桜は散り際が最も美しいと言われる。だが、その「美しさ」は時に、見る人によっても異なる。
「桜って本来、華やかで楽しい時間の象徴じゃないですか。3人で花見をして、桜が散った頃の事故だったので、その時期になるともうそろそろ命日だなって思います。だからやっぱり落ち込みますね」
東京で桜が散り始めた今年、松永拓也さん(36)は都内の自宅で、現在の心境をそう吐露した。部屋の中には、3人で過ごした当時の写真や絵本など思い出の品々が残されたままだ。(前後編の「前編」)【水谷竹秀/ノンフィクション・ライター】
【写真】家族旅行に七五三…残された写真には最愛の妻子の笑顔がおさめられていた 松永さんの妻、真菜さん(当時31歳)と長女の莉子ちゃん(当時3歳)は、2019年4月19日正午過ぎ、東京・池袋の交差点で、ブレーキとアクセルを踏み間違えた旧通産省工業技術院の飯塚幸三元院長(91)の運転する車に跳ね飛ばされ、死亡した。松永拓也さんと妻の真菜さん、長女の莉子ちゃん(松永さん提供) 飯塚受刑者(禁錮5年の服役中)が「上級国民」と騒がれた池袋暴走事故から今日(4月19日)で4年……。 松永さんが沈痛な面持ちで語る。「毎年命日が来ると手を合わせて涙が出てきます。辛いなって思う度に、だから交通事故は起きちゃいけないんだと自分に言い聞かせます。真菜と莉子の命を無駄にしないって誓ったことを忘れてはいけないと」心の皺を少しずつ伸ばしていく作業 事故から1年目の命日は、現場で手を合わせると涙が溢れ出てきた。1週間、気分が沈みっぱなしで何もやる気が起きなくなった。それまで悲しい気持ちに蓋をし、空元気で生きてきた自分に気づいた。「発生からの1年は、悲しいけど大丈夫、自分は元気だって奮い立たせ、無理やり生きてきました。でも、自分の気持ちに嘘をついていたんですよね。その皺寄せが、1年目の命日に一気に跳ね返ってきたんです」 悲しい時は悲しいままでいい。 そう思えるようになった松永さんは、悲しみや苦しみを少しずつ生きる力に変え、被害者支援や交通事故を減らすための活動などに専念することで心の安定を保ってきた。それでもやはり浮き沈みはある。だが、それも3年、4年と月日が経つにつれ、ある程度コントロールできるようになってきたという。「死別からの回復と言っても、乗り越えられないんです。もっと言えば、乗り越えるものじゃない。なぜなら過去は変えられないし、亡くなった命は戻らないから。事故でぐちゃぐちゃになった心の皺(しわ)を少しずつ伸ばしていくような作業が心の回復で、時間とともにうまく付き合えるようになってきたのかなと思います」<妻と娘の分も生きています> それを象徴するのが、Twitterへの松永さんの投稿だ。 昨年12月上旬、松永さんは奈良県で講演をした。帰りに立ち寄った奈良公園で、鹿に鹿せんべいをあげた。その様子を撮影してもらった動画をTwitterにアップし、こうつぶやいた。<妻と娘が亡くなり、人生でどん底の時も味わった。(中略)でも、こうやって楽しいこともある。妻と娘の分も生きています> 松永さんが2020年1月にアカウントを開設してから初めて、自身の姿を「楽しい」と表現した投稿だった。今年3月上旬には、東京ドームで開かれたワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本対オーストラリアの観戦模様も写真とともに投稿し、<凄く楽しい時間でした>と素直な感想をつぶやいた。「あの2つの投稿はめちゃくちゃ怖かったです。普段はあんなに辛そうにしているのに、意外と楽しそうにしているじゃないか、みたいなことを言われるのかなと思いました。でも心配し過ぎでした。楽しいと思える瞬間があるのを知れて良かったです、というコメントをたくさん頂きましたので」遺族は常に悲しんでいなければいけないのか この伏線とも言える出来事が、事故が発生した年の秋に起きた。 それは松永さんが、中学時代の同級生と一緒に池袋の祭りを見に行った時のことだ。事故から半年も経たず、心にまだ余裕はなかったが、「たまには楽しんだほうがいいよ」と誘われ、屋外で飲んでいた。その帰り際、近くにいた別の客からこう声を掛けられた。「ひょっとして松永さんですか? 意外と元気ですね」 松永さんが回想する。「友人とのお酒の席だったので、笑うこともあるじゃないですか。でもその言葉を聞いて、遺族って笑っちゃいけないのかなって。その人も悪気なく言ったのだと思うんですが、正直、気まずかったですね。そりゃ僕だって人間ですから、嫌なことが起きても忘れる瞬間はあります。一生忘れられない、1秒でも忘れられないっていう人もいるかもしれない。でも生きるって決めた以上、笑わないと生きていけないですよね?」 遺族は常に悲しんでいなければいけないのか……。 世間からのそうした視線に晒されると、遺族は否応なく苦しめられる。そもそも彼らは遺族である前に1人の人間だ。ゆえに笑ったり、酒を飲んだりすることもあるだろう。だが、世間が抱く「遺族像」の前に阻まれ、それが生きづらさにもつながる。一方で松永さんは葛藤も抱えていた。それは取材時にカメラの前で、常に悲しい表情をしていたからだ。「カメラを向けられた時には笑わなかったんです。それは交通事故の悲惨さや現実を知って欲しかったからです。目的があると自然と涙が出てくる。でもそれでいいのかな、という思いも同時にありました。なぜなら辛い表情を見せることで、遺族は常に悲しみの淵にいるのではないか、という色眼鏡をより濃くさせてしまうからです」 鹿に餌をあげたり、WBCの観戦といった前向きな話題を投稿することで、松永さんは、これまで自分が作ってきた「遺族像」に少しでも変化をもたらそうとしたのだ。「色眼鏡で見られるのはやはり苦しい」「リアルを見せることは再発防止につながると信じています。そこはブレない。でも同時に辛い遺族像を作ってしまうことで、他の遺族もそういう目で見られる可能性があります。だから矛盾はしていますが、色眼鏡で見られるのはやはり苦しいんです」 かといって「回復した」と思われるのもまた違う。ゆえに遺族感情は複雑かつ繊細なのだ。 かつて3人で暮らした部屋の壁には、事故が起きた2019年4月のカレンダーが掛けられたままだ。松永さんは、今年の命日が近づいてきたある日、真菜さんが日付欄に綴った文字をふと見た。それは事故から4日後の予定で、莉子ちゃんは初めての英語教室を楽しみにしていた。「彼女たちの時はここで止まっている。でも自分は進み続けているんだなと思って気分が滅入りました。まあ、4年経ちましたから、ある程度自分の心との付き合い方を学んできたといいますか。でも命日が近づくと、特に当日よりは前日のほうがしんどいです。なるべく穏やかな心で迎えられるようにしたいなとは思っています」 松永さんは今日、真菜さんと莉子ちゃんが亡くなった午後12時23分、東池袋の事故現場で静かに祈りを捧げる。 事故から4年が経っても、遺族として葛藤を続ける松永さん。一方で、法廷での争いも、まだ終わってはいなかった。(以下、「後編」に続く)水谷竹秀(みずたにたけひで)ノンフィクション・ライター。1975年生まれ。上智大学外国語学部卒。2011年、『日本を捨てた男たち』で第9回開高健ノンフィクション賞を受賞。10年超のフィリピン滞在歴をもとに「アジアと日本人」について、また事件を含めた現代の世相に関しても幅広く取材。昨年5月上旬までウクライナに滞在していた。デイリー新潮編集部
松永さんの妻、真菜さん(当時31歳)と長女の莉子ちゃん(当時3歳)は、2019年4月19日正午過ぎ、東京・池袋の交差点で、ブレーキとアクセルを踏み間違えた旧通産省工業技術院の飯塚幸三元院長(91)の運転する車に跳ね飛ばされ、死亡した。
飯塚受刑者(禁錮5年の服役中)が「上級国民」と騒がれた池袋暴走事故から今日(4月19日)で4年……。
松永さんが沈痛な面持ちで語る。
「毎年命日が来ると手を合わせて涙が出てきます。辛いなって思う度に、だから交通事故は起きちゃいけないんだと自分に言い聞かせます。真菜と莉子の命を無駄にしないって誓ったことを忘れてはいけないと」
事故から1年目の命日は、現場で手を合わせると涙が溢れ出てきた。1週間、気分が沈みっぱなしで何もやる気が起きなくなった。それまで悲しい気持ちに蓋をし、空元気で生きてきた自分に気づいた。
「発生からの1年は、悲しいけど大丈夫、自分は元気だって奮い立たせ、無理やり生きてきました。でも、自分の気持ちに嘘をついていたんですよね。その皺寄せが、1年目の命日に一気に跳ね返ってきたんです」
悲しい時は悲しいままでいい。
そう思えるようになった松永さんは、悲しみや苦しみを少しずつ生きる力に変え、被害者支援や交通事故を減らすための活動などに専念することで心の安定を保ってきた。それでもやはり浮き沈みはある。だが、それも3年、4年と月日が経つにつれ、ある程度コントロールできるようになってきたという。
「死別からの回復と言っても、乗り越えられないんです。もっと言えば、乗り越えるものじゃない。なぜなら過去は変えられないし、亡くなった命は戻らないから。事故でぐちゃぐちゃになった心の皺(しわ)を少しずつ伸ばしていくような作業が心の回復で、時間とともにうまく付き合えるようになってきたのかなと思います」
それを象徴するのが、Twitterへの松永さんの投稿だ。
昨年12月上旬、松永さんは奈良県で講演をした。帰りに立ち寄った奈良公園で、鹿に鹿せんべいをあげた。その様子を撮影してもらった動画をTwitterにアップし、こうつぶやいた。
<妻と娘が亡くなり、人生でどん底の時も味わった。(中略)でも、こうやって楽しいこともある。妻と娘の分も生きています>
松永さんが2020年1月にアカウントを開設してから初めて、自身の姿を「楽しい」と表現した投稿だった。今年3月上旬には、東京ドームで開かれたワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本対オーストラリアの観戦模様も写真とともに投稿し、<凄く楽しい時間でした>と素直な感想をつぶやいた。
「あの2つの投稿はめちゃくちゃ怖かったです。普段はあんなに辛そうにしているのに、意外と楽しそうにしているじゃないか、みたいなことを言われるのかなと思いました。でも心配し過ぎでした。楽しいと思える瞬間があるのを知れて良かったです、というコメントをたくさん頂きましたので」
この伏線とも言える出来事が、事故が発生した年の秋に起きた。
それは松永さんが、中学時代の同級生と一緒に池袋の祭りを見に行った時のことだ。事故から半年も経たず、心にまだ余裕はなかったが、「たまには楽しんだほうがいいよ」と誘われ、屋外で飲んでいた。その帰り際、近くにいた別の客からこう声を掛けられた。
「ひょっとして松永さんですか? 意外と元気ですね」
松永さんが回想する。
「友人とのお酒の席だったので、笑うこともあるじゃないですか。でもその言葉を聞いて、遺族って笑っちゃいけないのかなって。その人も悪気なく言ったのだと思うんですが、正直、気まずかったですね。そりゃ僕だって人間ですから、嫌なことが起きても忘れる瞬間はあります。一生忘れられない、1秒でも忘れられないっていう人もいるかもしれない。でも生きるって決めた以上、笑わないと生きていけないですよね?」
遺族は常に悲しんでいなければいけないのか……。
世間からのそうした視線に晒されると、遺族は否応なく苦しめられる。そもそも彼らは遺族である前に1人の人間だ。ゆえに笑ったり、酒を飲んだりすることもあるだろう。だが、世間が抱く「遺族像」の前に阻まれ、それが生きづらさにもつながる。一方で松永さんは葛藤も抱えていた。それは取材時にカメラの前で、常に悲しい表情をしていたからだ。
「カメラを向けられた時には笑わなかったんです。それは交通事故の悲惨さや現実を知って欲しかったからです。目的があると自然と涙が出てくる。でもそれでいいのかな、という思いも同時にありました。なぜなら辛い表情を見せることで、遺族は常に悲しみの淵にいるのではないか、という色眼鏡をより濃くさせてしまうからです」
鹿に餌をあげたり、WBCの観戦といった前向きな話題を投稿することで、松永さんは、これまで自分が作ってきた「遺族像」に少しでも変化をもたらそうとしたのだ。
「リアルを見せることは再発防止につながると信じています。そこはブレない。でも同時に辛い遺族像を作ってしまうことで、他の遺族もそういう目で見られる可能性があります。だから矛盾はしていますが、色眼鏡で見られるのはやはり苦しいんです」
かといって「回復した」と思われるのもまた違う。ゆえに遺族感情は複雑かつ繊細なのだ。
かつて3人で暮らした部屋の壁には、事故が起きた2019年4月のカレンダーが掛けられたままだ。松永さんは、今年の命日が近づいてきたある日、真菜さんが日付欄に綴った文字をふと見た。それは事故から4日後の予定で、莉子ちゃんは初めての英語教室を楽しみにしていた。
「彼女たちの時はここで止まっている。でも自分は進み続けているんだなと思って気分が滅入りました。まあ、4年経ちましたから、ある程度自分の心との付き合い方を学んできたといいますか。でも命日が近づくと、特に当日よりは前日のほうがしんどいです。なるべく穏やかな心で迎えられるようにしたいなとは思っています」
松永さんは今日、真菜さんと莉子ちゃんが亡くなった午後12時23分、東池袋の事故現場で静かに祈りを捧げる。
事故から4年が経っても、遺族として葛藤を続ける松永さん。一方で、法廷での争いも、まだ終わってはいなかった。
(以下、「後編」に続く)
水谷竹秀(みずたにたけひで)ノンフィクション・ライター。1975年生まれ。上智大学外国語学部卒。2011年、『日本を捨てた男たち』で第9回開高健ノンフィクション賞を受賞。10年超のフィリピン滞在歴をもとに「アジアと日本人」について、また事件を含めた現代の世相に関しても幅広く取材。昨年5月上旬までウクライナに滞在していた。
デイリー新潮編集部