「ようやく初めの一歩。でも、私たちは少数者の中の少数者。その存在は、まだまだ認められていない」
琉球遺骨返還、認めず 京大保管容認 京都地裁判決 樺太(サハリン、現ロシア領)に住んでいたアイヌ(エンチウ)の子孫らで作る「エンチウ遺族会」会長の田澤守さん(67)=札幌市=は、民族の苦難の歴史に思いをはせた。 オーストラリアの博物館が保管しているアイヌ民族の遺骨4体を巡り、日本側に返還することで両政府が合意したことが、政府関係者らへの取材で判明した。うち1体は樺太で収集された記録があり、同遺族会が返還を求めてきた。政府とアイヌ団体の代表者らが5月にも現地を訪れ、返還を受ける見通し。樺太アイヌの遺骨は日本の大学も研究材料として多数保管しており、国内でも返還が進む可能性がある。

樺太アイヌの遺骨が地域に返還されるのは初めて。政府は、同遺族会が遺骨返還の対象になる団体と認定する方針だ。1980年代から問題化、国内大学も多数収集 アイヌの遺骨は研究目的で収集されたが墓地から無断で持ち去られた例もあり、1980年代から問題化している。反発したアイヌ団体などによる返還請求訴訟と和解を経て、各大学にあるうちの一部が2016年以降、地域に返還された。海外に渡った遺骨も多く、17年には盗掘と分かった1体がドイツから返された。 文部科学省の調査(19年4月発表)では、国内の12大学が、北海道などで発掘された1574体と判別不能の346箱分のアイヌ遺骨を保管していた。このうち1323体と287箱は、20年10月までに北海道白老町の国立施設「民族共生象徴空間(ウポポイ)」の慰霊施設に移された。残りの多くを占めるのが樺太アイヌの遺骨だ。 豪では、キャンベラの国立博物館が1体、メルボルンの公立博物館が3体を保管。これらは、アイヌ研究で知られる、東京帝国大名誉教授で医学博士の小金井良精(よしきよ)氏(1859~1944年)らが11~36年、豪の先住民族アボリジニの骨と交換するなどして現地の学者に提供したものだ。北海道大アイヌ・先住民研究センターの加藤博文教授らが遺骨の添付文書や小金井氏の日記を調査し、判明した。 4体のうち3体は、北海道アイヌ協会(札幌市)が代表して受け取り、ウポポイの慰霊施設への移管を調整する。南樺太で収集された記録がある1体はエンチウ遺族会が樺太での埋葬を求めているが、現在はロシア領のため、公的施設での一時保管を検討する。 内閣官房アイヌ総合政策室は「関係各所と調整を進めており、今は話せない」としている。少数民族・エンチウ、受難の歴史 樺太の少数先住民族であるエンチウは、北海道や千島列島などのアイヌとは異なる独自の言語や文化を持っていたが、日露のはざまで戦争に翻弄(ほんろう)された。言葉や土地を奪われ、先祖の遺骨までも、研究材料として収集や取引の対象にされてきた。 樺太は多民族の雑居地だったが、1875(明治8)年の樺太千島交換条約で全島がロシア領に。エンチウは一旦は道北、続いて対雁(ついしかり)(現・北海道江別市)に移住させられ、その後、疫病で約半数が死亡したとされる。日露戦争後は南樺太が日本領となり、一部は故郷に戻ったが、太平洋戦争末期の旧ソ連軍の侵攻で再び移住を余儀なくされた。 アイヌ民族の骨は帝国大学の学者によって、日本人の起源を探る研究材料として収集された。当時の優生思想を背景に、日本人の「優秀さ」を証明して植民地支配を正当化する目的もあった。エンチウの骨も対象とされ、1920年代には京都帝大の人類学者・清野謙次氏(1885~1955年)が現地の墓を暴くなどして遺骨を大量に収集。東京帝大や北海道帝大も遺骨を大量に集めた。総数は公表されていないが、京大や北大など全国の大学に少なくとも計150体があるとみられる。 田澤さんら子孫は遺骨返還を求め、2018年にエンチウ遺族会を結成。エンチウは樺太先住民の言葉で、アイヌと同様に「人間」を意味する。だが、願いは簡単に認められなかった。戸籍での証明を求められたが、度重なる移住や終戦時の混乱で政府が保管する樺太の戸籍謄本は6村分のみ。大半の人は先祖の記録がない。 田澤さんの祖母らも終戦時に命からがら逃げ延び、道北の集落で暮らした。生活は貧しかった。1992年、93歳だった祖母を背負って樺太に墓参をした。「みんな故郷に帰りたがっていた」。墓参の様子を報じた当時の毎日新聞の記事を、今も大事に持っている。 アイヌを先住民族と初めて認めたアイヌ施策推進法が2019年に成立したが、自然資源を利用する権利などの先住権は盛り込まれなかった。アイヌ全体に関する法律だが、田澤さんには「議論の過程で、少数者の中の少数者であるエンチウは蚊帳の外だった」との思いが強い。 遺族会が遺骨の返還団体となることで今後、国内にある遺骨の返還も進む可能性が出てきたが、まだ道半ばだと感じている。「国や大学が誠意を持って遺骨を元の土に返してほしい。それまで我々エンチウは人間として認められないままだ」【千葉紀和】
樺太(サハリン、現ロシア領)に住んでいたアイヌ(エンチウ)の子孫らで作る「エンチウ遺族会」会長の田澤守さん(67)=札幌市=は、民族の苦難の歴史に思いをはせた。
オーストラリアの博物館が保管しているアイヌ民族の遺骨4体を巡り、日本側に返還することで両政府が合意したことが、政府関係者らへの取材で判明した。うち1体は樺太で収集された記録があり、同遺族会が返還を求めてきた。政府とアイヌ団体の代表者らが5月にも現地を訪れ、返還を受ける見通し。樺太アイヌの遺骨は日本の大学も研究材料として多数保管しており、国内でも返還が進む可能性がある。
樺太アイヌの遺骨が地域に返還されるのは初めて。政府は、同遺族会が遺骨返還の対象になる団体と認定する方針だ。
1980年代から問題化、国内大学も多数収集
アイヌの遺骨は研究目的で収集されたが墓地から無断で持ち去られた例もあり、1980年代から問題化している。反発したアイヌ団体などによる返還請求訴訟と和解を経て、各大学にあるうちの一部が2016年以降、地域に返還された。海外に渡った遺骨も多く、17年には盗掘と分かった1体がドイツから返された。
文部科学省の調査(19年4月発表)では、国内の12大学が、北海道などで発掘された1574体と判別不能の346箱分のアイヌ遺骨を保管していた。このうち1323体と287箱は、20年10月までに北海道白老町の国立施設「民族共生象徴空間(ウポポイ)」の慰霊施設に移された。残りの多くを占めるのが樺太アイヌの遺骨だ。
豪では、キャンベラの国立博物館が1体、メルボルンの公立博物館が3体を保管。これらは、アイヌ研究で知られる、東京帝国大名誉教授で医学博士の小金井良精(よしきよ)氏(1859~1944年)らが11~36年、豪の先住民族アボリジニの骨と交換するなどして現地の学者に提供したものだ。北海道大アイヌ・先住民研究センターの加藤博文教授らが遺骨の添付文書や小金井氏の日記を調査し、判明した。
4体のうち3体は、北海道アイヌ協会(札幌市)が代表して受け取り、ウポポイの慰霊施設への移管を調整する。南樺太で収集された記録がある1体はエンチウ遺族会が樺太での埋葬を求めているが、現在はロシア領のため、公的施設での一時保管を検討する。
内閣官房アイヌ総合政策室は「関係各所と調整を進めており、今は話せない」としている。
少数民族・エンチウ、受難の歴史
樺太の少数先住民族であるエンチウは、北海道や千島列島などのアイヌとは異なる独自の言語や文化を持っていたが、日露のはざまで戦争に翻弄(ほんろう)された。言葉や土地を奪われ、先祖の遺骨までも、研究材料として収集や取引の対象にされてきた。
樺太は多民族の雑居地だったが、1875(明治8)年の樺太千島交換条約で全島がロシア領に。エンチウは一旦は道北、続いて対雁(ついしかり)(現・北海道江別市)に移住させられ、その後、疫病で約半数が死亡したとされる。日露戦争後は南樺太が日本領となり、一部は故郷に戻ったが、太平洋戦争末期の旧ソ連軍の侵攻で再び移住を余儀なくされた。
アイヌ民族の骨は帝国大学の学者によって、日本人の起源を探る研究材料として収集された。当時の優生思想を背景に、日本人の「優秀さ」を証明して植民地支配を正当化する目的もあった。エンチウの骨も対象とされ、1920年代には京都帝大の人類学者・清野謙次氏(1885~1955年)が現地の墓を暴くなどして遺骨を大量に収集。東京帝大や北海道帝大も遺骨を大量に集めた。総数は公表されていないが、京大や北大など全国の大学に少なくとも計150体があるとみられる。
田澤さんら子孫は遺骨返還を求め、2018年にエンチウ遺族会を結成。エンチウは樺太先住民の言葉で、アイヌと同様に「人間」を意味する。だが、願いは簡単に認められなかった。戸籍での証明を求められたが、度重なる移住や終戦時の混乱で政府が保管する樺太の戸籍謄本は6村分のみ。大半の人は先祖の記録がない。
田澤さんの祖母らも終戦時に命からがら逃げ延び、道北の集落で暮らした。生活は貧しかった。1992年、93歳だった祖母を背負って樺太に墓参をした。「みんな故郷に帰りたがっていた」。墓参の様子を報じた当時の毎日新聞の記事を、今も大事に持っている。
アイヌを先住民族と初めて認めたアイヌ施策推進法が2019年に成立したが、自然資源を利用する権利などの先住権は盛り込まれなかった。アイヌ全体に関する法律だが、田澤さんには「議論の過程で、少数者の中の少数者であるエンチウは蚊帳の外だった」との思いが強い。
遺族会が遺骨の返還団体となることで今後、国内にある遺骨の返還も進む可能性が出てきたが、まだ道半ばだと感じている。「国や大学が誠意を持って遺骨を元の土に返してほしい。それまで我々エンチウは人間として認められないままだ」【千葉紀和】