創業120年を迎えた「木下サーカス」の今 移動費用は1回3000万円、コロナ禍でも退職者ゼロの経営術

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ロシアのボリショイサーカス、アメリカのリングリングサーカスとともに世界三大サーカスの一つと言われた木下サーカスが今年4月、創業120年を迎えた。2017年にリングリングが解散したため、年間120万人(コロナ禍前)の観客動員数は世界一を誇る。4代目の社長、木下唯志氏(72)に話を聞いた。
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【写真を見る】8頭ものライオンが間近に!! サーカスの最大目玉「猛獣ショー」 命がけで“天井”を走るオートバイ―― 会場は異様な緊張感に包まれる 木下サーカスの創業は1902(明治35)年。戦前、日本には40団体のサーカスがあったが、現在残っているのは木下サーカスだけである。

「初代社長は、香川県出身の矢野唯助です。矢野家は巡回動物園を経営していて、唯助は馬の調教をしていました。岡山の興行師・木下藤十郎と知り合い、養子入りし、木下曲馬団を立ち上げました」猛獣ショー と語るのは、木下社長。ロシア飛び空中ブランコ 唯助氏は、巡回動物園で朝鮮、シベリアにも渡っていた。その時、満州など、各地で様々な曲芸を見たが、感心するものがなかった。そこで1902年、木下曲馬団を大連で旗揚げした。「唯助は中国だけでなくロシアにも巡業に行きますが、そこでロシアの空中ブランコを目にするのです」「ロシア飛び」と呼ばれる空中ブランコは、ブランコから他のブランコへ飛び移る技が特徴だった。「唯助は、何度もロシアのサーカスに通って、自らロシア飛びの空中ブランコを習得しました。1904年、日露戦争が起こると帰国。ロシア飛びの空中ブランコが日本で人気を博します。今でもこの空中ブランコは、木下サーカスの公演のフィナーレを飾る専売特許となっています」 昭和に入ると、唯助氏は曲馬団だけでなく映画館も経営するようになった。「当時は無声映画でした。5、6館でしたが、かなりお客が入って経営を支えました」 1933(昭和8)年、ドイツの猛獣サーカス・ハーゲンベックが来日し、横浜、神戸、福岡を巡業した。「182頭もの猛獣や動物を引き連れて来日したので、大きな話題となりました。これを機に、日本の曲馬団は、そろってサーカスと改称したほどです。唯助はアシカ芸が気に入り、改称した木下サーカスに組み込みました。唯助は、アシカの小屋に寝泊りして習性を覚え、熱心に調教しました」新聞社とタイアップ 以後、木下サーカスでは馬だけでなく、アシカ、象、チンパンジー、ライオンが活躍するようになった。1953(昭和28)年には、団員が本業以外で大活躍した逸話が残っている。「5月に出雲大社で公演が行われ、ある朝象が異様な声で泣き出したのです。驚いた団員が外へ出てみると、出雲大社の社務所が燃えていました。サーカス小屋に火が燃え移ることを心配した団員たちは、消火活動に励みました。曲芸で鍛えた身の軽さから、消防団員を凌ぐ活躍を見せ、本殿への延焼を防いだため、文化財保護委員会から感謝状が贈られました」 木下サーカスを会社組織にしたのが、1948(昭和23)年、二代目社長に就任した光三氏である。彼は、大阪で薬製造業を営む菅納家の三男で、唯助氏の長女と結婚、婿養子となった。「光三は私の父ですが、1954(昭和29)年には、これまで丸太小屋だったサーカス小屋を、日本で初めてテントにしました。これだと設営が簡単にできるし、軽量なので移動も楽になったのです。1961年、木下サーカスを会社法人にしました。年中無休だったサーカスに週休制を取り入れ、団員は社員となり、月給やボーナスを支給しています。そして、新聞社とのタイアップにより、木下サーカスの経営を盤石なものにしました。読売新聞と提携し、顧客動員数を増やしました。新聞の購読者へ景品として、木下サーカスのチケットを配ったのです。公演先の地方新聞にもこのやり方をひろげました」 戦前からあった40団体のサーカスが、戦後、次々と廃業に追い込まれたのは、近代的な経営をしていなかったからだという。「昔からのサーカスの興行主は、経営に関してはドンブリ勘定でした。そのため、創業者1代で廃業するところが多かった。後継者も育ちませんでした」 1968年、司法試験を目指していた光三氏の長男・光宣氏が木下サーカスに入社した。1983年、3代目社長に就任する。空中ブランコから落下 光三氏の次男・唯志氏が木下サーカスに入社したのは、1974年だった。「私は明治大学経営学部に入学して、就職先は三和銀行に内定していました。ところが、父が腎臓結石で入院したため、家業を継ぐことにしたのです」 唯志氏は、木下サーカスに入社する前、ヨーロッパのサーカスを1カ月かけて視察した。「木下サーカスを世界一のサーカスにしようと思ったからです。ドイツのクローネサーカス、スイスのクニーサーカス、イタリアのアメリカンサーカス、フランスのシルクディベール。アメリカにも渡り、リングリングサーカスも見ました。印象に残ったのはクローネサーカスでした。ミュンヘンの常設館は超満員の大盛況でした。象やサイ、キリン、シマウマの調教が見事でしたね」 彼は、木下サーカスに入社後、新人団員として空中ブランコの特訓を行ったという。「空中ブランコは、1カ月でマスターしました。ところが、26歳の時、公演中に空中ブランコから落下してしまったのです。足から落下したのですが、空中ブランコの下に張ってあるネットが硬くて、第7頚椎を損傷しました。頭から落ちていたら即死でしたね」 さらに、事故の後に風邪をこじらせたが、無理に公演に出演したことが祟って重い肺炎を患ってしまう。「入退院を繰り返しました。そんな時、奈良県にある断食道場の記事が目に止まり、断食修行をしたのです。3年間で6回修行すると、微熱がなくなり、29歳で職場に復帰することができました」 ただし、現場に出るのは辞め、営業職にまわったという。木下サーカスは海外から高く評価されたため、唯志氏は、モナコで毎年1月に開催される世界で最も有名なサーカスの国際コンクール「モンテ・カルロ・サーカス国際フェスティバル」に毎年招待されるようになった。そこで、世界のアーティストとの交流を深めていったという。 木下サーカスに大きな転機が訪れたのは1981年。神戸ポートアイランド博覧会に参加した時、世界のトップクラスのアーティストを招聘したことだ。これで団員の士気が高まり、木下サーカスの成長の鍵になると確信した。以後、世界のアーティストと契約するようになったという。 1990年2月、唯志氏は4代目社長に就任した。「世界一のサーカスを実現するために、ヨーロッパから積極的にアーティストを招聘しています。振付師は宝塚歌劇団から招き、演出は、USJ(ユニバース・スタジオ・ジャパン)の演出を手掛けたジョン・フォックスです。現在、日本人演技者は約60人、海外9カ国のアーティストが約20人、営業が20人となっています」 唯志社長は、日本のサーカスとして初めて大学の新卒者を採用した。「日本体育大学など、体操経験者が多いですね。勿論、一般の大学の出身者もいます」象の病院 木下サーカスは、空中ブランコだけではなく、世界ナンバーワンと言われる猛獣ショーも有名だ。「現在、ライオン2頭、ホワイトライオン3頭、シマウマ2頭、象2頭でショーを行っています。ワシントン条約で1987年から象の売買が禁止になりました。そのためタイ政府と象のレンタル契約を交わしています」 1999年、木下サーカスはタイのランパンに象の病院「キノシタ・エレファント・ホスピタル」を開設した。ミャンマーとの国境で地雷を踏んだ象の治療をするためだという。「時代の流れで、最近、サーカスも動物虐待が問題視されています。世界一の観客動員数を誇り、象のショーが目玉だったアメリカのリングリングサーカスは、動物愛護団体から訴えられました。裁判では勝訴したのですが、象のショーをやめてしまったため廃業に追い込まれてしまったのです」 新型コロナは、サーカス界にも大きなダメージを与えた。日本でも人気の高かったカナダの「シルク・ドゥ・ソレイユ」は、新型コロナの影響で2020年6月、経営破綻。経営者が代わって2021年に再スタートした。「創業者のギー・ラリベルティは、後継者を育てていませんでした。うちも新型コロナの影響で、2020年2月末から公演中止となりました。再開したのはその年の8月です。年間120万人だった動員数も半減しています。クラウドファンディングで3000万円集まったこともあり、コロナ禍でも退職者は1人も出していません」 木下サーカスの団員は公演中、コンテナハウスで生活する。「1つのコンテナハウスに1家族が居住します。独身者だと、コンテナハウスに3人が居住しています。公演で移動するときは、トラック約100台でコンテナハウスやテント、動物などを輸送するので、1回の費用は3000万円ほどかかります」 木下サーカスはなぜ、120年も存続できたのか。「うちが生き残ったのは、常に進化を続けているからでしょう。年配の方が昔、子ども時代に見たサーカスとはまったく異なりますよ。素晴らしい音響と照明で、老若男女が楽しめるファミリーエンターテインメントになっています。人形浄瑠璃や歌舞伎でも演じられる『葛の葉』も演目に入っており、日本の秘芸もとり入れていますからね」デイリー新潮編集部
木下サーカスの創業は1902(明治35)年。戦前、日本には40団体のサーカスがあったが、現在残っているのは木下サーカスだけである。
「初代社長は、香川県出身の矢野唯助です。矢野家は巡回動物園を経営していて、唯助は馬の調教をしていました。岡山の興行師・木下藤十郎と知り合い、養子入りし、木下曲馬団を立ち上げました」
と語るのは、木下社長。
唯助氏は、巡回動物園で朝鮮、シベリアにも渡っていた。その時、満州など、各地で様々な曲芸を見たが、感心するものがなかった。そこで1902年、木下曲馬団を大連で旗揚げした。
「唯助は中国だけでなくロシアにも巡業に行きますが、そこでロシアの空中ブランコを目にするのです」
「ロシア飛び」と呼ばれる空中ブランコは、ブランコから他のブランコへ飛び移る技が特徴だった。
「唯助は、何度もロシアのサーカスに通って、自らロシア飛びの空中ブランコを習得しました。1904年、日露戦争が起こると帰国。ロシア飛びの空中ブランコが日本で人気を博します。今でもこの空中ブランコは、木下サーカスの公演のフィナーレを飾る専売特許となっています」
昭和に入ると、唯助氏は曲馬団だけでなく映画館も経営するようになった。
「当時は無声映画でした。5、6館でしたが、かなりお客が入って経営を支えました」
1933(昭和8)年、ドイツの猛獣サーカス・ハーゲンベックが来日し、横浜、神戸、福岡を巡業した。
「182頭もの猛獣や動物を引き連れて来日したので、大きな話題となりました。これを機に、日本の曲馬団は、そろってサーカスと改称したほどです。唯助はアシカ芸が気に入り、改称した木下サーカスに組み込みました。唯助は、アシカの小屋に寝泊りして習性を覚え、熱心に調教しました」
以後、木下サーカスでは馬だけでなく、アシカ、象、チンパンジー、ライオンが活躍するようになった。1953(昭和28)年には、団員が本業以外で大活躍した逸話が残っている。
「5月に出雲大社で公演が行われ、ある朝象が異様な声で泣き出したのです。驚いた団員が外へ出てみると、出雲大社の社務所が燃えていました。サーカス小屋に火が燃え移ることを心配した団員たちは、消火活動に励みました。曲芸で鍛えた身の軽さから、消防団員を凌ぐ活躍を見せ、本殿への延焼を防いだため、文化財保護委員会から感謝状が贈られました」
木下サーカスを会社組織にしたのが、1948(昭和23)年、二代目社長に就任した光三氏である。彼は、大阪で薬製造業を営む菅納家の三男で、唯助氏の長女と結婚、婿養子となった。
「光三は私の父ですが、1954(昭和29)年には、これまで丸太小屋だったサーカス小屋を、日本で初めてテントにしました。これだと設営が簡単にできるし、軽量なので移動も楽になったのです。1961年、木下サーカスを会社法人にしました。年中無休だったサーカスに週休制を取り入れ、団員は社員となり、月給やボーナスを支給しています。そして、新聞社とのタイアップにより、木下サーカスの経営を盤石なものにしました。読売新聞と提携し、顧客動員数を増やしました。新聞の購読者へ景品として、木下サーカスのチケットを配ったのです。公演先の地方新聞にもこのやり方をひろげました」
戦前からあった40団体のサーカスが、戦後、次々と廃業に追い込まれたのは、近代的な経営をしていなかったからだという。
「昔からのサーカスの興行主は、経営に関してはドンブリ勘定でした。そのため、創業者1代で廃業するところが多かった。後継者も育ちませんでした」
1968年、司法試験を目指していた光三氏の長男・光宣氏が木下サーカスに入社した。1983年、3代目社長に就任する。
光三氏の次男・唯志氏が木下サーカスに入社したのは、1974年だった。
「私は明治大学経営学部に入学して、就職先は三和銀行に内定していました。ところが、父が腎臓結石で入院したため、家業を継ぐことにしたのです」
唯志氏は、木下サーカスに入社する前、ヨーロッパのサーカスを1カ月かけて視察した。
「木下サーカスを世界一のサーカスにしようと思ったからです。ドイツのクローネサーカス、スイスのクニーサーカス、イタリアのアメリカンサーカス、フランスのシルクディベール。アメリカにも渡り、リングリングサーカスも見ました。印象に残ったのはクローネサーカスでした。ミュンヘンの常設館は超満員の大盛況でした。象やサイ、キリン、シマウマの調教が見事でしたね」
彼は、木下サーカスに入社後、新人団員として空中ブランコの特訓を行ったという。
「空中ブランコは、1カ月でマスターしました。ところが、26歳の時、公演中に空中ブランコから落下してしまったのです。足から落下したのですが、空中ブランコの下に張ってあるネットが硬くて、第7頚椎を損傷しました。頭から落ちていたら即死でしたね」
さらに、事故の後に風邪をこじらせたが、無理に公演に出演したことが祟って重い肺炎を患ってしまう。
「入退院を繰り返しました。そんな時、奈良県にある断食道場の記事が目に止まり、断食修行をしたのです。3年間で6回修行すると、微熱がなくなり、29歳で職場に復帰することができました」
ただし、現場に出るのは辞め、営業職にまわったという。木下サーカスは海外から高く評価されたため、唯志氏は、モナコで毎年1月に開催される世界で最も有名なサーカスの国際コンクール「モンテ・カルロ・サーカス国際フェスティバル」に毎年招待されるようになった。そこで、世界のアーティストとの交流を深めていったという。
木下サーカスに大きな転機が訪れたのは1981年。神戸ポートアイランド博覧会に参加した時、世界のトップクラスのアーティストを招聘したことだ。これで団員の士気が高まり、木下サーカスの成長の鍵になると確信した。以後、世界のアーティストと契約するようになったという。
1990年2月、唯志氏は4代目社長に就任した。
「世界一のサーカスを実現するために、ヨーロッパから積極的にアーティストを招聘しています。振付師は宝塚歌劇団から招き、演出は、USJ(ユニバース・スタジオ・ジャパン)の演出を手掛けたジョン・フォックスです。現在、日本人演技者は約60人、海外9カ国のアーティストが約20人、営業が20人となっています」
唯志社長は、日本のサーカスとして初めて大学の新卒者を採用した。
「日本体育大学など、体操経験者が多いですね。勿論、一般の大学の出身者もいます」
木下サーカスは、空中ブランコだけではなく、世界ナンバーワンと言われる猛獣ショーも有名だ。
「現在、ライオン2頭、ホワイトライオン3頭、シマウマ2頭、象2頭でショーを行っています。ワシントン条約で1987年から象の売買が禁止になりました。そのためタイ政府と象のレンタル契約を交わしています」
1999年、木下サーカスはタイのランパンに象の病院「キノシタ・エレファント・ホスピタル」を開設した。ミャンマーとの国境で地雷を踏んだ象の治療をするためだという。
「時代の流れで、最近、サーカスも動物虐待が問題視されています。世界一の観客動員数を誇り、象のショーが目玉だったアメリカのリングリングサーカスは、動物愛護団体から訴えられました。裁判では勝訴したのですが、象のショーをやめてしまったため廃業に追い込まれてしまったのです」
新型コロナは、サーカス界にも大きなダメージを与えた。日本でも人気の高かったカナダの「シルク・ドゥ・ソレイユ」は、新型コロナの影響で2020年6月、経営破綻。経営者が代わって2021年に再スタートした。
「創業者のギー・ラリベルティは、後継者を育てていませんでした。うちも新型コロナの影響で、2020年2月末から公演中止となりました。再開したのはその年の8月です。年間120万人だった動員数も半減しています。クラウドファンディングで3000万円集まったこともあり、コロナ禍でも退職者は1人も出していません」
木下サーカスの団員は公演中、コンテナハウスで生活する。
「1つのコンテナハウスに1家族が居住します。独身者だと、コンテナハウスに3人が居住しています。公演で移動するときは、トラック約100台でコンテナハウスやテント、動物などを輸送するので、1回の費用は3000万円ほどかかります」
木下サーカスはなぜ、120年も存続できたのか。
「うちが生き残ったのは、常に進化を続けているからでしょう。年配の方が昔、子ども時代に見たサーカスとはまったく異なりますよ。素晴らしい音響と照明で、老若男女が楽しめるファミリーエンターテインメントになっています。人形浄瑠璃や歌舞伎でも演じられる『葛の葉』も演目に入っており、日本の秘芸もとり入れていますからね」
デイリー新潮編集部

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