55年前、「黒い赤ちゃん」と言われる子供たちが生まれ、世間を震撼させた食中毒「カネミ油症事件」。今、被害者の子供や孫に、影響が続いているのではないかという訴えが相次いでいます。そんな中、国が着手した調査が示すものとは?
【写真を見る】“黒い赤ちゃん”その後も・・・カネミ油症、次世代が訴える症状【報道特集】「熱くなって膿が出てくる」カネミ油症、次世代が訴える症状長崎県諫早市に住む下田順子さん(62)。55年前に発覚した“食中毒”で今も、強い倦怠感や頭痛、耳鳴りなどに苦しんでいる。天ぷら、唐揚げ、ドーナツなど母親が、愛情を込めて作った手料理から、当時の家族5人全員が猛毒を摂取した。

カネミ油症認定患者 下田順子さん「中学校2年生位じゃないかな…認定された頃。もう、化け物みたいだって言われたんですよ。だっていつもこんな顔してましたもん」小学生になったばかりの6歳の頃、急に鼻血が止まらなくなり、頭痛や腹痛、倦怠感で起き上がれなくなった。痛くて臭い吹き出物が全身にでき、壮絶ないじめにあった。原因は“体にいい”と言われて売られていた『食用油』だった。下田順子さん「“健康にいい”というのが、どこが健康なの?って、(母親に)言いました。こんな体にされてどこが“健康”なの?って。そしたらその時に母親が『こんな毒の入ってる油と分かっていれば誰が買うもんね』って『母ちゃんだって分かってたら買わなかったよ』って言ったんですね」1968年(昭和43年)に発覚した「カネミ油症事件」。北九州市のカネミ倉庫で、製品の「米ぬか油」を温めるため、らせん状のパイプの中を循環させていた化学物質「PCB」が漏れ出て起きた食中毒だ。24都府県の1万4千人余りが猛烈な吹き出物や、立っていられない程の目まい、吐き気などの症状で被害を届け出た。さらに、「黒い赤ちゃん」と呼ばれた子供が生まれ、胎児にまで及ぶ影響が、被害者を追い詰めた。「時間がたてば毒は抜ける」と思われていたが、21年後に生まれた娘の肌は、黒ずんでいた。下田順子さん「浅黒かった。ちょっとだけですよね。『あー、この子やっぱり違う…でも、それは思っちゃいけない』って思ってたんですけども、でも退院してきて母から言われたのがそれだったんですよ、まず。『肌の色が、ちょっと違うよね』って」1989年生まれの長女・恵さん(34)。小さい時から、ひどい頭痛や鼻血、皮膚疾患が続いている。できものは、体のいたるところに現れる。長女・恵さん「肩が多いんですかね…肩とお尻。かっかかっか…熱くなって膿が出てくる。鼻血はひどいですね、鼻血はいまでも。寝てても次の日起きたら枕が真っ赤になってたりとか。カネミ油症の実態を知らないので、それが自分の症状に結びつくのは分からなかった」“夢の化合物”が引き起こした悪夢、医師「油症には治療法がない」油に混入した化学物質「PCB」。それは当時、“夢の化合物”と呼ばれていたものだった。摂南大学 宮田秀明名誉教授「これがPCBで、ほとんど無臭に近い。ちょっと匂いありますけどね」電気を通さず、酸やアルカリに触れても変化しないため、変圧器や蛍光灯をはじめ、あらゆる製品に使われていた。PCBの毒性は、カネミ油症事件で初めて広く知られるようになり、加熱によって『ダイオキシン類』に変化することも判明した。ベトナム戦争で散布された『枯葉剤』にも含まれ、先天性障害を引き起こしたとされる“猛毒”だ。九州大学病院・皮膚科を中心とする「全国油症治療研究班」。国が研究費を出している。班長の辻学医師は「油症には治療法がない」と言う。全国油症治療研究班 辻学 班長「ダイオキシンとか、ダイオキシン類は化学的にすごく丈夫な構造をしているので、人間が分解できないんですよ、全く。一回(体内に)入ってくると分解する酵素が分解できない。それ位、硬い構造をしているんですね。一回(体内に)入ると出ていけない、というので半減期が物凄く長くなります。これは人の寿命を超えてます」そのダイオキシン類が、子どもにも移行する。辻学 班長「お母さんが、ものすごくダイオキシン類の血中濃度が高ければ、どんなに濾しても微量にはやはり行きます。母乳でお子さんを育てると思うんです。その母乳にも、やはりお母さんのダイオキシン類が入ってるんです」年1回、認定患者がいる都府県が行う「油症検診」。患者の健康状態把握のほか、研究班が作った「診断基準」に基づき、患者の認定も行われる。以前は“皮膚症状”が重視されていたが2004年から、『血液中のダイオキシン類濃度』が認定の柱となった。下田恵さんは、17才の時から認定を求め続けているが、患者と認められていない。血中ダイオキシン類濃度が、一般と変わらない『30未満』だとして、却下されている。「結婚しない方がよかったのかな」、次世代も苦しめるカネミ油症高知市に住む中内孝一さん(52)も、認定を求め続けている二世の一人だ。母親が汚染油を食べた3年後、あごと唇がのどまで裂けた重度の口唇口蓋裂で生まれた。耳の中に腫瘍が何度もでき、手術の度に生死の境をさまよい、高額な医療費は一家を困窮させた。いじめを受け、心も病んだ。常に倦怠感があり、今はビル管理のアルバイトをして両親と暮らす。血中ダイオキシン類濃度は、一般と変わらないとされる『30未満』だ。油症二世 中内孝一さん「だいたい毎年、診断が血液のダイオキシン類濃度でなるんですけど、今更ね、50年以上も過ぎて。やるんだったら(生まれた)当時にやって欲しかった。ずっと苦しめられてきたので。このカネミ油症は“病気のデパート”(といわれる)。片っ端から(症状が)あるもんだから、(調子が悪いときは)全部の病院の科を回らなければならない、そういう状態です」数値によって、同じ親から生まれた兄弟でも認定が分かれる。福岡県大牟田市に住む認定患者、森田安子さん(69)は、3回の流産の末、3人の子供を授かった。長女だけが、血中ダイオキシン類濃度が油症患者の基準である『50』を超え、認定された。長女(1979年生まれ)「これ『乾癬(かんせん)』なんです。広範囲で腰に出てる」カネミ油症認定患者 森田安子さん「こんな、なるの。息子は全身」全身に広がるやけどの様な症状。長男は、さらに広範囲に広がっているという。しかし、血中ダイオキシン類濃度の数値は低く、認定されていない。長男(1981年生まれ)「子どもが生まれる予定なんですけど、そこは心配ですね。自分のことより。そっちに影響がなければいいな、とは思いますけどね」森田安子さん「なんでこんなね、子供にまで辛い思いさせてね、って思う。『自分の責任じゃない』ってみんな言うけど、結婚しない方がよかったのかなって思います。私は何で顔を出して、色んな活動をするかって、それ位しか償いできない。子どもに対して、治療させてあげたいし、認めてもらいたい。この子たちが本当に被害者ですよって。私達一世代がいなくなってなかったことにされる、社会も忘れてしまって、社会的にもこの問題が葬り去られるのが一番心配」患者に認定されれば、『医療費』と『年間24万円の補償』が国とカネミ倉庫から受けられる。現在の認定患者数は約1500人。カネミ倉庫は、これ以上患者が増えたら「今の補償を継続できない」と訴えている。カネミ倉庫、事件発生以来初めてテレビカメラが現場に…北九州市で操業を続けるカネミ倉庫。今回、事件発生以来初めて、現場にテレビカメラが取材に入った。父親の跡を継いだ3代目、加藤大明社長(66)だ。カネミ倉庫 加藤大明社長「(体調大丈夫ですか?)せっかく来てくれちょん」製油に使っている機械類はどれも昭和のもの。燃費が悪いうえ、廃盤になったものも多く、部品ひとつ壊れても、特注でしか手に入らないという。従業員「こんなのも全部やり替えないと危ないけど、お金かかるんで。(何年くらいですかね?)多分、事件を起こす前からある。50年以上ってことですね」患者に払う医療費は、年間およそ1億円。資金繰りは厳しく、経営難に陥る可能性がつきまとう。国は「政府米」の保管業務を優先的に発注することで、カネミ倉庫を支援している。加藤社長「『政府指定倉庫』ですから2万トン超の(発注がある)。その蔵料が入るので、多額の負担に耐えられるようになったのは事実」事件発覚当時、加藤社長は11歳だった。加藤社長「人生最悪の日だった。誰も話しかけてこない。こっちから話すと知らん顔される。記者が小学校5年の私を取り囲んで『お父さんどこおる?どこに行った?』って」ラジオ体操から始業するカネミ倉庫。毎朝、従業員全員で黙とうを捧げ、被害者の全快を願う。ただ…加藤社長「とにかく『できないことはできない』と言うしかない。どれだけ罵詈雑言浴びせられても『申し訳ないけどそれはできません』と。ここからもう一個上行くと、会社として(継続が)難しい」次世代まで補償すれば、倒産に追い込まれるとするカネミ倉庫。では、どこが補償を担うのか?原因物質となったPCB。その9割は兵庫県高砂市にある『カネカ高砂工業所』で作られた。名前は似ているがカネミ倉庫とは関係のない別の会社だ。高砂市を訪ねると、半世紀にわたるPCBの処理問題が住宅地の側に広がっていた。元高砂市議会議員 井奥まさきさん「ずーっとこの辺一帯が全部、PCBを埋め立てた丘なんですよ」通称「PCBの丘」。カネカなどが海に流したPCB、その汚染土を盛り固めたものだ。広さ5ヘクタールある。海底に溜まったPCB汚染土を無害化する技術はなく、根こそぎすくい上げ、コンクリートで閉じ込めたという。井奥さん「“夢の技術”に飛びついたらいけないという『教訓』の典型的な話。こんなに処理しきれないものを、人間が扱ってはいけなかったかもしれない」36年前、カネカは被害者との裁判で総額105億円を支払う代わりに、「事件には責任がない」とする和解を結んだ。しかし当時は、被害が次世代にまで及ぶことは、想定されていなかった。油症二世 三苫哲也さん(53)「カネミ油症被害者の多くは『この世にPCBがなかったら、カネカがPCBを製造していなかったら、私の人生は狂っていなかった』と訴えている」被害者達は、『次世代には和解の内容は及ばない』、として、カネカに救済を求めている。当時の原告ではない、子や孫への補償をどう考えるのか?カネカは私達の取材に対し、「尽くすべきは尽くしてきた」とする回答書をよせた。子や孫を対象にした一回目の調査結果が発表 、救済の行方は?今年1月に行われたカネミ倉庫と被害者、国による「三者協議」。年2回、救済について協議している。子や孫世代への救済も議題には上るが、進展しない。記者「次世代の方への健康被害をどう受け止めていますか?」カネミ倉庫 加藤社長「それは私どもが判断することではなくて、油症班なりが判断するので、僕らはコメントする立場にない」PCBは、国も認可した「夢の化合物」だった。安全性が確かめられることなく、国内で6万トンが製造された。被害者は、国にも責任があるとして公的救済を求めているが、国は「民間企業が起こした事件」だとする立場を崩さない。農水省「医療費の支払いは原因事業者である『カネミ倉庫』の責務。カネミ倉庫の方で支払う努力をするべき」事件発覚から、今年で55年。放置されてきた次世代。被害者の長年にわたる要望活動を受け、国はおととし、初の調査に着手した。1200人を超えるとみられる認定患者の子ども、さらに孫世代に、どんな症状が出ているかを調べ、次世代の健康被害を明らかにする。油症二世 下田恵さん(34)「苦しんでいる人たちがいっぱいいるのに、進まない。どうにかできないかという(次世代の苦しみが)いっぱい出てきていたので、今回の調査で少しでもいい方向に前進できたらと思っている」カネミ油症の子どもや孫を対象にした1回目の結果報告が、6月23日に行われた。生まれつき唇やあごに裂け目がある「口唇口蓋裂」については、『次世代に多い傾向がある』という。一方、『頭痛や全身倦怠感などの症状だけではカネミ油症とは言えない』とした。血中ダイオキシン類濃度が高くない限り、今のところ、因果関係を証明できないというのだ。カネミ油症認定患者 森田安子さん(69)「相変わらずだなと。救済なんて程遠いと思います。どれくらいの代まで被害が続くかと思ったら、やりきれない。『先生分かってください』って、『助けるという簡単なことが何故できないんですか?』って」カネミ油症認定患者 下田順子さん(62)「症状を持っている次世代がたくさんいる。それを分かってもらいたい。(調査票に)書いている一つ一つの文字が、子どもたちの『助けてほしい』という思い、必死になって書いていると思う。次世代の調査として、きちんと受け止めてほしい」
長崎県諫早市に住む下田順子さん(62)。55年前に発覚した“食中毒”で今も、強い倦怠感や頭痛、耳鳴りなどに苦しんでいる。
天ぷら、唐揚げ、ドーナツなど母親が、愛情を込めて作った手料理から、当時の家族5人全員が猛毒を摂取した。
カネミ油症認定患者 下田順子さん「中学校2年生位じゃないかな…認定された頃。もう、化け物みたいだって言われたんですよ。だっていつもこんな顔してましたもん」
小学生になったばかりの6歳の頃、急に鼻血が止まらなくなり、頭痛や腹痛、倦怠感で起き上がれなくなった。痛くて臭い吹き出物が全身にでき、壮絶ないじめにあった。
原因は“体にいい”と言われて売られていた『食用油』だった。
下田順子さん「“健康にいい”というのが、どこが健康なの?って、(母親に)言いました。こんな体にされてどこが“健康”なの?って。そしたらその時に母親が『こんな毒の入ってる油と分かっていれば誰が買うもんね』って『母ちゃんだって分かってたら買わなかったよ』って言ったんですね」
1968年(昭和43年)に発覚した「カネミ油症事件」。
北九州市のカネミ倉庫で、製品の「米ぬか油」を温めるため、らせん状のパイプの中を循環させていた化学物質「PCB」が漏れ出て起きた食中毒だ。
24都府県の1万4千人余りが猛烈な吹き出物や、立っていられない程の目まい、吐き気などの症状で被害を届け出た。
さらに、「黒い赤ちゃん」と呼ばれた子供が生まれ、胎児にまで及ぶ影響が、被害者を追い詰めた。「時間がたてば毒は抜ける」と思われていたが、21年後に生まれた娘の肌は、黒ずんでいた。
下田順子さん「浅黒かった。ちょっとだけですよね。『あー、この子やっぱり違う…でも、それは思っちゃいけない』って思ってたんですけども、でも退院してきて母から言われたのがそれだったんですよ、まず。『肌の色が、ちょっと違うよね』って」
1989年生まれの長女・恵さん(34)。小さい時から、ひどい頭痛や鼻血、皮膚疾患が続いている。できものは、体のいたるところに現れる。
長女・恵さん「肩が多いんですかね…肩とお尻。かっかかっか…熱くなって膿が出てくる。鼻血はひどいですね、鼻血はいまでも。寝てても次の日起きたら枕が真っ赤になってたりとか。カネミ油症の実態を知らないので、それが自分の症状に結びつくのは分からなかった」
油に混入した化学物質「PCB」。それは当時、“夢の化合物”と呼ばれていたものだった。
摂南大学 宮田秀明名誉教授「これがPCBで、ほとんど無臭に近い。ちょっと匂いありますけどね」
電気を通さず、酸やアルカリに触れても変化しないため、変圧器や蛍光灯をはじめ、あらゆる製品に使われていた。
PCBの毒性は、カネミ油症事件で初めて広く知られるようになり、加熱によって『ダイオキシン類』に変化することも判明した。
ベトナム戦争で散布された『枯葉剤』にも含まれ、先天性障害を引き起こしたとされる“猛毒”だ。
九州大学病院・皮膚科を中心とする「全国油症治療研究班」。国が研究費を出している。班長の辻学医師は「油症には治療法がない」と言う。
全国油症治療研究班 辻学 班長「ダイオキシンとか、ダイオキシン類は化学的にすごく丈夫な構造をしているので、人間が分解できないんですよ、全く。一回(体内に)入ってくると分解する酵素が分解できない。それ位、硬い構造をしているんですね。一回(体内に)入ると出ていけない、というので半減期が物凄く長くなります。これは人の寿命を超えてます」
そのダイオキシン類が、子どもにも移行する。
辻学 班長「お母さんが、ものすごくダイオキシン類の血中濃度が高ければ、どんなに濾しても微量にはやはり行きます。母乳でお子さんを育てると思うんです。その母乳にも、やはりお母さんのダイオキシン類が入ってるんです」
年1回、認定患者がいる都府県が行う「油症検診」。患者の健康状態把握のほか、研究班が作った「診断基準」に基づき、患者の認定も行われる。
以前は“皮膚症状”が重視されていたが2004年から、『血液中のダイオキシン類濃度』が認定の柱となった。
下田恵さんは、17才の時から認定を求め続けているが、患者と認められていない。血中ダイオキシン類濃度が、一般と変わらない『30未満』だとして、却下されている。
高知市に住む中内孝一さん(52)も、認定を求め続けている二世の一人だ。
母親が汚染油を食べた3年後、あごと唇がのどまで裂けた重度の口唇口蓋裂で生まれた。耳の中に腫瘍が何度もでき、手術の度に生死の境をさまよい、高額な医療費は一家を困窮させた。
いじめを受け、心も病んだ。常に倦怠感があり、今はビル管理のアルバイトをして両親と暮らす。血中ダイオキシン類濃度は、一般と変わらないとされる『30未満』だ。
油症二世 中内孝一さん「だいたい毎年、診断が血液のダイオキシン類濃度でなるんですけど、今更ね、50年以上も過ぎて。やるんだったら(生まれた)当時にやって欲しかった。ずっと苦しめられてきたので。このカネミ油症は“病気のデパート”(といわれる)。片っ端から(症状が)あるもんだから、(調子が悪いときは)全部の病院の科を回らなければならない、そういう状態です」
数値によって、同じ親から生まれた兄弟でも認定が分かれる。福岡県大牟田市に住む認定患者、森田安子さん(69)は、3回の流産の末、3人の子供を授かった。長女だけが、血中ダイオキシン類濃度が油症患者の基準である『50』を超え、認定された。
長女(1979年生まれ)「これ『乾癬(かんせん)』なんです。広範囲で腰に出てる」
カネミ油症認定患者 森田安子さん「こんな、なるの。息子は全身」
全身に広がるやけどの様な症状。長男は、さらに広範囲に広がっているという。しかし、血中ダイオキシン類濃度の数値は低く、認定されていない。
長男(1981年生まれ)「子どもが生まれる予定なんですけど、そこは心配ですね。自分のことより。そっちに影響がなければいいな、とは思いますけどね」
森田安子さん「なんでこんなね、子供にまで辛い思いさせてね、って思う。『自分の責任じゃない』ってみんな言うけど、結婚しない方がよかったのかなって思います。私は何で顔を出して、色んな活動をするかって、それ位しか償いできない。子どもに対して、治療させてあげたいし、認めてもらいたい。この子たちが本当に被害者ですよって。私達一世代がいなくなってなかったことにされる、社会も忘れてしまって、社会的にもこの問題が葬り去られるのが一番心配」
患者に認定されれば、『医療費』と『年間24万円の補償』が国とカネミ倉庫から受けられる。現在の認定患者数は約1500人。
カネミ倉庫は、これ以上患者が増えたら「今の補償を継続できない」と訴えている。
北九州市で操業を続けるカネミ倉庫。今回、事件発生以来初めて、現場にテレビカメラが取材に入った。
父親の跡を継いだ3代目、加藤大明社長(66)だ。
カネミ倉庫 加藤大明社長「(体調大丈夫ですか?)せっかく来てくれちょん」
製油に使っている機械類はどれも昭和のもの。燃費が悪いうえ、廃盤になったものも多く、部品ひとつ壊れても、特注でしか手に入らないという。
従業員「こんなのも全部やり替えないと危ないけど、お金かかるんで。(何年くらいですかね?)多分、事件を起こす前からある。50年以上ってことですね」
患者に払う医療費は、年間およそ1億円。資金繰りは厳しく、経営難に陥る可能性がつきまとう。国は「政府米」の保管業務を優先的に発注することで、カネミ倉庫を支援している。
加藤社長「『政府指定倉庫』ですから2万トン超の(発注がある)。その蔵料が入るので、多額の負担に耐えられるようになったのは事実」
事件発覚当時、加藤社長は11歳だった。
加藤社長「人生最悪の日だった。誰も話しかけてこない。こっちから話すと知らん顔される。記者が小学校5年の私を取り囲んで『お父さんどこおる?どこに行った?』って」
ラジオ体操から始業するカネミ倉庫。毎朝、従業員全員で黙とうを捧げ、被害者の全快を願う。ただ…
加藤社長「とにかく『できないことはできない』と言うしかない。どれだけ罵詈雑言浴びせられても『申し訳ないけどそれはできません』と。ここからもう一個上行くと、会社として(継続が)難しい」
次世代まで補償すれば、倒産に追い込まれるとするカネミ倉庫。では、どこが補償を担うのか?
原因物質となったPCB。その9割は兵庫県高砂市にある『カネカ高砂工業所』で作られた。名前は似ているがカネミ倉庫とは関係のない別の会社だ。
高砂市を訪ねると、半世紀にわたるPCBの処理問題が住宅地の側に広がっていた。
元高砂市議会議員 井奥まさきさん「ずーっとこの辺一帯が全部、PCBを埋め立てた丘なんですよ」
通称「PCBの丘」。カネカなどが海に流したPCB、その汚染土を盛り固めたものだ。広さ5ヘクタールある。海底に溜まったPCB汚染土を無害化する技術はなく、根こそぎすくい上げ、コンクリートで閉じ込めたという。
井奥さん「“夢の技術”に飛びついたらいけないという『教訓』の典型的な話。こんなに処理しきれないものを、人間が扱ってはいけなかったかもしれない」
36年前、カネカは被害者との裁判で総額105億円を支払う代わりに、「事件には責任がない」とする和解を結んだ。しかし当時は、被害が次世代にまで及ぶことは、想定されていなかった。
油症二世 三苫哲也さん(53)「カネミ油症被害者の多くは『この世にPCBがなかったら、カネカがPCBを製造していなかったら、私の人生は狂っていなかった』と訴えている」
被害者達は、『次世代には和解の内容は及ばない』、として、カネカに救済を求めている。当時の原告ではない、子や孫への補償をどう考えるのか?
カネカは私達の取材に対し、「尽くすべきは尽くしてきた」とする回答書をよせた。
今年1月に行われたカネミ倉庫と被害者、国による「三者協議」。年2回、救済について協議している。子や孫世代への救済も議題には上るが、進展しない。
記者「次世代の方への健康被害をどう受け止めていますか?」
カネミ倉庫 加藤社長「それは私どもが判断することではなくて、油症班なりが判断するので、僕らはコメントする立場にない」
PCBは、国も認可した「夢の化合物」だった。安全性が確かめられることなく、国内で6万トンが製造された。
被害者は、国にも責任があるとして公的救済を求めているが、国は「民間企業が起こした事件」だとする立場を崩さない。
農水省「医療費の支払いは原因事業者である『カネミ倉庫』の責務。カネミ倉庫の方で支払う努力をするべき」
事件発覚から、今年で55年。放置されてきた次世代。被害者の長年にわたる要望活動を受け、国はおととし、初の調査に着手した。1200人を超えるとみられる認定患者の子ども、さらに孫世代に、どんな症状が出ているかを調べ、次世代の健康被害を明らかにする。
油症二世 下田恵さん(34)「苦しんでいる人たちがいっぱいいるのに、進まない。どうにかできないかという(次世代の苦しみが)いっぱい出てきていたので、今回の調査で少しでもいい方向に前進できたらと思っている」
カネミ油症の子どもや孫を対象にした1回目の結果報告が、6月23日に行われた。
生まれつき唇やあごに裂け目がある「口唇口蓋裂」については、『次世代に多い傾向がある』という。一方、『頭痛や全身倦怠感などの症状だけではカネミ油症とは言えない』とした。血中ダイオキシン類濃度が高くない限り、今のところ、因果関係を証明できないというのだ。
カネミ油症認定患者 森田安子さん(69)「相変わらずだなと。救済なんて程遠いと思います。どれくらいの代まで被害が続くかと思ったら、やりきれない。『先生分かってください』って、『助けるという簡単なことが何故できないんですか?』って」
カネミ油症認定患者 下田順子さん(62)「症状を持っている次世代がたくさんいる。それを分かってもらいたい。(調査票に)書いている一つ一つの文字が、子どもたちの『助けてほしい』という思い、必死になって書いていると思う。次世代の調査として、きちんと受け止めてほしい」