戦国時代に徳川軍の侵攻を2度退けた難攻不落の城として名をはせ、現在は桜や紅葉の名所として、年間約140万人が訪れる長野県上田市の上田城。関ケ原の合戦後に取り壊されながら、江戸時代に一度は再建されたとされる櫓(やぐら)の復元に向けて市は10年以上、資料を探してきた。これまでに決め手となるものは見つかっておらず、市民も待ち望む復元へ懸賞金をかけて情報収集を加速する。【鈴木英世】
【写真】江戸時代から残る上田城の西櫓 上田城は1583(天正11)年、真田信繁(幸村)の父昌幸が築城。2年後の第1次、1600年の第2次上田合戦で徳川軍を撃退したが、関ケ原の合戦後に建物や石垣などが取り壊された。上田藩主を務めた昌幸の長男、信之が松代(現長野市松代町)に転封になり、後任の上田藩主になった仙石忠政が1626(寛永3)年から再建工事に取りかかった。江戸時代には本丸に七つの櫓があったと絵図などで伝わる。 明治に入って廃城となり、取り壊されずに残った櫓は西櫓のみだったが、払い下げられて上田市内で使われていた北櫓と南櫓は1949年に再び元の場所に移築された。国史跡のため、残る櫓の復元には文化庁の許可が必要で、その根拠となる資料として櫓の形が分かる写真や図面などが必要だという。北櫓と南櫓の間にあった本丸東虎口(こぐち)櫓門は94年、北櫓と門が写った1877(明治10)年ごろのものとみられる写真を基に復元された。 懸賞金をかけて情報を募集するのは残る四つの櫓について。市は2010年度から復元に向けた資料を探してきたが、写真などの具体的なものは見つかっていないのが現状だ。今回、対象となるのは、櫓の写っている明治初期の写真▽櫓の寸法が書かれた絵図や古文書、立面図▽上田城跡内で撮影した明治末期までの写真▽櫓などの建物の移転先の資料――で、いずれも原本が対象になる。 募集期間は2024年3月29日まで、総額500万円の懸賞金をかけて広く呼びかけている。市櫓復元推進室の清水一郎さんは「市だけでなく、県、全国、海外と多くの方と協力して機運を高められたら」と話す。 上田城跡の整備を巡っては、毎年約1億円のふるさと納税が上田市にあるほか、18年12月には市民1人から10億円の寄付が寄せられるなど周囲の期待が高く、市は発掘調査などを進めている。提供された情報は市の学芸員や専門家が審査し、櫓復元の資料と認められれば懸賞金が支払われる。問い合わせは市櫓復元推進室([email protected])、市教育委員会生涯学習・文化財課文化財保護担当(0268・23・6362)まで。
上田城は1583(天正11)年、真田信繁(幸村)の父昌幸が築城。2年後の第1次、1600年の第2次上田合戦で徳川軍を撃退したが、関ケ原の合戦後に建物や石垣などが取り壊された。上田藩主を務めた昌幸の長男、信之が松代(現長野市松代町)に転封になり、後任の上田藩主になった仙石忠政が1626(寛永3)年から再建工事に取りかかった。江戸時代には本丸に七つの櫓があったと絵図などで伝わる。
明治に入って廃城となり、取り壊されずに残った櫓は西櫓のみだったが、払い下げられて上田市内で使われていた北櫓と南櫓は1949年に再び元の場所に移築された。国史跡のため、残る櫓の復元には文化庁の許可が必要で、その根拠となる資料として櫓の形が分かる写真や図面などが必要だという。北櫓と南櫓の間にあった本丸東虎口(こぐち)櫓門は94年、北櫓と門が写った1877(明治10)年ごろのものとみられる写真を基に復元された。
懸賞金をかけて情報を募集するのは残る四つの櫓について。市は2010年度から復元に向けた資料を探してきたが、写真などの具体的なものは見つかっていないのが現状だ。今回、対象となるのは、櫓の写っている明治初期の写真▽櫓の寸法が書かれた絵図や古文書、立面図▽上田城跡内で撮影した明治末期までの写真▽櫓などの建物の移転先の資料――で、いずれも原本が対象になる。
募集期間は2024年3月29日まで、総額500万円の懸賞金をかけて広く呼びかけている。市櫓復元推進室の清水一郎さんは「市だけでなく、県、全国、海外と多くの方と協力して機運を高められたら」と話す。
上田城跡の整備を巡っては、毎年約1億円のふるさと納税が上田市にあるほか、18年12月には市民1人から10億円の寄付が寄せられるなど周囲の期待が高く、市は発掘調査などを進めている。提供された情報は市の学芸員や専門家が審査し、櫓復元の資料と認められれば懸賞金が支払われる。問い合わせは市櫓復元推進室([email protected])、市教育委員会生涯学習・文化財課文化財保護担当(0268・23・6362)まで。