参院選の遊説中に銃撃されて亡くなった安倍晋三元首相の国葬が27日、東京都千代田区の日本武道館で営まれた。国民の賛否が割れる中での実施となった。安倍氏にゆかりのある人々らに国葬の受け止めを聞いた。
【写真】安倍元首相国葬始まる ◇ 長期政権だから… 「『晋』の字は高杉晋作からもらった」。安倍晋三元首相が周囲にそう語って敬愛した幕末の志士、高杉晋作が長州藩の実権を奪い返すため挙兵したことで知られる山口県下関市の功山寺。住職の有福孝岳さん(82)は安倍氏との交流はなかったが、首相在任中に「自由で開かれたインド太平洋」構想を打ち出した外交姿勢などをある程度評価していた。

「長期政権を担ったのだから国葬はやってもいいと思う。ただ、反対の声が上がるのはこの国が自由に発言できるからであって、一色に染まるより健全だ」と有福さん。「いつの時代も、権力者が亡くなれば利用しようとする人がいるものだが、交わりがあった人にとっては弔うことが自身の歴史にもなる」と述べた。【平川昌範】「政府はもっと説明を」 「悲しみは癒えないけれど一つの区切りにはなった」。山口県下関市の医薬品配置販売会社「新日配薬品」の右近(うこん)保社長(78)は国葬参列後、静かに語った。 安倍晋三元首相に初めて会ったのは、父の晋太郎元外相が1991年に亡くなる前の秘書官時代。晋太郎氏から朝食に招かれた際、隣にいたのが安倍氏だった。93年に衆院議員になっても交流は続き、2009年には娘の結婚式で仲人を引き受けてもらった。「あいさつが終わったら退席する国会議員も多いが、安倍さんは3時間余りの式の最後までいて、帰る出席者を見送ってくれた」と話す。 11年4月、佐賀県鳥栖市であった子会社の工場完成式にも訪れた。東日本大震災の直後で式典を開くか迷っていたが「『自粛ばかりでは日本経済は回らない。前向きな事を思い切ってやりましょう』と激励してもらった」と懐かしんだ。 賛否割れる中の国葬。「いろいろな意見があることは理解している。政府はもっと説明を尽くしてもよかったのではないか」【部坂有香】「生きて責任取ってほしかった」 賛否ある中で営まれた国葬は、2015年の国会で強行採決された安全保障関連法も想起させた。7年前には「SEALDs(シールズ)」をはじめとする若者のグループが全国で抗議行動を繰り広げた。元メンバーらはこの日の国葬をどう受け止めたのか。 当時、長崎で安保関連法への反対行動をした「N―DOVE(エヌダブ)」の共同代表、国貞貴大(たかひろ)さん(35)=長崎市=は「銃撃事件はショックだった」とした上で「安倍政権以降、強行採決が当たり前になった。彼が民主主義を軽視して進めたことの責任は、生きて取ってほしかった」と悔やんだ。 エヌダブの活動は現在、ほぼ休止。医療機関で働く国貞さんは「一部高齢者の医療費負担が10月から2割に増える一方、国葬に多額の税金が使われるのは強い違和感がある。安倍政権以降、政治家の説明責任が軽くなり、賛否の議論はかみ合わず国民の分断が進んだ。今回も国葬が分断をあおっている」と話した。 北九州市を拠点にしていた「FYM kita9」の元メンバー、大磯咲太郎(しょうたろう)さん(32)は「国葬でなければならない理由が最後まで伝わってこなかった。外交で功績があったというなら、拉致や北方領土の問題はどう進んだのか」と首をかしげる。 グループは既に解散。大磯さんは結婚して子供も生まれた。毎日のニュースについて深く考える時間もないほど忙しい日々だ。「デモをしていた当時はなぜ世間が無関心なのか分からなかったが、今は『こういうことか』と実感している。でもあの頃、社会を変えていけそうな実感を得られた経験は大きい。結局、国葬は行われたし、政治状況はすぐには変わらないだろうが、自分にできることを考え続けたい」と話した。【平川昌範】

長期政権だから…
「『晋』の字は高杉晋作からもらった」。安倍晋三元首相が周囲にそう語って敬愛した幕末の志士、高杉晋作が長州藩の実権を奪い返すため挙兵したことで知られる山口県下関市の功山寺。住職の有福孝岳さん(82)は安倍氏との交流はなかったが、首相在任中に「自由で開かれたインド太平洋」構想を打ち出した外交姿勢などをある程度評価していた。
「長期政権を担ったのだから国葬はやってもいいと思う。ただ、反対の声が上がるのはこの国が自由に発言できるからであって、一色に染まるより健全だ」と有福さん。「いつの時代も、権力者が亡くなれば利用しようとする人がいるものだが、交わりがあった人にとっては弔うことが自身の歴史にもなる」と述べた。【平川昌範】
「政府はもっと説明を」
「悲しみは癒えないけれど一つの区切りにはなった」。山口県下関市の医薬品配置販売会社「新日配薬品」の右近(うこん)保社長(78)は国葬参列後、静かに語った。
安倍晋三元首相に初めて会ったのは、父の晋太郎元外相が1991年に亡くなる前の秘書官時代。晋太郎氏から朝食に招かれた際、隣にいたのが安倍氏だった。93年に衆院議員になっても交流は続き、2009年には娘の結婚式で仲人を引き受けてもらった。「あいさつが終わったら退席する国会議員も多いが、安倍さんは3時間余りの式の最後までいて、帰る出席者を見送ってくれた」と話す。
11年4月、佐賀県鳥栖市であった子会社の工場完成式にも訪れた。東日本大震災の直後で式典を開くか迷っていたが「『自粛ばかりでは日本経済は回らない。前向きな事を思い切ってやりましょう』と激励してもらった」と懐かしんだ。
賛否割れる中の国葬。「いろいろな意見があることは理解している。政府はもっと説明を尽くしてもよかったのではないか」【部坂有香】
「生きて責任取ってほしかった」
賛否ある中で営まれた国葬は、2015年の国会で強行採決された安全保障関連法も想起させた。7年前には「SEALDs(シールズ)」をはじめとする若者のグループが全国で抗議行動を繰り広げた。元メンバーらはこの日の国葬をどう受け止めたのか。
当時、長崎で安保関連法への反対行動をした「N―DOVE(エヌダブ)」の共同代表、国貞貴大(たかひろ)さん(35)=長崎市=は「銃撃事件はショックだった」とした上で「安倍政権以降、強行採決が当たり前になった。彼が民主主義を軽視して進めたことの責任は、生きて取ってほしかった」と悔やんだ。
エヌダブの活動は現在、ほぼ休止。医療機関で働く国貞さんは「一部高齢者の医療費負担が10月から2割に増える一方、国葬に多額の税金が使われるのは強い違和感がある。安倍政権以降、政治家の説明責任が軽くなり、賛否の議論はかみ合わず国民の分断が進んだ。今回も国葬が分断をあおっている」と話した。
北九州市を拠点にしていた「FYM kita9」の元メンバー、大磯咲太郎(しょうたろう)さん(32)は「国葬でなければならない理由が最後まで伝わってこなかった。外交で功績があったというなら、拉致や北方領土の問題はどう進んだのか」と首をかしげる。
グループは既に解散。大磯さんは結婚して子供も生まれた。毎日のニュースについて深く考える時間もないほど忙しい日々だ。「デモをしていた当時はなぜ世間が無関心なのか分からなかったが、今は『こういうことか』と実感している。でもあの頃、社会を変えていけそうな実感を得られた経験は大きい。結局、国葬は行われたし、政治状況はすぐには変わらないだろうが、自分にできることを考え続けたい」と話した。【平川昌範】