―[家族に蝕まれる!]―
毒親育ちは、人生の足枷になる。毒親に育てられた子どもは、およそ“子ども”と呼べる年齢を過ぎてなお、精神的に支配され、懊悩を続けるからだ。 本連載では、毒親に育てられながらも、社会で自分の場所を見つけようともがく市井の人々に焦点を当てる。
研修講師や司会者(MC)として一流ホテルや有名企業で活躍する槇原浩子氏(仮名・50代)は、親の呪詛を断ち切って20年以上が経つものの、当時を「絶対にこの家庭から逃げ出したいと思って生きてきた」と振り返る。
◆“厳格なエリート”の元で育てられる
「育った家庭は裕福だったと思います。はたから見れば品のいい家族に見えたでしょう。父は国家公務員として勤務しており、いわゆるエリートだったのではないでしょうか。とある省庁の局長をしていました。なんでも理詰めで処理する人で、『お前がその行為を行った理由を述べよ』というような責め方をしてくる人でした。
母は自分の認めた厳格な範囲しか“世界”とみなさないような人で、彼女の口から『こういう考え方もあるね』という協調的な言葉を聞いたことは一度もありません。彼女の考え方はまるで無菌室のようで、特にいろんな方面に惹かれがちな思春期の好奇心を理解せず、仕方なく母の考えに同意したふりをしている私を“本当の私”だと思いこんでいるようでした」
長女として両親の期待を背負った槇原氏は、誰もが知る名門高校に合格した。都会的で明るく、柔軟な考え方ができ、おしゃれな同級生たち。知性的で華のある顔立ちの槇原氏だが、同級生に対しては「住む世界が違いすぎて、常に引け目があった」と話す。
◆何に喜んで、何に怒るかさえわからなくなった
「『毒親』なんて言葉ができる数十年前のことですし、中学生くらいの私は何が辛いのかさえわからず毎日泣いていました。一度、中学校の先生に自分の辛さを打ち明ける手紙を書いたのですが、母に見られてしまい、『そんな悩みがあると知れたら、お前がおかしな人間だと思われるよ。目の動き1つでお前の考えてることなんかわかるんだから』と逃げ場を塞がれ、諦めました。
高校生になってからも、同級生は『クリスマスパーティやろう!』『行くー!』みたいな自由なノリですが、私は親の顔色を見てからでないと決定なんてできません。この頃には思考回路もややおかしくなっていて、たとえば何か出来事があったときに『普通の女の子ならどう考えるかな?』と逡巡してからリアクションをするようになっていました。
もはや自分が何に喜んで、何に怒るかさえわからなくなっていたのです。この考え方は社会人になってからもしばらく続き、『普通の人は休みの日何をするんだろう? 映画かな』という順路を経て映画館へ出掛けていました。自分が何を観たいのかわからないのに、です。
大学生になっても、男友達と外で数時間お茶をするなどの行為は、母の理解の外です。『婚約者でもない人間とそんなことをするなんて、頭おかしいんじゃないの?』と言われたこともあります。そして、その話題を1週間くらいずっと引きずります」
◆ついに両親と縁を切ることに…
婚約者と聞いて思い出すエピソードこそ、槇原氏の両親を語るうえで最も象徴的だ。
「婚約者を連れて挨拶に行ったときの話です。その日は婚約者も両親も趣味の話で盛り上がり、打ち解けた様子でした。婚約者もホッとした様子で『聞いて想像していたご両親よりも穏やかだった』と話していましたが、私は内心不安でしかありませんでした。

◆「選民意識」が根底にあった?
槇原氏は、この両親の暴挙について一つの仮説を立てている。
「国家公務員であることが誇りでしたから、官が上で民が下であるというある種の選民意識があったと思います。両親の思い描いていたストーリーとしては、『それでも娘さんをください』と頭を下げに来るはずだったのではないでしょうか。とにかくプライドが高く、他者を尊重できないところがありました」
それはこんな場面にも見受けられる。
「両親と買い物に行った際、会社の同期とその家族に出くわしました。私の両親は離れたところにいたので、呼びに行って挨拶しようと持ちかけると、『いや、どうして私たちが行かなければならないの? あちら様が来なさい』と。私は情けなくなって、同期には『ごめん、見失っちゃった』と嘘をついてその場をやり過ごしました」
◆小学校3年生の頃に「苦しみの原体験」が
苦しみの原体験は何か。その答えと向き合うために、槇原氏はゲシュタルト療法で用いられる“エンプティチェア”の技法を使ったことがある。同技法は、空の椅子を向かい合わせにして片方に自分が座り、対面する椅子に思いを伝えたい誰かが座っていると仮定して感情を吐露するというものだ。
「自分でも意識しなかったのですが、小学校3年生の頃の私が立ち現れました。当時、ちょうど東京都へ転居してきたばかりで、母はもっと遊びたい私をピアノに連れて行くためにすごい形相で睨んでいたのを思い出しました。私が近所で遊ぶのを快く思っていないところがあって、『その辺の長屋の子どもじゃあるまいし』と言われて育ちました。環境がガラッと変わるなかで、母も辛かったとは思いますが、私はただうつむいて耐えるしかなかったんですね」
◆人前で話す職業に就いたのは「過去の精算」
槇原氏は親との関係性が与えた自身の生き方について、こんなふうな見解を示す。
「私は親から愛情が欲しくて、親は親なりの愛情をくれていたのかもしれないけれど、それは私が欲しいものではありませんでした。『私の思いは親に伝わらない』という原点をはっきりと自覚しました。伝わらない、一方通行の愛情は、永遠の片思いです。
そのぶん、本来幼い頃に親からもらわなければいけなかった愛情や優しさの空席を、歌や書籍などの文化芸術で補ってきました。
私が人前で話す職業に就いたのは、“人に思いが伝わる”ことの魅力、その一点にあります。家族のなかで本音を話せず、自分の思いを打ち明けられなかった過去の精算なのかもしれません」
しゃべりを生業とする研磨された声が耳の奥に響く。槇原氏がその澄み切った発声を獲得するまでの道程に思いを馳せると、うまく感情を伝えきらないもどかしさに頬を歪ませる小学生の頃の氏が浮かぶようで、歯がゆい。
<取材・文/黒島暁生>
―[家族に蝕まれる!]―