目の前には「内臓をほとんど食い尽くされた」若い女性が…「人喰いヒグマ多発地帯」北海道・樺太の惨劇 から続く
日本史上最悪の獣害として知られる“三毛別事件”。その被害の凄惨さについては、これまで数多くの書籍・記事で紹介されてきたが、同事件における加害熊の前科の有無をご存じの方は少ないのではないだろうか。はたして野生の熊が、突然人を喰うようになることはあるのだろうか。
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ここでは、ノンフィクション作家・中山茂大氏の新刊『神々の復讐 人喰いヒグマたちの北海道開拓史』(講談社)の一部を抜粋し、三毛別事件にまつわる詳細な歴史を追っていく。(全2回の1回目/後編を読む)
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これまで広く知られている日本でのヒグマによる獣害は、「五大事件」(『エゾヒグマ百科』木村盛武、共同文化社、昭和58年)とされてきた。
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ひとつは、明治11年1月に発生した「札幌丘珠事件」である。これについては、第1章ですでに触れた。
ふたつめが、大正12年8月に起きた「沼田幌新事件」である。この事件は夏祭の帰り道、そぞろ歩いている群集にヒグマが襲いかかるという、極めて珍しい事例で、その場で男子1人が殺された後、付近の住宅に逃げ込んだ村人等を追ってヒグマが乱入し、男子の母親がつかまって藪の中に引きずり込まれ、数日後の熊狩りで2人の猟師が襲われ死亡した。犠牲者は4人であった。
大きく時代が移り、昭和45年7月に発生した「福岡大学遭難事件」も、悲惨な獣害事件として長く語り継がれている。同大ワンダーフォーゲル部員5人が日高山脈縦走中に、食料の入ったザックをヒグマに漁られ、これを奪い返したことから執拗につけ狙われて、結果的に3人が犠牲となった。学生の1人が事件の経過を克明に記録したメモが発見され、遭難中の生々しい様子が公開されたことで、世間に衝撃を与えた事件である。
もっとも新しいのが昭和51年の「風不死岳事件」である。この事件では、山菜採りに山に入ったグループがヒグマに襲われ2人が喰われた。実はそれ以前に、事件現場から4キロ離れた地点で笹藪の伐採をしていた作業員が襲われるなどの事件が起きており、入山禁止であったにもかかわらず、山に入ってしまったために起こった悲劇であった。
そして最後に、もっとも有名かつ凄惨な事件が、大正4年12月に発生した「苫前三毛別事件」である。7人(一説に8人)もの犠牲者を出し、かつ被害者の1人が妊婦であったことなどから、ショッキングな証言が数多く語られた、日本史上最悪の獣害事件である。
その経緯は吉村昭の小説『羆嵐』(新潮社、昭和52年)他、ネット上でも多数公開されているので、ここでは取り上げないが、今でこそ広く人口に膾炙した同事件も、年月を経るうちに徐々に風化していった。
この事件について、まとまった物語として発表されたもっとも古い記録は、筆者が調べた限りでは、昭和4年発行の林業誌『御料林』1月号の上牧翠山による随筆「熊風」である。上牧は事件現場から5里余り麓に下ったところに生家を持ち、事件当時は地元小学校の教員であったという。従ってこの大事件はすぐに耳に入っただろう(昭和34年発行の『銀葉』5月号、函館営林局、にも「上牧芳堂」の名前でほぼ同じ内容の記事がある)。
事件から14年を経てまとめられた貴重な記録だが、残念ながら、その内容には事実誤認がいくつかあった。
次に昭和22年刊行の『熊に斃れた人々』(犬飼哲夫、鶴文庫)に詳細な記述がある。こちらも事件の経緯をつまびらかに追っているが、発生年を大正14年としていたり、襲われた児童の家族関係などに、若干の不正確が見られた。
そこで現地調査を重ね、生き残った村人や関わりのある人物から丹念に取材して、事件の全容を初めて正確に再現したのが、木村盛武による『慟哭の谷』(共同文化社、平成6年)である。この作品に先立ち、林務官であった木村は林業誌『寒帯林』112、113号(旭川営林局、昭和39年)の2回にわたり、合計48ページもの詳細なレポートを発表しており、苫前町郷土資料館発行の冊子『獣害史最大の惨劇 苫前羆事件』(昭和62年)にまとめている。
この木村の仕事により、三毛別事件の顛末は、ほぼ完全に明らかになったと言えるだろう。
しかしそれでも大きな疑問が残されている。
「加害熊に、前科はあったのか? なかったのか?」
前出『慟哭の谷』中に、古丹別市街に引き出された加害熊の遺骸を見物に来た人々から、戦慄の証言が次々と繰り出されるくだりがある。
〈「雨竜郡から来たアイヌの夫婦は、『このヒグマは数日前に雨竜で女を食害した獣だ』と語り、証拠に腹から赤い肌着の切れ端が出ると言った。あるマタギは、『旭川でやはり女を食ったヒグマならば、肉色の脚絆が見つかる』と言った。山本兵吉は、『このヒグマが天塩で飯場の女を食い殺し、三人のマタギに追われていた奴に違いない』と述べた。解剖が始まり胃を開くと、中から赤い布、肉色の脚絆が出て来た」――前掲『慟哭の谷』より要約〉
いずれの証言でも「女が喰われた」ことが共通している事実に注目である。三毛別事件で食害されたのは女性と男児に限られていたのだ。
そこで手元の「人喰い熊事件データベース」から、三毛別事件以前の新聞記事を辿ってみた。
まず山本兵吉(加害熊を射殺した功労者)の、「天塩で飯場の女を食い殺し、三人のマタギに追われていた奴に違いない」という証言については、それらしい記事は発見できなかった。ひとつ見つかったのは以下の事件である。
〈「去る四日、天塩郡沙流村豊富部落共有地成田牧場に一頭の巨熊現れ、放牧中の小馬を追い回して咬み殺せる上、折柄同所を通行せる幌延役場小使須田某(三十五)にも飛びかかり全身十数ヶ所を爪にて引っ掻き即死せしめ、死体の上に同人の風呂敷包みを載せて逃げ去らんとするところを同牧場内の三上仙太郎他二名のものこれを発見し(中略)一斉射撃をなして遂に巨熊を斃したり」――『小樽新聞』大正2年11月17日〉
この事件は、三毛別事件の2年前のことであり、犠牲者が男性、かつ獲殺されているので、山本の証言とは大きく異なる。
次に「あるマタギ」による、「旭川でやはり女を食ったヒグマならば、肉色の脚絆が見つかる」という証言である。これについては旭川よりさらに南の南富良野村で起こった以下の事件を指しているのではないかと思われる。
〈「二十四日午前六時頃、空知郡南富良野村(中略)牧場番人、三宮忠四郎内縁の妻千田八重(五二)は、番舎の前にある厩舎に異様の物音がしたので(中略)行ってみると、(中略)反対の側の扉を蹴破って侵入し、中に縛ってあった馬を屠り、得意になって骨をしゃぶっていた巨熊が猛然と跳ね出で、一撃の下に老婆を斃した。しかして悠然とその胸から頭、次いで腹部に大きな穴をあけ、肺や心臓を始め子宮膀胱に到るまで喰い尽くし、わずかに腎臓と肝臓とを残していた。手も足もそのままであったが、あくまで乱暴な巨熊は老婆を馬の屍体の上に重ね、さらに馬糞、藁などを山のごとくに盛りかけ、あたかも珍味佳肴の宴に酔うたかのようにこの側に座っていたところへ、前日からこの熊を退治しようと思って追跡していた老婆の夫三宮忠四郎が立ち帰ってこの惨状を見て驚き、怨み骨髄に徹し、満身の勇を鼓して巨熊の眉間目がけて一発を放ち見事銃殺した(後略)」――『北海タイムス』大正4年11月30日〉
まさに三毛別事件を彷彿させる残虐事件であるが、加害熊が現行犯で射殺されていることや、三毛別事件のわずか10日前に発生していることから、同一個体とは考えにくい(南富良野から苫前まで直線距離で130キロある)。
最後に雨竜郡から来たアイヌの夫婦による、「このヒグマは数日前に雨竜で女を食害した獣だ」という証言である。
これについては、明確な事件を拾うことができた。
〈「雨竜郡深川村大鳳(中略)谷崎シャウ(四十二)は、二十五日午後三時、家族三人にて自宅をさる約百間の畑地に作業中、(中略)一頭の熊が駆け来るを認め、一同避難せんとするや、突然後方の藪の中より現れ、シャウに飛びかかり後頭部を掻き、その胸に咬みつき肉をえぐりたるに、他の両人はこれに抵抗、実子武夫(十八)は右手を咬まれ、なお両足に軽傷を負った。熊はそのまま逃走、シャウは絶命した」――『小樽新聞』大正4年10月1日〉
発生日時は三毛別事件の2ヵ月以上前であり、雨竜から苫前までは40キロ程度である。事件を起こした後、地元猟師に追撃され、天塩山中を北へ逃れたとすれば、同一個体による凶行の可能性は十分にある。
また同事件に関して『雨竜町史』に興味深い回顧録を見つけた。
〈「大正三年〔筆者註:四年の間違い〕、孫を背負って、きのこ取りにいった母が熊を発見した。さっそくその知らせで、田中善八ら数人のハンターが、ま新しいふんをたよりに捜すうち、突如現われた。発砲したがあわてていたので命中しない。私の父は、まさかりを持ちだしてウロウロするばかり。熊は雨竜川を渡って、大鳳で婆さんを殺し、かばった息子に重傷を負わした。(長尾小弥太)」――『雨竜町史』昭和44年〉
現場は雨竜町南部の戸田農場付近と思われる。とすれば三毛別事件の加害熊は、増毛方面から北上してきた可能性がある。
そこで増毛方面で、それらしい事件がなかったか調べてみると、次の事件を見つけた。
〈「雨竜郡深川村妹背牛、五井祐吉方の小作人阿部吉五郎(四九)は去月一日雨竜村の人跡未踏なる山奥へ人の噂を耳にして金銅鉄などの埋まれし宝庫探検の目的とかにて鋸ロッブ鉈類を携え、家を出で、同夜は雨竜村字国領の知人重田友二郎方に一泊、翌朝単独探検の危険を止むる友二郎の忠告をもきかず山深く入り込みしが爾来帰宅せず、(中略)あるいはなれぬ未開の山林の雪路に迷い熊穴に陥り餓死せしにあらざるかとの噂なり(雨竜通信)」――『北海タイムス』大正3年6月10日〉
山中に餓死した男を喰らい、肉食化した加害熊が、人肉を求めて山を下り、雨竜で谷崎シャウを襲ったという可能性も考えられる。
前出の深川での主婦殺害事件に関連して、実はもうひとつ凄惨な事件が起きている。それは隣の北竜村で大正3年9月に発生した。
〈「十九日、雨竜郡北竜村字ボウ野沼田小学校生徒、明地勇(十三)および山村米蔵(十三)の二人、午前七時半頃、登校の途中、突然、熊笹の中より一頭の巨熊が現れ、悲鳴をあげる勇を一撃のもとに打ち倒し、爪にひっかけたまま十間ばかりも引きずって勇の臓腑を引き出してこれを喰い、再び熊笹の中に姿を没した(後略)」――『小樽新聞』大正3年9月21日より要約〉
登校中の小学生が喰い殺されるという衝撃的な事件は、地元民の記憶に焼きついたらしく、いくつかの回顧録に散見される。
〈「一同が近づいてみると衣服はズタズタに引き裂かれ、内臓は余すところなく食われてしまい、見るも無残な姿に変わり果てていた。明地君の父親は涙をボロボロ流しながら、自分の着ていた印半纏を脱いでその上にかけ、部落民の用意した担架に乗せて笹藪をかき分け家に向かったのである」――『沼田町史』〉
事件同日の午後3時頃、50貫以上もある大熊が仕止められた。新聞も3歳の加害熊が銃殺されたと報じている。
しかし、このヒグマは加害熊ではなかったようである。というのは7ヵ月後の新聞に、「児童を喰殺した熊か」の見出しで、加害熊と覚しき別の熊が目撃された記事が掲載されているのである。
大正4年5月、雨竜郡北竜村の恵比島沢へ砂金鉱区調査に向かった4名が、巨熊1頭が仔熊2頭を引き連れているのに出会し、手負いのまま逃がしたが、仔熊は生け捕った。この親熊が、「昨年十月〔筆者註:九月の間違い〕同地付近にて小学生を喰い殺し、かつ数年来その地方を荒らしたる熊なるべく(後略)」(『小樽新聞』大正4年5月5日より要約)とある。
ヒグマによる殺傷事件が起きると、必ず熊狩りが行われたが、獲殺されたヒグマが加害熊であったかどうかは疑わしいケースもあった。加害熊かどうかに限らず、とりあえず一頭討ち取ることで、住民を安心させる意味もあったともいわれる。
道東某猟友会のベテラン猟師によれば、「熊の胃袋や糞から被害者の一部や衣服の切れ端などが見つからない限り、断定は難しいのではないか」という。 このとき手負いで逃がした母熊が、明地少年を喰い殺し、谷崎シャウを襲った加害熊だったのだろうか(その場合、三毛別事件を引き起こしたヒグマがオスであるため別個体ということになる)。あるいはまた、三毛別事件を含め、すべての事件を引き起こした恐るべき凶悪熊が別に存在したのか。 筆者は後者の可能性を考えたい。 その理由はいくつかあるが、ひとつは谷崎シャウが襲われた状況から、加害熊の目的が当初から「捕食」であったことが明らかであり、同事件前に、すでに「人間の味」を知っていた可能性が高いことである。 もうひとつは、ヒグマの習性として挙げられる、「以前に喰ったものをしつこく好む」という嗜好性である。 思い起こしていただきたい。三毛別事件で実際に食害に遭ったのは、女性と男児に限られるのである。加害熊の目当ては… 以下、『エゾヒグマ百科』を主な参考に、加害熊が襲った被害者を、仮説も含めて襲われた順に列記してみよう。大正3年北竜村明地勇(13) 男児 死亡 食害大正4年深川村谷崎シャウ(42) 女性 死亡 食害谷崎武夫(18) 男性 重傷大正4年苫前村太田家蓮見幹雄(6) 男児 死亡阿部マユ(34) 女性 死亡 食害大正4年苫前村明景家明景梅吉(当時1) 男児 死亡(3年後)明景ヤヨ(34) 女性 重傷長松要吉(59) 男性 重傷明景金蔵(3) 男児 死亡 食害斉藤春義(3) 男児 死亡 食害斉藤巌(6) 男児 死亡 食害斉藤タケ(34) 女性 死亡 食害胎児(0) 不明 死亡 一見して明らかな通り、食害されたのは男児と成人女性に限られている。 ここで襲われた男性について見てみよう。 まず三毛別事件の第一発見者である太田家の雇い人、長松要吉は、女性、子供とともに明景家に避難して遭難したが、彼に対する加害熊の行動が明らかに「排除」が目的であり、一撃を加えたのみで深追いしていないことに注目したい。加害熊は老人を食物とは見なさなかったのである。 もう1人の男性、谷崎武夫はどうだろう。彼は年齢的に成人と男児の中間とも言える。そこで筆者はこう考える。 加害熊の目当ては、実は彼だったのではないか。1年前に明地少年を襲ったことから、その味を求めていた加害熊は、武夫を襲う目的で出現した。しかし逃げ遅れたシャウを手近な獲物として襲った。そして女性の味を知り、その嗜好は男児から女性に変化した。これ以降、加害熊の捕食原理は女性が最上位となり、次に男児という序列ができたのではないか。幹雄少年が食害されなかった理由 本件の加害熊が「人間の女」に異常なまでの執着を持っていたことは『羆嵐』でも語られているが、木村によれば次のような事実が確認されたという。〈「また不思議なことに、どの農家も婦人用まくらのほとんどがずたずたに破られ、特に数馬宅では妻女アサノ専用の石湯タンポ(中略)を外まで引出し、つつみ布をズタズタにかみ切り、三キログラム余りの石をかみくだいてあった。(中略)ヒグマは最初に食害したものを好んで食おうとし、これを襲撃することが多く、この事件でも婦女をはじめ、婦女が使用した身の回り品にまで被害が及んでいる」――前掲『エゾヒグマ百科』〉 些末な例で恐縮ではあるが、動物のオスが「人間の女」を好むことは、筆者のネコを飼った経験からも明らかである。 筆者の愛猫はオスであったが、彼は明らかに女性に抱かれることを好んだ。酒宴の席などに顔を出すと、媚びるような鳴き声でシナを作り、女性にすり寄る。そしてその懐に抱かれると、満足そうに毛繕いを始めるのである。そうして彼は、筆者よりもはるかに長い時間を、その甘美な腕の中に抱かれて過ごすことに成功していた(ここで「ペットは飼い主に似る」等の俗説を持ち出してはならない)。 それはともかくとして、このことは事件の冒頭、太田家の惨劇で、幹雄少年が食害されなかった理由を考える参考にもなろう。加害熊は家屋をのぞき込み、そこに幹雄少年を認め、捕食目的で押し入った。そして少年を一撃し、いざ喰おうとした時、物音に顔を出したマユを認めた。そしてそこに「人間の女の匂い」を感じ取り、対象を変えたのである。なぜ女児を襲わなかったのか 加害熊の捕食原理の変化は、明景家での惨劇で一層明確になる。 右記リストのように加害熊は男児3人を先に倒しているが、真っ先に喰い始めるのは斉藤タケである。そしてタケを食い尽くした後に、ようやく男児を喰い始める。そして飽食すると、莚や布団などを掛けて覆い隠している。これはヒグマがエサを隠す典型的な習性である。木村によれば、遺体はタケを中心に春義と金蔵が頭を並べていた。つまり加害熊はこの3名を「エサ」と見なしたのである。もう1人の犠牲者、巌は加害熊が飽食したためか、主な食害対象とはならなかったが、残念ながら救出後に失血死してしまった。 最後に注目されるのが、襲われた明景宅で唯一の女児であったヒサノ(6)である。彼女は恐ろしさのあまり放心状態にあったとか、事件に気づかずに熟睡していたなどとされている。しかしヒグマの敏感な嗅覚からすれば、そこに女児がいたことは認識していたはずである。にもかかわらず襲わなかったのはなぜだろう。それは彼女が女児だったために、成熟した女性が発する匂いを感じなかったからではないだろうか。髪は頭の皮と共にスポリとかつらのようにぬけ…北海道・美瑛で起きた人喰い熊事件の“おぞましい顛末” へ続く(中山 茂大/Webオリジナル(外部転載))
道東某猟友会のベテラン猟師によれば、「熊の胃袋や糞から被害者の一部や衣服の切れ端などが見つからない限り、断定は難しいのではないか」という。
このとき手負いで逃がした母熊が、明地少年を喰い殺し、谷崎シャウを襲った加害熊だったのだろうか(その場合、三毛別事件を引き起こしたヒグマがオスであるため別個体ということになる)。あるいはまた、三毛別事件を含め、すべての事件を引き起こした恐るべき凶悪熊が別に存在したのか。
筆者は後者の可能性を考えたい。
その理由はいくつかあるが、ひとつは谷崎シャウが襲われた状況から、加害熊の目的が当初から「捕食」であったことが明らかであり、同事件前に、すでに「人間の味」を知っていた可能性が高いことである。
もうひとつは、ヒグマの習性として挙げられる、「以前に喰ったものをしつこく好む」という嗜好性である。
思い起こしていただきたい。三毛別事件で実際に食害に遭ったのは、女性と男児に限られるのである。
以下、『エゾヒグマ百科』を主な参考に、加害熊が襲った被害者を、仮説も含めて襲われた順に列記してみよう。
大正3年北竜村
明地勇(13) 男児 死亡 食害

大正4年深川村
谷崎シャウ(42) 女性 死亡 食害
谷崎武夫(18) 男性 重傷

大正4年苫前村太田家
蓮見幹雄(6) 男児 死亡
阿部マユ(34) 女性 死亡 食害

大正4年苫前村明景家
明景梅吉(当時1) 男児 死亡(3年後)
明景ヤヨ(34) 女性 重傷
長松要吉(59) 男性 重傷
明景金蔵(3) 男児 死亡 食害
斉藤春義(3) 男児 死亡 食害
斉藤巌(6) 男児 死亡 食害
斉藤タケ(34) 女性 死亡 食害
胎児(0) 不明 死亡
一見して明らかな通り、食害されたのは男児と成人女性に限られている。
ここで襲われた男性について見てみよう。
まず三毛別事件の第一発見者である太田家の雇い人、長松要吉は、女性、子供とともに明景家に避難して遭難したが、彼に対する加害熊の行動が明らかに「排除」が目的であり、一撃を加えたのみで深追いしていないことに注目したい。加害熊は老人を食物とは見なさなかったのである。
もう1人の男性、谷崎武夫はどうだろう。彼は年齢的に成人と男児の中間とも言える。そこで筆者はこう考える。
加害熊の目当ては、実は彼だったのではないか。1年前に明地少年を襲ったことから、その味を求めていた加害熊は、武夫を襲う目的で出現した。しかし逃げ遅れたシャウを手近な獲物として襲った。そして女性の味を知り、その嗜好は男児から女性に変化した。これ以降、加害熊の捕食原理は女性が最上位となり、次に男児という序列ができたのではないか。
本件の加害熊が「人間の女」に異常なまでの執着を持っていたことは『羆嵐』でも語られているが、木村によれば次のような事実が確認されたという。
〈「また不思議なことに、どの農家も婦人用まくらのほとんどがずたずたに破られ、特に数馬宅では妻女アサノ専用の石湯タンポ(中略)を外まで引出し、つつみ布をズタズタにかみ切り、三キログラム余りの石をかみくだいてあった。(中略)ヒグマは最初に食害したものを好んで食おうとし、これを襲撃することが多く、この事件でも婦女をはじめ、婦女が使用した身の回り品にまで被害が及んでいる」――前掲『エゾヒグマ百科』〉
些末な例で恐縮ではあるが、動物のオスが「人間の女」を好むことは、筆者のネコを飼った経験からも明らかである。
筆者の愛猫はオスであったが、彼は明らかに女性に抱かれることを好んだ。酒宴の席などに顔を出すと、媚びるような鳴き声でシナを作り、女性にすり寄る。そしてその懐に抱かれると、満足そうに毛繕いを始めるのである。そうして彼は、筆者よりもはるかに長い時間を、その甘美な腕の中に抱かれて過ごすことに成功していた(ここで「ペットは飼い主に似る」等の俗説を持ち出してはならない)。
それはともかくとして、このことは事件の冒頭、太田家の惨劇で、幹雄少年が食害されなかった理由を考える参考にもなろう。加害熊は家屋をのぞき込み、そこに幹雄少年を認め、捕食目的で押し入った。そして少年を一撃し、いざ喰おうとした時、物音に顔を出したマユを認めた。そしてそこに「人間の女の匂い」を感じ取り、対象を変えたのである。
加害熊の捕食原理の変化は、明景家での惨劇で一層明確になる。
右記リストのように加害熊は男児3人を先に倒しているが、真っ先に喰い始めるのは斉藤タケである。そしてタケを食い尽くした後に、ようやく男児を喰い始める。そして飽食すると、莚や布団などを掛けて覆い隠している。これはヒグマがエサを隠す典型的な習性である。木村によれば、遺体はタケを中心に春義と金蔵が頭を並べていた。つまり加害熊はこの3名を「エサ」と見なしたのである。もう1人の犠牲者、巌は加害熊が飽食したためか、主な食害対象とはならなかったが、残念ながら救出後に失血死してしまった。
最後に注目されるのが、襲われた明景宅で唯一の女児であったヒサノ(6)である。彼女は恐ろしさのあまり放心状態にあったとか、事件に気づかずに熟睡していたなどとされている。しかしヒグマの敏感な嗅覚からすれば、そこに女児がいたことは認識していたはずである。にもかかわらず襲わなかったのはなぜだろう。それは彼女が女児だったために、成熟した女性が発する匂いを感じなかったからではないだろうか。
髪は頭の皮と共にスポリとかつらのようにぬけ…北海道・美瑛で起きた人喰い熊事件の“おぞましい顛末” へ続く
(中山 茂大/Webオリジナル(外部転載))