横断歩道渡っていた88歳女性を乗用車ではねて死亡させ逃走か…51歳男を逮捕 東京・板橋区 容疑を否認

先月5日、東京・板橋区の路上で横断歩道を渡っていた88歳の女性を乗用車ではねて死亡させ、そのまま逃走したとして51歳の男が逮捕されました。 ひき逃げなどの疑いで逮捕された板橋区の会社員・牧野利充容疑者(51)は、先月5日の午後1時半すぎ、板橋区の路上で、徒歩で横断歩道を渡っていた近くに住む塩井久美子さん(88)を乗用車ではねて死亡させ、そのまま逃走した疑いがもたれています。 警視庁によりますと、塩井さんは1人で歩いていたところ、牧野容疑者の乗用車にひかれて頭を強く打ち、事故から10日後に死亡しました。 防犯カメラなどの捜査で逮捕に至ったということで、牧野容疑者の乗用車の左前方部分には人とぶつかったような傷があったということです。 取り調べに対し、牧野容疑者は「歩行者にぶつかってはいません」と容疑を否認しています。

「いじめられた子」より「いじめた子」を抱きしめるべき…児童精神科医が語る「いじめが起きる悲しい理由」

お母さんがたに「赤ちゃんをどう育てればいいのでしょう」「なにをしてあげれば一番いいのでしょう」ときかれるとき、私はいつもこう答えています。
「お母さんは、子どもが喜ぶことをしてあげてください」
単純なことだと思いませんか? けれど、多くのお母さんは「喜ぶことばかりをしてはいけないのではないか」というふうにお考えになるようです。
けれどそれは違います。「子どもの喜ぶことをしてあげること」とは、その子がやがて社会のなかで生きていくうえで一番必要な「社会性」の土台をつくることだからです。
私は保健所などで行う乳幼児健診でお母さんがたの相談に乗ったり、またこれから赤ちゃんが生まれてくる妊婦さんたちにお話をする機会がたくさんありました。
精神科の医師として、生まれたばかりの赤ちゃんになにをしてあげればいいのか、どう接すればいいのかをいろいろとお話ししてきたのです。
ずっと言いつづけてきたのが「子どもの喜ぶことをしてあげましょう」ということでした。
こうした勉強会で出会ったお母さん、保健師さんのなかには、その後10年以上おつきあいがつづいた方もたくさんおられます。当時妊婦さんだった方のお子さんが小学校高学年になっても、勉強会に参加されてずっとお母さんとお子さんを見てきたケースもあります。
何人ものお母さんたちが、私にこう言いました。いずれも妊婦さんのころ私の話を聞き、赤ちゃんが生まれてもう10年たっている方です。
「この子がおなかにいるとき、“お母さんは赤ちゃんの喜ぶことだけしてあげればいいんですよ”と言ってもらえたことで、子育てがとても楽しくラクになったようです」
「どうしてでしょうね?」
ときいてみると、
「あれこれ忙しくて、赤ちゃんが泣くと煩(わずら)わしい気持ちになりかけることもあったけれど、“子どもが喜ぶことをしてあげるのが一番いいんだ”と思っていると、めんどうだ、と思う気持ちよりも楽しい気持ちのほうが強くなって、子どもが泣いても、あれこれ要求してきても、ほとんどイライラしなかったのです」
と言っていました。
出産後よりも、妊娠中にこうした話をきいたお母さんほど、育児にストレスをあまり感じず、スムーズに赤ちゃんと接することができていたように思います。
「赤ちゃんが喜ぶこと」はなんでしょう?
あげればきりがありませんね。抱っこしてもらう、高い高いをしてもらう、もっと小さいころならおっぱいをもらう、おむつを換えてもらう、お風呂に入れてもらう、いないいないばあをしてもらう、お母さんやお父さんが面白い声を出して笑わせてくれる。赤ちゃんはどれも大好きで、してもらえばうんと喜びます。
でも赤ちゃんには「いまなにをしてほしい」と話すことができません。泣くだけです。新米のお母さんやお父さんはなにをしてほしいのかわからなくて、ときにはとんちんかんなことをしたり、オロオロしてしまうかもしれないけれど、それでもかまわないのです。
あれこれお母さんにしてもらったことを、赤ちゃんがずっと覚えているわけではありません。自分が何を求め、何をしてもらったのか、何をしてもらえなかったのか、なんていうことは普通、子どもの記憶には残りません。
けれど、お母さんが「子どもを喜ばせよう」と、一途に考えて育てた子は、乳児期をすぎ、幼児期から少年期になっていっても、非常に気持ちが安定し、思いやりのある子に育っていくようです。これは保育士さんたちも、「その通りだ」と口をそろえます。
私が非常に尊敬するふたりの研究者がいます。ひとりはアンリ・ワロン(1879~1962年)です。この人は、フランスの発達心理学者、精神科医で、教育者でもありました。20世紀を代表する心理学者のひとり、スイスのジャン・ピアジェ(1896~1980年)とほぼ同じ時期に活躍した人です。
ワロンはこんなふうに言っています。
「喜びを分かち合う力を育てるということは、子どもが喜ぶことをしてあげる、ということだ」
私がずっと言い続けている「赤ちゃんが喜ぶことをしてあげなさい」というのは、こういうことなのです。
親が子どもをあやし、喜ばせること。しかもそれを親自身が喜びとしているということ。これが「喜びを分かち合う力を育てる」ことにつながるのだということです。
子どもが親にくすぐられたり、いないいないばあをしてもらったり、抱っこしてもらったりして、キャッキャと声を上げて喜び、親は子どもが喜ぶ姿を見て喜ぶ。この状態こそが、子どもにとって最大の喜びなのだと。
子どもは、自分をあやしてくれる親が心からそれを楽しみ、笑う自分を見て笑ってくれると、さらに喜びます。
子どもはこうした喜びを知ることで、人と交わることの喜びを知るようになっていくのです。
この感覚は乳児期の後期から少しずつ育っていきます。
ワロンは非常に詳細に赤ちゃんが発育していくプロセスを研究しつづけました。その結果、人間は乳児期の前半に「気持ちがいいこと、楽しいことを与えられるとうれしい」という感覚を持つようになりますが、乳児期後半になると「喜びを与えてくれる大人も喜んでいないと、楽しくない」という感覚を持つようになってくることがわかったのです。
大人がいやいや抱っこしたり、あやしたりしても、赤ちゃんはあまり喜びを感じないのです。逆にいえば、大人がうれしそうにあやしてくれると、大喜びするようになる。乳児期後半になると「自分が笑うと、お母さんも喜んでくれる」ということがわかるようになるんですね。
それが「いっしょに喜び合いたい」「いっしょに喜ぶともっと楽しい」という気持ちにつながる。これが「喜びを分かち合う」ということの出発点になるのです。
ワロンが、長年にわたる観察と研究の末に行き着いたのが「お互いに喜び合うことが、人間の最大の喜びであり、これが人間的なコミュニケーションの根源である」ということで、「この力は乳児期後半から育ち始める」という結論でした。
私もワロンの考える通りだと思います。
そしてもうひとつ付け加えるならば、喜びを分かち合う力が育てば育つほど、少し遅れるようにして悲しみをも分かち合う力が育ってくるのです。
悲しみを分かち合う力は意識的に「育てる」ものではありません。子どもが喜ぶことを喜んでしてあげるなかで、喜びを親子で共有することでしか育ちません。そうした時間を最初は親子で、やがて先生や友達と共有していくうちに、悲しみを分かち合う力は育っていきます。
他者の心の痛みや、悲しみを理解する「思いやり」は、ともに喜び合うことを知って、初めて育っていくものなのです。
しつけをする必要があるときにも、「いけないことをすると、お母さんが悲しむ」ということがわかるようになる。お母さんの「怒り」ではなく、「悲しみ」を理解できるようになるのです。「ああ、お母さんが悲しがっている」という気持ちが理解できることで、初めて叱られたことの意味も少しずつわかるようになります。
子どもが喜ぶことをしてあげていれば、やがて大声で怒ったり、怒鳴らなくても、自然にしつけもできるということです。
「してはダメ」「これはダメ」と言うよりも「こうしたらいいよ」「こうしたほうがいい」とおだやかに、何度も根気強く諭(さと)し、そして待つことです。
「あれが欲しいこれが欲しい」と店の前で泣きわめく子どもを見ると、どうしてもお母さんは叱りたくなるでしょう。けれど、なんでそんなに泣くのかといえば「泣かなくては買ってもらえないことがわかっているから」です。
お母さんは「泣けば買ってもらえると思っているから泣くのだ」と思うかもしれないけれど、これは大きな違いです。その子には「泣かなくても買ってもらえた」という経験が少ないのです。おやつひとつでも、小さなおもちゃでも、「どれが欲しい?」「これがいい」と言って、それを買ってもらった経験がほとんどないのだと思います。
その子が泣くのは「このおもちゃがどうしても欲しい」からではありません。お母さんに自分の言うことをもっときいてほしい、ということなのです。
ワロンの著作を読み返していると、近年とくにしみじみと感じることがあります。
全国の小中学校で「いじめ」が問題になっていることです。小中学校に限らず、高校、大学、会社でも状況は変わりがありません。
「いじめっ子」――友達をいじめる子というのは、友達と悲しみを分かち合う力がない子なのです。ほとんどのケースが、うんと小さいときに親と喜びを分かち合うことがなかった、あるいはとても少なかったという子たちです。
子どもを喜ばせることがなによりの喜びだ、と思って育ててもらった経験がなかったのでしょうね。喜びを分かち合うことを知らない子は、悲しみを分かち合うことができない。いじめっ子というのはその典型的な姿です。
保育園などで、ほかの子をいじめる子がいた場合、私は「いじめられた子をなぐさめるのではなく、いじめた子を抱きしめてあげてください」といつもアドバイスをしています。
もちろんいじめられた子にもケアをしてあげる必要もありますが、もっと気をつけて見てあげてほしいのはいじめた子のほうです。「もうしてはいけない」と言うのではなく、「○○ちゃんも悲しいんだよね」と言ってあげるだけでいい。
ほとんどの場合、子ども自身もいじめることが楽しくてやっているわけではないのです。悪いということがわかっています。だからこそ「やってはいけない」「二度としないでね」という言葉は使うべきではないのです。乱暴なことをした子、いじめた子は、いじめられた子ども以上に傷ついた子どもだからです。
これは家庭でも同じことで、「そういうことをする子は大嫌い」「そんなことをしたらもう家においてあげない」というような言葉で叱ってはいけません。
そう感じさせる言葉を使わないでください。
叱ることがあってもあなたを見放したり、嫌いになったりはしないのだ、ということをなによりも伝えてあげてほしいのです。
———-佐々木 正美(ささき・まさみ)児童精神科医1935年、群馬県生まれ。2017年没。新潟大学医学部卒業。ブリティッシュ・コロンビア大学児童精神科、東京大学精神科、東京女子医科大学小児科、小児療育相談センターなどを経て、川崎医療福祉大学特任教授。臨床医としての活動のみならず、地域の親子との学び合いにも力を注いだ。専門は児童青年精神医学、ライフサイクル精神保健、自閉症治療教育プログラム「TEACCH」研究。糸賀一雄記念賞、保健文化賞、朝日社会福祉賞、エリック・ショプラー生涯業績賞などを受賞。『子どもへのまなざし』(福音館書店)、『子どもが喜ぶことだけすればいい』『子どもの心はどう育つのか』(以上、ポプラ社)など育児、障害児療育に関する著書多数。———-
(児童精神科医 佐々木 正美)