自称「元宝塚女優」の52歳女性が、横浜で「変死体」として発見されるまで…発掘“ヅカ婆さん”の「悲しすぎる人生」

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

「いじめ報道」を受けて、宝塚歌劇団が揺れている。宝塚大劇場で開催予定だった雪組公演は中止、新人公演も取りやめとなった。12月に梅田芸術劇場で開催予定だった「タカラヅカスペシャル2023」の中止も発表されている。宝塚歌劇の初回公演は1914年、演目は管弦合奏と合唱、舞踊、歌劇だった。燦然と輝くスターとなる者がいる一方、多くの少女たちは夢破れて「挫折」を味わうことになる─その構造は昔から変わらない。週刊現代1961年3月12日号では『元女優だとウソをついて五十二年 スラム街に落ちて凍死したスター』という記事を掲載。1961年2月12日、横浜で52歳女性の変死体が発見された事件を報じ、この女性が「元宝塚女優」を演じながら生きていたことを明らかにしている。宝塚を目指し、夢破れた女性の悲惨な末路。当時の記事を一部加筆修正のうえお届けする。「芸能人は哀れだなあ。果ては栄養失調の凍死か」一泊わずか三十円という宿泊所にさえ泊まれないドン底の浮浪者たちは、軒下に米俵やむしろ、ボロ切れなどを持ちだし、凍りつく夜空を仰ぎながら、その中にくるまってねむる。

そんな浮浪者の群れが、街の名物だとさえいわれる横浜市。寒空の下に、行きだおれの凍死体がゴロリと転がっていたとしても、浮浪者仲間にとってはことさら珍しくもない。二月十二日の早朝、午前五時ごろのことである。神奈川県警伊勢佐木警察署のパトカーが、受持ちの中区花咲町四の路上を巡回中、女の浮浪者の変死体を発見した。死後まだ二時間。検屍の結果、凍死と判定された。photo by gettyimagesその日の地方紙の夕刊で、わずか三行のスペースをさいてこの小さな事件は報道された。誰もたいして気にとめはしなかった。ところが、この女の死が、横浜市内を流れる大岡川のドブ周辺の地域でたいへんな話題になった。「いい人だったが、とうとう宝塚女優も昇天したのか。それにしても芸能人は哀れだなあ。果ては栄養失調の凍死か。人気商売の末路なんて、こんなむなしいものかねえ」そんな言葉がささやかれたのである。「元宝塚女優の行きだおれ」このニュースは三段ぬきぐらいの見出しで報ぜられてもふしぎではなかったのだが、じっさいは、たった三行の記事で終わってしまった。芸名は「七浦房子」そのわけはこうだ。現場の刑事は凍死体のそばの遺品をひっくりかえしていたが、麻袋に大切そうに包まれている一冊の手帳をみつけると、ただちに本署にとんだ。「おい、これをみろよ。書いてあるのはまんざらウソでもなさそうだぞ」手帳をめくった刑事がトンキョウな声で読みあげる。-恐れていたことが本当になってしまった。退団命令-寮長の宣告を私は血が出るほど唇をかみながら聞いた。宝塚を追われる・・・これで私の一生も終りだ。みんなあの人を愛したためのむくいなのか-へーッとみんなが仰天しているところへ、身元確認に行った外勤の主任がもどって来た。「女の名は高橋えい。五十二歳だ。住所は不定だが、去年の十二月までは日ノ出町の川にある空船に無断で住んでいたらしい。生れは宝塚に近い木の元というところだ。その手帳といい生地といい、こう道具だてがそろうと、こいつはほんものかも知れんぞ」手帳を持ちかえった刑事が、「主任、ここに芸名が書いてあります。七浦房子です。入団が大正十四年で、昭和三年にやめたことになっています。ずいぶん古い話だが、事務所に名簿ぐらい残っていると思いますが」さっそく、宝塚歌劇団へ照会の手続をすませるとともに、七浦房子こと高橋えいさんに関する聞きこみがはじまった。そして、浮浪者を扱う民生局にも知らせがとどけられた。彼女が横浜に来たのは昭和二十三年ごろらしい。くわしいことは誰も知らない。二十六年の夏、当時大岡川に浮ぶ水上ホテルという簡易宿泊所にひとりでフラッと入ってきて、「三年ほどある人に囲われていたけど、ポックリ死なれてね。今日から仲間に入れてもらいたいと思ってね」と、アカで汚れた毛布にゴロリと寝そべり、「横浜も神戸と同じで、海の匂いがたまらなくいいねえ」といっていた女。それが高橋えいさんだった。本当に「元女優」なのか水上ホテルはシラミと南京虫が同居するブタ小屋同然の宿泊所。昭和三十年にとりこわされるまで、乞食、モク拾い、オールナイト五十円の売春婦などが住み、吹き溜りのようだった。ここに住みついて三日目、えいさんは重大な秘密をうちあけたのである。「勇気を出して言うけど、わたし、ヅカガールだったのよ。こんなに落ちぶれちゃ、誰も信じないだろうけれど・・・」とか、「オーケストラの音がきこえたとたんに、さて右足を先きにあげるのか、左足を動かすのか、サッパリわからなくてうろうろしたわ」と、初舞台の経験を細かく話したものだ。photo by gettyimages住人たちは、“創作された過去”は聞きあきている。誰も彼女の身の上話を本気にしようとはしない。ところがそのうちに、ほんとに彼女が「元女優」かも知れないと信じなければならなくなっていった。たとえば-。えいさんは黒いサングラスを手離したことがなく、「舞台で正面から浴びるライトに照らされて、みんな目をいためてしまうの」と言っていたこともあり、天津乙女に化粧法を教えてやったとも言い、天津が左ききでパフを左手で使うというようなこともよく知っていた、七浦房子というサインもなるほど芸能人らしい字くばりだった。しかしなによりも彼女は歌と踊りがうまかった。焼酎をあおり、昔なつかしい「ジュリエッタ」を歌いながら鮮やかに踊るえいさんをみたとき、住人たちは、彼女がまちがいなく「元宝塚女優」であることを認めたという。この時から、彼女はふたたび七浦房子にカムバックした。「舞台に出る。有名になるまで家へは帰らない」ドブ川流域では、彼女を「ヅカ婆さん」と呼びはじめ、七浦房子は地域の女王格になったのである。照会を受けた宝塚歌劇団の事務所では、彼女の手帳にあった大正十四年から昭和三年までを調べてみた。七浦房子は名簿になかった。高橋えいの名も発見できなかった。それに似た該当者もなく、第一、木の元出身の女優さえいなかったとわかった。念のため松竹歌劇団にも問い合わせたが該当者なし。警察では「ヅカ婆さん」は架空の女優だったという結論をだし、ちょっぴり苦が笑いしながら書類をつくった。死体のそばにあった例の手帳には、≪退団後≫のもようも書きとめてある。-昭和四年十月×日 今日、名古屋のカフェーでサインをせがまれた。まだわたしのファンがいるのかと思うと、うれしくて涙が出た--昭和七年五月×日 むかしのファンがわたしに軽飲店をやらないかと誘ってくれた。あの人はなんていうかしら--高橋えいさんは明治四十三年生まれ。兵庫県の生瀬(なまぜ)高等小学校を出て、神戸市内の「井清寿」という菓子屋につとめたことがある。生家が宝塚に近いせいもあって、そのころからヅカへの憧れはことのほかだったようだ。大正十四年、十六歳の時に、「舞台に出る。有名になるまで家へは帰らない」と言って、実家にも姿をみせなくなった。彼女は今で言う八頭身だったから、近所の人も、「あの子ならほんとうに舞台に立てるかも知れない」と信じていた。「いまの女優なんてみんなニセモノさ」しかし、今後のことではっきりしたように、彼女が宝塚にいたという証拠はなにひとつないのである。失意の“七浦房子”は名古屋に行き“あの人”と同棲したりしたが、昭和七年ごろからカフェー「桃源」で働くようになっていた。カフェーとは名ばかりで、じっさいは売春宿だったようだともいう。そして流れるままに横浜へ。たどりついた時は、ウソにウソを塗り、宝塚への憧れが女優への執念に変って、自らの偽りと夢想に酔う「元ヅカガール」になっていたというわけだ。歌や踊りがうまく、歌劇団の消息にくわしかったのも、みんなその“執念”が教えたのだろう。「いまの女優なんてみんなニセモノさ。血の出るような苦労を知らない。ほんとうの芸というものは、骨ヘンに忍耐という字を書くんだよ」生前のえいさんがこう話すとふしぎに真実のひびきがあったという。水上ホテルに住みついてからは、「元ヅカガール」を看板に浮浪者に身を売っていたという話もある。晩年の彼女はいつも港を見おろす丘にすわっていた。顔見知りが通りかかるとこう言ったそうだ。「宝塚からは神戸が近くてね。神戸の港を思い出しながらこうして海をみてるんだよ。もう一度あそこへ帰ってみたいねえ」-彼女の死体は無縁仏として公共墓地にほうむられたが、警察では地域の住人たちにはついに事実を明かさなかった。“七浦房子”のまま眠らせてやるのが、なによりのはなむけであることをよく知っているからなのだ-。週刊現代1961年3月12日より・・・・・さらに関連記事『公演中止が相次ぐ大騒動に…タカラジェンヌたちの「熾烈すぎる競争」の深層』では、宝塚歌劇団の知られざる「現実」と女優達が直面する「壁」について解説しています。
「いじめ報道」を受けて、宝塚歌劇団が揺れている。宝塚大劇場で開催予定だった雪組公演は中止、新人公演も取りやめとなった。12月に梅田芸術劇場で開催予定だった「タカラヅカスペシャル2023」の中止も発表されている。
一泊わずか三十円という宿泊所にさえ泊まれないドン底の浮浪者たちは、軒下に米俵やむしろ、ボロ切れなどを持ちだし、凍りつく夜空を仰ぎながら、その中にくるまってねむる。
そんな浮浪者の群れが、街の名物だとさえいわれる横浜市。
寒空の下に、行きだおれの凍死体がゴロリと転がっていたとしても、浮浪者仲間にとってはことさら珍しくもない。
二月十二日の早朝、午前五時ごろのことである。
神奈川県警伊勢佐木警察署のパトカーが、受持ちの中区花咲町四の路上を巡回中、女の浮浪者の変死体を発見した。死後まだ二時間。検屍の結果、凍死と判定された。
photo by gettyimages
その日の地方紙の夕刊で、わずか三行のスペースをさいてこの小さな事件は報道された。誰もたいして気にとめはしなかった。
ところが、この女の死が、横浜市内を流れる大岡川のドブ周辺の地域でたいへんな話題になった。
「いい人だったが、とうとう宝塚女優も昇天したのか。それにしても芸能人は哀れだなあ。果ては栄養失調の凍死か。人気商売の末路なんて、こんなむなしいものかねえ」
そんな言葉がささやかれたのである。
「元宝塚女優の行きだおれ」
このニュースは三段ぬきぐらいの見出しで報ぜられてもふしぎではなかったのだが、じっさいは、たった三行の記事で終わってしまった。
そのわけはこうだ。
現場の刑事は凍死体のそばの遺品をひっくりかえしていたが、麻袋に大切そうに包まれている一冊の手帳をみつけると、ただちに本署にとんだ。
「おい、これをみろよ。書いてあるのはまんざらウソでもなさそうだぞ」
手帳をめくった刑事がトンキョウな声で読みあげる。
-恐れていたことが本当になってしまった。退団命令-寮長の宣告を私は血が出るほど唇をかみながら聞いた。宝塚を追われる・・・これで私の一生も終りだ。みんなあの人を愛したためのむくいなのか-
へーッとみんなが仰天しているところへ、身元確認に行った外勤の主任がもどって来た。
「女の名は高橋えい。五十二歳だ。住所は不定だが、去年の十二月までは日ノ出町の川にある空船に無断で住んでいたらしい。
生れは宝塚に近い木の元というところだ。その手帳といい生地といい、こう道具だてがそろうと、こいつはほんものかも知れんぞ」
手帳を持ちかえった刑事が、
「主任、ここに芸名が書いてあります。七浦房子です。入団が大正十四年で、昭和三年にやめたことになっています。ずいぶん古い話だが、事務所に名簿ぐらい残っていると思いますが」
さっそく、宝塚歌劇団へ照会の手続をすませるとともに、七浦房子こと高橋えいさんに関する聞きこみがはじまった。
そして、浮浪者を扱う民生局にも知らせがとどけられた。
彼女が横浜に来たのは昭和二十三年ごろらしい。くわしいことは誰も知らない。
二十六年の夏、当時大岡川に浮ぶ水上ホテルという簡易宿泊所にひとりでフラッと入ってきて、
「三年ほどある人に囲われていたけど、ポックリ死なれてね。今日から仲間に入れてもらいたいと思ってね」
と、アカで汚れた毛布にゴロリと寝そべり、
「横浜も神戸と同じで、海の匂いがたまらなくいいねえ」
といっていた女。それが高橋えいさんだった。
水上ホテルはシラミと南京虫が同居するブタ小屋同然の宿泊所。昭和三十年にとりこわされるまで、乞食、モク拾い、オールナイト五十円の売春婦などが住み、吹き溜りのようだった。
ここに住みついて三日目、えいさんは重大な秘密をうちあけたのである。
「勇気を出して言うけど、わたし、ヅカガールだったのよ。こんなに落ちぶれちゃ、誰も信じないだろうけれど・・・」とか、
「オーケストラの音がきこえたとたんに、さて右足を先きにあげるのか、左足を動かすのか、サッパリわからなくてうろうろしたわ」
と、初舞台の経験を細かく話したものだ。
photo by gettyimages
住人たちは、“創作された過去”は聞きあきている。誰も彼女の身の上話を本気にしようとはしない。
ところがそのうちに、ほんとに彼女が「元女優」かも知れないと信じなければならなくなっていった。
たとえば-。
えいさんは黒いサングラスを手離したことがなく、
「舞台で正面から浴びるライトに照らされて、みんな目をいためてしまうの」
と言っていたこともあり、天津乙女に化粧法を教えてやったとも言い、天津が左ききでパフを左手で使うというようなこともよく知っていた、七浦房子というサインもなるほど芸能人らしい字くばりだった。しかしなによりも彼女は歌と踊りがうまかった。
焼酎をあおり、昔なつかしい「ジュリエッタ」を歌いながら鮮やかに踊るえいさんをみたとき、住人たちは、彼女がまちがいなく「元宝塚女優」であることを認めたという。
この時から、彼女はふたたび七浦房子にカムバックした。
ドブ川流域では、彼女を「ヅカ婆さん」と呼びはじめ、七浦房子は地域の女王格になったのである。
照会を受けた宝塚歌劇団の事務所では、彼女の手帳にあった大正十四年から昭和三年までを調べてみた。
七浦房子は名簿になかった。高橋えいの名も発見できなかった。それに似た該当者もなく、第一、木の元出身の女優さえいなかったとわかった。念のため松竹歌劇団にも問い合わせたが該当者なし。
警察では「ヅカ婆さん」は架空の女優だったという結論をだし、ちょっぴり苦が笑いしながら書類をつくった。
死体のそばにあった例の手帳には、≪退団後≫のもようも書きとめてある。
-昭和四年十月×日 今日、名古屋のカフェーでサインをせがまれた。まだわたしのファンがいるのかと思うと、うれしくて涙が出た-
-昭和七年五月×日 むかしのファンがわたしに軽飲店をやらないかと誘ってくれた。あの人はなんていうかしら-
-高橋えいさんは明治四十三年生まれ。兵庫県の生瀬(なまぜ)高等小学校を出て、神戸市内の「井清寿」という菓子屋につとめたことがある。生家が宝塚に近いせいもあって、そのころからヅカへの憧れはことのほかだったようだ。
大正十四年、十六歳の時に、
「舞台に出る。有名になるまで家へは帰らない」
と言って、実家にも姿をみせなくなった。彼女は今で言う八頭身だったから、近所の人も、「あの子ならほんとうに舞台に立てるかも知れない」と信じていた。
しかし、今後のことではっきりしたように、彼女が宝塚にいたという証拠はなにひとつないのである。
失意の“七浦房子”は名古屋に行き“あの人”と同棲したりしたが、昭和七年ごろからカフェー「桃源」で働くようになっていた。カフェーとは名ばかりで、じっさいは売春宿だったようだともいう。
そして流れるままに横浜へ。たどりついた時は、ウソにウソを塗り、宝塚への憧れが女優への執念に変って、自らの偽りと夢想に酔う「元ヅカガール」になっていたというわけだ。
歌や踊りがうまく、歌劇団の消息にくわしかったのも、みんなその“執念”が教えたのだろう。
「いまの女優なんてみんなニセモノさ。血の出るような苦労を知らない。ほんとうの芸というものは、骨ヘンに忍耐という字を書くんだよ」
生前のえいさんがこう話すとふしぎに真実のひびきがあったという。
水上ホテルに住みついてからは、「元ヅカガール」を看板に浮浪者に身を売っていたという話もある。
晩年の彼女はいつも港を見おろす丘にすわっていた。顔見知りが通りかかるとこう言ったそうだ。
「宝塚からは神戸が近くてね。神戸の港を思い出しながらこうして海をみてるんだよ。もう一度あそこへ帰ってみたいねえ」
-彼女の死体は無縁仏として公共墓地にほうむられたが、警察では地域の住人たちにはついに事実を明かさなかった。
“七浦房子”のまま眠らせてやるのが、なによりのはなむけであることをよく知っているからなのだ-。
週刊現代1961年3月12日より
・・・・・
さらに関連記事『公演中止が相次ぐ大騒動に…タカラジェンヌたちの「熾烈すぎる競争」の深層』では、宝塚歌劇団の知られざる「現実」と女優達が直面する「壁」について解説しています。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SNSでもご購読できます。