コロナ禍で注目された地方移住。都会ではなく山奥で仕事をする人がどんどん増えている時代である。そんな今こそ「なにもない田舎」と言われる地域の資源を再発見する機運も高まっている。
【写真】この記事の写真を見る(4枚) ここでは、人口が減少した地域でビジネスを成功させた事例を経営エッセイストの藻谷ゆかりさんがまとめた本『山奥ビジネス』(新潮社)より一部を抜粋。熊本県山都町の老舗酒蔵の、ゲーム「刀剣乱舞」を通じて手にした縁による立て直しについて紹介する。(全2回の2回目/後編を読む)

◆◆◆「自分が酒蔵を継ぐ」と思っていたのに… 1770年(明和7年)創業の老舗、通潤酒造12代目の山下泰雄は1963年生まれ、三人きょうだいの長男である。山下は老舗酒蔵の跡取りとして子供のころから祖父にかわいがられ、「長男である自分が、通潤酒造を継ぐのが当たり前」と思っていた。 高校から熊本市内に下宿し、大学は大阪大学経済学部に進学して数理経済を学んだ。大阪では上方落語や芝居を見に行ったり、当時の大阪証券取引所で小口の株式投資もやってみたりするなど、大学生活を大いにエンジョイしていたそうだ。通潤酒造12代目 山下泰雄さん(写真提供:通潤酒造) 山下は1986年に大阪大学卒業後、日本興業銀行(現みずほ銀行)に入行する。東京の日本橋支店に配属され、朝8時から終電までモーレツに働く日々を送る。上司からは100億円規模の不動産融資をどんどん増やすように言われ、「日本興業銀行は日本経済の基幹産業に対して融資をする」と思っていた山下は、違和感を覚えたという。 そのころ実家の通潤酒造は山下の祖父と父が経営していたが、売上が約1億5000万円に対して、借入金が約2億円もある経営状況だった。父は東京農業大学を卒業して家業に戻り、酒造りには熱心でも経営にはあまり関心を持たなかった。経営を担っていた祖父は、孫がエリート銀行員となったことを大変に喜び、「自分の代で造り酒屋をやめる」と言い出して、帰省していた山下と口論となった。「いつかは自分が酒蔵を継ぐ」と思っていた山下にとって、祖父が廃業すると言い出したことは、「足元の地面が抜け落ちるような感覚」だった。後から知ることになるのだが、口論した際に祖父は脳卒中を起こしており、祖父が1989年に亡くなると、山下は責任を感じる。そして山下は興銀を辞めて熊本の酒蔵に戻ることを決意し、1989年11月に人事部に退職することを伝えた。時はバブル経済の絶頂期、「今、興銀を辞めて熊本の酒蔵に戻るのか?」と人事部には大変驚かれたという。免税店での販売と海外輸出 当時の通潤酒造は赤字経営で、山下が最初に受け取った月給はわずか15万円だった。銀行員の給与水準は高かったので、前年度の給与水準に基づく住民税を払うのに苦労したという。帰郷した山下は酒蔵経営を一から学び、同業者や山都町の酒米農家との付き合いも始まった。しかし山奥にある小さな酒蔵は月々の資金繰りにも苦労し、山下は個人的な信用で地銀から融資を受けて、なんとか事業を継続できるという状況だった。 1992年12月、当時世界最大級といわれた成田空港の第二ターミナルが開業した。「成田空港第二ターミナルの免税店で、日本酒を販売しないか」と知り合い経由で声を掛けられ、山下は高価格帯の純米吟醸酒を卸し始める。 免税店での販売は当たり、多い時には月に4000本も売れ年間約5000万円を売り上げた。その後も同じ業者を通じて、台湾や韓国の最高級ホテルでの販売や中国の航空会社の機内販売にも採用され、通潤酒造は日本酒の海外販売を拡大していった。経営状況は徐々に好転し、売上は約2億5000万円となり、海外売上が3割以上を占めた。また海外売上の拡大で、高価格帯の純米吟醸酒の生産能力を高められたことも収穫だったという。観光酒蔵からネット通販へ しかしその後、競合が増えたため免税店での販売や海外輸出は伸び悩む。またそれらの取引は卸マージンが大きく、販促物の提供なども負担になっていた。 そこで山下は消費者への直接販売を増やすために、1996年から酒蔵見学を始め、観光酒蔵への転換を試みた。山都町の観光名所である通潤橋を訪れる観光客を呼び込み、酒蔵で無料試飲を提供して日本酒を買ってもらうスタイルだ。通潤酒造には熊本県内で一番古いとされる寛政蔵という酒蔵があり、リフォームして観光酒蔵として整備した。 しかし実際に酒蔵見学をやってみると、観光客は無料の試飲を楽しんでも、肝心の日本酒をなかなか買ってくれない。酒粕を活用して製造販売している漬物を買うくらいで、平均客単価はわずか500円程度だった。 1997年には先代の父親から代替わりして、山下が通潤酒造12代目の社長となる。山下は消費者への直接販売を増やすために、今度は会員制のカタログ通販を始めた。観光に来た顧客を中心にカタログを送付し、ある程度伸びたものの、印刷代などがコスト負担となった。そこで2000年代に入ってからは、ネット通販に注力する。 転機となったのは、地元出身の若い社員が入社したことである。2012年に、山都町にある真宗大谷派潜龍山延隆寺18代目の跡取りとなる、菊池一哲(かずあき)がUターンした。いずれは寺を継ぐものの、父親である現住職も元気なうちに地域との関係を身につけるため、副住職として帰郷したのだ。住職から「息子が帰ってきた」という話を聞いた山下は、菊池を広報・ネット通販担当として雇うことにする。 菊池はネット通販の経験はなかったが、山下は中小機構の専門家派遣制度で月に一度派遣される専門家から、菊池がネット通販の指導を受けられるようにした。菊池は通潤酒造の酒造りについてのブログを書き、SNSでも積極的に発信をして、通潤酒造のネット通販を軌道に乗せようと日々懸命の努力をしていた。 ある日、菊池はオンラインゲーム「刀剣乱舞」に出てくる「蛍丸」という刀のことを友人から聞く。「刀剣乱舞」とは2015年1月にリリースされた人気ゲームで、テレビアニメや映画化もされている。そして「蛍丸」という刀は、山都町と以下のような由縁がある。「蛍丸」とは、南北朝時代の南朝側の武将である阿蘇惟澄(これずみ)が所有していたとされる刀だ。阿蘇惟澄は1336年の多々良浜の戦いで北朝側と戦ったが敗れ、山都町矢部地区にある入佐城に戻った。そこで阿蘇惟澄は戦で刃こぼれした刀が自然に修復する様子を夢に見たという。その様子がまるで刀のまわりに蛍が飛んでいるようであったことから、その刀を「蛍丸」と名付けたとされる。 その後、「蛍丸」は阿蘇神社や肥後熊本藩の細川家などで保管されていたが、戦後GHQによる刀狩りから行方が分からなくなっており、まさに「伝説の名刀」となっているのだ。 菊池はオンラインゲームで「蛍丸」が話題になっていることを社長の山下に話したところ、「蛍丸」と山都町は深い縁があるので通潤酒造で商品化することにした。新しく蛍丸のボトルをデザインしたのは、山都町にある「みずたまデザイン株式会社」である。2010年に東京から山都町へ移住した夫婦が、山奥で予約制のカフェとデザイン会社を経営していたのだ。 蛍丸のボトルデザインは、370mlの細い瓶の表に黄色い蛍が舞うように描かれ、裏側には刀剣が縦に描かれている。ボトルに日本酒が入ると、ちょうど刀剣の上を蛍が舞っているように見える。こうしてその土地の伝承をボトルにデザインした「純米吟醸酒 蛍丸」を、2015年の6月に商品化することができた。「純米吟醸酒蛍丸」は内容量370mlで1528円(税込)と日本酒としては割高である。しかし「刀剣乱舞」の人気もあって全国からネット注文が殺到し、最初の300本は数秒で完売したという。その後も人気が続き、今では年間1万本以上が売れている。このように人気オンラインゲームと山都町の伝承を結びつけることで、全国の若い世代に山奥にある通潤酒造の日本酒を買ってもらうことに成功したのだ。熊本地震での被災と酒蔵エンターテイメント業への転換 2016年4月14日と16日に発生した熊本地震では、震源地に近い山都町でも震度6弱を記録し、通潤酒造も甚大な被害があった(写真)。14棟の蔵や建物が全半壊して4000リットル以上の日本酒がタンクから流出した。 16日未明に起きた本震では、山下が自宅の2階で寝ているとドーンという大きな音がして家屋が激しく揺れ、2階の壁が崩れ落ちて外が見えていたという。山下は「蛍丸のヒットで売上が上向きになってきたところなのに、この先、酒蔵を続けていけるだろうか」と将来に大きな不安を持つようになった。社員たちとガレキの片付けを始めたものの、被害のあまりの大きさに途方に暮れる日々だった。 そんな中、「蛍丸」の販売を通じて知り合った全国の顧客からSNSで励ましの声が届き、通潤酒造にネット注文が殺到した。事業の再建もままならない中だったが、社員総出でネット注文に応じ大忙しの日々となる。 そして5月3日に東京・有明で「SUPER COMIC CITY」というイベントが開催された。この日のために社員一丸となって瓶詰めした蛍丸2000本を、菊池が会場で販売すると半日で売り切れた。蛍丸を通じて知り合った全国の若い世代から、熊本地震後にこのような熱い支援を受けて、山下や社員たちは通潤酒造の経営を立て直す勇気が出てきたという。 熊本地震後に、蒲島郁夫熊本県知事は「創造的復興」「震災前よりも良いものを創る」を提唱した。山下はこの言葉に力づけられる。 ちょうどその頃、知人からアメリカ・カリフォルニア州のワインの産地、ナパバレーに行くことを勧められ、山下夫婦はワインツーリズムを体験するためにナパバレーを旅した。ナパバレーのワイナリーでは、3種類のワインを50ドルで有料試飲に提供しており、なかには有料試飲が100ドルもするワイナリーもあった。それでも観光客が続々と訪れて、気に入った高額のワインを購入していた。山下はナパバレーのこうした状況を見て、目からウロコが落ちるような思いだったという。 帰国後、山下は「創造的復興」をさらに進めるために、「酒蔵エンターテイメント業」への変革を決意する。熊本地震関係の復興補助金を受け、さらにクラウドファンディングでも寄付を募って、江戸時代からの寛政蔵を「おもてなしのカフェ」にした。ここでしか味わえない利き酒セットを数種類用意したが、山奥にある通潤酒造には車を運転してくるお客も多いため、ノンアルコールのドリンクや甘酒、スイーツのメニューも充実させた。 寛政蔵はあくまでカフェとして経営し、本格的に食事を楽しみたい人には山都町の割烹店を紹介している。こうすることで地域での滞在時間を長くし、観光客が地域を循環するようにしているのだ。 地方にある企業は、一般に「IT化・ブランド化・国際化」が遅れていることが多い。しかし熊本の山奥にある通潤酒造は、海外販売やネット通販を推進し、独自の商品を開発し「酒蔵エンターテイメント業」にチャレンジしてブランド化も進めた。逆に言えば、この3つを推進してきたからこそ、通潤酒造は山奥の小さな酒蔵でも生き残れたと言えるだろう。 さらに通潤酒造は、本書のテーマであるSLOCシナリオを見事に実行している。このように山奥にある小さな酒蔵でも、地域資源を活かした商品開発をし、全国に情報発信して若い世代ともつながりを持つように努力し続けることで、ビジネスの幅が広がるのだ。「熊しか買いに来ない」と忠告されたが…脱サラ夫婦が始めた山奥のパン工房が“話題のお店”になれたワケ へ続く(藻谷 ゆかり)
ここでは、人口が減少した地域でビジネスを成功させた事例を経営エッセイストの藻谷ゆかりさんがまとめた本『山奥ビジネス』(新潮社)より一部を抜粋。熊本県山都町の老舗酒蔵の、ゲーム「刀剣乱舞」を通じて手にした縁による立て直しについて紹介する。(全2回の2回目/後編を読む)
◆◆◆
1770年(明和7年)創業の老舗、通潤酒造12代目の山下泰雄は1963年生まれ、三人きょうだいの長男である。山下は老舗酒蔵の跡取りとして子供のころから祖父にかわいがられ、「長男である自分が、通潤酒造を継ぐのが当たり前」と思っていた。
高校から熊本市内に下宿し、大学は大阪大学経済学部に進学して数理経済を学んだ。大阪では上方落語や芝居を見に行ったり、当時の大阪証券取引所で小口の株式投資もやってみたりするなど、大学生活を大いにエンジョイしていたそうだ。
通潤酒造12代目 山下泰雄さん(写真提供:通潤酒造)
山下は1986年に大阪大学卒業後、日本興業銀行(現みずほ銀行)に入行する。東京の日本橋支店に配属され、朝8時から終電までモーレツに働く日々を送る。上司からは100億円規模の不動産融資をどんどん増やすように言われ、「日本興業銀行は日本経済の基幹産業に対して融資をする」と思っていた山下は、違和感を覚えたという。
そのころ実家の通潤酒造は山下の祖父と父が経営していたが、売上が約1億5000万円に対して、借入金が約2億円もある経営状況だった。父は東京農業大学を卒業して家業に戻り、酒造りには熱心でも経営にはあまり関心を持たなかった。経営を担っていた祖父は、孫がエリート銀行員となったことを大変に喜び、「自分の代で造り酒屋をやめる」と言い出して、帰省していた山下と口論となった。
「いつかは自分が酒蔵を継ぐ」と思っていた山下にとって、祖父が廃業すると言い出したことは、「足元の地面が抜け落ちるような感覚」だった。後から知ることになるのだが、口論した際に祖父は脳卒中を起こしており、祖父が1989年に亡くなると、山下は責任を感じる。そして山下は興銀を辞めて熊本の酒蔵に戻ることを決意し、1989年11月に人事部に退職することを伝えた。時はバブル経済の絶頂期、「今、興銀を辞めて熊本の酒蔵に戻るのか?」と人事部には大変驚かれたという。
当時の通潤酒造は赤字経営で、山下が最初に受け取った月給はわずか15万円だった。銀行員の給与水準は高かったので、前年度の給与水準に基づく住民税を払うのに苦労したという。帰郷した山下は酒蔵経営を一から学び、同業者や山都町の酒米農家との付き合いも始まった。しかし山奥にある小さな酒蔵は月々の資金繰りにも苦労し、山下は個人的な信用で地銀から融資を受けて、なんとか事業を継続できるという状況だった。
1992年12月、当時世界最大級といわれた成田空港の第二ターミナルが開業した。「成田空港第二ターミナルの免税店で、日本酒を販売しないか」と知り合い経由で声を掛けられ、山下は高価格帯の純米吟醸酒を卸し始める。
免税店での販売は当たり、多い時には月に4000本も売れ年間約5000万円を売り上げた。その後も同じ業者を通じて、台湾や韓国の最高級ホテルでの販売や中国の航空会社の機内販売にも採用され、通潤酒造は日本酒の海外販売を拡大していった。経営状況は徐々に好転し、売上は約2億5000万円となり、海外売上が3割以上を占めた。また海外売上の拡大で、高価格帯の純米吟醸酒の生産能力を高められたことも収穫だったという。
しかしその後、競合が増えたため免税店での販売や海外輸出は伸び悩む。またそれらの取引は卸マージンが大きく、販促物の提供なども負担になっていた。
そこで山下は消費者への直接販売を増やすために、1996年から酒蔵見学を始め、観光酒蔵への転換を試みた。山都町の観光名所である通潤橋を訪れる観光客を呼び込み、酒蔵で無料試飲を提供して日本酒を買ってもらうスタイルだ。通潤酒造には熊本県内で一番古いとされる寛政蔵という酒蔵があり、リフォームして観光酒蔵として整備した。
しかし実際に酒蔵見学をやってみると、観光客は無料の試飲を楽しんでも、肝心の日本酒をなかなか買ってくれない。酒粕を活用して製造販売している漬物を買うくらいで、平均客単価はわずか500円程度だった。
1997年には先代の父親から代替わりして、山下が通潤酒造12代目の社長となる。山下は消費者への直接販売を増やすために、今度は会員制のカタログ通販を始めた。観光に来た顧客を中心にカタログを送付し、ある程度伸びたものの、印刷代などがコスト負担となった。そこで2000年代に入ってからは、ネット通販に注力する。
転機となったのは、地元出身の若い社員が入社したことである。2012年に、山都町にある真宗大谷派潜龍山延隆寺18代目の跡取りとなる、菊池一哲(かずあき)がUターンした。いずれは寺を継ぐものの、父親である現住職も元気なうちに地域との関係を身につけるため、副住職として帰郷したのだ。住職から「息子が帰ってきた」という話を聞いた山下は、菊池を広報・ネット通販担当として雇うことにする。
菊池はネット通販の経験はなかったが、山下は中小機構の専門家派遣制度で月に一度派遣される専門家から、菊池がネット通販の指導を受けられるようにした。菊池は通潤酒造の酒造りについてのブログを書き、SNSでも積極的に発信をして、通潤酒造のネット通販を軌道に乗せようと日々懸命の努力をしていた。
ある日、菊池はオンラインゲーム「刀剣乱舞」に出てくる「蛍丸」という刀のことを友人から聞く。「刀剣乱舞」とは2015年1月にリリースされた人気ゲームで、テレビアニメや映画化もされている。そして「蛍丸」という刀は、山都町と以下のような由縁がある。
「蛍丸」とは、南北朝時代の南朝側の武将である阿蘇惟澄(これずみ)が所有していたとされる刀だ。阿蘇惟澄は1336年の多々良浜の戦いで北朝側と戦ったが敗れ、山都町矢部地区にある入佐城に戻った。そこで阿蘇惟澄は戦で刃こぼれした刀が自然に修復する様子を夢に見たという。その様子がまるで刀のまわりに蛍が飛んでいるようであったことから、その刀を「蛍丸」と名付けたとされる。
その後、「蛍丸」は阿蘇神社や肥後熊本藩の細川家などで保管されていたが、戦後GHQによる刀狩りから行方が分からなくなっており、まさに「伝説の名刀」となっているのだ。
菊池はオンラインゲームで「蛍丸」が話題になっていることを社長の山下に話したところ、「蛍丸」と山都町は深い縁があるので通潤酒造で商品化することにした。新しく蛍丸のボトルをデザインしたのは、山都町にある「みずたまデザイン株式会社」である。2010年に東京から山都町へ移住した夫婦が、山奥で予約制のカフェとデザイン会社を経営していたのだ。
蛍丸のボトルデザインは、370mlの細い瓶の表に黄色い蛍が舞うように描かれ、裏側には刀剣が縦に描かれている。ボトルに日本酒が入ると、ちょうど刀剣の上を蛍が舞っているように見える。こうしてその土地の伝承をボトルにデザインした「純米吟醸酒 蛍丸」を、2015年の6月に商品化することができた。
「純米吟醸酒蛍丸」は内容量370mlで1528円(税込)と日本酒としては割高である。しかし「刀剣乱舞」の人気もあって全国からネット注文が殺到し、最初の300本は数秒で完売したという。その後も人気が続き、今では年間1万本以上が売れている。このように人気オンラインゲームと山都町の伝承を結びつけることで、全国の若い世代に山奥にある通潤酒造の日本酒を買ってもらうことに成功したのだ。熊本地震での被災と酒蔵エンターテイメント業への転換 2016年4月14日と16日に発生した熊本地震では、震源地に近い山都町でも震度6弱を記録し、通潤酒造も甚大な被害があった(写真)。14棟の蔵や建物が全半壊して4000リットル以上の日本酒がタンクから流出した。 16日未明に起きた本震では、山下が自宅の2階で寝ているとドーンという大きな音がして家屋が激しく揺れ、2階の壁が崩れ落ちて外が見えていたという。山下は「蛍丸のヒットで売上が上向きになってきたところなのに、この先、酒蔵を続けていけるだろうか」と将来に大きな不安を持つようになった。社員たちとガレキの片付けを始めたものの、被害のあまりの大きさに途方に暮れる日々だった。 そんな中、「蛍丸」の販売を通じて知り合った全国の顧客からSNSで励ましの声が届き、通潤酒造にネット注文が殺到した。事業の再建もままならない中だったが、社員総出でネット注文に応じ大忙しの日々となる。 そして5月3日に東京・有明で「SUPER COMIC CITY」というイベントが開催された。この日のために社員一丸となって瓶詰めした蛍丸2000本を、菊池が会場で販売すると半日で売り切れた。蛍丸を通じて知り合った全国の若い世代から、熊本地震後にこのような熱い支援を受けて、山下や社員たちは通潤酒造の経営を立て直す勇気が出てきたという。 熊本地震後に、蒲島郁夫熊本県知事は「創造的復興」「震災前よりも良いものを創る」を提唱した。山下はこの言葉に力づけられる。 ちょうどその頃、知人からアメリカ・カリフォルニア州のワインの産地、ナパバレーに行くことを勧められ、山下夫婦はワインツーリズムを体験するためにナパバレーを旅した。ナパバレーのワイナリーでは、3種類のワインを50ドルで有料試飲に提供しており、なかには有料試飲が100ドルもするワイナリーもあった。それでも観光客が続々と訪れて、気に入った高額のワインを購入していた。山下はナパバレーのこうした状況を見て、目からウロコが落ちるような思いだったという。 帰国後、山下は「創造的復興」をさらに進めるために、「酒蔵エンターテイメント業」への変革を決意する。熊本地震関係の復興補助金を受け、さらにクラウドファンディングでも寄付を募って、江戸時代からの寛政蔵を「おもてなしのカフェ」にした。ここでしか味わえない利き酒セットを数種類用意したが、山奥にある通潤酒造には車を運転してくるお客も多いため、ノンアルコールのドリンクや甘酒、スイーツのメニューも充実させた。 寛政蔵はあくまでカフェとして経営し、本格的に食事を楽しみたい人には山都町の割烹店を紹介している。こうすることで地域での滞在時間を長くし、観光客が地域を循環するようにしているのだ。 地方にある企業は、一般に「IT化・ブランド化・国際化」が遅れていることが多い。しかし熊本の山奥にある通潤酒造は、海外販売やネット通販を推進し、独自の商品を開発し「酒蔵エンターテイメント業」にチャレンジしてブランド化も進めた。逆に言えば、この3つを推進してきたからこそ、通潤酒造は山奥の小さな酒蔵でも生き残れたと言えるだろう。 さらに通潤酒造は、本書のテーマであるSLOCシナリオを見事に実行している。このように山奥にある小さな酒蔵でも、地域資源を活かした商品開発をし、全国に情報発信して若い世代ともつながりを持つように努力し続けることで、ビジネスの幅が広がるのだ。「熊しか買いに来ない」と忠告されたが…脱サラ夫婦が始めた山奥のパン工房が“話題のお店”になれたワケ へ続く(藻谷 ゆかり)
「純米吟醸酒蛍丸」は内容量370mlで1528円(税込)と日本酒としては割高である。しかし「刀剣乱舞」の人気もあって全国からネット注文が殺到し、最初の300本は数秒で完売したという。その後も人気が続き、今では年間1万本以上が売れている。このように人気オンラインゲームと山都町の伝承を結びつけることで、全国の若い世代に山奥にある通潤酒造の日本酒を買ってもらうことに成功したのだ。
2016年4月14日と16日に発生した熊本地震では、震源地に近い山都町でも震度6弱を記録し、通潤酒造も甚大な被害があった(写真)。14棟の蔵や建物が全半壊して4000リットル以上の日本酒がタンクから流出した。
16日未明に起きた本震では、山下が自宅の2階で寝ているとドーンという大きな音がして家屋が激しく揺れ、2階の壁が崩れ落ちて外が見えていたという。山下は「蛍丸のヒットで売上が上向きになってきたところなのに、この先、酒蔵を続けていけるだろうか」と将来に大きな不安を持つようになった。社員たちとガレキの片付けを始めたものの、被害のあまりの大きさに途方に暮れる日々だった。 そんな中、「蛍丸」の販売を通じて知り合った全国の顧客からSNSで励ましの声が届き、通潤酒造にネット注文が殺到した。事業の再建もままならない中だったが、社員総出でネット注文に応じ大忙しの日々となる。 そして5月3日に東京・有明で「SUPER COMIC CITY」というイベントが開催された。この日のために社員一丸となって瓶詰めした蛍丸2000本を、菊池が会場で販売すると半日で売り切れた。蛍丸を通じて知り合った全国の若い世代から、熊本地震後にこのような熱い支援を受けて、山下や社員たちは通潤酒造の経営を立て直す勇気が出てきたという。 熊本地震後に、蒲島郁夫熊本県知事は「創造的復興」「震災前よりも良いものを創る」を提唱した。山下はこの言葉に力づけられる。 ちょうどその頃、知人からアメリカ・カリフォルニア州のワインの産地、ナパバレーに行くことを勧められ、山下夫婦はワインツーリズムを体験するためにナパバレーを旅した。ナパバレーのワイナリーでは、3種類のワインを50ドルで有料試飲に提供しており、なかには有料試飲が100ドルもするワイナリーもあった。それでも観光客が続々と訪れて、気に入った高額のワインを購入していた。山下はナパバレーのこうした状況を見て、目からウロコが落ちるような思いだったという。 帰国後、山下は「創造的復興」をさらに進めるために、「酒蔵エンターテイメント業」への変革を決意する。熊本地震関係の復興補助金を受け、さらにクラウドファンディングでも寄付を募って、江戸時代からの寛政蔵を「おもてなしのカフェ」にした。ここでしか味わえない利き酒セットを数種類用意したが、山奥にある通潤酒造には車を運転してくるお客も多いため、ノンアルコールのドリンクや甘酒、スイーツのメニューも充実させた。 寛政蔵はあくまでカフェとして経営し、本格的に食事を楽しみたい人には山都町の割烹店を紹介している。こうすることで地域での滞在時間を長くし、観光客が地域を循環するようにしているのだ。 地方にある企業は、一般に「IT化・ブランド化・国際化」が遅れていることが多い。しかし熊本の山奥にある通潤酒造は、海外販売やネット通販を推進し、独自の商品を開発し「酒蔵エンターテイメント業」にチャレンジしてブランド化も進めた。逆に言えば、この3つを推進してきたからこそ、通潤酒造は山奥の小さな酒蔵でも生き残れたと言えるだろう。 さらに通潤酒造は、本書のテーマであるSLOCシナリオを見事に実行している。このように山奥にある小さな酒蔵でも、地域資源を活かした商品開発をし、全国に情報発信して若い世代ともつながりを持つように努力し続けることで、ビジネスの幅が広がるのだ。「熊しか買いに来ない」と忠告されたが…脱サラ夫婦が始めた山奥のパン工房が“話題のお店”になれたワケ へ続く(藻谷 ゆかり)
16日未明に起きた本震では、山下が自宅の2階で寝ているとドーンという大きな音がして家屋が激しく揺れ、2階の壁が崩れ落ちて外が見えていたという。山下は「蛍丸のヒットで売上が上向きになってきたところなのに、この先、酒蔵を続けていけるだろうか」と将来に大きな不安を持つようになった。社員たちとガレキの片付けを始めたものの、被害のあまりの大きさに途方に暮れる日々だった。
そんな中、「蛍丸」の販売を通じて知り合った全国の顧客からSNSで励ましの声が届き、通潤酒造にネット注文が殺到した。事業の再建もままならない中だったが、社員総出でネット注文に応じ大忙しの日々となる。
そして5月3日に東京・有明で「SUPER COMIC CITY」というイベントが開催された。この日のために社員一丸となって瓶詰めした蛍丸2000本を、菊池が会場で販売すると半日で売り切れた。蛍丸を通じて知り合った全国の若い世代から、熊本地震後にこのような熱い支援を受けて、山下や社員たちは通潤酒造の経営を立て直す勇気が出てきたという。
熊本地震後に、蒲島郁夫熊本県知事は「創造的復興」「震災前よりも良いものを創る」を提唱した。山下はこの言葉に力づけられる。
ちょうどその頃、知人からアメリカ・カリフォルニア州のワインの産地、ナパバレーに行くことを勧められ、山下夫婦はワインツーリズムを体験するためにナパバレーを旅した。ナパバレーのワイナリーでは、3種類のワインを50ドルで有料試飲に提供しており、なかには有料試飲が100ドルもするワイナリーもあった。それでも観光客が続々と訪れて、気に入った高額のワインを購入していた。山下はナパバレーのこうした状況を見て、目からウロコが落ちるような思いだったという。
帰国後、山下は「創造的復興」をさらに進めるために、「酒蔵エンターテイメント業」への変革を決意する。熊本地震関係の復興補助金を受け、さらにクラウドファンディングでも寄付を募って、江戸時代からの寛政蔵を「おもてなしのカフェ」にした。ここでしか味わえない利き酒セットを数種類用意したが、山奥にある通潤酒造には車を運転してくるお客も多いため、ノンアルコールのドリンクや甘酒、スイーツのメニューも充実させた。
寛政蔵はあくまでカフェとして経営し、本格的に食事を楽しみたい人には山都町の割烹店を紹介している。こうすることで地域での滞在時間を長くし、観光客が地域を循環するようにしているのだ。 地方にある企業は、一般に「IT化・ブランド化・国際化」が遅れていることが多い。しかし熊本の山奥にある通潤酒造は、海外販売やネット通販を推進し、独自の商品を開発し「酒蔵エンターテイメント業」にチャレンジしてブランド化も進めた。逆に言えば、この3つを推進してきたからこそ、通潤酒造は山奥の小さな酒蔵でも生き残れたと言えるだろう。 さらに通潤酒造は、本書のテーマであるSLOCシナリオを見事に実行している。このように山奥にある小さな酒蔵でも、地域資源を活かした商品開発をし、全国に情報発信して若い世代ともつながりを持つように努力し続けることで、ビジネスの幅が広がるのだ。「熊しか買いに来ない」と忠告されたが…脱サラ夫婦が始めた山奥のパン工房が“話題のお店”になれたワケ へ続く(藻谷 ゆかり)
寛政蔵はあくまでカフェとして経営し、本格的に食事を楽しみたい人には山都町の割烹店を紹介している。こうすることで地域での滞在時間を長くし、観光客が地域を循環するようにしているのだ。
地方にある企業は、一般に「IT化・ブランド化・国際化」が遅れていることが多い。しかし熊本の山奥にある通潤酒造は、海外販売やネット通販を推進し、独自の商品を開発し「酒蔵エンターテイメント業」にチャレンジしてブランド化も進めた。逆に言えば、この3つを推進してきたからこそ、通潤酒造は山奥の小さな酒蔵でも生き残れたと言えるだろう。
さらに通潤酒造は、本書のテーマであるSLOCシナリオを見事に実行している。このように山奥にある小さな酒蔵でも、地域資源を活かした商品開発をし、全国に情報発信して若い世代ともつながりを持つように努力し続けることで、ビジネスの幅が広がるのだ。
「熊しか買いに来ない」と忠告されたが…脱サラ夫婦が始めた山奥のパン工房が“話題のお店”になれたワケ へ続く
(藻谷 ゆかり)