自民党で幹事長などを歴任した石原伸晃・元衆議院議員(66)が6月27日に会見し、次の衆院選に出馬しない旨を表明した。一方で2025年参院選へのくら替え出馬を目指す考えも示したのだが、その決断への評価には厳しいものがある。政界ではかつての石原氏の裏切り行為を忘れていない人は多く、「やはり明智光秀は許されなかった」と指摘する声が大きいという。
【写真】東京8区名物だった、石原軍団の応援風景 当選10回を誇る石原氏は2021年の前回衆院選において、小選挙区で立憲民主党の吉田晴美氏に敗れ、比例での復活も果たせなかった。

「石原氏の落選はなかなかショッキングな出来事でしたが、さらに地盤としてきた杉並区ではその後の区長選で、野党統一候補が当選し、今年4月の杉並区議選では自民党の現職区議7人が落選。石原氏落選の影響だけではないと思いますが、自民党の退潮に歯止めがかからない印象ですね」参院に鞍替えするという石原氏 と、政治部デスク。1年以内に解散・総選挙があると見られる中での「不出馬発言」は、2年前の落選以上に永田町関係者を驚かせたという。引退なのかなぁと「私自身、落選後の石原氏のことをフォローしていたわけではないので、会見すると聞いててっきりシンプルな引退表明をするのかと思っていたのですが、まさか参院選を視野に入れていたとは……。衆院定数が『10増10減』されるにあたって、地盤としてきた選挙区も区割りの影響を受けることについて会見でも愚痴のように触れていたので、正直、衆院選では勝ち目がないと悟ったということなのかなぁと感じました」(同) 会見では「後進に道を譲ることにいたしました」と殊勝な感じで話していたが、昨年に相次いで亡くなった安倍晋三元首相や父・石原慎太郎元東京都知事の名をあげ、彼らが「やり残した」憲法改正に取り組みたいと意欲を見せ、2年後の参院選で東京選挙区からの出馬する意向を示したのだった。「丸川珠代元五輪担当相が参院から衆院に鞍替えすることで、とりあえず1枠空くので、そこに名乗りをあげた恰好です。後進に道を譲ると言いながら引退せず鞍替えして議員を続けるというのはなかなか理解しがたい。会見でも記者にそのあたりを突っ込まれ、“自民党の都連会長をやっていたが、(参議院の)候補になりたい人はほとんどいない”と答えにならない答え方をしていましたね」(同)首相の座に手をかけていた「首相を目指そうとする実力者が参院にいる場合、基本的には衆院に鞍替えします。林芳正外相しかり、世耕弘成自民党参院幹事長も鞍替えはまだ果たしていませんが、思いは同じ。石原氏の場合は逆で、衆院から参院ですから、首相を完全に諦めたということになりますね。そもそも現段階で彼自身、首相を目指す気などさらさらないでしょうが、今から11年前には首相の座に手をかけていたわけで、その意味で感慨深いですね」(同) 石原氏が首相候補とされていたのは、民主党政権末期のこと。政権交代の熱はすっかり冷め、民主党がぐらつく中、下野していた自民党は政権奪取に燃えていた。野田佳彦首相が「近いうちに解散」を示唆したことで、自民党総裁選への注目が一気に高まっていく。「この時、結果的に、安倍晋三、石破茂、町村信孝、林芳正、そして石原伸晃の各氏が出馬しました。安倍、石破の両氏で決選投票となり、結果的に安倍氏が勝利するのですが、当初は安倍氏の当選どころか出馬自体、想定外でした。以前、政権を投げ出すように辞任したことが強く批判されていましたから」(同)平成の明智光秀 当時、自民党の総裁だった谷垣禎一氏はもちろん再選を目指していたが、出身派閥・宏池会のボス・古賀誠氏の支援を取り付けられず、さらに悪いことに幹事長だった石原氏が出馬を表明したために、出馬辞退を余儀なくされてしまう。結果、この時の石原氏の行動は「裏切り」だと評されることになる。「石原氏としては早く名乗りをあげなければと焦っていたように記憶しています。党内で影響力のある森喜朗元首相や青木幹雄元官房長官の支援は得たものの、そもそも可愛がってきた子分はあまりいないし、地方での人気もイマイチ。早めに動かねばということで出馬を宣言してしまったのでしょうが、それで谷垣氏が出馬できなくなってしまった。永田町というところは今もなおムラ的なところで、当時はもっとそういう傾向が強かった。丁寧に誠意をこめて説明を重ねて段階を経ていれば問題なかったはずですが、そういうこともしなかったので、総裁を裏切った幹事長だと見る向きは多かった。そのため“平成の明智光秀”などと言われるようになって、彼の勢いは一気に失速していきました」(同) 一時は総裁間違いなしと見るムキもあった中、決選投票にも残ることができなかったので惨敗といってよい結果だった。これは石原氏にとって大いにショックだったことだろう。「最後は金目」「ナマポ」「その後、安倍政権下では大臣を務め、小所帯ながら派閥の領袖にもなりましたが、当時から首相への意欲を失っていたのか緊張感が伝わってこなかったですね。当時の総裁を押しのけてまで権力に執着した姿はいったい何だったのかという印象もありました」(同) そのせいか、「最後は金目」とか「ナマポ」などといった失言が繰り返し発せられたのかもしれない。「霞が関では、良くも悪くも欲のない人との評価が定着しており、指示は細かくなくてパワハラ的でもないので官僚らは“与しやすい”大臣だと見ていたようです。世襲でサラブレッドを自認してきた本人としては、明智光秀呼ばわりは不本意だったことは間違いないでしょう」(同) もちろん2年後に参院議員として再起し、憲法改正などの懸案に関与する可能性もあるだろうが、現時点では、この鞍替えに対して好意的な声は小さい。それもこれも、あの「平成の明智光秀」と目された一件が尾を引いているとすれば、裏切りの代償は大きかったということになる。「今回も地元で長年応援してくれてきた支援者への裏切りとも取れます。憲法改正を目指すために、衆院ではなく参院でなければならない必然性は無いわけですから、なかなか理解されにくい行動だなと思いました」(同)デイリー新潮編集部
当選10回を誇る石原氏は2021年の前回衆院選において、小選挙区で立憲民主党の吉田晴美氏に敗れ、比例での復活も果たせなかった。
「石原氏の落選はなかなかショッキングな出来事でしたが、さらに地盤としてきた杉並区ではその後の区長選で、野党統一候補が当選し、今年4月の杉並区議選では自民党の現職区議7人が落選。石原氏落選の影響だけではないと思いますが、自民党の退潮に歯止めがかからない印象ですね」
と、政治部デスク。1年以内に解散・総選挙があると見られる中での「不出馬発言」は、2年前の落選以上に永田町関係者を驚かせたという。
「私自身、落選後の石原氏のことをフォローしていたわけではないので、会見すると聞いててっきりシンプルな引退表明をするのかと思っていたのですが、まさか参院選を視野に入れていたとは……。衆院定数が『10増10減』されるにあたって、地盤としてきた選挙区も区割りの影響を受けることについて会見でも愚痴のように触れていたので、正直、衆院選では勝ち目がないと悟ったということなのかなぁと感じました」(同)
会見では「後進に道を譲ることにいたしました」と殊勝な感じで話していたが、昨年に相次いで亡くなった安倍晋三元首相や父・石原慎太郎元東京都知事の名をあげ、彼らが「やり残した」憲法改正に取り組みたいと意欲を見せ、2年後の参院選で東京選挙区からの出馬する意向を示したのだった。
「丸川珠代元五輪担当相が参院から衆院に鞍替えすることで、とりあえず1枠空くので、そこに名乗りをあげた恰好です。後進に道を譲ると言いながら引退せず鞍替えして議員を続けるというのはなかなか理解しがたい。会見でも記者にそのあたりを突っ込まれ、“自民党の都連会長をやっていたが、(参議院の)候補になりたい人はほとんどいない”と答えにならない答え方をしていましたね」(同)
「首相を目指そうとする実力者が参院にいる場合、基本的には衆院に鞍替えします。林芳正外相しかり、世耕弘成自民党参院幹事長も鞍替えはまだ果たしていませんが、思いは同じ。石原氏の場合は逆で、衆院から参院ですから、首相を完全に諦めたということになりますね。そもそも現段階で彼自身、首相を目指す気などさらさらないでしょうが、今から11年前には首相の座に手をかけていたわけで、その意味で感慨深いですね」(同)
石原氏が首相候補とされていたのは、民主党政権末期のこと。政権交代の熱はすっかり冷め、民主党がぐらつく中、下野していた自民党は政権奪取に燃えていた。野田佳彦首相が「近いうちに解散」を示唆したことで、自民党総裁選への注目が一気に高まっていく。
「この時、結果的に、安倍晋三、石破茂、町村信孝、林芳正、そして石原伸晃の各氏が出馬しました。安倍、石破の両氏で決選投票となり、結果的に安倍氏が勝利するのですが、当初は安倍氏の当選どころか出馬自体、想定外でした。以前、政権を投げ出すように辞任したことが強く批判されていましたから」(同)
当時、自民党の総裁だった谷垣禎一氏はもちろん再選を目指していたが、出身派閥・宏池会のボス・古賀誠氏の支援を取り付けられず、さらに悪いことに幹事長だった石原氏が出馬を表明したために、出馬辞退を余儀なくされてしまう。結果、この時の石原氏の行動は「裏切り」だと評されることになる。
「石原氏としては早く名乗りをあげなければと焦っていたように記憶しています。党内で影響力のある森喜朗元首相や青木幹雄元官房長官の支援は得たものの、そもそも可愛がってきた子分はあまりいないし、地方での人気もイマイチ。早めに動かねばということで出馬を宣言してしまったのでしょうが、それで谷垣氏が出馬できなくなってしまった。永田町というところは今もなおムラ的なところで、当時はもっとそういう傾向が強かった。丁寧に誠意をこめて説明を重ねて段階を経ていれば問題なかったはずですが、そういうこともしなかったので、総裁を裏切った幹事長だと見る向きは多かった。そのため“平成の明智光秀”などと言われるようになって、彼の勢いは一気に失速していきました」(同)
一時は総裁間違いなしと見るムキもあった中、決選投票にも残ることができなかったので惨敗といってよい結果だった。これは石原氏にとって大いにショックだったことだろう。
「その後、安倍政権下では大臣を務め、小所帯ながら派閥の領袖にもなりましたが、当時から首相への意欲を失っていたのか緊張感が伝わってこなかったですね。当時の総裁を押しのけてまで権力に執着した姿はいったい何だったのかという印象もありました」(同)
そのせいか、「最後は金目」とか「ナマポ」などといった失言が繰り返し発せられたのかもしれない。
「霞が関では、良くも悪くも欲のない人との評価が定着しており、指示は細かくなくてパワハラ的でもないので官僚らは“与しやすい”大臣だと見ていたようです。世襲でサラブレッドを自認してきた本人としては、明智光秀呼ばわりは不本意だったことは間違いないでしょう」(同)
もちろん2年後に参院議員として再起し、憲法改正などの懸案に関与する可能性もあるだろうが、現時点では、この鞍替えに対して好意的な声は小さい。それもこれも、あの「平成の明智光秀」と目された一件が尾を引いているとすれば、裏切りの代償は大きかったということになる。
「今回も地元で長年応援してくれてきた支援者への裏切りとも取れます。憲法改正を目指すために、衆院ではなく参院でなければならない必然性は無いわけですから、なかなか理解されにくい行動だなと思いました」(同)
デイリー新潮編集部