重い精神疾患、社会的孤立、治らないうつ病といったさまざまな問題に対し、従来の福祉支援や治療が効果を発揮しにくい人たちが存在する。そう語るのは、生活保護業務を行う福祉事務所職員として、彼らに接し続けた植原亮太氏だ。
【写真】この記事の写真を見る(2枚) はたして福祉現場ではどのような問題が潜んでいるのか。ここでは、生活保護支援の現場で働いていた植原氏による『ルポ 虐待サバイバー』(集英社新書)の一部を抜粋し、紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)

※事例に登場する人物名は仮名です。また、個人情報保護の観点から個人が特定されないように書き方を配慮しておりますiStock.com◆◆◆“なにか”あると暴発する母親「話しても、あんまり信じてもらえないかもしれないんですけど。それに、専門家やカウンセラーの方って、ちょっと苦手で……あんまり信用できないというか。すみません、批判しているわけではないんです。なんか、決めつけられてしまうのが苦手というか、いろいろとやってくださるのは、ありがたいんですけど……すみません」 そう話しているのは、中山優子さん(26歳)である。 まるで怯える小動物のように体を震わせ、視線をそらし、聞き取れないくらいの声で小さく言って、謝る必要もないのに謝っていた。 私が彼女の話を聞くことになったのは、彼女の担当ケースワーカーからの依頼だった。 生活保護を受けるようになってしばらく経つ。療養指導も就労指導も、なかなか実らなかった。それで、私が関わることになった。「子どものころのことって、いまの状況に影響しますか?」 と彼女が、ぽつりと私に聞いた。「ええ、影響することもあると思います」 彼女は、私の反応をうかがうように話しだした。「優子! ちょっとこい! 本当にばかだね! 何度言ったらわかるんだ! 捨てられたいのか! こんなやつに食わせる飯なんかない!」「ごめんなさい……」 なにがきっかけで急に怒りだすのかわからない母親に怯える日々。それが彼女の人生初期の記憶だった。 母親は急に怒りだし、当時五歳の優子ちゃんを叩き、体を押し倒し、引きずり回した。そして、彼女が自分の手で用意した昼食をゴミ箱に捨てた。お腹が空いて耐えられなかった彼女は、母親の目を盗んで、こっそりゴミ箱をあさり、それを食べた。 当時、彼女は母親と弟と三人で公営住宅に住んでいた。日常的に母親からの暴力を受けており、いつもその顔色をうかがっていた。母親を見ていると「見てくんな」と言われて叩かれた。拳が目に直撃して腫れぼったい瞼になった。すると今度は、「目つきが悪い」と言われてビンタをされた。児童相談所の職員が去った途端「お前のせいで!」 子どもが幼稚園に通っている様子がない、深夜にひとりで歩いている、お酒を買いにきた子どもがいる……。そんな数件の通報が児童相談所に寄せられていた。それで、ある日、彼女の自宅に児童相談所の職員が訪問してきた。その光景を、割とはっきり覚えているという。「ごめんください」 母親が玄関を開けると、柔和そうな女性が立っていた。その後ろに若い男性がいた。 不機嫌そうに母親が、「なんですか」と言うと、扉の外に立つ女性が答えた。とてもやさしそうな声をしていた。「いろいろと子育てのことで大変だと思って。少しでも力になれることはないかしら?」 母親は面倒くさそうにしていた。「大丈夫です、間にあってるんで」「お母さんひとりで小さな子どもをふたりも育てるのは大変でしょ?」と、その女性は言い、部屋のなかを覗き込みながら「お子さんの顔、見せてもらうことできる?」とたずねた。「見せるから、帰ってください」 母親に玄関までくるように言われて、彼女は顔をだした。「あら、その目、どうしたの? 腫れているじゃない?」女性職員が言った。「きょうだい喧嘩です」と、きっぱり言いきった母親だったが、三歳になったばかりの弟がつくれるような目の痣ではなかった。 なにかを察したのだろう。女性職員が母親に向かって、とっさに言った。「イライラしちゃうこととか、ない?」「なんなんですか! 人の家庭に首を突っ込んできて! 迷惑なんですけど! もういいです!」 母親は急に怒りだした。その勢いに気圧されて、「じゃあ、また失礼させていただきますね」と言って、職員たちは帰っていった。 玄関の扉が閉まった。「お前のせいで!」 彼女の頭に衝撃がくわわった。足元にはホチキスの本体が転がっていた。痛むところを触っていると、指先に硬いものが触れた。それを引き抜くとホチキスの芯だった。 髪の毛を鷲みにされ、引きずられ、奥の和室へと連れて行かれた。ところどころ破れている襖、擦りきれた畳に残る赤黒くなった何日か前の血、そのうえに真新しい血が落ちた。それを、彼女はティッシュペーパーを持ってきて拭いた。汚れていると、また怒られるからだ。 暴力を振るわれているあいだ、彼女は何度も母親に謝った。「ごめんなさい」と繰り返した。が、許してもらったことはなかった。母親の気がすむまで、じっと耐えるしかなかった。 母親は、優子さんが小学校に就学するのに必要な手続きを怠っていた。この件で連絡を受けた児童相談所から、前と同じ女性職員が再び訪問してきた。母親が嫌そうに応じ、それから彼女が呼ばれ、二言、三言、会話した。 小学校は楽しかった。毎日おいしい給食を食べられた。 三度、児童相談所の職員が訪問してきたある日のこと。母親と職員が玄関で短い会話をした。その後、玄関が閉まり、母親がものすごい剣幕で彼女のほうへ歩み寄ってきて、いきなり蹴り、近くに置いてあったテレビのリモコンで彼女のことを打った。「お前が学校で余計なことを言うから、私が虐待していると思われているだろ!」 彼女には心あたりがあるという。「多分、私が学校の先生に、家でご飯を食べられないことがあると言ったから、それが児童相談所に伝わって、それで家にきて、ちゃんと食べさせるように言ったんだと思います。私は、ここで食べておかなきゃいけないと思って給食をたくさん食べていたので。家のことは外で話してはいけないんだと思ったことを、覚えています」 外部から不用意に刺激すると(介入すると)悪化する虐待がある。私の頭には、いくつもの児童虐待死のニュースが浮かんだ。高校を卒業し家を出る日、母親は「家政婦がいなくなった」と言った 児童相談所が介入してくれたおかげで、弟は幼稚園に入ることができた。しかし、お迎えは彼女の役割になった。小学校からの下校途中で弟を迎えに行き、そのまま買い物をする。それが一家の晩御飯だった。母親は、まったく料理をしなかった。 それから彼女は、母親に彼氏ができたこと、その男の人がとても怖かったこと、いつの間にかその男の人は家に入り浸るようになって、やがて住みはじめたことなどを話した。 間もなく、母親と男のあいだには子どもが生まれた。女の子だった。優子さんは新しくできた妹をかわいがったが、すぐに別々に暮らすことになった。妹は、児童相談所が引きとっていった。 児童相談所の職員は、彼女が小学校、中学校と進むまで、定期的に家に訪問してきた。「がんばっていくのよ」と彼女は職員から言われた。しかし、なにをどうがんばればいいのかわからなかった。 優子さんは、学校で必要なものを母親から買ってもらったことが、ほとんどなかった。しかし、それを学校の先生には言えなかった。そのせいで、「忘れ物が多い」「だらしない」とられることもあった。だから、高校生になってアルバイトができるようになったことが、とてもうれしかった。家とは違って一生懸命にやれば褒められたし、自分の意思でほしいものを手に入れることができた。そしてなにより、たとえ失敗したとしても一方的に怒られ続けることなどなかった。 ところが、ある日、貯めていたアルバイト代を母親にとられてしまった。それでも彼女はめげなかった。今度は、母親に気づかれないようにアルバイトをし、こっそりとお金を貯めた。帰宅が遅い彼女に、母親はなんの関心も示さなかった。──目標にしていたひとり暮らしをするためのお金が貯まり、高校の卒業と同時に家を出た。就職先はなるべく親から遠く離れたところにしようと決めていた。「家政婦がいなくなった」 彼女が家を出て行く日に、母親はそう言った。小さいころからの悲しい癖 会社には朝一番に出勤し、夜は最後に退勤した。土日は会社に黙って出勤し、仕事をするうえで必要な資料に目を通し、暗記したり、完成させなくてはならない資料を仕上げたりした。別に、誰かの指示でも頼まれたわけでもなかったが、そうしないと周りに追いついていけないと思ったから、自らそうしたのだという。 入社して4年目の、ある朝の通勤電車内で、彼女ははじめてパニック発作を起こした。水中に沈められているのではないのかというくらいの息苦しさ、窒息感に襲われた。額に汗がにじみ、手指が震えた。なんとか職場にたどり着いたが、今度は周りの社員たちからの目が急に怖くなった。トイレに駆け込み、嘔吐してしまった。 翌日以降、出勤することが怖くなった。続けて何日も休んだ。 上司からは休職を勧められた。彼女は必要な手続きに則って精神科を受診した。診断書をもらい、それを会社に郵送した。 休職している期間中に、症状がよくなっていくことはなかった。 このまま会社に在籍することが迷惑だと思った彼女は、退職することにした。 しばらくぶりの会社で、彼女は最後のあいさつをした。「ろくに役に立たなかったと思います。いろいろとご迷惑をかけました。すみません……」 彼女が謝るのは、小さいころからの悲しい癖だった。「そんな年齢ですっけ? 面倒になりますね」娘の生理を無視する母親…“無関心という虐待”で少女が負った“心の傷”とは へ続く(植原 亮太)
はたして福祉現場ではどのような問題が潜んでいるのか。ここでは、生活保護支援の現場で働いていた植原氏による『ルポ 虐待サバイバー』(集英社新書)の一部を抜粋し、紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)
※事例に登場する人物名は仮名です。また、個人情報保護の観点から個人が特定されないように書き方を配慮しております
iStock.com
◆◆◆
「話しても、あんまり信じてもらえないかもしれないんですけど。それに、専門家やカウンセラーの方って、ちょっと苦手で……あんまり信用できないというか。すみません、批判しているわけではないんです。なんか、決めつけられてしまうのが苦手というか、いろいろとやってくださるのは、ありがたいんですけど……すみません」
そう話しているのは、中山優子さん(26歳)である。
まるで怯える小動物のように体を震わせ、視線をそらし、聞き取れないくらいの声で小さく言って、謝る必要もないのに謝っていた。
私が彼女の話を聞くことになったのは、彼女の担当ケースワーカーからの依頼だった。
生活保護を受けるようになってしばらく経つ。療養指導も就労指導も、なかなか実らなかった。それで、私が関わることになった。
「子どものころのことって、いまの状況に影響しますか?」
と彼女が、ぽつりと私に聞いた。
「ええ、影響することもあると思います」
彼女は、私の反応をうかがうように話しだした。
「優子! ちょっとこい! 本当にばかだね! 何度言ったらわかるんだ! 捨てられたいのか! こんなやつに食わせる飯なんかない!」
「ごめんなさい……」
なにがきっかけで急に怒りだすのかわからない母親に怯える日々。それが彼女の人生初期の記憶だった。
母親は急に怒りだし、当時五歳の優子ちゃんを叩き、体を押し倒し、引きずり回した。そして、彼女が自分の手で用意した昼食をゴミ箱に捨てた。お腹が空いて耐えられなかった彼女は、母親の目を盗んで、こっそりゴミ箱をあさり、それを食べた。
当時、彼女は母親と弟と三人で公営住宅に住んでいた。日常的に母親からの暴力を受けており、いつもその顔色をうかがっていた。母親を見ていると「見てくんな」と言われて叩かれた。拳が目に直撃して腫れぼったい瞼になった。すると今度は、「目つきが悪い」と言われてビンタをされた。
子どもが幼稚園に通っている様子がない、深夜にひとりで歩いている、お酒を買いにきた子どもがいる……。そんな数件の通報が児童相談所に寄せられていた。それで、ある日、彼女の自宅に児童相談所の職員が訪問してきた。その光景を、割とはっきり覚えているという。
「ごめんください」 母親が玄関を開けると、柔和そうな女性が立っていた。その後ろに若い男性がいた。 不機嫌そうに母親が、「なんですか」と言うと、扉の外に立つ女性が答えた。とてもやさしそうな声をしていた。「いろいろと子育てのことで大変だと思って。少しでも力になれることはないかしら?」 母親は面倒くさそうにしていた。「大丈夫です、間にあってるんで」「お母さんひとりで小さな子どもをふたりも育てるのは大変でしょ?」と、その女性は言い、部屋のなかを覗き込みながら「お子さんの顔、見せてもらうことできる?」とたずねた。「見せるから、帰ってください」 母親に玄関までくるように言われて、彼女は顔をだした。「あら、その目、どうしたの? 腫れているじゃない?」女性職員が言った。「きょうだい喧嘩です」と、きっぱり言いきった母親だったが、三歳になったばかりの弟がつくれるような目の痣ではなかった。 なにかを察したのだろう。女性職員が母親に向かって、とっさに言った。「イライラしちゃうこととか、ない?」「なんなんですか! 人の家庭に首を突っ込んできて! 迷惑なんですけど! もういいです!」 母親は急に怒りだした。その勢いに気圧されて、「じゃあ、また失礼させていただきますね」と言って、職員たちは帰っていった。 玄関の扉が閉まった。「お前のせいで!」 彼女の頭に衝撃がくわわった。足元にはホチキスの本体が転がっていた。痛むところを触っていると、指先に硬いものが触れた。それを引き抜くとホチキスの芯だった。 髪の毛を鷲みにされ、引きずられ、奥の和室へと連れて行かれた。ところどころ破れている襖、擦りきれた畳に残る赤黒くなった何日か前の血、そのうえに真新しい血が落ちた。それを、彼女はティッシュペーパーを持ってきて拭いた。汚れていると、また怒られるからだ。 暴力を振るわれているあいだ、彼女は何度も母親に謝った。「ごめんなさい」と繰り返した。が、許してもらったことはなかった。母親の気がすむまで、じっと耐えるしかなかった。 母親は、優子さんが小学校に就学するのに必要な手続きを怠っていた。この件で連絡を受けた児童相談所から、前と同じ女性職員が再び訪問してきた。母親が嫌そうに応じ、それから彼女が呼ばれ、二言、三言、会話した。 小学校は楽しかった。毎日おいしい給食を食べられた。 三度、児童相談所の職員が訪問してきたある日のこと。母親と職員が玄関で短い会話をした。その後、玄関が閉まり、母親がものすごい剣幕で彼女のほうへ歩み寄ってきて、いきなり蹴り、近くに置いてあったテレビのリモコンで彼女のことを打った。「お前が学校で余計なことを言うから、私が虐待していると思われているだろ!」 彼女には心あたりがあるという。「多分、私が学校の先生に、家でご飯を食べられないことがあると言ったから、それが児童相談所に伝わって、それで家にきて、ちゃんと食べさせるように言ったんだと思います。私は、ここで食べておかなきゃいけないと思って給食をたくさん食べていたので。家のことは外で話してはいけないんだと思ったことを、覚えています」 外部から不用意に刺激すると(介入すると)悪化する虐待がある。私の頭には、いくつもの児童虐待死のニュースが浮かんだ。高校を卒業し家を出る日、母親は「家政婦がいなくなった」と言った 児童相談所が介入してくれたおかげで、弟は幼稚園に入ることができた。しかし、お迎えは彼女の役割になった。小学校からの下校途中で弟を迎えに行き、そのまま買い物をする。それが一家の晩御飯だった。母親は、まったく料理をしなかった。 それから彼女は、母親に彼氏ができたこと、その男の人がとても怖かったこと、いつの間にかその男の人は家に入り浸るようになって、やがて住みはじめたことなどを話した。 間もなく、母親と男のあいだには子どもが生まれた。女の子だった。優子さんは新しくできた妹をかわいがったが、すぐに別々に暮らすことになった。妹は、児童相談所が引きとっていった。 児童相談所の職員は、彼女が小学校、中学校と進むまで、定期的に家に訪問してきた。「がんばっていくのよ」と彼女は職員から言われた。しかし、なにをどうがんばればいいのかわからなかった。 優子さんは、学校で必要なものを母親から買ってもらったことが、ほとんどなかった。しかし、それを学校の先生には言えなかった。そのせいで、「忘れ物が多い」「だらしない」とられることもあった。だから、高校生になってアルバイトができるようになったことが、とてもうれしかった。家とは違って一生懸命にやれば褒められたし、自分の意思でほしいものを手に入れることができた。そしてなにより、たとえ失敗したとしても一方的に怒られ続けることなどなかった。 ところが、ある日、貯めていたアルバイト代を母親にとられてしまった。それでも彼女はめげなかった。今度は、母親に気づかれないようにアルバイトをし、こっそりとお金を貯めた。帰宅が遅い彼女に、母親はなんの関心も示さなかった。──目標にしていたひとり暮らしをするためのお金が貯まり、高校の卒業と同時に家を出た。就職先はなるべく親から遠く離れたところにしようと決めていた。「家政婦がいなくなった」 彼女が家を出て行く日に、母親はそう言った。小さいころからの悲しい癖 会社には朝一番に出勤し、夜は最後に退勤した。土日は会社に黙って出勤し、仕事をするうえで必要な資料に目を通し、暗記したり、完成させなくてはならない資料を仕上げたりした。別に、誰かの指示でも頼まれたわけでもなかったが、そうしないと周りに追いついていけないと思ったから、自らそうしたのだという。 入社して4年目の、ある朝の通勤電車内で、彼女ははじめてパニック発作を起こした。水中に沈められているのではないのかというくらいの息苦しさ、窒息感に襲われた。額に汗がにじみ、手指が震えた。なんとか職場にたどり着いたが、今度は周りの社員たちからの目が急に怖くなった。トイレに駆け込み、嘔吐してしまった。 翌日以降、出勤することが怖くなった。続けて何日も休んだ。 上司からは休職を勧められた。彼女は必要な手続きに則って精神科を受診した。診断書をもらい、それを会社に郵送した。 休職している期間中に、症状がよくなっていくことはなかった。 このまま会社に在籍することが迷惑だと思った彼女は、退職することにした。 しばらくぶりの会社で、彼女は最後のあいさつをした。「ろくに役に立たなかったと思います。いろいろとご迷惑をかけました。すみません……」 彼女が謝るのは、小さいころからの悲しい癖だった。「そんな年齢ですっけ? 面倒になりますね」娘の生理を無視する母親…“無関心という虐待”で少女が負った“心の傷”とは へ続く(植原 亮太)
「ごめんください」
母親が玄関を開けると、柔和そうな女性が立っていた。その後ろに若い男性がいた。
不機嫌そうに母親が、
「なんですか」と言うと、扉の外に立つ女性が答えた。とてもやさしそうな声をしていた。
「いろいろと子育てのことで大変だと思って。少しでも力になれることはないかしら?」
母親は面倒くさそうにしていた。
「大丈夫です、間にあってるんで」
「お母さんひとりで小さな子どもをふたりも育てるのは大変でしょ?」と、その女性は言い、部屋のなかを覗き込みながら「お子さんの顔、見せてもらうことできる?」とたずねた。
「見せるから、帰ってください」
母親に玄関までくるように言われて、彼女は顔をだした。
「あら、その目、どうしたの? 腫れているじゃない?」女性職員が言った。
「きょうだい喧嘩です」と、きっぱり言いきった母親だったが、三歳になったばかりの弟がつくれるような目の痣ではなかった。
なにかを察したのだろう。女性職員が母親に向かって、とっさに言った。
「イライラしちゃうこととか、ない?」
「なんなんですか! 人の家庭に首を突っ込んできて! 迷惑なんですけど! もういいです!」
母親は急に怒りだした。その勢いに気圧されて、
「じゃあ、また失礼させていただきますね」と言って、職員たちは帰っていった。
玄関の扉が閉まった。
「お前のせいで!」
彼女の頭に衝撃がくわわった。足元にはホチキスの本体が転がっていた。痛むところを触っていると、指先に硬いものが触れた。それを引き抜くとホチキスの芯だった。
髪の毛を鷲みにされ、引きずられ、奥の和室へと連れて行かれた。ところどころ破れている襖、擦りきれた畳に残る赤黒くなった何日か前の血、そのうえに真新しい血が落ちた。それを、彼女はティッシュペーパーを持ってきて拭いた。汚れていると、また怒られるからだ。
暴力を振るわれているあいだ、彼女は何度も母親に謝った。「ごめんなさい」と繰り返した。が、許してもらったことはなかった。母親の気がすむまで、じっと耐えるしかなかった。
母親は、優子さんが小学校に就学するのに必要な手続きを怠っていた。この件で連絡を受けた児童相談所から、前と同じ女性職員が再び訪問してきた。母親が嫌そうに応じ、それから彼女が呼ばれ、二言、三言、会話した。
小学校は楽しかった。毎日おいしい給食を食べられた。
三度、児童相談所の職員が訪問してきたある日のこと。母親と職員が玄関で短い会話をした。その後、玄関が閉まり、母親がものすごい剣幕で彼女のほうへ歩み寄ってきて、いきなり蹴り、近くに置いてあったテレビのリモコンで彼女のことを打った。
「お前が学校で余計なことを言うから、私が虐待していると思われているだろ!」
彼女には心あたりがあるという。
「多分、私が学校の先生に、家でご飯を食べられないことがあると言ったから、それが児童相談所に伝わって、それで家にきて、ちゃんと食べさせるように言ったんだと思います。私は、ここで食べておかなきゃいけないと思って給食をたくさん食べていたので。家のことは外で話してはいけないんだと思ったことを、覚えています」
外部から不用意に刺激すると(介入すると)悪化する虐待がある。私の頭には、いくつもの児童虐待死のニュースが浮かんだ。
児童相談所が介入してくれたおかげで、弟は幼稚園に入ることができた。しかし、お迎えは彼女の役割になった。小学校からの下校途中で弟を迎えに行き、そのまま買い物をする。それが一家の晩御飯だった。母親は、まったく料理をしなかった。
それから彼女は、母親に彼氏ができたこと、その男の人がとても怖かったこと、いつの間にかその男の人は家に入り浸るようになって、やがて住みはじめたことなどを話した。
間もなく、母親と男のあいだには子どもが生まれた。女の子だった。優子さんは新しくできた妹をかわいがったが、すぐに別々に暮らすことになった。妹は、児童相談所が引きとっていった。
児童相談所の職員は、彼女が小学校、中学校と進むまで、定期的に家に訪問してきた。「がんばっていくのよ」と彼女は職員から言われた。しかし、なにをどうがんばればいいのかわからなかった。
優子さんは、学校で必要なものを母親から買ってもらったことが、ほとんどなかった。しかし、それを学校の先生には言えなかった。そのせいで、「忘れ物が多い」「だらしない」とられることもあった。だから、高校生になってアルバイトができるようになったことが、とてもうれしかった。家とは違って一生懸命にやれば褒められたし、自分の意思でほしいものを手に入れることができた。そしてなにより、たとえ失敗したとしても一方的に怒られ続けることなどなかった。
ところが、ある日、貯めていたアルバイト代を母親にとられてしまった。それでも彼女はめげなかった。今度は、母親に気づかれないようにアルバイトをし、こっそりとお金を貯めた。帰宅が遅い彼女に、母親はなんの関心も示さなかった。
──目標にしていたひとり暮らしをするためのお金が貯まり、高校の卒業と同時に家を出た。就職先はなるべく親から遠く離れたところにしようと決めていた。
「家政婦がいなくなった」
彼女が家を出て行く日に、母親はそう言った。
会社には朝一番に出勤し、夜は最後に退勤した。土日は会社に黙って出勤し、仕事をするうえで必要な資料に目を通し、暗記したり、完成させなくてはならない資料を仕上げたりした。別に、誰かの指示でも頼まれたわけでもなかったが、そうしないと周りに追いついていけないと思ったから、自らそうしたのだという。
入社して4年目の、ある朝の通勤電車内で、彼女ははじめてパニック発作を起こした。水中に沈められているのではないのかというくらいの息苦しさ、窒息感に襲われた。額に汗がにじみ、手指が震えた。なんとか職場にたどり着いたが、今度は周りの社員たちからの目が急に怖くなった。トイレに駆け込み、嘔吐してしまった。
翌日以降、出勤することが怖くなった。続けて何日も休んだ。
上司からは休職を勧められた。彼女は必要な手続きに則って精神科を受診した。診断書をもらい、それを会社に郵送した。
休職している期間中に、症状がよくなっていくことはなかった。
このまま会社に在籍することが迷惑だと思った彼女は、退職することにした。
しばらくぶりの会社で、彼女は最後のあいさつをした。
「ろくに役に立たなかったと思います。いろいろとご迷惑をかけました。すみません……」
彼女が謝るのは、小さいころからの悲しい癖だった。
「そんな年齢ですっけ? 面倒になりますね」娘の生理を無視する母親…“無関心という虐待”で少女が負った“心の傷”とは へ続く
(植原 亮太)