る人を見出したことを感謝して居ります。“別れない! 誰が何んと云っても永久に別れない! 肉体だけは汽車や汽船で別れても、固くふれ合った生命を何んの力で分け得るか。眞の情愛は永久に別れない”と。徒爾(とじ)な考えを律してお互に勵し合って頑張りませう。親愛なる妙子さんへ大作」 二人の恋は成就しなかったが、彼女は今も池田をよく憶えているという。「映画を見に行ったときでした。『宇宙の星を宝石にして君にあげたい』なんて言われましてね。でも、あの人は私の手を握るくらいで、ほんとに純情でした。かと思うと、『いつか必ず指導者になってみせる』と大見得をきったり。アクが強いというか存在感があるというか、人を惹きつけるものは持っていましたね」 昭和24年、池田は三宅の母の紹介で、戸田が経営していた日本正学館という出版社に就職した。編集室は西神田の学会本部ビルにあった。池田の右腕といわれた原島宏治の息子で、元東洋哲学研究所研究員の原島昭によれば、「昼は日本正学館の編集部ですが、夜は創価学会の本部になった」という。 ジャーナリストの塩田丸男は、このビルの3階に間借りしていた『日本婦人新聞』で働いていたが、池田や戸田と1年半ほど交流があったと話す。「戸田さんは威張っていて付き合いが悪かったけど、池田は腰が低くてね。僕なんか、『大作、タバコ買ってこーい!』なんて言うと、素直に『ハイ!』って買いに行くんだ。気だてのいい青年だったが、将来大物になりそうな雰囲気はまったくなかったなあ」 やがて、戦前の大手出版社が復刊し始めると売れ行きがばったり止まり、たちまち日本正学館は破綻した。この時分、池田は学会に入ったことで親から勘当同然になり、アパート暮らしをはじめている。 戸田は、かねてから準備していた小口金融の東京建設信用購買利用組合(以下、建設信用組合)をつくり、池田ら日本正学館の社員を移転させた。ところが、庶民相手の金貸しはまたたく間に経営が行き詰まり、昭和25年に大蔵省から営業停止をくらう。戸田は組合法違反で逮捕されるのをおそれ、名を変えてひそかに姿をくらました。 人生最大のピンチに立ちながら、戸田はしたたかにも、のちに学会と両輪のように動くことになる大蔵商事と東洋精光という2つの会社を立ち上げている。大蔵商事は高利貸しのほかに、保険と不動産を扱い、東洋精光は大蔵商事の担保流れ品を処分する会社である。表に出られない戸田は、愛人を社長に据え、営業のすべてを池田に任せた。 大蔵商事は開業当初から大当たりした。池田は金融の世界が水にあったのか、一説には月20万円の収入があったという。現在の貨幣価値なら500万円弱になる。当然、そこには無理な取り立てもあったことは想像できる。「病人の布団をはいだ」式の噂もあったが、それを確認するため、池田と一緒に働いていた古参幹部を直撃した。「ダメ、ダメ」と逃げるその人物に、「池田は剛腕でしたか?」と問いを投げると、「だいたいのところは」と述べ、「(今まで言われていることで)合ってるんじゃないですか」と言った。作り上げられた「指導者への絶対服従のシステム」 が、池田もさすがに強引な取り立ては気が進まなかったのか、のちに、「大蔵商事では一番いやな仕事をした。どうしてこんないやな仕事をするのかと思った」(社長会記録)と語っている。当時の池田は、戸田の命令を忠実に実行する男だった。それにしても、この大蔵商事がなぜ学会と両輪のように動くのか。前出の原島昭が言う。「当時、市井から資金を調達すると月3分(年利36%)の利息でした。でも大蔵商事は、これは広宣流布のためだからといって、学会員から場合によっては月2分(年利24%)で集めたんです。これを月5分(年利60%)から7分(年利84%)で融資するのですから、学会員が増えれば増えるほど儲かるという仕組みになります」 実際、学会員が増えるにつれて大蔵商事の収益も大きくなり、戸田は営業全般を取り仕切る池田に一目置くようになる。池田が学会幹部で砂糖取引会社常務だった白木薫次の二女・白木かね(香峯子)と結婚したのはこの頃だ。 猛烈なインフレと大蔵商事のおかげで建設信用組合の負債を返済するめどが立った。さらに昭和26年には正式に法的制裁を免れ、戸田は再起を誓って学会の第二代会長に就任する。 まず学会の組織改革に手をつけた。宗教団体にはめずらしく、軍隊組織をまねて、戸田を頂点に、本部―部隊―隊―班と、命令系統を一本化し、指導者である戸田への絶対服従のシステムを作り上げたのである。 さらに聖教新聞を創刊し、生活にゆとりのある会員からは金を出させようと財務部も設立。仕上げは、学会を宗教法人にすることだった。しかし本来、学会は信者の団体にすぎない。日蓮正宗という宗教法人の下に、さらに創価学会という宗教法人を置くには無理がある。当時、日蓮正宗の宗門(僧侶の団体)も大反対したと、宗門関係者はいう。「かなり議論されました。そして一宗教二法人は認めないという決議を宗会でしたのです。学会員は宗会議員たちをつるし上げましたが、いつの間にか戸田さんは当時の法主日昇猊下(げいか)とのトップ会談でこれを認めさせるんです」 戸田が学会の未来をどう考えたかわからないが、すでにこの時点で、学会が日蓮正宗から離脱する種がまかれたといえる。 大蔵商事での活躍で戸田の信頼を得た池田は、昭和28年に男子部第一部隊長、29年に青年部参謀室長と駆け足で出世階段を昇っていく。ちなみに、青年部というのは戸田の親衛隊のような組織である。同時に「会長先生の耳目となる」(聖教新聞)情報部も設置され、池田は最高顧問を兼任。学会の情報網の中枢に立ったのである。しかし、学会内の席次は37位と、決して上位ではなかった。 事態が急転するのは昭和33年。戸田が58歳で急死したのだ。そしてこの2年後に、池田は若冠32歳で第三代会長に就任するのだが、居並ぶ先輩を押しのけて、なぜ会長になれたのか。なにしろ、池田は自ら「(私が折伏(しやくぶく)しても)だれも信心しないのですよ」と語るほど折伏がヘタなのである。学会内では致命傷のはずなのに、なぜか池田は戸田の死の翌年には理事に就任。同時に「理事室を代表して、事務局および各部を統括する」総務のトップにつき、あっという間に学会ナンバー2に駆け上がったのだ。 元学会幹部の一人は、「戸田先生亡き後、当時の学会幹部は、空中分解しかねない創価学会をどう支えるかで頭がいっぱいでしたが、池田だけが会長の座を狙っていたのです」という。しかし、戸田が作ったヒエラルキー型組織では、トップの交代が壮絶な権力闘争に変わることはよくあることだ。そのことに誰も気づかない中で、池田だけはそういう嗅覚を身につけていたということだろう。とはいえ、30歳そこそこで、どうやって会長の座を狙えたのか。「貧乏だった青年たちの面倒を見て、自分の基盤を学会内に作っていった」「当時貧乏だった青年たちの面倒を見て、自分の基盤を学会内に作っていった」と古参幹部は言う。大蔵商事で稼いだ金をふんだんに使ったのだろう。しかし、これだけでは無理である。さらに前出の原島昭は「私の父(原島宏治)を始めとした古参幹部が池田を支持したからです」と言った。 のちに公明党初代委員長になる原島宏治は、戦前から学会の中枢にいた人物で、温厚で実直な性格から、他の幹部たちも信頼を寄せていた。しかし、原島はなぜ19歳も年下の池田を支持したのか。昭は言う。「建設信用組合の破産で、戸田会長の責任を追及するグループがあらわれ、反学会組織ができました。その首謀者に母が紹介した人が何人かいたため、昭和27年に母が文京支部婦人部長を辞めさせられました。その翌年4月に池田は文京支部長代理になるのですが、役職を奪われて失意のどん底にいる母に和歌を贈るなどして懸命に慰めたのです。それ以来、私の両親は心底、池田を支持するようになりました」 戸田が亡くなった直後から、池田は足繁く原島と会い、やがて「誰が反対しても、私(原島)は池田を推薦すると言い出し、原島先生が言うならと、みんな池田を支持するようになった」と昭は言った。 もっとも、私には池田を会長に就かせたのは、彼の野望だけが理由ではなかったように思う。当時、戸田からの信頼も厚く次期会長と目された石田次男は、「誠実だが欲がなく、病弱だった」(古参幹部)といわれ、理事たちも不安を感じたはずだ。むしろ、戸田なき後の混乱する学会をまとめるために、強引な取り立てもやってのける池田の実行力に期待したのではないだろうか。池田は、なるべくして第三代会長になったのである。〈「ナンバー2を嫌って、人を育てなかった」池田大作氏が創価学会で“究極の権力構造”を作り上げるまで〉へ続く(「週刊文春」編集部/週刊文春 2010年12月2日号)
「雁の便り頂き幾たび讀みくりかへした事でせう」で始まる手紙は、互いの若さを詩的な文章で讃えたあと、こう綴っている。
「貴女と二人の間に永久に清らかに尊い結びの有る事を信じます。御本尊を頼り、ほかに眞実の心をふれ合せる事の出来る人を見出したことを感謝して居ります。
“別れない! 誰が何んと云っても永久に別れない! 肉体だけは汽車や汽船で別れても、固くふれ合った生命を何んの力で分け得るか。眞の情愛は永久に別れない”と。徒爾(とじ)な考えを律してお互に勵し合って頑張りませう。
親愛なる妙子さんへ
大作」
二人の恋は成就しなかったが、彼女は今も池田をよく憶えているという。「映画を見に行ったときでした。『宇宙の星を宝石にして君にあげたい』なんて言われましてね。でも、あの人は私の手を握るくらいで、ほんとに純情でした。かと思うと、『いつか必ず指導者になってみせる』と大見得をきったり。アクが強いというか存在感があるというか、人を惹きつけるものは持っていましたね」 昭和24年、池田は三宅の母の紹介で、戸田が経営していた日本正学館という出版社に就職した。編集室は西神田の学会本部ビルにあった。池田の右腕といわれた原島宏治の息子で、元東洋哲学研究所研究員の原島昭によれば、「昼は日本正学館の編集部ですが、夜は創価学会の本部になった」という。 ジャーナリストの塩田丸男は、このビルの3階に間借りしていた『日本婦人新聞』で働いていたが、池田や戸田と1年半ほど交流があったと話す。「戸田さんは威張っていて付き合いが悪かったけど、池田は腰が低くてね。僕なんか、『大作、タバコ買ってこーい!』なんて言うと、素直に『ハイ!』って買いに行くんだ。気だてのいい青年だったが、将来大物になりそうな雰囲気はまったくなかったなあ」 やがて、戦前の大手出版社が復刊し始めると売れ行きがばったり止まり、たちまち日本正学館は破綻した。この時分、池田は学会に入ったことで親から勘当同然になり、アパート暮らしをはじめている。 戸田は、かねてから準備していた小口金融の東京建設信用購買利用組合(以下、建設信用組合)をつくり、池田ら日本正学館の社員を移転させた。ところが、庶民相手の金貸しはまたたく間に経営が行き詰まり、昭和25年に大蔵省から営業停止をくらう。戸田は組合法違反で逮捕されるのをおそれ、名を変えてひそかに姿をくらました。 人生最大のピンチに立ちながら、戸田はしたたかにも、のちに学会と両輪のように動くことになる大蔵商事と東洋精光という2つの会社を立ち上げている。大蔵商事は高利貸しのほかに、保険と不動産を扱い、東洋精光は大蔵商事の担保流れ品を処分する会社である。表に出られない戸田は、愛人を社長に据え、営業のすべてを池田に任せた。 大蔵商事は開業当初から大当たりした。池田は金融の世界が水にあったのか、一説には月20万円の収入があったという。現在の貨幣価値なら500万円弱になる。当然、そこには無理な取り立てもあったことは想像できる。「病人の布団をはいだ」式の噂もあったが、それを確認するため、池田と一緒に働いていた古参幹部を直撃した。「ダメ、ダメ」と逃げるその人物に、「池田は剛腕でしたか?」と問いを投げると、「だいたいのところは」と述べ、「(今まで言われていることで)合ってるんじゃないですか」と言った。作り上げられた「指導者への絶対服従のシステム」 が、池田もさすがに強引な取り立ては気が進まなかったのか、のちに、「大蔵商事では一番いやな仕事をした。どうしてこんないやな仕事をするのかと思った」(社長会記録)と語っている。当時の池田は、戸田の命令を忠実に実行する男だった。それにしても、この大蔵商事がなぜ学会と両輪のように動くのか。前出の原島昭が言う。「当時、市井から資金を調達すると月3分(年利36%)の利息でした。でも大蔵商事は、これは広宣流布のためだからといって、学会員から場合によっては月2分(年利24%)で集めたんです。これを月5分(年利60%)から7分(年利84%)で融資するのですから、学会員が増えれば増えるほど儲かるという仕組みになります」 実際、学会員が増えるにつれて大蔵商事の収益も大きくなり、戸田は営業全般を取り仕切る池田に一目置くようになる。池田が学会幹部で砂糖取引会社常務だった白木薫次の二女・白木かね(香峯子)と結婚したのはこの頃だ。 猛烈なインフレと大蔵商事のおかげで建設信用組合の負債を返済するめどが立った。さらに昭和26年には正式に法的制裁を免れ、戸田は再起を誓って学会の第二代会長に就任する。 まず学会の組織改革に手をつけた。宗教団体にはめずらしく、軍隊組織をまねて、戸田を頂点に、本部―部隊―隊―班と、命令系統を一本化し、指導者である戸田への絶対服従のシステムを作り上げたのである。 さらに聖教新聞を創刊し、生活にゆとりのある会員からは金を出させようと財務部も設立。仕上げは、学会を宗教法人にすることだった。しかし本来、学会は信者の団体にすぎない。日蓮正宗という宗教法人の下に、さらに創価学会という宗教法人を置くには無理がある。当時、日蓮正宗の宗門(僧侶の団体)も大反対したと、宗門関係者はいう。「かなり議論されました。そして一宗教二法人は認めないという決議を宗会でしたのです。学会員は宗会議員たちをつるし上げましたが、いつの間にか戸田さんは当時の法主日昇猊下(げいか)とのトップ会談でこれを認めさせるんです」 戸田が学会の未来をどう考えたかわからないが、すでにこの時点で、学会が日蓮正宗から離脱する種がまかれたといえる。 大蔵商事での活躍で戸田の信頼を得た池田は、昭和28年に男子部第一部隊長、29年に青年部参謀室長と駆け足で出世階段を昇っていく。ちなみに、青年部というのは戸田の親衛隊のような組織である。同時に「会長先生の耳目となる」(聖教新聞)情報部も設置され、池田は最高顧問を兼任。学会の情報網の中枢に立ったのである。しかし、学会内の席次は37位と、決して上位ではなかった。 事態が急転するのは昭和33年。戸田が58歳で急死したのだ。そしてこの2年後に、池田は若冠32歳で第三代会長に就任するのだが、居並ぶ先輩を押しのけて、なぜ会長になれたのか。なにしろ、池田は自ら「(私が折伏(しやくぶく)しても)だれも信心しないのですよ」と語るほど折伏がヘタなのである。学会内では致命傷のはずなのに、なぜか池田は戸田の死の翌年には理事に就任。同時に「理事室を代表して、事務局および各部を統括する」総務のトップにつき、あっという間に学会ナンバー2に駆け上がったのだ。 元学会幹部の一人は、「戸田先生亡き後、当時の学会幹部は、空中分解しかねない創価学会をどう支えるかで頭がいっぱいでしたが、池田だけが会長の座を狙っていたのです」という。しかし、戸田が作ったヒエラルキー型組織では、トップの交代が壮絶な権力闘争に変わることはよくあることだ。そのことに誰も気づかない中で、池田だけはそういう嗅覚を身につけていたということだろう。とはいえ、30歳そこそこで、どうやって会長の座を狙えたのか。「貧乏だった青年たちの面倒を見て、自分の基盤を学会内に作っていった」「当時貧乏だった青年たちの面倒を見て、自分の基盤を学会内に作っていった」と古参幹部は言う。大蔵商事で稼いだ金をふんだんに使ったのだろう。しかし、これだけでは無理である。さらに前出の原島昭は「私の父(原島宏治)を始めとした古参幹部が池田を支持したからです」と言った。 のちに公明党初代委員長になる原島宏治は、戦前から学会の中枢にいた人物で、温厚で実直な性格から、他の幹部たちも信頼を寄せていた。しかし、原島はなぜ19歳も年下の池田を支持したのか。昭は言う。「建設信用組合の破産で、戸田会長の責任を追及するグループがあらわれ、反学会組織ができました。その首謀者に母が紹介した人が何人かいたため、昭和27年に母が文京支部婦人部長を辞めさせられました。その翌年4月に池田は文京支部長代理になるのですが、役職を奪われて失意のどん底にいる母に和歌を贈るなどして懸命に慰めたのです。それ以来、私の両親は心底、池田を支持するようになりました」 戸田が亡くなった直後から、池田は足繁く原島と会い、やがて「誰が反対しても、私(原島)は池田を推薦すると言い出し、原島先生が言うならと、みんな池田を支持するようになった」と昭は言った。 もっとも、私には池田を会長に就かせたのは、彼の野望だけが理由ではなかったように思う。当時、戸田からの信頼も厚く次期会長と目された石田次男は、「誠実だが欲がなく、病弱だった」(古参幹部)といわれ、理事たちも不安を感じたはずだ。むしろ、戸田なき後の混乱する学会をまとめるために、強引な取り立てもやってのける池田の実行力に期待したのではないだろうか。池田は、なるべくして第三代会長になったのである。〈「ナンバー2を嫌って、人を育てなかった」池田大作氏が創価学会で“究極の権力構造”を作り上げるまで〉へ続く(「週刊文春」編集部/週刊文春 2010年12月2日号)
二人の恋は成就しなかったが、彼女は今も池田をよく憶えているという。
「映画を見に行ったときでした。『宇宙の星を宝石にして君にあげたい』なんて言われましてね。でも、あの人は私の手を握るくらいで、ほんとに純情でした。かと思うと、『いつか必ず指導者になってみせる』と大見得をきったり。アクが強いというか存在感があるというか、人を惹きつけるものは持っていましたね」
昭和24年、池田は三宅の母の紹介で、戸田が経営していた日本正学館という出版社に就職した。編集室は西神田の学会本部ビルにあった。池田の右腕といわれた原島宏治の息子で、元東洋哲学研究所研究員の原島昭によれば、「昼は日本正学館の編集部ですが、夜は創価学会の本部になった」という。
ジャーナリストの塩田丸男は、このビルの3階に間借りしていた『日本婦人新聞』で働いていたが、池田や戸田と1年半ほど交流があったと話す。
「戸田さんは威張っていて付き合いが悪かったけど、池田は腰が低くてね。僕なんか、『大作、タバコ買ってこーい!』なんて言うと、素直に『ハイ!』って買いに行くんだ。気だてのいい青年だったが、将来大物になりそうな雰囲気はまったくなかったなあ」
やがて、戦前の大手出版社が復刊し始めると売れ行きがばったり止まり、たちまち日本正学館は破綻した。この時分、池田は学会に入ったことで親から勘当同然になり、アパート暮らしをはじめている。
戸田は、かねてから準備していた小口金融の東京建設信用購買利用組合(以下、建設信用組合)をつくり、池田ら日本正学館の社員を移転させた。ところが、庶民相手の金貸しはまたたく間に経営が行き詰まり、昭和25年に大蔵省から営業停止をくらう。戸田は組合法違反で逮捕されるのをおそれ、名を変えてひそかに姿をくらました。
人生最大のピンチに立ちながら、戸田はしたたかにも、のちに学会と両輪のように動くことになる大蔵商事と東洋精光という2つの会社を立ち上げている。大蔵商事は高利貸しのほかに、保険と不動産を扱い、東洋精光は大蔵商事の担保流れ品を処分する会社である。表に出られない戸田は、愛人を社長に据え、営業のすべてを池田に任せた。
大蔵商事は開業当初から大当たりした。池田は金融の世界が水にあったのか、一説には月20万円の収入があったという。現在の貨幣価値なら500万円弱になる。当然、そこには無理な取り立てもあったことは想像できる。「病人の布団をはいだ」式の噂もあったが、それを確認するため、池田と一緒に働いていた古参幹部を直撃した。「ダメ、ダメ」と逃げるその人物に、「池田は剛腕でしたか?」と問いを投げると、「だいたいのところは」と述べ、「(今まで言われていることで)合ってるんじゃないですか」と言った。作り上げられた「指導者への絶対服従のシステム」 が、池田もさすがに強引な取り立ては気が進まなかったのか、のちに、「大蔵商事では一番いやな仕事をした。どうしてこんないやな仕事をするのかと思った」(社長会記録)と語っている。当時の池田は、戸田の命令を忠実に実行する男だった。それにしても、この大蔵商事がなぜ学会と両輪のように動くのか。前出の原島昭が言う。「当時、市井から資金を調達すると月3分(年利36%)の利息でした。でも大蔵商事は、これは広宣流布のためだからといって、学会員から場合によっては月2分(年利24%)で集めたんです。これを月5分(年利60%)から7分(年利84%)で融資するのですから、学会員が増えれば増えるほど儲かるという仕組みになります」 実際、学会員が増えるにつれて大蔵商事の収益も大きくなり、戸田は営業全般を取り仕切る池田に一目置くようになる。池田が学会幹部で砂糖取引会社常務だった白木薫次の二女・白木かね(香峯子)と結婚したのはこの頃だ。 猛烈なインフレと大蔵商事のおかげで建設信用組合の負債を返済するめどが立った。さらに昭和26年には正式に法的制裁を免れ、戸田は再起を誓って学会の第二代会長に就任する。 まず学会の組織改革に手をつけた。宗教団体にはめずらしく、軍隊組織をまねて、戸田を頂点に、本部―部隊―隊―班と、命令系統を一本化し、指導者である戸田への絶対服従のシステムを作り上げたのである。 さらに聖教新聞を創刊し、生活にゆとりのある会員からは金を出させようと財務部も設立。仕上げは、学会を宗教法人にすることだった。しかし本来、学会は信者の団体にすぎない。日蓮正宗という宗教法人の下に、さらに創価学会という宗教法人を置くには無理がある。当時、日蓮正宗の宗門(僧侶の団体)も大反対したと、宗門関係者はいう。「かなり議論されました。そして一宗教二法人は認めないという決議を宗会でしたのです。学会員は宗会議員たちをつるし上げましたが、いつの間にか戸田さんは当時の法主日昇猊下(げいか)とのトップ会談でこれを認めさせるんです」 戸田が学会の未来をどう考えたかわからないが、すでにこの時点で、学会が日蓮正宗から離脱する種がまかれたといえる。 大蔵商事での活躍で戸田の信頼を得た池田は、昭和28年に男子部第一部隊長、29年に青年部参謀室長と駆け足で出世階段を昇っていく。ちなみに、青年部というのは戸田の親衛隊のような組織である。同時に「会長先生の耳目となる」(聖教新聞)情報部も設置され、池田は最高顧問を兼任。学会の情報網の中枢に立ったのである。しかし、学会内の席次は37位と、決して上位ではなかった。 事態が急転するのは昭和33年。戸田が58歳で急死したのだ。そしてこの2年後に、池田は若冠32歳で第三代会長に就任するのだが、居並ぶ先輩を押しのけて、なぜ会長になれたのか。なにしろ、池田は自ら「(私が折伏(しやくぶく)しても)だれも信心しないのですよ」と語るほど折伏がヘタなのである。学会内では致命傷のはずなのに、なぜか池田は戸田の死の翌年には理事に就任。同時に「理事室を代表して、事務局および各部を統括する」総務のトップにつき、あっという間に学会ナンバー2に駆け上がったのだ。 元学会幹部の一人は、「戸田先生亡き後、当時の学会幹部は、空中分解しかねない創価学会をどう支えるかで頭がいっぱいでしたが、池田だけが会長の座を狙っていたのです」という。しかし、戸田が作ったヒエラルキー型組織では、トップの交代が壮絶な権力闘争に変わることはよくあることだ。そのことに誰も気づかない中で、池田だけはそういう嗅覚を身につけていたということだろう。とはいえ、30歳そこそこで、どうやって会長の座を狙えたのか。「貧乏だった青年たちの面倒を見て、自分の基盤を学会内に作っていった」「当時貧乏だった青年たちの面倒を見て、自分の基盤を学会内に作っていった」と古参幹部は言う。大蔵商事で稼いだ金をふんだんに使ったのだろう。しかし、これだけでは無理である。さらに前出の原島昭は「私の父(原島宏治)を始めとした古参幹部が池田を支持したからです」と言った。 のちに公明党初代委員長になる原島宏治は、戦前から学会の中枢にいた人物で、温厚で実直な性格から、他の幹部たちも信頼を寄せていた。しかし、原島はなぜ19歳も年下の池田を支持したのか。昭は言う。「建設信用組合の破産で、戸田会長の責任を追及するグループがあらわれ、反学会組織ができました。その首謀者に母が紹介した人が何人かいたため、昭和27年に母が文京支部婦人部長を辞めさせられました。その翌年4月に池田は文京支部長代理になるのですが、役職を奪われて失意のどん底にいる母に和歌を贈るなどして懸命に慰めたのです。それ以来、私の両親は心底、池田を支持するようになりました」 戸田が亡くなった直後から、池田は足繁く原島と会い、やがて「誰が反対しても、私(原島)は池田を推薦すると言い出し、原島先生が言うならと、みんな池田を支持するようになった」と昭は言った。 もっとも、私には池田を会長に就かせたのは、彼の野望だけが理由ではなかったように思う。当時、戸田からの信頼も厚く次期会長と目された石田次男は、「誠実だが欲がなく、病弱だった」(古参幹部)といわれ、理事たちも不安を感じたはずだ。むしろ、戸田なき後の混乱する学会をまとめるために、強引な取り立てもやってのける池田の実行力に期待したのではないだろうか。池田は、なるべくして第三代会長になったのである。〈「ナンバー2を嫌って、人を育てなかった」池田大作氏が創価学会で“究極の権力構造”を作り上げるまで〉へ続く(「週刊文春」編集部/週刊文春 2010年12月2日号)
大蔵商事は開業当初から大当たりした。池田は金融の世界が水にあったのか、一説には月20万円の収入があったという。現在の貨幣価値なら500万円弱になる。当然、そこには無理な取り立てもあったことは想像できる。「病人の布団をはいだ」式の噂もあったが、それを確認するため、池田と一緒に働いていた古参幹部を直撃した。
「ダメ、ダメ」と逃げるその人物に、「池田は剛腕でしたか?」と問いを投げると、「だいたいのところは」と述べ、「(今まで言われていることで)合ってるんじゃないですか」と言った。
が、池田もさすがに強引な取り立ては気が進まなかったのか、のちに、「大蔵商事では一番いやな仕事をした。どうしてこんないやな仕事をするのかと思った」(社長会記録)と語っている。当時の池田は、戸田の命令を忠実に実行する男だった。それにしても、この大蔵商事がなぜ学会と両輪のように動くのか。前出の原島昭が言う。
「当時、市井から資金を調達すると月3分(年利36%)の利息でした。でも大蔵商事は、これは広宣流布のためだからといって、学会員から場合によっては月2分(年利24%)で集めたんです。これを月5分(年利60%)から7分(年利84%)で融資するのですから、学会員が増えれば増えるほど儲かるという仕組みになります」
実際、学会員が増えるにつれて大蔵商事の収益も大きくなり、戸田は営業全般を取り仕切る池田に一目置くようになる。池田が学会幹部で砂糖取引会社常務だった白木薫次の二女・白木かね(香峯子)と結婚したのはこの頃だ。
猛烈なインフレと大蔵商事のおかげで建設信用組合の負債を返済するめどが立った。さらに昭和26年には正式に法的制裁を免れ、戸田は再起を誓って学会の第二代会長に就任する。
まず学会の組織改革に手をつけた。宗教団体にはめずらしく、軍隊組織をまねて、戸田を頂点に、本部―部隊―隊―班と、命令系統を一本化し、指導者である戸田への絶対服従のシステムを作り上げたのである。
さらに聖教新聞を創刊し、生活にゆとりのある会員からは金を出させようと財務部も設立。仕上げは、学会を宗教法人にすることだった。しかし本来、学会は信者の団体にすぎない。日蓮正宗という宗教法人の下に、さらに創価学会という宗教法人を置くには無理がある。当時、日蓮正宗の宗門(僧侶の団体)も大反対したと、宗門関係者はいう。
「かなり議論されました。そして一宗教二法人は認めないという決議を宗会でしたのです。学会員は宗会議員たちをつるし上げましたが、いつの間にか戸田さんは当時の法主日昇猊下(げいか)とのトップ会談でこれを認めさせるんです」
戸田が学会の未来をどう考えたかわからないが、すでにこの時点で、学会が日蓮正宗から離脱する種がまかれたといえる。
大蔵商事での活躍で戸田の信頼を得た池田は、昭和28年に男子部第一部隊長、29年に青年部参謀室長と駆け足で出世階段を昇っていく。ちなみに、青年部というのは戸田の親衛隊のような組織である。同時に「会長先生の耳目となる」(聖教新聞)情報部も設置され、池田は最高顧問を兼任。学会の情報網の中枢に立ったのである。しかし、学会内の席次は37位と、決して上位ではなかった。
事態が急転するのは昭和33年。戸田が58歳で急死したのだ。そしてこの2年後に、池田は若冠32歳で第三代会長に就任するのだが、居並ぶ先輩を押しのけて、なぜ会長になれたのか。なにしろ、池田は自ら「(私が折伏(しやくぶく)しても)だれも信心しないのですよ」と語るほど折伏がヘタなのである。学会内では致命傷のはずなのに、なぜか池田は戸田の死の翌年には理事に就任。同時に「理事室を代表して、事務局および各部を統括する」総務のトップにつき、あっという間に学会ナンバー2に駆け上がったのだ。
元学会幹部の一人は、「戸田先生亡き後、当時の学会幹部は、空中分解しかねない創価学会をどう支えるかで頭がいっぱいでしたが、池田だけが会長の座を狙っていたのです」という。しかし、戸田が作ったヒエラルキー型組織では、トップの交代が壮絶な権力闘争に変わることはよくあることだ。そのことに誰も気づかない中で、池田だけはそういう嗅覚を身につけていたということだろう。とはいえ、30歳そこそこで、どうやって会長の座を狙えたのか。
「当時貧乏だった青年たちの面倒を見て、自分の基盤を学会内に作っていった」と古参幹部は言う。大蔵商事で稼いだ金をふんだんに使ったのだろう。しかし、これだけでは無理である。さらに前出の原島昭は「私の父(原島宏治)を始めとした古参幹部が池田を支持したからです」と言った。
のちに公明党初代委員長になる原島宏治は、戦前から学会の中枢にいた人物で、温厚で実直な性格から、他の幹部たちも信頼を寄せていた。しかし、原島はなぜ19歳も年下の池田を支持したのか。昭は言う。
「建設信用組合の破産で、戸田会長の責任を追及するグループがあらわれ、反学会組織ができました。その首謀者に母が紹介した人が何人かいたため、昭和27年に母が文京支部婦人部長を辞めさせられました。その翌年4月に池田は文京支部長代理になるのですが、役職を奪われて失意のどん底にいる母に和歌を贈るなどして懸命に慰めたのです。それ以来、私の両親は心底、池田を支持するようになりました」
戸田が亡くなった直後から、池田は足繁く原島と会い、やがて「誰が反対しても、私(原島)は池田を推薦すると言い出し、原島先生が言うならと、みんな池田を支持するようになった」と昭は言った。 もっとも、私には池田を会長に就かせたのは、彼の野望だけが理由ではなかったように思う。当時、戸田からの信頼も厚く次期会長と目された石田次男は、「誠実だが欲がなく、病弱だった」(古参幹部)といわれ、理事たちも不安を感じたはずだ。むしろ、戸田なき後の混乱する学会をまとめるために、強引な取り立てもやってのける池田の実行力に期待したのではないだろうか。池田は、なるべくして第三代会長になったのである。〈「ナンバー2を嫌って、人を育てなかった」池田大作氏が創価学会で“究極の権力構造”を作り上げるまで〉へ続く(「週刊文春」編集部/週刊文春 2010年12月2日号)
戸田が亡くなった直後から、池田は足繁く原島と会い、やがて「誰が反対しても、私(原島)は池田を推薦すると言い出し、原島先生が言うならと、みんな池田を支持するようになった」と昭は言った。
もっとも、私には池田を会長に就かせたのは、彼の野望だけが理由ではなかったように思う。当時、戸田からの信頼も厚く次期会長と目された石田次男は、「誠実だが欲がなく、病弱だった」(古参幹部)といわれ、理事たちも不安を感じたはずだ。むしろ、戸田なき後の混乱する学会をまとめるために、強引な取り立てもやってのける池田の実行力に期待したのではないだろうか。池田は、なるべくして第三代会長になったのである。
〈「ナンバー2を嫌って、人を育てなかった」池田大作氏が創価学会で“究極の権力構造”を作り上げるまで〉へ続く
(「週刊文春」編集部/週刊文春 2010年12月2日号)