毎日新聞彦根通信部で記者を務める私(61)は昨年秋、ステージbの直腸がんと診断された。11月に患部を20センチほど切除し、12月からは抗がん剤治療もスタートした。リンパ節転移があり、5年生存率は約50~70%と宣告されている。還暦になるまで病気欠勤もなかった私にとって、まさに秋晴れの野原で雷に打たれたような気分だった。がん闘病では生きる意欲を保つため、仕事を続けることも肝心という。かくなる上は治療と記者活動の両立を目指し、ありのままの日常をつづっていきたい。【伊藤信司】
【直腸はどこ?大腸の構造】慢性の下痢に悩む 昨年初夏から慢性の下痢が続いていた。便に血が混じることもあったため、仕事の合間に肛門科や消化器科で診てもらった。しかし「いぼじ」「神経性の腸炎」などと、いずれも軽症と言われた。 処方された下痢止めや整腸剤を飲んで様子を見ていたが、症状は悪化。7月には取材先で便意を催し、しゃがみ込んでかかとで肛門を押さえ、何とかしのぐほどになってしまった。 私は20年近く東京本社で働いた後、2018年から名古屋市の中部本社での勤務、20年に彦根通信部に着任した。妻子が住む自宅は千葉県船橋市にあり、単身赴任生活は4年を超えている。新型コロナウイルス禍もあり外食は控え、スーパーの総菜なども利用して栄養バランスには心掛けていたつもりだ。しかし、忙しさの中で朝食や昼食を抜き、埋め合わせに夕食を食べ過ぎ、酒量も増えてしまうのが実情だった。 7月に自宅に戻った際、妻は私の不調に気付き、「大きな病院で検査を受けてみたら」と勧めてくれた。1カ月以上続く下痢にただならぬ予感はあったが、重い病気が見つかることに恐れがあった。同時に連日の猛暑で「ドクターストップでビールを止められたらつらいな」との甘え心もあった。 医者いらずの半生だったし、今回も自然に良くなるのでは――と高をくくり、精密検査を秋まで先送りしてしまった。打ち砕かれた淡い期待 「直腸S状部が異常に肥大しています。血液中の腫瘍マーカー値も高く、これは恐らくがんでしょう」 10月7日、中部本社時代の知り合いに教えてもらった名古屋駅近くの総合病院でようやく精密検査を受けた。重病を否定してもらえるのでは、と淡い期待があったが見事に打ち砕かれた。 病理組織の検査結果も出て「直腸がん」と確定。しかし不幸中の幸いで、他臓器への転移は見つからなかった。自分でもこの病気を学ぼうと、図書館で解説本を何冊か借りて熟読した。「直腸がんや大腸がんは比較的おとなしく、治りやすい」との記述があり、少し心が静まる。 しかし10月20日、手術に向けた最終説明で主治医からがん進行度が「ステージb」だと知らされた。腫瘍が腸管外壁まで達しており、周辺リンパ節も最大限切除するという。 最近出版された書籍を見ると、直腸がんステージ靴5年生存率は63%となっていた。インターネット情報でも同様の数字がしばしば出ており、再び気持ちが沈んでしまった。身に染みた周囲の温かさ 子供の頃から医者や病院が嫌いで、予防接種も1カ月前から気に病むほどだった。そんな私が生まれて初めて入院し、手術で腸を20~30センチ切るはめになった。最近は体への負担を減らすため、腹部に数カ所穴を開けるのみの「腹腔(ふくくう)鏡下手術」が増えている。しかし私の場合は切除範囲が大きく、下腹部を切り開く従来型の手法を取ることになった。 毎日新聞でも連載を持つ中川恵一・東京大特任教授の著書によると、がん診断を受けた患者が1年以内に自殺するリスクは通常の20倍以上で、告知直後の気分の落ち込み、うつ状態には特に注意が必要だとしている。 とはいえ、住んでいる通信部をしばらく空けることになり、大人として周囲へのあいさつは欠かせない。しかも今年度は地元自治会の役員も務めている。 10月15日にあった自治会の役員会で、直腸がん手術により当面は自治会の職務も果たせないと参加者に謝って回った。「留守宅は見守るので心配しないで」「大腸がんを完治させた友人がいる。きっと大丈夫」などと励まされ、ご近所の温かさが心に染みた。同窓生からのエールに涙 血便がひんぱんになり、肛門が圧迫される感じも強まってきた。予定を数日繰り上げて休職に入る。千葉県船橋市の自宅に戻り、妻と腹帯などの入院用品を買い出しに行った。 それらの持ち物に名前を書いたり、手術説明を読んだりして過ごしていると、高校時代に同窓だった女性から久々に「元気にしてる?」と無料通信アプリ「LINE(ライン)」のメッセージが届いた。別の同窓生の連絡先を教えてほしいとの内容だったが、何というタイミングだろう。 「実は直腸がんステージ靴判明し、来週に手術予定」と返すと、「同窓女子の間で大騒ぎになってる」「がん治療を経験した男子たちが伊藤君に会いたがってる」と矢継ぎ早にメッセージが来た。 大手術を前に、仲間からの励ましに涙が出た。ふと野球部主将だった級友が数年前に悪性リンパ腫で急逝したことを思い出す。彼の敵討ちのつもりで何としても生き延びようと思いを新たにした。初めての手術に緊張 11月2日に入院し、名古屋駅前の高層ビル群を望む個室に入った。食事はおかゆに卵豆腐など、消化しやすいメニュー。3日は朝から北朝鮮がミサイルを発射し、病室のテレビは終日そのニュースで騒がしい。術前最後の夕食はサプリ飲料3本のみ。夜には下剤を2種類飲み、胃腸の内容物をすべて排出した。 手術当日の4日。朝からシャワーを浴び、ヒゲをそって身を清める。病室に来た看護師らがペンで腹に手術用の目印を何カ所か付けていった。「万が一、人工肛門を設ける際はこのあたりでいいですか」などと確認され、緊張感が高まる。 正午過ぎに妻とともに手術室に向かう。「北朝鮮のミサイルが飛んでこなければ大丈夫だよ」と虚勢を張り、入り口で別れた。金属製の器具類に囲まれた室内で高さ1メートルほどの手術台に上がる。背中に麻酔管を入れ、酸素マスクをかぶせられると、一気に意識が遠のいた。 「はい終わりました」。医師の呼びかけで目が覚めた。直腸がんの手術を終えた私は既に手術室から集中治療室(ICU)のベッドに移っていた。「無事済んだよ」と妻が傍らでささやく。「何時間たったの」と聞くと、「ちょうど5時間半」と教えてくれた。 全身麻酔が解けた瞬間、寒気で思わず体を丸めた。すると今度は切ったばかりの腹部が猛烈に痛む。しかし術後の人間はさまざまなチューブや計測器でつながれ、動くこともできない。これから24時間は絶対安静で、ベッドから下りることもできないと聞かされた。 手術初体験の身としては、管につながれて宙づりのような状態になったのが最もつらかった。おりに閉じ込められて身動きが取れない動物になったような気分だった。傷口は痛むが命を実感 ICUから一般病棟に移っても尿道管や腹腔(ふくくう)ドレーン(排管)、点滴類は抜けなかった。リハビリで術後2日目から歩行訓練が始まった。早期の社会復帰には早く体を動かしていくことが大事だという。しかし、たびたび体に管が絡まり、気がめいる。くしゃみやせきをすると、傷口が癒えていない下腹に衝撃が走る。寝ているときも痛みが怖くて寝返りも打てず、体がこわばって熟睡できない。いつまでこの泥沼が続くのか――。治療はまだ始まったばかりだが、先が見えずに命を絶ってしまう長期療養患者の気持ちが少し分かる気がした。 術後4日目、やっと背中への麻酔点滴、尿道管が抜けた。自力で排尿可能になり、生きた心地がする。食事も重湯から3分がゆに変わり、茶わん蒸し、鶏だんごなどおかずも増えてきた。精神的にも余裕が出て、妻や職場の上司にもようやく近況をメールで伝えることができた。 夕方、テレビを見ていると皆既月食が始まると聞き、病室から夜空を見上げた。赤黒く染まった月が欠けていき、再び満ちていく姿に宇宙の神秘を感じ、手術成功の喜びを初めてかみ締めることができた。新たな試練も その後は連日リハビリ室で自転車こぎなどに励み、看護師からも褒められるほど回復が進んだ。予定を繰り上げて術後10日目で退院できた。通信部に戻ってきて「この調子なら12月から仕事の試運転を始め、年明けから完全に職場復帰できるのでは」と楽観的な気分になった。 ところが私のような進行がん患者には、患部切除後にも大きな試練が待っている。再発の恐れが約3割あるため、殺細胞性の抗がん剤投与を半年ほど続ける必要があるのだという。 12月1~3日に再入院し、まずオキサリプラチン(白金製剤)の点滴注射を受けることになった。
慢性の下痢に悩む
昨年初夏から慢性の下痢が続いていた。便に血が混じることもあったため、仕事の合間に肛門科や消化器科で診てもらった。しかし「いぼじ」「神経性の腸炎」などと、いずれも軽症と言われた。
処方された下痢止めや整腸剤を飲んで様子を見ていたが、症状は悪化。7月には取材先で便意を催し、しゃがみ込んでかかとで肛門を押さえ、何とかしのぐほどになってしまった。
私は20年近く東京本社で働いた後、2018年から名古屋市の中部本社での勤務、20年に彦根通信部に着任した。妻子が住む自宅は千葉県船橋市にあり、単身赴任生活は4年を超えている。新型コロナウイルス禍もあり外食は控え、スーパーの総菜なども利用して栄養バランスには心掛けていたつもりだ。しかし、忙しさの中で朝食や昼食を抜き、埋め合わせに夕食を食べ過ぎ、酒量も増えてしまうのが実情だった。
7月に自宅に戻った際、妻は私の不調に気付き、「大きな病院で検査を受けてみたら」と勧めてくれた。1カ月以上続く下痢にただならぬ予感はあったが、重い病気が見つかることに恐れがあった。同時に連日の猛暑で「ドクターストップでビールを止められたらつらいな」との甘え心もあった。
医者いらずの半生だったし、今回も自然に良くなるのでは――と高をくくり、精密検査を秋まで先送りしてしまった。
打ち砕かれた淡い期待
「直腸S状部が異常に肥大しています。血液中の腫瘍マーカー値も高く、これは恐らくがんでしょう」
10月7日、中部本社時代の知り合いに教えてもらった名古屋駅近くの総合病院でようやく精密検査を受けた。重病を否定してもらえるのでは、と淡い期待があったが見事に打ち砕かれた。
病理組織の検査結果も出て「直腸がん」と確定。しかし不幸中の幸いで、他臓器への転移は見つからなかった。自分でもこの病気を学ぼうと、図書館で解説本を何冊か借りて熟読した。「直腸がんや大腸がんは比較的おとなしく、治りやすい」との記述があり、少し心が静まる。
しかし10月20日、手術に向けた最終説明で主治医からがん進行度が「ステージb」だと知らされた。腫瘍が腸管外壁まで達しており、周辺リンパ節も最大限切除するという。
最近出版された書籍を見ると、直腸がんステージ靴5年生存率は63%となっていた。インターネット情報でも同様の数字がしばしば出ており、再び気持ちが沈んでしまった。
身に染みた周囲の温かさ
子供の頃から医者や病院が嫌いで、予防接種も1カ月前から気に病むほどだった。そんな私が生まれて初めて入院し、手術で腸を20~30センチ切るはめになった。最近は体への負担を減らすため、腹部に数カ所穴を開けるのみの「腹腔(ふくくう)鏡下手術」が増えている。しかし私の場合は切除範囲が大きく、下腹部を切り開く従来型の手法を取ることになった。
毎日新聞でも連載を持つ中川恵一・東京大特任教授の著書によると、がん診断を受けた患者が1年以内に自殺するリスクは通常の20倍以上で、告知直後の気分の落ち込み、うつ状態には特に注意が必要だとしている。
とはいえ、住んでいる通信部をしばらく空けることになり、大人として周囲へのあいさつは欠かせない。しかも今年度は地元自治会の役員も務めている。
10月15日にあった自治会の役員会で、直腸がん手術により当面は自治会の職務も果たせないと参加者に謝って回った。「留守宅は見守るので心配しないで」「大腸がんを完治させた友人がいる。きっと大丈夫」などと励まされ、ご近所の温かさが心に染みた。
同窓生からのエールに涙
血便がひんぱんになり、肛門が圧迫される感じも強まってきた。予定を数日繰り上げて休職に入る。千葉県船橋市の自宅に戻り、妻と腹帯などの入院用品を買い出しに行った。
それらの持ち物に名前を書いたり、手術説明を読んだりして過ごしていると、高校時代に同窓だった女性から久々に「元気にしてる?」と無料通信アプリ「LINE(ライン)」のメッセージが届いた。別の同窓生の連絡先を教えてほしいとの内容だったが、何というタイミングだろう。
「実は直腸がんステージ靴判明し、来週に手術予定」と返すと、「同窓女子の間で大騒ぎになってる」「がん治療を経験した男子たちが伊藤君に会いたがってる」と矢継ぎ早にメッセージが来た。
大手術を前に、仲間からの励ましに涙が出た。ふと野球部主将だった級友が数年前に悪性リンパ腫で急逝したことを思い出す。彼の敵討ちのつもりで何としても生き延びようと思いを新たにした。
初めての手術に緊張
11月2日に入院し、名古屋駅前の高層ビル群を望む個室に入った。食事はおかゆに卵豆腐など、消化しやすいメニュー。3日は朝から北朝鮮がミサイルを発射し、病室のテレビは終日そのニュースで騒がしい。術前最後の夕食はサプリ飲料3本のみ。夜には下剤を2種類飲み、胃腸の内容物をすべて排出した。
手術当日の4日。朝からシャワーを浴び、ヒゲをそって身を清める。病室に来た看護師らがペンで腹に手術用の目印を何カ所か付けていった。「万が一、人工肛門を設ける際はこのあたりでいいですか」などと確認され、緊張感が高まる。
正午過ぎに妻とともに手術室に向かう。「北朝鮮のミサイルが飛んでこなければ大丈夫だよ」と虚勢を張り、入り口で別れた。金属製の器具類に囲まれた室内で高さ1メートルほどの手術台に上がる。背中に麻酔管を入れ、酸素マスクをかぶせられると、一気に意識が遠のいた。
「はい終わりました」。医師の呼びかけで目が覚めた。直腸がんの手術を終えた私は既に手術室から集中治療室(ICU)のベッドに移っていた。「無事済んだよ」と妻が傍らでささやく。「何時間たったの」と聞くと、「ちょうど5時間半」と教えてくれた。
全身麻酔が解けた瞬間、寒気で思わず体を丸めた。すると今度は切ったばかりの腹部が猛烈に痛む。しかし術後の人間はさまざまなチューブや計測器でつながれ、動くこともできない。これから24時間は絶対安静で、ベッドから下りることもできないと聞かされた。
手術初体験の身としては、管につながれて宙づりのような状態になったのが最もつらかった。おりに閉じ込められて身動きが取れない動物になったような気分だった。
傷口は痛むが命を実感
ICUから一般病棟に移っても尿道管や腹腔(ふくくう)ドレーン(排管)、点滴類は抜けなかった。リハビリで術後2日目から歩行訓練が始まった。早期の社会復帰には早く体を動かしていくことが大事だという。しかし、たびたび体に管が絡まり、気がめいる。くしゃみやせきをすると、傷口が癒えていない下腹に衝撃が走る。寝ているときも痛みが怖くて寝返りも打てず、体がこわばって熟睡できない。いつまでこの泥沼が続くのか――。治療はまだ始まったばかりだが、先が見えずに命を絶ってしまう長期療養患者の気持ちが少し分かる気がした。
術後4日目、やっと背中への麻酔点滴、尿道管が抜けた。自力で排尿可能になり、生きた心地がする。食事も重湯から3分がゆに変わり、茶わん蒸し、鶏だんごなどおかずも増えてきた。精神的にも余裕が出て、妻や職場の上司にもようやく近況をメールで伝えることができた。
夕方、テレビを見ていると皆既月食が始まると聞き、病室から夜空を見上げた。赤黒く染まった月が欠けていき、再び満ちていく姿に宇宙の神秘を感じ、手術成功の喜びを初めてかみ締めることができた。
新たな試練も
その後は連日リハビリ室で自転車こぎなどに励み、看護師からも褒められるほど回復が進んだ。予定を繰り上げて術後10日目で退院できた。通信部に戻ってきて「この調子なら12月から仕事の試運転を始め、年明けから完全に職場復帰できるのでは」と楽観的な気分になった。
ところが私のような進行がん患者には、患部切除後にも大きな試練が待っている。再発の恐れが約3割あるため、殺細胞性の抗がん剤投与を半年ほど続ける必要があるのだという。
12月1~3日に再入院し、まずオキサリプラチン(白金製剤)の点滴注射を受けることになった。