定年後の夫婦関係に戦々恐々としている人たちは多いのかもしれない。今まで見て見ぬふりをしてきた関係が、ふたりきりで向き合うことにより、どうしても浮き彫りになってくるからだ。
夫の定年退職が近づいてきて今年の秋、9歳年上の夫が定年退職を迎えるというユウカさん(56歳)。結婚生活30年、夫は再婚、ユウカさんは初婚だった。
「前妻と死別した夫には、当時、6歳と4歳の子がいました。夫は私の上司だったんですが、子どもふたりを抱えて彼の母親と一緒に暮らしていたんです。ところがあるとき母親が急逝して、彼は会社を辞めるしかないのかと苦しんでいた。そんな彼に同情し、家が近かった私は手助けを買って出ました。
彼が保育園や、それまで助けてくれていた近所の人たちに事情を話して私を紹介してくれ、手伝うようになったんです」
最初は同情から手助けをするだけのつもりだったが、彼から熱烈なアプローチを受け、ユウカさんの気持ちも変わっていった。なにより子どもたちが懐いてくれたのが大きかった。もう見捨てられなくなってしまったのだ。
「それで結婚して退職、本格的に子どもたちのめんどうを見ることになりました。夫に愛情があったというわけではなかったのかもしれない」
自分の子もほしかったのだが、夫は賛成しなかった。いつしか夫は避妊手術をしてしまっていた。ユウカさんは絶望したが、それでも子どもたちを振り捨てて出ていくわけにもいかなかった。
「今でもあのときのショックは忘れられません。どうしても子どもがほしいと言ったとき、夫は『もう無理なんだ、物理的に』って。自分と前妻の子さえいればよかったんですよ、彼は。私との間に子どもをもうけようなどとは最初から思っていなかった。だまされて子育てさせられただけのような気がしました」
夫への不信感が生まれた。少なくとも尊敬の念はあったのに、それも失われていった。だが、子どもたちとの心理的距離はどんどん縮まっていった。
「上が男の子で下が女の子。息子が高校生のとき、夫の浮気がわかったんです。私と夫の諍いを聞いてしまった息子は、父親に殴りかかりました。あわてて止めたけど、彼は『おかあさんが僕たちをどれほど大事に思ってかわいがってくれたか、知ってるのか。よくそんな裏切りができたな』とすごい剣幕で怒鳴って。
あれはうれしかった。この子たちは私の子だと本気で思いました」
娘は一緒に泣いてくれた。おかあさん、どこにも行かないでねと言ってくれた。
子どもたちが独立して現在、息子は結婚して家庭を持ち、仕事の都合で遠方に住んでいる。30代半ばにさしかかった娘は独身で、ひとり暮らしを謳歌しながら精力的に仕事をしている。
「私は子どもたちが大きくなってから再就職しました。定年にはまだ間がある。夫とふたりで暮らしていても、ふたりとも仕事をしているから、それほど違和感はないんですが、先日、夫がしみじみ『定年まであと4カ月か』と言った。
それを聞いて、そのあとどうするのと聞いたら、『もういいだろ、働かなくても。きみも退職を早めればいいよ。一緒に旅行したり新しいことを始めたりしようよ』と無邪気に言ったんですよ。それを聞いて正直なところ、ぞっと寒気がしました」
ユウカさんはにこりともせず言った。そして間髪を入れず「私は定年まで仕事をするから」と断言した。夫は「そうしたらきみが退職するころ、僕は74歳になってしまう。夫婦で遊べないじゃないか」とさみしそうだった。
「あの浮気の一件だって、夫は私に謝りもしなかった。子どもたちのために振り上げた拳を下ろすしかなかった私の悔しさを夫はわかってない。その後、私が再就職してからもずっと家の中のことは私がやってきました。
夫はゴミ捨てひとつしたことがない。もちろん子どもたちが手伝ってくれたけど、彼らには彼らのやるべきことがあるから、家事に時間をとらせるのはしのびなくて。子どもの受験のことだってほぼ私がケアしましたからね。夫は子どものことさえ私に丸投げでした」
前妻の仏壇も、ユウカさんはいつもきれいにしてお線香をあげていた。子どもたちに出会えたことを感謝もしていた。あんなかわいい子たちを遺して逝かなければならなかった前妻の気持ちを考えると、いつも心が痛んだ。
「夫はどこか人の気持ちがわからないところがあるんです。前妻さんの供養も私が言い出さないとしない人だし、前妻さんが気の毒でたまらない」
子どもたちのこと以外、夫婦での思い出などほとんどないとユウカさんは言う。そんな夫に、定年退職を前にすり寄ってこられても心が動くはずがない。だが夫は、ユウカさんも退職後を楽しみにしていると思い込んでいる。
「オレたちには新婚時代がほとんどなかった。子どもを育てるのに必死だったもんな。だから改めて新婚生活を楽しもうなんて言うわけですよ。子育て経験もないのに。
必死だったのは私だけ。夫は私に全部押しつけたことさえ忘れているのか、忘れたふりをしているのか、あるいは自分もやった気になっているのか……。いずれにしても私は夫の退職を機に、夫とは距離を置こうと思っているんです。子どもたちも賛成してくれています」
家を出るのか、家庭内で距離を置くのか具体的なことは決めていないが、いっそどこかにワンルームマンションを借りてもいいとすら思っているそうだ。夫はそんなことは夢にも考えていないだろう。
「子どもたちはわかっている。何もわかってないのは夫だけ。自分がいかに幸せだったか、もうじき知ることになるんだと思いますよ」
最後は皮肉を込めてユウカさんは意味ありげに微笑んだ。