人気バラエティ番組「アメトーーク!」で特集が組まれるなど、熱狂的なファンの多い街・高円寺。古着屋の激戦区であり、道ゆく人の多くが楽器を抱え、昼間からにぎわう大衆酒場がいくつもある。多様なカルチャーが入り乱れるこの街の表情はじつに多彩だ。
2013年に鹿児島から上京してきた筆者は、高円寺で8年半ほど生活し、とても豊かな時間を過ごした。いくつもの場所で生まれた、いくつもの思い出がある。
とにかくお金がなかった上京当初、一杯のコーヒーだけで名曲喫茶「ネルケン」やお喋り禁止の「アール座読書館」で日中の長い時間をやりすごし、夜になればライブ後のバンドマンの溜まり場である中華料理屋「福來門」へ。当時100円で提供されていたサービス品の水餃子をつまみに、一杯190円の生ビールをおかわりする日々だった。
人気の立ち飲み屋「きど藤」で“独り飲み”の教養を身につけ、青梅街道沿いにある「やきとり屯」には優に200回以上は通っている。そして何より、いまでは“路上飲みの聖地”と化している北口ロータリーでは、缶チューハイを片手に何人もの友人ができた。
細い路地がたくさんあるのが高円寺の魅力(photo by iStock)
コロナ禍の影響や1年前に墨田区に引越しこともあり、もう長らく足を運んでいない店がほとんどだ。それでも、高円寺という街への思い入れは強くある。高円寺を愛する人々は自らを“高円寺民”と称したりするのだが、筆者もそのマインドは変わらない。そんな高円寺には、ずいぶん前から再開発の計画があることをご存知だろうか? もし実現すれば街が一変してしまう可能性もある。計画されているのは、高円寺南2丁目から練馬区中村北1丁目を結ぶ都市計画道路「補助227号線」の建設だ。杉並区、中野区、練馬区と3つの区をまたぐものだが、これを高円寺エリアに絞ってみると、“高南通り”“純情商店街”“庚申通り商店街”が当てはまる。DJとバンドマンが繰り出す「再開発反対デモ」高南通りは、タクシーなどの横付けが可能な24時間営業のラーメン店「タロー軒」がある少し大きめの通り。一方、ねじめ正一の同名小説が由来の純情商店街とその先にある庚申通り商店街は、大小さまざまな商店や飲食店が軒を連ねる歩行者がメインの通りである。再開発で計画されている「補助227号線」は、この3つを飲み込んで車の行き交う大通りにしてしまおうというのだ。高円寺を愛する人々も、こうした計画に黙っているわけではない。5月15日には「再開発反対デモ」が3年ぶりに実施された。『やっぱり高円寺に再開発は要らないパレード』と題されたこのデモには、地域住民はもちろんのこと、高円寺を愛する人々が各地から大集結。高円寺デモ(筆者撮影)高円寺デモの様子(筆者撮影) デモ隊を誘導する軽トラックにはそれぞれスピーカーが搭載されており、車上のバンド演奏やDJたちによる音楽が陽気なムードを生み出していた。さらには屋台のような移動式居酒屋「呑んべえ号」まで登場し、完全にお祭り状態だった。「再開発は要りません!」と叫ぶ者がいれば、音楽に聴き入る者や踊り狂う者、ただただアルコールで顔を赤らめている者、静かに同行し“連帯の意”を表明する者、沿道から見守る者など、さまざまだった。この場に集まったのはまさに多種多様な人々。高円寺の雑多で自由な気風を体現したようなデモである。筆者も参加し、祝祭的な一日を堪能した。ひと月後に杉並区長選を控えていたこともあってか、デモは現地のみならずSNS上でも話題に。再開発計画の見直しを掲げ、のちに杉並区長となる岸本聡子さんの姿もあった。こうして、誰もが楽しみながら“街のこれから”について考える時間は、大盛況のうちに幕を閉じたのだ。高円寺は「吉祥寺」を目指すのか?なぜ高円寺の人々はこれほどまでに再開発に反対するのか。その理由の一つとして筆者が考えるのが、「高円寺が“吉祥寺化”してしまうから」である。高円寺から中央・総武線で4駅のところに位置する吉祥寺は、戦後の闇市が発展してできた駅前の飲食店街「ハーモニカ横丁」や、ライブハウスに古着屋など、一部のファン向けのコアな店が点在している。カレーが人気で行列ができる「くぐつ草」や、「武蔵野珈琲店」といった老舗の喫茶店も健在で、吉祥寺にしかないこれらを目当てに訪れる人は多い。“カルチャーの街”としての吉祥寺の一面だといえるだろう。そのいっぽうでこの街には、駅ビルである「アトレ吉祥寺」や「東急百貨店」など、より幅広い層に向けた商業施設も並んでいる。これらは高円寺にないもので、高円寺にやってくる人々とは明らかに異なる層をターゲットとしているのが分かる。 吉祥寺だって1960年代までは、高円寺と同じように歩行者がメインの街だった。しかし、吉祥寺通りをはじめ、再開発による道路の大規模な整備により、いまでは駅周辺をビュンビュンと車が行き交っている。ロータリーの規模感も、往来するバスの数も高円寺とは大違いだ。筆者も吉祥寺にはたびたび足を運んでいる。特に高円寺に住んでいた頃には、“高円寺にないもの”と“吉祥寺にしかないもの”を目当てに頻繁に通ったものだ。吉祥寺は再開発の延長線上で“古い”と“新しい”とが入り交じり、高円寺とはまた異なる、多種多様な人々が集まる場へと進化し続けている。これはこの街の魅力の一つであり、長い目で見た再開発による成功的な側面だと思う。「大衆酒場バクダン」の肉厚のメンチカツ高円寺の再開発が行われた場合、もしかすると吉祥寺と同じような成功を掴めるかもしれない。しかし、幹線道路が通れば缶チューハイを片手にぶらぶらすることもままならず、周囲には高層ビルだって建つだろう。そうなれば当然、これまで高円寺に住んでいなかった人々をターゲットとした店も増えていく。商業ビルが建てば小さな店舗は経営に打撃を受けるだろうし、それ以前に、「補助227号線」が重なる店は撤退を余儀なくされる。新しいものが入れば、少なからずいま存在しているものが出ていくことになる。 正直なところ、現在の純情商店街に“ねじめ正一的なもの”は皆無だ。そもそも時代が違うのだから、個人と地域の関わり方は作中に登場するようなものとはまるで異なるし、個人経営の店が多いとはいえ、高円寺を象徴するほどのものは限られている。それでも、古くから残っているものがあるのもまた事実だ。筆者が生まれるよりもずっと前から営業している「大衆酒場バクダン」は、庚申通り商店街の最北あたりに位置しており、「補助227号線」がもろにかぶる店だ。いつのぞいても顔を赤くした人生の先輩方でにぎわっていて、サッポロ黒ラベルの大瓶の重みを感じながらグラスに丁寧に注ぎ、肉厚のメンチカツを頬張るのが、いまでも高円寺を訪れた際の筆者の楽しみである。合わせて破格の800円。いろいろな意味で、失くなられては困るのだ。“自由な街・高円寺”を守るためにそれに長い目で見ると、もし純情商店街や庚申通り商店街にある個人経営店が失くなれば、街の一部が変わる以上の大きな影響が出るはずだ。タワーマンションなどの高層ビルが建った場合、そこに住む層をターゲットとしたものが増えるのは先に記したとおり。古着屋にしろライブハウスにしろ酒場にしろ、誰かの思い入れのある「場」が失われれば、高円寺という街から離れていく人だっているだろう。街の生態系が崩れるのだから、5月15日のデモで見られたような祝祭的な時間だって失われてしまう。 街が発展し活気づくことは素晴らしい。しかし考えなければならないのは、現在ある街の魅力を保持するにはどうすればいいのかということ。発展のために何かを斬り捨てたり、取り残してしまうようなことがあってはならないだろう。高円寺が多様なカルチャーが入り乱れる街であり続けるために、“自由な街・高円寺”という街の概念が失われないために、やはり小さきものにこそ目を向け、耳を傾けるべきである。これは再開発案が浮上しているすべての街にいえることだが、ぜひともこのエリアを実際に歩いてみて、いまそこに息づくものを肌で感じてほしい。中央線沿いに似たような街が二つも必要だろうか。
コロナ禍の影響や1年前に墨田区に引越しこともあり、もう長らく足を運んでいない店がほとんどだ。それでも、高円寺という街への思い入れは強くある。高円寺を愛する人々は自らを“高円寺民”と称したりするのだが、筆者もそのマインドは変わらない。
そんな高円寺には、ずいぶん前から再開発の計画があることをご存知だろうか? もし実現すれば街が一変してしまう可能性もある。
計画されているのは、高円寺南2丁目から練馬区中村北1丁目を結ぶ都市計画道路「補助227号線」の建設だ。杉並区、中野区、練馬区と3つの区をまたぐものだが、これを高円寺エリアに絞ってみると、“高南通り”“純情商店街”“庚申通り商店街”が当てはまる。
高南通りは、タクシーなどの横付けが可能な24時間営業のラーメン店「タロー軒」がある少し大きめの通り。一方、ねじめ正一の同名小説が由来の純情商店街とその先にある庚申通り商店街は、大小さまざまな商店や飲食店が軒を連ねる歩行者がメインの通りである。
再開発で計画されている「補助227号線」は、この3つを飲み込んで車の行き交う大通りにしてしまおうというのだ。
高円寺を愛する人々も、こうした計画に黙っているわけではない。5月15日には「再開発反対デモ」が3年ぶりに実施された。『やっぱり高円寺に再開発は要らないパレード』と題されたこのデモには、地域住民はもちろんのこと、高円寺を愛する人々が各地から大集結。
高円寺デモ(筆者撮影)
高円寺デモの様子(筆者撮影)
デモ隊を誘導する軽トラックにはそれぞれスピーカーが搭載されており、車上のバンド演奏やDJたちによる音楽が陽気なムードを生み出していた。さらには屋台のような移動式居酒屋「呑んべえ号」まで登場し、完全にお祭り状態だった。「再開発は要りません!」と叫ぶ者がいれば、音楽に聴き入る者や踊り狂う者、ただただアルコールで顔を赤らめている者、静かに同行し“連帯の意”を表明する者、沿道から見守る者など、さまざまだった。この場に集まったのはまさに多種多様な人々。高円寺の雑多で自由な気風を体現したようなデモである。筆者も参加し、祝祭的な一日を堪能した。ひと月後に杉並区長選を控えていたこともあってか、デモは現地のみならずSNS上でも話題に。再開発計画の見直しを掲げ、のちに杉並区長となる岸本聡子さんの姿もあった。こうして、誰もが楽しみながら“街のこれから”について考える時間は、大盛況のうちに幕を閉じたのだ。高円寺は「吉祥寺」を目指すのか?なぜ高円寺の人々はこれほどまでに再開発に反対するのか。その理由の一つとして筆者が考えるのが、「高円寺が“吉祥寺化”してしまうから」である。高円寺から中央・総武線で4駅のところに位置する吉祥寺は、戦後の闇市が発展してできた駅前の飲食店街「ハーモニカ横丁」や、ライブハウスに古着屋など、一部のファン向けのコアな店が点在している。カレーが人気で行列ができる「くぐつ草」や、「武蔵野珈琲店」といった老舗の喫茶店も健在で、吉祥寺にしかないこれらを目当てに訪れる人は多い。“カルチャーの街”としての吉祥寺の一面だといえるだろう。そのいっぽうでこの街には、駅ビルである「アトレ吉祥寺」や「東急百貨店」など、より幅広い層に向けた商業施設も並んでいる。これらは高円寺にないもので、高円寺にやってくる人々とは明らかに異なる層をターゲットとしているのが分かる。 吉祥寺だって1960年代までは、高円寺と同じように歩行者がメインの街だった。しかし、吉祥寺通りをはじめ、再開発による道路の大規模な整備により、いまでは駅周辺をビュンビュンと車が行き交っている。ロータリーの規模感も、往来するバスの数も高円寺とは大違いだ。筆者も吉祥寺にはたびたび足を運んでいる。特に高円寺に住んでいた頃には、“高円寺にないもの”と“吉祥寺にしかないもの”を目当てに頻繁に通ったものだ。吉祥寺は再開発の延長線上で“古い”と“新しい”とが入り交じり、高円寺とはまた異なる、多種多様な人々が集まる場へと進化し続けている。これはこの街の魅力の一つであり、長い目で見た再開発による成功的な側面だと思う。「大衆酒場バクダン」の肉厚のメンチカツ高円寺の再開発が行われた場合、もしかすると吉祥寺と同じような成功を掴めるかもしれない。しかし、幹線道路が通れば缶チューハイを片手にぶらぶらすることもままならず、周囲には高層ビルだって建つだろう。そうなれば当然、これまで高円寺に住んでいなかった人々をターゲットとした店も増えていく。商業ビルが建てば小さな店舗は経営に打撃を受けるだろうし、それ以前に、「補助227号線」が重なる店は撤退を余儀なくされる。新しいものが入れば、少なからずいま存在しているものが出ていくことになる。 正直なところ、現在の純情商店街に“ねじめ正一的なもの”は皆無だ。そもそも時代が違うのだから、個人と地域の関わり方は作中に登場するようなものとはまるで異なるし、個人経営の店が多いとはいえ、高円寺を象徴するほどのものは限られている。それでも、古くから残っているものがあるのもまた事実だ。筆者が生まれるよりもずっと前から営業している「大衆酒場バクダン」は、庚申通り商店街の最北あたりに位置しており、「補助227号線」がもろにかぶる店だ。いつのぞいても顔を赤くした人生の先輩方でにぎわっていて、サッポロ黒ラベルの大瓶の重みを感じながらグラスに丁寧に注ぎ、肉厚のメンチカツを頬張るのが、いまでも高円寺を訪れた際の筆者の楽しみである。合わせて破格の800円。いろいろな意味で、失くなられては困るのだ。“自由な街・高円寺”を守るためにそれに長い目で見ると、もし純情商店街や庚申通り商店街にある個人経営店が失くなれば、街の一部が変わる以上の大きな影響が出るはずだ。タワーマンションなどの高層ビルが建った場合、そこに住む層をターゲットとしたものが増えるのは先に記したとおり。古着屋にしろライブハウスにしろ酒場にしろ、誰かの思い入れのある「場」が失われれば、高円寺という街から離れていく人だっているだろう。街の生態系が崩れるのだから、5月15日のデモで見られたような祝祭的な時間だって失われてしまう。 街が発展し活気づくことは素晴らしい。しかし考えなければならないのは、現在ある街の魅力を保持するにはどうすればいいのかということ。発展のために何かを斬り捨てたり、取り残してしまうようなことがあってはならないだろう。高円寺が多様なカルチャーが入り乱れる街であり続けるために、“自由な街・高円寺”という街の概念が失われないために、やはり小さきものにこそ目を向け、耳を傾けるべきである。これは再開発案が浮上しているすべての街にいえることだが、ぜひともこのエリアを実際に歩いてみて、いまそこに息づくものを肌で感じてほしい。中央線沿いに似たような街が二つも必要だろうか。
デモ隊を誘導する軽トラックにはそれぞれスピーカーが搭載されており、車上のバンド演奏やDJたちによる音楽が陽気なムードを生み出していた。さらには屋台のような移動式居酒屋「呑んべえ号」まで登場し、完全にお祭り状態だった。
「再開発は要りません!」と叫ぶ者がいれば、音楽に聴き入る者や踊り狂う者、ただただアルコールで顔を赤らめている者、静かに同行し“連帯の意”を表明する者、沿道から見守る者など、さまざまだった。この場に集まったのはまさに多種多様な人々。高円寺の雑多で自由な気風を体現したようなデモである。筆者も参加し、祝祭的な一日を堪能した。
ひと月後に杉並区長選を控えていたこともあってか、デモは現地のみならずSNS上でも話題に。再開発計画の見直しを掲げ、のちに杉並区長となる岸本聡子さんの姿もあった。
こうして、誰もが楽しみながら“街のこれから”について考える時間は、大盛況のうちに幕を閉じたのだ。
なぜ高円寺の人々はこれほどまでに再開発に反対するのか。その理由の一つとして筆者が考えるのが、「高円寺が“吉祥寺化”してしまうから」である。
高円寺から中央・総武線で4駅のところに位置する吉祥寺は、戦後の闇市が発展してできた駅前の飲食店街「ハーモニカ横丁」や、ライブハウスに古着屋など、一部のファン向けのコアな店が点在している。カレーが人気で行列ができる「くぐつ草」や、「武蔵野珈琲店」といった老舗の喫茶店も健在で、吉祥寺にしかないこれらを目当てに訪れる人は多い。“カルチャーの街”としての吉祥寺の一面だといえるだろう。
そのいっぽうでこの街には、駅ビルである「アトレ吉祥寺」や「東急百貨店」など、より幅広い層に向けた商業施設も並んでいる。これらは高円寺にないもので、高円寺にやってくる人々とは明らかに異なる層をターゲットとしているのが分かる。
吉祥寺だって1960年代までは、高円寺と同じように歩行者がメインの街だった。しかし、吉祥寺通りをはじめ、再開発による道路の大規模な整備により、いまでは駅周辺をビュンビュンと車が行き交っている。ロータリーの規模感も、往来するバスの数も高円寺とは大違いだ。筆者も吉祥寺にはたびたび足を運んでいる。特に高円寺に住んでいた頃には、“高円寺にないもの”と“吉祥寺にしかないもの”を目当てに頻繁に通ったものだ。吉祥寺は再開発の延長線上で“古い”と“新しい”とが入り交じり、高円寺とはまた異なる、多種多様な人々が集まる場へと進化し続けている。これはこの街の魅力の一つであり、長い目で見た再開発による成功的な側面だと思う。「大衆酒場バクダン」の肉厚のメンチカツ高円寺の再開発が行われた場合、もしかすると吉祥寺と同じような成功を掴めるかもしれない。しかし、幹線道路が通れば缶チューハイを片手にぶらぶらすることもままならず、周囲には高層ビルだって建つだろう。そうなれば当然、これまで高円寺に住んでいなかった人々をターゲットとした店も増えていく。商業ビルが建てば小さな店舗は経営に打撃を受けるだろうし、それ以前に、「補助227号線」が重なる店は撤退を余儀なくされる。新しいものが入れば、少なからずいま存在しているものが出ていくことになる。 正直なところ、現在の純情商店街に“ねじめ正一的なもの”は皆無だ。そもそも時代が違うのだから、個人と地域の関わり方は作中に登場するようなものとはまるで異なるし、個人経営の店が多いとはいえ、高円寺を象徴するほどのものは限られている。それでも、古くから残っているものがあるのもまた事実だ。筆者が生まれるよりもずっと前から営業している「大衆酒場バクダン」は、庚申通り商店街の最北あたりに位置しており、「補助227号線」がもろにかぶる店だ。いつのぞいても顔を赤くした人生の先輩方でにぎわっていて、サッポロ黒ラベルの大瓶の重みを感じながらグラスに丁寧に注ぎ、肉厚のメンチカツを頬張るのが、いまでも高円寺を訪れた際の筆者の楽しみである。合わせて破格の800円。いろいろな意味で、失くなられては困るのだ。“自由な街・高円寺”を守るためにそれに長い目で見ると、もし純情商店街や庚申通り商店街にある個人経営店が失くなれば、街の一部が変わる以上の大きな影響が出るはずだ。タワーマンションなどの高層ビルが建った場合、そこに住む層をターゲットとしたものが増えるのは先に記したとおり。古着屋にしろライブハウスにしろ酒場にしろ、誰かの思い入れのある「場」が失われれば、高円寺という街から離れていく人だっているだろう。街の生態系が崩れるのだから、5月15日のデモで見られたような祝祭的な時間だって失われてしまう。 街が発展し活気づくことは素晴らしい。しかし考えなければならないのは、現在ある街の魅力を保持するにはどうすればいいのかということ。発展のために何かを斬り捨てたり、取り残してしまうようなことがあってはならないだろう。高円寺が多様なカルチャーが入り乱れる街であり続けるために、“自由な街・高円寺”という街の概念が失われないために、やはり小さきものにこそ目を向け、耳を傾けるべきである。これは再開発案が浮上しているすべての街にいえることだが、ぜひともこのエリアを実際に歩いてみて、いまそこに息づくものを肌で感じてほしい。中央線沿いに似たような街が二つも必要だろうか。
吉祥寺だって1960年代までは、高円寺と同じように歩行者がメインの街だった。しかし、吉祥寺通りをはじめ、再開発による道路の大規模な整備により、いまでは駅周辺をビュンビュンと車が行き交っている。ロータリーの規模感も、往来するバスの数も高円寺とは大違いだ。
筆者も吉祥寺にはたびたび足を運んでいる。特に高円寺に住んでいた頃には、“高円寺にないもの”と“吉祥寺にしかないもの”を目当てに頻繁に通ったものだ。
吉祥寺は再開発の延長線上で“古い”と“新しい”とが入り交じり、高円寺とはまた異なる、多種多様な人々が集まる場へと進化し続けている。これはこの街の魅力の一つであり、長い目で見た再開発による成功的な側面だと思う。
高円寺の再開発が行われた場合、もしかすると吉祥寺と同じような成功を掴めるかもしれない。
しかし、幹線道路が通れば缶チューハイを片手にぶらぶらすることもままならず、周囲には高層ビルだって建つだろう。そうなれば当然、これまで高円寺に住んでいなかった人々をターゲットとした店も増えていく。
商業ビルが建てば小さな店舗は経営に打撃を受けるだろうし、それ以前に、「補助227号線」が重なる店は撤退を余儀なくされる。新しいものが入れば、少なからずいま存在しているものが出ていくことになる。
正直なところ、現在の純情商店街に“ねじめ正一的なもの”は皆無だ。そもそも時代が違うのだから、個人と地域の関わり方は作中に登場するようなものとはまるで異なるし、個人経営の店が多いとはいえ、高円寺を象徴するほどのものは限られている。それでも、古くから残っているものがあるのもまた事実だ。筆者が生まれるよりもずっと前から営業している「大衆酒場バクダン」は、庚申通り商店街の最北あたりに位置しており、「補助227号線」がもろにかぶる店だ。いつのぞいても顔を赤くした人生の先輩方でにぎわっていて、サッポロ黒ラベルの大瓶の重みを感じながらグラスに丁寧に注ぎ、肉厚のメンチカツを頬張るのが、いまでも高円寺を訪れた際の筆者の楽しみである。合わせて破格の800円。いろいろな意味で、失くなられては困るのだ。“自由な街・高円寺”を守るためにそれに長い目で見ると、もし純情商店街や庚申通り商店街にある個人経営店が失くなれば、街の一部が変わる以上の大きな影響が出るはずだ。タワーマンションなどの高層ビルが建った場合、そこに住む層をターゲットとしたものが増えるのは先に記したとおり。古着屋にしろライブハウスにしろ酒場にしろ、誰かの思い入れのある「場」が失われれば、高円寺という街から離れていく人だっているだろう。街の生態系が崩れるのだから、5月15日のデモで見られたような祝祭的な時間だって失われてしまう。 街が発展し活気づくことは素晴らしい。しかし考えなければならないのは、現在ある街の魅力を保持するにはどうすればいいのかということ。発展のために何かを斬り捨てたり、取り残してしまうようなことがあってはならないだろう。高円寺が多様なカルチャーが入り乱れる街であり続けるために、“自由な街・高円寺”という街の概念が失われないために、やはり小さきものにこそ目を向け、耳を傾けるべきである。これは再開発案が浮上しているすべての街にいえることだが、ぜひともこのエリアを実際に歩いてみて、いまそこに息づくものを肌で感じてほしい。中央線沿いに似たような街が二つも必要だろうか。
正直なところ、現在の純情商店街に“ねじめ正一的なもの”は皆無だ。そもそも時代が違うのだから、個人と地域の関わり方は作中に登場するようなものとはまるで異なるし、個人経営の店が多いとはいえ、高円寺を象徴するほどのものは限られている。それでも、古くから残っているものがあるのもまた事実だ。
筆者が生まれるよりもずっと前から営業している「大衆酒場バクダン」は、庚申通り商店街の最北あたりに位置しており、「補助227号線」がもろにかぶる店だ。
いつのぞいても顔を赤くした人生の先輩方でにぎわっていて、サッポロ黒ラベルの大瓶の重みを感じながらグラスに丁寧に注ぎ、肉厚のメンチカツを頬張るのが、いまでも高円寺を訪れた際の筆者の楽しみである。合わせて破格の800円。いろいろな意味で、失くなられては困るのだ。
それに長い目で見ると、もし純情商店街や庚申通り商店街にある個人経営店が失くなれば、街の一部が変わる以上の大きな影響が出るはずだ。タワーマンションなどの高層ビルが建った場合、そこに住む層をターゲットとしたものが増えるのは先に記したとおり。
古着屋にしろライブハウスにしろ酒場にしろ、誰かの思い入れのある「場」が失われれば、高円寺という街から離れていく人だっているだろう。街の生態系が崩れるのだから、5月15日のデモで見られたような祝祭的な時間だって失われてしまう。
街が発展し活気づくことは素晴らしい。しかし考えなければならないのは、現在ある街の魅力を保持するにはどうすればいいのかということ。発展のために何かを斬り捨てたり、取り残してしまうようなことがあってはならないだろう。高円寺が多様なカルチャーが入り乱れる街であり続けるために、“自由な街・高円寺”という街の概念が失われないために、やはり小さきものにこそ目を向け、耳を傾けるべきである。これは再開発案が浮上しているすべての街にいえることだが、ぜひともこのエリアを実際に歩いてみて、いまそこに息づくものを肌で感じてほしい。中央線沿いに似たような街が二つも必要だろうか。
街が発展し活気づくことは素晴らしい。しかし考えなければならないのは、現在ある街の魅力を保持するにはどうすればいいのかということ。発展のために何かを斬り捨てたり、取り残してしまうようなことがあってはならないだろう。
高円寺が多様なカルチャーが入り乱れる街であり続けるために、“自由な街・高円寺”という街の概念が失われないために、やはり小さきものにこそ目を向け、耳を傾けるべきである。これは再開発案が浮上しているすべての街にいえることだが、ぜひともこのエリアを実際に歩いてみて、いまそこに息づくものを肌で感じてほしい。
中央線沿いに似たような街が二つも必要だろうか。