全国唯一の全日制村立高校が人口約670人と北海道で一番小さな村、音威子府(おといねっぷ)村にある。北海道おといねっぷ美術工芸高校(通称・おと高)。人口規模だけで見ると、奈良県の下北山村や黒滝村、島根県・隠岐の知夫村(ちぶむら)が自前の高校を持っているようなものだ。雪深い過疎の村に、いかなる経緯でおと高が生まれ、どんな役割を果たしているのだろうか。そして生徒たちはどんな学校生活を送っているのか。それが知りたくて昨年10月、現地を訪ねた。【山本直】
【写真特集】木のぬくもりふんだんに 「おと高」校舎かつては入学者6人の年も 「シュッ、シュッ、シュッ」。組み立て実習室にかんなを掛ける小さな音が響いていた。木工制作の授業で、作業着に身を包んだ2年の生徒たちが無心に木材に向かっている。部屋の一角には個々の道具箱を入れた棚。村上俊樹教頭が「入学前に自分で道具箱を作り、持参するんです」と教えてくれた。 音威子府村は稚内と旭川のほぼ真ん中に位置。冬は氷点下30度を下回ることもある極寒の地だ。深刻な人口減少に直面した村は1970年代後半、豊かな森林資源を生かし「森と匠(たくみ)の村」として活性化を図る計画を立てた。アイヌにルーツを持つ現代彫刻家の砂澤ビッキを78年に招へい。廃校になった小学校を活動拠点となるアトリエ兼自宅として提供した。ビッキは89年に病死したが、匠の村の精神的支柱となった。 併せて進められたのが定時制だった村立音威子府高校の工芸科への転換だ。78年の入学者が6人にまで落ち込み、志願者数の回復が課題になっていた。当時のことに詳しい砂澤ビッキ記念館の河上実名誉館長(83)は「次に志願者が10人を切ったら廃校というところまで追い詰められていた。工芸科にしたのは、周辺にある商業科や工業科の高校と競合しないからという事情もあった」と振り返る。 道立高校は基本的に道内出身者しか受験できないが、村立なら全国から生徒を集められるメリットがある。音威子府高校は84年、全日制工芸科への転換を果たし、2002年に現校名となった。 今年度の生徒数は110人。札幌や旭川など道内出身者が多いが、道外も23人いる。そのうち最も南は鹿児島県・沖永良部島で、近畿では京都府や兵庫県の中学出身者がいる。一方で村内の出身者は1人しかいない。 個性や能力を伸ばすため、2年次から美術か工芸を選択できるコース制を導入。例年8割程度が大学や専門学校へ進学する。 最終学年に取り組む卒業制作は高校生活の集大成。テーマの確定から制作概要・計画の提出、授業での発表までほぼ1年かけて取り組む。工芸では椅子や机、棚など、絵画は100号(長辺1620ミリ)前後の作品が多く、玄関ホールに1年間飾られ、全国からの視察者らが見学できるようにしている。 クラブ活動も盛んで全員がいずれかの部に所属。美術部、工芸部は14年連続で全国総合文化祭に進出し、クロスカントリースキー部は全国高校スキー大会で男子4回、女子1回の総合優勝歴がある。カラオケも書店もないけれど 気になるのは生徒たちの暮らしだ。学校から徒歩2分のチセネシリ寮に、現在は生徒全員が入寮している。春・夏・冬の長期休暇の他、ゴールデンウイークと10月初めに設ける「秋休み」にも帰省できるよう配慮。ちなみにチセネシリはアイヌ語で「家のような山」を意味する。 カラオケやゲームセンターはもちろん書店も村内にはない。生徒たちは徒歩圏内に1軒ずつあるコンビニか雑貨店に足を運び、菓子や飲み物、夜食用カップ麺などを購入。近くの公民館にある小さな図書館を利用する生徒もいる。 「ないものだらけ」のように見えるが、志を持って集まった生徒たちはさして不便を感じていないようだ。今はスマホがあれば不自由と感じないのも理由の一つらしい。村上教頭は「スマホは生徒全員が持っているのではないでしょうか。定期的に大型スーパーなどがある名寄(なよろ)市へバスを出していますが、寮に残っている生徒もけっこういます」と笑う。 志望者は全国から集まり、16年度には競争倍率が2倍になるなど成果を上げてきた。ただ、ここ数年は志願者が漸減傾向にあるといい、関係者は募集に力を入れたいとしている。学校見学には事前連絡(01656・5・3044)が必要。おと高は「村の希望」 音威子府村は国鉄宗谷線と天北線が分岐する交通の要衝として発展。1950年には約4200人が暮らしていた。しかし、87年の国鉄分割民営化や89年の天北線廃止に加え、後継者不在による離農や商店などの廃業が重なり、大幅な人口減少が続いた。音威子府高校が工芸科に転換(84年)した頃は2000人余りに半減していた。 現在はソバを中心とする畑作と酪農を中心とした農業が基幹産業。とはいえ畑作15戸、酪農・畜産2戸、牧草4戸だけで、「森と匠の村」の礎の林業についてもチップ工場1軒、伐採・造林関連1軒となっている。 村の懐事情は厳しく、2022年度一般会計予算20億4600万円のうち、村税収入は8649万円。公的サービスに格差が生じないよう国が地方自治体へ支出する地方交付税交付金が収入の約70%を占めている。 休日には村民の多くが約50キロ南の名寄市などへ買い物に出かける。村立診療所はあるが、専門的治療を受けるため、名寄市や旭川市、札幌市の総合病院にまで足を延ばさざるを得ない村民もおり、医療を求めて離村する高齢者が少なくない。 そんな村にとって、おと高は「希望」だ。村外の中学出身者は村へ住民票を移すことが入学の条件となっており、生徒110人の他、教職員やその家族を合わせた150名前後が学校関係者。つまり村人口の2割以上をおと高関係者が占める。 最近は新型コロナウイルス禍で中止を余儀なくされたケースもあるが、村民運動会や文化祭などの行事にもおと高生が参加し、村民と交流している。 村地域振興室は「おと高生が村で生活・活動することで、村全体が明るくなってにぎわいが生まれ、活性化につながっている。マスコミに取り上げられることも多く、村の知名度も高まり、村民も誇りに思っている」と評価している。 最大の課題は、おと高の卒業生のほとんどが村を離れ、戻ってこない点にある。 村は「まち・ひと・しごと総合戦略」で、おと高を最大の強みと位置付け、卒業生の地元企業への就業、移住の促進を目指している。中小企業振興基本条例では、卒業生を雇用した場合の支援や起業支援、医療等従事希望者への修学金貸付助成も実施。だが利用実績はない。Uターンの引っ越し経費の助成制度も利用は2~3例という。 村によると、12年度以降、卒業生16人が村に戻ったが、現在もとどまっているのは4人。村地域振興室は「地元に働く場所がないことが一番の原因。現実は非常に厳しい」としている。
かつては入学者6人の年も
「シュッ、シュッ、シュッ」。組み立て実習室にかんなを掛ける小さな音が響いていた。木工制作の授業で、作業着に身を包んだ2年の生徒たちが無心に木材に向かっている。部屋の一角には個々の道具箱を入れた棚。村上俊樹教頭が「入学前に自分で道具箱を作り、持参するんです」と教えてくれた。
音威子府村は稚内と旭川のほぼ真ん中に位置。冬は氷点下30度を下回ることもある極寒の地だ。深刻な人口減少に直面した村は1970年代後半、豊かな森林資源を生かし「森と匠(たくみ)の村」として活性化を図る計画を立てた。アイヌにルーツを持つ現代彫刻家の砂澤ビッキを78年に招へい。廃校になった小学校を活動拠点となるアトリエ兼自宅として提供した。ビッキは89年に病死したが、匠の村の精神的支柱となった。
併せて進められたのが定時制だった村立音威子府高校の工芸科への転換だ。78年の入学者が6人にまで落ち込み、志願者数の回復が課題になっていた。当時のことに詳しい砂澤ビッキ記念館の河上実名誉館長(83)は「次に志願者が10人を切ったら廃校というところまで追い詰められていた。工芸科にしたのは、周辺にある商業科や工業科の高校と競合しないからという事情もあった」と振り返る。
道立高校は基本的に道内出身者しか受験できないが、村立なら全国から生徒を集められるメリットがある。音威子府高校は84年、全日制工芸科への転換を果たし、2002年に現校名となった。
今年度の生徒数は110人。札幌や旭川など道内出身者が多いが、道外も23人いる。そのうち最も南は鹿児島県・沖永良部島で、近畿では京都府や兵庫県の中学出身者がいる。一方で村内の出身者は1人しかいない。
個性や能力を伸ばすため、2年次から美術か工芸を選択できるコース制を導入。例年8割程度が大学や専門学校へ進学する。
最終学年に取り組む卒業制作は高校生活の集大成。テーマの確定から制作概要・計画の提出、授業での発表までほぼ1年かけて取り組む。工芸では椅子や机、棚など、絵画は100号(長辺1620ミリ)前後の作品が多く、玄関ホールに1年間飾られ、全国からの視察者らが見学できるようにしている。
クラブ活動も盛んで全員がいずれかの部に所属。美術部、工芸部は14年連続で全国総合文化祭に進出し、クロスカントリースキー部は全国高校スキー大会で男子4回、女子1回の総合優勝歴がある。
カラオケも書店もないけれど
気になるのは生徒たちの暮らしだ。学校から徒歩2分のチセネシリ寮に、現在は生徒全員が入寮している。春・夏・冬の長期休暇の他、ゴールデンウイークと10月初めに設ける「秋休み」にも帰省できるよう配慮。ちなみにチセネシリはアイヌ語で「家のような山」を意味する。
カラオケやゲームセンターはもちろん書店も村内にはない。生徒たちは徒歩圏内に1軒ずつあるコンビニか雑貨店に足を運び、菓子や飲み物、夜食用カップ麺などを購入。近くの公民館にある小さな図書館を利用する生徒もいる。
「ないものだらけ」のように見えるが、志を持って集まった生徒たちはさして不便を感じていないようだ。今はスマホがあれば不自由と感じないのも理由の一つらしい。村上教頭は「スマホは生徒全員が持っているのではないでしょうか。定期的に大型スーパーなどがある名寄(なよろ)市へバスを出していますが、寮に残っている生徒もけっこういます」と笑う。
志望者は全国から集まり、16年度には競争倍率が2倍になるなど成果を上げてきた。ただ、ここ数年は志願者が漸減傾向にあるといい、関係者は募集に力を入れたいとしている。学校見学には事前連絡(01656・5・3044)が必要。
おと高は「村の希望」
音威子府村は国鉄宗谷線と天北線が分岐する交通の要衝として発展。1950年には約4200人が暮らしていた。しかし、87年の国鉄分割民営化や89年の天北線廃止に加え、後継者不在による離農や商店などの廃業が重なり、大幅な人口減少が続いた。音威子府高校が工芸科に転換(84年)した頃は2000人余りに半減していた。
現在はソバを中心とする畑作と酪農を中心とした農業が基幹産業。とはいえ畑作15戸、酪農・畜産2戸、牧草4戸だけで、「森と匠の村」の礎の林業についてもチップ工場1軒、伐採・造林関連1軒となっている。
村の懐事情は厳しく、2022年度一般会計予算20億4600万円のうち、村税収入は8649万円。公的サービスに格差が生じないよう国が地方自治体へ支出する地方交付税交付金が収入の約70%を占めている。
休日には村民の多くが約50キロ南の名寄市などへ買い物に出かける。村立診療所はあるが、専門的治療を受けるため、名寄市や旭川市、札幌市の総合病院にまで足を延ばさざるを得ない村民もおり、医療を求めて離村する高齢者が少なくない。
そんな村にとって、おと高は「希望」だ。村外の中学出身者は村へ住民票を移すことが入学の条件となっており、生徒110人の他、教職員やその家族を合わせた150名前後が学校関係者。つまり村人口の2割以上をおと高関係者が占める。
最近は新型コロナウイルス禍で中止を余儀なくされたケースもあるが、村民運動会や文化祭などの行事にもおと高生が参加し、村民と交流している。
村地域振興室は「おと高生が村で生活・活動することで、村全体が明るくなってにぎわいが生まれ、活性化につながっている。マスコミに取り上げられることも多く、村の知名度も高まり、村民も誇りに思っている」と評価している。
最大の課題は、おと高の卒業生のほとんどが村を離れ、戻ってこない点にある。
村は「まち・ひと・しごと総合戦略」で、おと高を最大の強みと位置付け、卒業生の地元企業への就業、移住の促進を目指している。中小企業振興基本条例では、卒業生を雇用した場合の支援や起業支援、医療等従事希望者への修学金貸付助成も実施。だが利用実績はない。Uターンの引っ越し経費の助成制度も利用は2~3例という。
村によると、12年度以降、卒業生16人が村に戻ったが、現在もとどまっているのは4人。村地域振興室は「地元に働く場所がないことが一番の原因。現実は非常に厳しい」としている。