42歳のときに「電撃性紫斑病」という大病を患い、両脚と両手の指の切断を余儀なくされた久多良木(くたらぎ)隆幸さん(49)。現在は、義足スポーツクラブ「NoLimitOita」で代表を務めるかたわら、両脚義足の現役パラアスリートとしても活動しています。
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突然の発症後、久多良木さんの日常に何が起きたのか。当時の状況を伺いました。(全3回の1回目/つづきを読む)
義足ランナーの久多良木隆幸さん 撮影=平松市聖/文藝春秋
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――病気になる前はどんなお仕事をされていましたか?
久多良木隆幸さん(以下、久多良木) もともとは病院で臨床検査技師として働いていたんですが、24歳のときに大工へ転職して、29歳で住宅リフォーム専門の工務店を立ち上げました。
家族は妻と2人の娘がいて、当時は長女が小学5年生、次女が2年生でしたね。
――病気を発症した日はどんな状況でしたか?
久多良木 あれは6月の暑い日でした。朝の9時ごろ、職人を連れて現場に出ていると、急に具合が悪くなって、熱が出てきたんです。
熱中症かと思っていたら、10時の休憩では体の震えが止まらなくなって。倦怠感も強くなり、仕事を中断して個人病院に行きました。到着したときには体温計で測れないほどの高熱になっていて、院長先生から「うちではどうにもならない」と言われて。そのまま総合病院へ救急搬送されました。
病院に運ばれて集中治療室に入りましたが、そのあたりからの記憶はほとんどありません。後から聞いた話によると、顔や全身が急激にむくみ出したそうです。
当時は体重が75キロくらいだったのですが、体の水分調整がうまくいかなくなり、水分だけで一気に約20キロも増えてしまって。体がブックブクに腫れ上がり、顔や肌も赤黒く変色していたと聞きました。
――ものすごいスピードで体が変化したんですね。
久多良木 あっという間の出来事でした。病院が家族に連絡を入れると、妻と娘たちが駆けつけ、先生の配慮で集中治療室に入れてもらえたそうです。
先生からは「一晩が山か、場合によっては一晩もたないかもしれない」と説明がありました。看護師さんからは、「手を握っていてあげてください」と伝えられたと聞いています。
次女はまだ幼かったのでどこまで理解できたかわかりませんが、長女は僕の顔を見た瞬間、むくみで顔がパンパンに腫れ、赤黒く変色していた姿にショックを受け、その場で腰を抜かしてしまったと聞きました。看護師さんに車いすで外に運ばれたそうです。
娘たちにとってはトラウマ級の出来事なので、医師からは将来的にフラッシュバックやてんかん発作が起こる可能性も指摘されました。なので、父娘で当時のことを語り合ったことはまだありません。娘たちから尋ねられれば話すつもりですが、自分からは話さないようにしています。
――そもそも電撃性紫斑病はかなり珍しい病気だと聞いています。すぐに診断名がついたのでしょうか。
久多良木 僕って本当に運がいい人間でして。おっしゃる通り、この病気は宝くじに当たるくらいの確率で発症する珍しい病気なんです。でも、救急で運ばれて僕を担当してくださった先生が、それまで電撃性紫斑病の患者さんを3人診た経験がある先生だったので、僕の症状を診てすぐわかったみたいです。
電撃性紫斑病は全身の血流が阻害され、末端に血が届かなくなって手や足の先から壊死が進行する病気です。手足を切断するケースは珍しくありません。
僕も搬送されたその日に、両足の足首から下と、両手の第一関節から上を切断することになりました。
――意識がない状態で、手足を切断したということですか?
久多良木 命を守るための処置ということで、妻が「切断します」と書かれた同意書に署名してくれました。
僕は、ほかの電撃性紫斑病の方と比べて体で残ってる部分が多いんですけど、担当の先生からは初動の治療が早かったのも一因だろうと聞いています。
――救急搬送されてからの10日間は意識がなかったと伺いました。目を覚ました時の状況は覚えていますか?
久多良木 もう、わけがわからなかったですね。起きたら全然知らない部屋にいて、妻は泣いてるし、子どもたちは床にうずくまっているし。ベッドの周りは機械だらけで、その中に僕がポツンと寝ている状態でした。
その日のうちに医師が来て、病名や体の状態について説明がありました。
目を覚ました時点ですでに手足は切断されていましたが、その後も末端から壊死が進んできたので、結局全部で3回切断しています。1回目は救急搬送された日、2回目は病気発症から1カ月後に両足の膝から下を切断、3回目は両手の指で、なるべく残せる部分は残して切断しました。
――それは大変ですね。病気は電撃性紫斑病だけだったのでしょうか。
久多良木 発症からの2年間で数多くの病気に見舞われました。侵襲性肺炎球菌感染症、敗血症性ショック、脳内出血が2回、心臓・腎臓・肝臓の多臓器不全、スチル病(指定難病)、原因不明で3か所の膵(すい)腫瘍、サイトメガロウイルス感染症、脾臓低形成に伴う脾臓の消失、血球貪食症候群……よくもこれだけ次々と出てきたものだと思います。
さらに昨年、すい臓にがんが見つかりました。がんの摘出に先立って、左の副腎を全摘して、胃の一部分とすい臓の3分の1くらいを切っています。
今はまともに動いているのは心臓と肺と腸くらいですね。感染症にもすごく弱い体になりました。
――手術後は痛みや吐き気などにも悩まされたそうですね。
久多良木 激しかったですね。特に切断後の痛みがひどくて。麻酔が徐々に切れてくると、切断したはずの部分が痛む感覚に襲われました。
痛み止めが全然効かなくて、歯を食いしばって耐えていたのですが、そのせいで右下の歯が3本欠けてしまいました。痛みに耐えるためグッと強く力を入れたことで脳の血管が切れてしまい、脳内出血も2回起こしましたね。幸い後遺症は残りませんでしたが、通常なら後遺症が残ってもおかしくないほどの出血だったと聞いています。
合併症の影響もあって、発症してから1年くらい体温が38度台だったし、血液検査でもずっと異常値が続いていました。どこが悪いというより、ほとんど悪い状態でしたね。
――今、とても冷静にお話をされていますが、すぐに現実を受け止められたのでしょうか?
久多良木 そこは、もともと臨床検査技師として働いていたことが大きかったかもしれないですね。壊死によってこの先どうなるかをある程度想像できましたし、切断はしょうがないなと思うことができました。「将来、妻や子どもたちがかかる病気を自分が全部引き受けたんだ」と自分に言い聞かせていましたね。
ただ今思えば、当時ショックで取り乱したりはなかったんですけど、やはり心の底では不安定だったんだと思います。ずっと寝たきりで、何もしなくても涙が出るし。「悲しい」「将来が不安」ということではなく、意味もなく涙が出てくることがあって。やっぱり精神的に堪えていたんだと思います。
撮影=平松市聖/文藝春秋
〈「あえて“むき出し”にしています」両手両脚を切断→体重35キロ減で“骨と皮だけのようだった”時期も…49歳の義足ランナーが語る“見られること”への素直な本音〉へ続く
(松永 怜)