「昔とはまるで別人。本当にご立派に…」愛子さま(22)“内気なプリンセス”は高3で変身した

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栃木県出身の高根沢ミクさん(22)は、高校3年生の夏の日のことをいまでも鮮明に覚えている。
【写真】まばゆいほどの白さ…愛子さまがお召しになった圧巻の“純白ドレス”
那須塩原駅前の広場で高根沢さんの目の前に現れたのは、白と緑のボーダー柄ワンピースにこんがりと日焼けした身を包んだ同い年の女の子。彼女は高根沢さんの年齢を聞くと、
「あっ、同級生!」
と、弾けんばかりの笑顔で近寄ってきた。
高根沢さんが「大学は社会学部を目指しています」と言うと、彼女は言った。
「私も8科目くらいテストがあります。お互い頑張りましょうね」
初対面とは思えぬ和やかなやりとりを見せた、ワンピース姿の女の子。そこに、かつて「内気で人見知り」と称された少女の面影はなかった。天皇家の長女、愛子さま(22)である。
今年3月20日に学習院大学文学部日本語日本文学科をご卒業され、4月からは日本赤十字社で勤務される愛子さま。ご卒業に先立つ2月9日には、皇居・宮殿で天皇皇后がケニア大統領夫妻を招いた昼食会に参加。スワヒリ語で「ごきげんよう」と挨拶されるなど、ゲストをにこやかにもてなされたという。
天皇家の長女として、存在感を高められる愛子さま。“内気なプリンセス”は、いかにして変身を遂げたのか。
2001年12月1日に誕生された愛子さま。公式の場にデビューを果たされたのは、その翌年の8月のことだった。本土と沖縄の子どもたちの交流事業として始まり、上皇の皇太子時代から皇室と縁がある沖縄県豆記者交歓会の顧問、川満茂雄さん(77)が語る。
「東宮御所の『日月の間』に伺った際に、天皇陛下が愛子さまを抱っこして登場されたんです。陛下は『今日がデビューですよ~』と愛子さまに優しく声をかけておられた。愛子さまは大泣きすることもなく、とても可愛らしかったですよ」
大相撲観戦で北の湖理事長(当時)にのけぞり気味の愛子さま(2007年)
後の成年会見で「小さい頃から人見知りのところがございます」と語られた愛子さま。幼少期の愛子さまを知る人たちが抱く印象も同様だ。初等科時代を知る学習院関係者が明かす。
「お友達と一緒に私のもとに寄ってきても、愛子さまはいつも一番後ろで遠慮しがちだった。『私はあなたのお父さんも知ってるんだよ』と水を向けても、黙って頷いているだけでした」

天皇と学習院中等科から大学時代を共に過ごした同級生、今井明彦さん(64)も語る。
「毎年、お正月に5組ほどの同級生の家族が集まって御所に挨拶に伺い、簡単なおせちやお菓子を頂きます。愛子さまは幼稚園くらいの頃から、きちんと座って大人たちの話を静かに聞いておられました。一方である時、誰かが愛子さまに遊園地に関する話題を振ると、雅子さまが『お化け屋敷が好きなのよね』と助け舟を出しておられました」
そんな愛子さまには“危機”があった。初等科2年生での「不登校」だ。さらに、雅子さまのお付き添い登校が「過保護」「公務より愛子さまを優先させている」などとバッシングを浴びることになった。
「雅子さま自身も04年7月に適応障害と公表され、好不調の波があるとされた。生活リズムも昼夜が逆転し、深夜に赤坂御用地を散策したり、インターネットをご覧になるのが日課になっていた。そんな中、しばらくして学校に行けるようになった愛子さまも、たびたび遅刻をされるようになりました」(宮内庁関係者)
皇宮警察関係者も、当時の愛子さまのご登校について「毎朝のようにインカムから『定刻の30分遅れ』と連絡が流れてきた」と証言する。
「当時の愛子さまは、雅子さまと一緒に夜に宿題に取り組まれるなど、雅子さまの昼夜逆転生活に引きずられておられた。女子中等科時代も遅刻や欠席が相次ぎ、雅子さまの心身の不調が愛子さまと“シンクロ”していると見る向きもありました」(前出・宮内庁関係者)

そんな愛子さまに天皇は、皇族としての自覚が自然に芽生えるような手ほどきを続けてこられた。その一例が、愛子さまが女子中等科3年生だった16年夏。前述の沖縄の豆記者との交流で、こんな計らいがあった。川満さんが語る。
「両陛下と愛子さまが東宮御所の庭で、豆記者の子どもたちと輪になって一緒にバレーボールをなさったのです。時間にして20分ほどのことでした。当初の予定にはなかったのですが、両陛下が事前に準備をしてくださっていたようです」
バスケやテニス、スキーに親しんでこられるなど、運動がお得意の愛子さま。ご両親は人見知りの愛子さまが自然に豆記者たちと心を通わせられるようにと、バレーボールでの交流をセットされたに違いない。
この年、愛子さまは地方公務デビューも果たされている。8月11日、新しく制定された「山の日」の記念式典にあわせて、ご一家で長野県の上高地などを訪問されたのだ。

ご一家を案内した当時の上高地町会長、上條敏昭さん(74)が振り返る。
「山道には細い道もあるので、縦1列で陛下、雅子さま、愛子さまの順で登られました。愛子さまは初めて上高地にいらっしゃったのですが、陛下が山登りに慣れていない愛子さまをエスコートしているような印象を受けました」
天皇は時折、植物を指差しながら、身振り手振りを交えて愛子さまにご説明された。ご一家が到着された明神池からは、眼前にそびえる明神岳が見える。登山好きの天皇が、明神岳について愛子さまに解説をされるような場面もあったという。
「お見送りの際には、送迎車にまず愛子さまが乗り込まれ、その次に雅子さま。それを見届けた陛下が最後にぴょこっと乗り込まれた。ご家族をすごく大切にされていることが伝わってきました」(同前)
人見知りで内気なプリンセスは、ご両親の手ほどきのもと、少しずつ国民と触れ合う機会を増やしてこられた。女子高等科時代の愛子さまをよく知る、天皇家に近い人物は言う。
「愛子さまはごく普通の女子高生。『自分は一般の女子高生とは違う』ということは理解されていましたが、それは『こういう場面では皆さんにお手ふりをしなければならない』など、あくまで“自身のやるべきことは他の人と違うのだ”という認識に過ぎなかった。“何のために国民にお手ふりをしているのか”ということまでは、まだ理解されていなかったように思います」

そんな愛子さまに明確な変化が訪れたのは19年、女子高等科3年生の時のことだった。
この年の4月に行われた「オール学習院の集い」で、視覚障がい者を支援するアイメイト(盲導犬)後援会の鈴木節子さん(74)は、例年どおりブースを出展していた。動物好きの天皇ご一家は、毎年のようにこのブースに立ち寄られる。だが、この年は例年とは違う一幕があった。
「天皇ご夫妻はブースにいた視覚障がい者の方々と談笑されたのですが、その後、雅子さまが離れた場所にいらした愛子さまを呼びに行かれた。そして、愛子さまも障がい者の方々とお話を始められたのです。それはこの年が初めてのこと。雅子さまが皇室の役割を身をもって教えておられるように感じました」
変化は私生活にも表れた。ご一家にテニス指導をしている元テニスプレーヤーの佐藤直子さん(69)は語る。
「愛子さまが女子高等科2年生の頃までは、天皇陛下から『愛子がバックハンドが苦手なので、見ていただきたいのですが』などと相談を受けていました。それが、3年生くらいの頃から、愛子さまが積極的に『このプレーを見ていただきたい』と仰るようになったのです。コートの対角線上に球を打つ技術である『クロスコートのラリーをお願いします』と仰ることもありました」
まるでテニス部の学生のように真剣に取り組んでおられるという愛子さま。
「ちょっとやってみたいのですが」
愛子さまはこう仰り、強く打つふりをしてネット際に落とす“ドロップショット”にも挑戦。すっかり身につけられたという。
「今では冗談も交えながら、挑戦してみたいプレーを積極的に仰るようになりました。ユーモアにもあふれ、人間的にもたくましいプリンセスに成長なさったと思います」(佐藤さん)

そして、その年の夏休み。那須御用邸での静養のため、那須塩原駅に到着されたご一家は、出迎えた市民と交流された。冒頭の高根沢さんが愛子さまと言葉を交わしたのも、この時のことだ。高根沢さんが振り返る。
「私の隣にはお子さんを抱えた方がいて、陛下がお声がけされている傍らで愛子さまも優しく耳を傾けておられた。愛子さまは私と会話している間も周囲に気を配っておられ、周りを俯瞰して見ておられる印象を受けました。それでいて、私にかけてくださったお言葉は自然体。私は当時、進路に迷っていたのですが、同学年の愛子さまとお話しできたことは大きな転換点になった。いつか感謝の気持ちをお伝えしたいです」

内気なプリンセスからの華麗な“脱皮”。この時、一体何が起こっていたのか。別の宮内庁関係者が打ち明ける。
「この頃、雅子さまも急激に復調なさっていたのです。以前の雅子さまは自信を失っておられ、お茶会の場でも『招待客からどう見られるか』というのを気にされ、過剰に萎縮しておられるご様子でした。しかしこの頃のお茶会では、1人ひとりの顔をご覧になり、にこっと晴れやかな笑顔を見せられるようになった」
その背景にあったのは、19年5月のお代替わりだった。
「国民は新しい天皇皇后の誕生を歓迎しました。即位を祝して5月4日に皇居で行われた一般参賀では、平成へのお代替わりの時を約3万人上回る、14万人超の国民が詰めかけた。早朝から人々が列をなしたため、皇居開門の予定時刻を急きょ20分早めたほど。こうした祝福ムードが、揺らいでいた雅子さまの自信を確固たるものにしたのです。雅子さまに常に寄り添ってこられた愛子さまにも、雅子さまの“好転”が良い影響をもたらしたはずです」(同前)
私生活でも積極的になられ、国民に対しても爽やかな笑顔を振りまかれるようになった愛子さま。皇族としてのご自覚も、この頃には確かに根付いていたように見受けられる。
22年3月に行われた成年会見では、約30分間、手元に用意した原稿にほとんど目を落とされることなく、ご自身の思いを瑞々しく語られた。会見を見た前出の学習院関係者は、こう感嘆した。
「昔とはまるで別人。本当にご立派になられて……」
学習院大学では日本語日本文学科に進まれたが、日本古来の伝統芸能についても学びを深めてこられた。愛子さまが履修された授業で講師を務めた、学習院大学非常勤講師の三田徳明さん(55)が語る。
「コロナ禍以降はオンライン授業だったので、愛子さまもオンラインで受講されたのだと思います。ご家族でご覧になったのかもしれませんね。私の担当した回では、雅楽の歴史や演奏の種類についての解説の他、実演動画も紹介しました。また、『君が代』の作曲者が代々雅楽を演奏してきた家の出身のため、メロディが雅楽に近いということもお話ししました」
授業の受講がきっかけで、愛子さまは22年以降、三度にわたり皇居の宮内庁楽部で開かれた雅楽演奏会を鑑賞されている。つねに自然体でご関心の幅を広げられている様子が伝わってくるようだ。
春からは新社会人となられ、日赤でのご活動に加えて成年皇族としての公務も増える見通しの愛子さま。前出の天皇家に近い人物はこう語る。
「愛子さまは『早く結婚して皇室を出たい』とは考えておらず、むしろいまでも雅子さまと離れがたいと感じておられます。一方で、雅子さまの影響で“個人の考え方を大切にする”というお気持ちも強い。新しい時代の皇族像を作っていかれるはずです」
激しい雨風にも耐え、プリンセスは見事に花を開かれた――。
(「週刊文春」編集部/週刊文春 2024年3月28日号)

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