伝説の“ヤマンバ”ギャルモデルの波乱人生、ブーム終焉後は“銀座ホステス”としてナンバーワンに

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

平成ギャルがトレンドになっている昨今。見た目だけではなく精神性にも注目が集まり、ポジティブに自分らしさを貫くマインドが支持されているという。そうした再ブームで気になるのは、かつて渋谷センター街を賑わせていたギャルたちの今だ。10代・20代を謳歌していた彼女たちは、年齢を重ねてどのような女性になっているのだろう。 かつて“ヤマンバ”スタイルで注目を集めたあぢゃさん(40歳)。黒く焼けた肌に、逆立てたような広がりのある金髪ヘア、目の周りを白く覆ったメイク、自由奔放で明るいキャラクター……富士急ハイランドのCM、映画『バトル・ロワイアルII 鎮魂歌』、ドラマ『木更津キャッツアイ』などにも出演し、彼女の存在は世間にヤマンバのイメージを強く印象付けた。そんな彼女だが、ヤマンバ時代から現在にかけてどのような人生を歩んできたのだろうか。 ◆バッグはゴミ袋&靴は便所サンダルの“ヤマンバ”ギャルへ
17歳で雑誌『Popteen』でモデルデビュー。この頃にはすでにヤマンバ姿のあぢゃさんだが、元々はヤンキー文化が根強い横浜で育ったとか。そんな彼女がギャルに目覚めたきっかけは、とある先輩との出会いだった。 「地元はヤンキーばっかりだったんですけど、あるとき中学時代の先輩がギャルになってて。衝撃を受けました。ヤンキーにはない柔らかさがあるというか。見た目は派手だけど、すごくいい人で。今までに出会ったことがないタイプでした。それでギャルってカッケー!みたいな。あんなふうになりたいと思って、少しずつヤンキーからギャルにシフトしていきました」 その後、東京の私立高校に進学。なんとクラスの3分の1がギャルだった。地元とは全く異なる東京の文化に驚いたという。さっそくあぢゃさんも髪を染め、ネイルを派手にして、スカート丈を短くし、本格的にギャルとして開花していった。 放課後の遊び場はもちろん渋谷。次々新たなトレンドを生み出す女子高生が溢れる街で、あぢゃさんは「ここで1番目立たないと意味がない!」と思うようになっていく。 「周りに負けたくないという気持ちで派手になっていきましたね。ファンデを濃くしたり、自分で服を作ったり、シールを顔に貼りつけたりして、ヤマンバになっていきました。アルバ(アルバローザ)の袋を持ってるキレイめヤマンバもいたけど、うちらは“汚くていいよね”って感じで、ゴミ袋をバッグにして、便所サンダルで歩いたりとかしてましたね」 その強烈な個性は渋谷でも異彩を放っていた。いつしか「あぢゃという面白い子がいる」と噂が広がるほどに。そんな彼女を当時のギャル雑誌が放っておくわけがない。ついには『Popteen』の編集部員から声をかけられモデルデビューを果たす。 ◆異色の『Popteen』モデルとしてブレイク

「ぜんっぜんなかったです(笑)。とにかく仕事が超楽しくて! 朝3時に起きても超ご機嫌。なんなら仕事が忙しくて寝れないとかマジかっこいいっしょ! って感じで。仕事はあるうちが花だよね~と思ってました」 まさに無敵状態。プライベートでもヤマンバだったことから、街を歩けば声をかけられることも多かった。すっかり有名人となり浮かれる彼女だったが、マネージャーからはこう言われたという。 「ヤマンバ大好きだったからオフの日でもやってたんですけど、そしたらマネージャーに『仮面ライダーはそのまま外歩いたりしないでしょ? ヤマンバは商売なんだからプライベートでやってたら意味がない』って言われて。まあ確かにそうだよなあとも思ったんですよね。それでプライベートでは少しずつメイクを薄くしていきました」 これがあぢゃさんがヤマンバから離れていくきっかけになったそうだ。
◆ヤマンバブーム終焉で仕事激減、絶体絶命のなかで見つけた新たな道
しかし、人気はそう長くは続かなかった。渋谷では美白を追求した白ギャルブームが本格化。ウインドウに飾られるマネキンの色は黒から白となり、街に溢れていたヤマンバは徐々に減っていた。 その余波であぢゃさんの仕事は激減。当時25歳だった。手に職もなければ、やりたいこともない。これからどうしていこうかと焦っている最中、中学時代に亡くした母の言葉を思い出す。 「“自分の個性を生かした仕事をしてほしい”って母に言われたことがあったんです。それで私って喋りは得意だよなと思って。喋れる、飲める……ホステスじゃん! って」 実家がクラブを経営していることから、時折店を手伝うこともあったという。ヤマンバ姿で登場するとその場が盛り上がり楽しかった。そのときの経験もあり、これなら続けられると確信したそう。
◆体型や容姿をイジられることも。ホステスとしての苦難と成功

◆現在は二児の母に。タレント業も再スタート
渋谷でも、雑誌でも、芸能界でも、クラブでも。常に異色の存在だったあぢゃさん。異色ともなれば初めは逆風にさらされやすい。ほとんどの人が周囲のカラーに合わせてしまいそうなところだが、彼女はそうした状況でも亡き母の言葉どおりに自分の個性を最大限に生かすやり方で活躍の場を広げていった。なかなかできることではない。でもだからこそどこへいっても輝くことができるのだろう。 あぢゃさんは結婚を機に10年ほど続けてきたホステスを退職。現在は二児の母として育児に勤しみながら、タレント業を再スタートさせている。今も“来た仕事は全部受けたい!”と仕事に意欲的な姿勢は変わらない。そんな彼女は自身の半生を振り返りながら、最後にこう語ってくれた。 「とにかくヤマンバやってて良かったなって。人と人との繋がりってマジで奇跡だから。あのときギャルに目覚めてなかったらまだ地元にいただろうし、渋谷にいた友だちとも出会えなければ、タレントになることもなかったですし。まあやりたいことをやってた分、結婚は遅くなったし、高齢出産にもなったけど、私はそれを全然苦だと思ってなくて。筋肉痛になりながら育児したり、若いママに囲まれながら今の流行りを教えてもらうのは結構楽しいですよ(笑)」 困難な状況にぶつかっても前向きな姿勢を崩さないあぢゃさん。自分の選択した道を自分の力で“正解”にしていく。彼女の生き方にはそんな気概を感じた。
<取材・文/奈都樹、撮影/藤井厚年>
―[“ギャル”のその後]―

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SNSでもご購読できます。