67歳の母が突然「腎臓あげるわよ。1個なくなったって平気!」と…末期腎不全になった記者が、母親からの臓器移植を受けたワケ

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〈「お前、体が変だぞ」「死ぬよ」睾丸が大きく腫れ上がり、半年で体重40キロ激増…腎臓移植を経験した記者が明かす、病気発覚の経緯〉から続く
日本では、約1300万人が慢性腎臓病に苦しんでいると言われている。毎日新聞記者の倉岡一樹氏も、慢性腎臓病を発症した1人だ。末期腎不全を患った彼は、2019年夏に母親からの生体腎移植を受けた。闘病生活は、死の淵をも垣間見るほど壮絶だったという――。
【画像】末期腎不全になった記者と、腎臓を提供した67歳母のツーショット写真を見る
ここでは、倉岡氏が闘病の日々を綴った『母からもらった腎臓 生体臓器移植を経験した記者が見たこと、考えたこと』(毎日新聞出版)より一部を抜粋。なぜ彼は、母親からの生体腎移植を受けることになったのだろうか?(全2回の2回目/1回目より続く)
写真はイメージです アフロ
◆◆◆
私のマイカーでの指定席は助手席だ。
2018年11月22日、この日も妻にハンドルを委ねて30分ほど走っただろうか。小高い丘に、白く大きな建物が見えた。聖マリアンナ医科大学病院だ。紹介状を手に、症例数が例年15件ほどの腎移植外来に向かった。
車を降りると、全身のかゆみが猛烈に襲ってきた。腎機能が15%を切ると「末期腎不全」と呼ばれ、人によっては強いかゆみが出現する。ひとしきり体中をひっかき、背中や腕などあちらこちらがミミズ腫れで真っ赤になった。妻は「しんどいね」と目を潤ませる。毎日のように家でその姿を見る妻と娘のつらさを思い、やりきれなくなった。私は病院正面玄関のマリア像に祈る。「これ以上、心配をかけませんように」
腎泌尿器外科で受け付けを済ませると、看護師の服ではない若い女性が歩み寄ってきた。移植コーディネーターだった。丁寧に腎移植の説明をしてくれた後、こう聞かれた。
「倉岡さんは、生体腎移植と献腎移植、どちらを選ばれるおつもりですか」
横にいる妻の機先を制するように答えた。
「献腎移植です。血液透析をしながら待ちます」
コーディネーターはうなずく。妻からは絶対にもらわない、という意思は固まっていた。「倉岡さん」。名前を呼ばれた。「無理しないでね」。妻の言葉を背に1人で診察室に入ると、女性医師が座り、後ろに男性医師が立っていた。腎臓内科医の寺下真帆医師と主任教授だ。共に表情も口調も柔らかいが、話の内容は厳しかった。
献腎か、生体か――。再び問われた。「献腎です。血液透析をして待ちます」と繰り返した。寺下医師は言葉を継いだ。
「献腎移植までどのくらい待つか、ご存じですか?」
腎臓移植を希望する日本臓器移植ネットワーク登録者は2023年12月末現在で1万4330人いる。「最低14年は待ちますよね」。事前に調べていたから知っていた。
「ご存じですね。でも倉岡さんの血管は糖尿病で相当弱っていて、そこまで透析でもつか確証を持てません」
寺下医師は続けた。
「生体腎移植を考えてはいただけませんか?」
体中から汗がじっとりと湧くような気持ち悪さを感じ、口が開けない。そこへ「奥様を呼んできていただけませんか」と促された。
何を言われるのか、百も承知だ。できれば呼びたくなかった。寺下医師が妻に同じ説明をした。妻は私と正反対に背筋を伸ばして、きっぱりと言った。
「腎臓を提供するつもりが、あります」
また、言わせてしまった。動揺で意識がもうろうとし始めるが、妻からもらうつもりはない。しかし、寺下医師の話は別の方向に進んだ。
「奥様の思い、ありがたいです。ちなみに倉岡さん、ご両親はお元気ですか」
67歳の母は元気だった。
「お母様はドナーになってくださるでしょうか?」
母? いや、もう我が家では「祖母」ですが?
体から腎臓を1つ取るのだから健康体でも負担は大きい。腎臓が1つになると、腎機能は6~7割程度に落ちるという。ただ、60代後半の母の方が、40代前半の妻より人生が短いと想定される。術後のドナーの人生を考えると母の方が“適役”ということだった。「お嬢さんもいらっしゃいますし、お母様にお願いしていただけないでしょうか?」話の展開についていけず、ぼうぜんとしたまま、病院を後にした。
帰りの車で、押し黙ったままの私に妻が言った。「明日は休みだし、お母さんに聞きに行こう。私も行く。もしだめだったら、私があげるよ」
首を縦に振れず、その日は一睡もできなかった。
翌日は勤労感謝の日で祝日。いったん会社で残務を片付け、京浜急行の快特電車で神奈川県横須賀市の実家に向かった。実家に着けば、母と向き合わなければならない。そこから逃げたい一心で、何度も普通電車に乗り換えようとした。1時間後、恐る恐る実家のドアを開けると、母と先に到着していた妻と娘が出迎えてくれた。
「体は大丈夫なの?」
「うん、きついね」
当たり障りのないやりとりが続く。肝心の話を切り出せないでいると、母がしびれを切らしたように突然言った。
「あげるわよ。腎臓。なんでもっと早くに言わなかったの。あなたは奥さんと娘のために生きなきゃだめでしょ。腎臓なんて2つあるんだから、1個なくなったって平気よ!」
あっけにとられていると、畳みかけられた。
「申し訳ないとか思ったらだめ。私はあなたの母親なんだから」
私が母に言い出せないであろうことを予想して、妻が病院での話を伝えていた。
母は自他共に認める“天然”で、いつも一時の感情だけで動く。「本当にいいの?」。しつこく繰り返すと、怒り始めた。
「うるさいわねえ。あげるって言ったでしょ!」
その夜は実家に泊まったが、またも眠れなかった。申し訳なさと困惑が頭の中で渦巻き、目はさえているのに何も考えられない。
週が明けた月曜日、寺下医師に電話すると、「よかったです。ご一緒に受診していただくことはできますか」と明るい声で言われた。
でも、本当に高齢の母は大丈夫なのだろうか。こんな親不孝をしていいのか。迷いながらも、移植へのレールは、もう敷かれ始めていた。
その人は笑顔で手を振りながら、妻と私が待つ車に駆け寄ってきた。まるで買い物か食事にでも行くような足取りだ。私の母、67歳。苦笑しながらも、その明るさに救われた。
2018年12月6日、雨の川崎市・武蔵小杉駅北口ロータリー。これから向かう聖マリアンナ医科大学病院の腎移植外来では、母がドナーになれるかどうか、医師の診断が待っていた。
「横須賀からここまで1時間半もかかったわよ。でも、運動になるからいいわね」母は後部座席に乗り込むなり、気の向くままに話し続けた。
「でも、病院は苦手ね。痛いから」
そうだった。母は痛いのがダメで、注射も怖がる。それなのに生体腎移植のドナーを志願してくれた。そう思い至ると、申し訳なさにまた心は沈んだ。
病院に着いても、母は声を落とさない。
「病院はやっぱり嫌。陰気よ。いるだけで病気になっちゃう」
私は慌てて「ほかの患者さんもいるから」と注意するが、どこ吹く風だ。診察室でもこの調子だった。
「一樹さんのドナーになっていただけると伺いました。お気持ちに変わりありませんか?」意思を確認する寺下真帆医師に母は勇ましかった。
「やります。お願いします! でも、痛いのは嫌。痛くしないでくださいね」
寺下医師は、困惑している。私は後ろで目線を落として縮こまっていた。
「手術は痛いかもしれません。大丈夫ですか?」。寺下医師の言葉に、母はさすがに小声になった。「うーん。麻酔は効くでしょ? なるべく痛くないようにしてね」

弱気を断ち切るために、気丈にふるまっているのだろう。それが分かるから、泣きそうになった。
「早く進めてください。早くね!こういうことはゆっくりやっちゃだめ」
笑顔で迫る母に若い寺下医師も圧倒されたのか、その日のうちに血液検査や心電図にX線、CTなどの検査が一気に進んだ。
「もう後戻りできないな」。私も、気を引き締めた。ただ1つ、母が寺下医師に聞かれて答えた「(血圧を抑える)降圧剤を飲んでいます」という言葉が、どうにも引っかかった。
母を横須賀まで1本で帰れる京急川崎駅まで送ると、車の降り際に言った。「2人(筆者と妻)とも頑張りなさいよ。移植すれば楽になるから。私は家に帰ってご飯作らないと。ああ忙しい! それじゃ!」
バタン! 口調もドアの閉め方が強いところも、「いつも通り」がありがたかった。「移植まで頑張ろう」。初めて、生体腎移植に前向きになれた。
(倉岡 一樹/Webオリジナル(外部転載))

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