〈「さまざまな偶然が、彼を怪物にした」大川隆法の長男(34)が語る「『幸福の科学』誕生のきっかけを作った【2人の女性】の正体」〉から続く
おりしも新興宗教ブームだった1991年、あるテレビの討論番組に出ることになった幸福の科学の大川隆法氏。しかし、そこで彼を徹底的に言い負かし、「もう二度とテレビに出ない」ことを決意させたジャーナリストとはいったい?
【写真を見る】大川隆法を論破した「白髪のジャーナリスト」
大川隆法氏を間近に見てきた長男の宏洋氏の新刊『神になりたかった男 回想の父・大川隆法』より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
大川隆法氏がその後、二度とTV出演しなくなったあるジャーナリストとの論戦とは? 文藝春秋
◆◆◆
1986年11月、日暮里の酒販会館の一室に、緊張した面持ちの隆法がいた。「幸福の科学発足記念座談会」の当日だ。
住宅街の小さな雑居ビルという感じの酒販会館は、今は幸福の科学が買い取って「初転法輪記念館」になっている。そこが、隆法初の講演の会場になった。畳を敷いた部屋には70~80人くらいの聴衆がいたという。
隆法は緊張でガチガチだったらしいが、一応講演は成功に終わった。
ただ、ひとつトラブルというか、予想外の出来事があった。後に幸福の科学の幹部になる男性が質問の際に、「隆法(たかのり)」を「りゅうほう」と呼んでしまったのだという。しかし発音のしやすさを本人が気に入ったのか知らないが、その後「たかのり」は「りゅうほう」になり今に至る。
1987年3月には、幸福の科学発足記念講演会を、新宿区の牛込公会堂で大々的に開く。
この年には大川隆法名義での月数冊ペースの本の量産や、研修会も行われるようになった。地方のホテルで数日間、隆法を含めてワイワイとやる、まあ楽しそうな集まりだったらしい。
このころには若い女性会員も増えてきて、研修会での隆法はアイドル扱いだったという。
さて、ここでもう一度確認しよう。
隆法はずっと絵に描いたような非モテ男で、女性と付き合ったことなんてもちろんなかっただろう。2回の失恋を考えると、女性に恐怖感すら覚えていたかもしれない。かといって風俗みたいなのは嫌うタイプなので、たぶん、あらゆる意味で女を知らなかった気がする。
そんな男が、いきなり若い女性からキャアキャア言われる立場に置かれたらどうなるだろうか?
幸福の科学の立ち上げからずっと隆法と一緒だった関谷晧元は、後に暴露本(『虚業教団』現代書林)にこう書いている。
「(若い女性会員が)ワーワーキャーキャー騒ぎながら、まるで人気タレントのように大川をあつかった。今にして思うと、これが我が師を大いなる覚者から宗教タレントへ変貌させるきっかけであった」
彼は失望したのかもしれないけれど、ぶっちゃけ、しょうがなくないですか? 女性と縁がなかった若い男が急にモテだしたら、舞い上がるに決まっている。
ああ、女の子たちに囲まれてニヤニヤしている父、隆法の姿が目に浮かぶようだ。
そんな隆法ファンのひとりに、木村恭子という学生がいた。
僕の母親でもある彼女のことを、今後は恭子さんと書こう。最初の妻との出会い 隆法と出会ったころの恭子さんは、まだ東大の学生だった。ボランティアとして幸福の科学に参加していたみたいだ。 先ほどの関谷の本によると、2人がお互いを意識したのは1987年11月に茨城県の大洗町で開かれた研修会だったらしいけれど、この年の年末には、隆法は恭子さんとの結婚を決めている。 出会って1か月で結婚とはえらいスピード感だけれど、隆法の恭子さんへの気持ちは本物だったと思う。そして恭子さんも、隆法を愛していた。 つまり隆法にとっての恭子さんは、30を過ぎた隆法がようやく恋愛を成就した相手だったということになる。 ……だけど後に、恭子さんは、隆法の、生涯3度目の失恋の相手にもなる。そのことは後で書こう。拡大する幸福の科学 翌1988年4月には杉並会館で隆法と恭子さんの結婚式が行われ、恭子さんは実質的なナンバー2である主宰補佐になる。 結婚で勢いづいたわけではないだろうけれど、幸福の科学は順調に大きくなっていった。 もちろんトラブルはいろいろあっただろうし、隆法のワンマンは悪化していったと思うけれど、本をポンポン出し、お金も会員も増えていった。1989年の2月には長男、つまり僕が生まれ、その後隆法と恭子さんは、僕を含め三男二女をもうけている。 このころになると、幸福の科学は世間からも注目されはじめる。1991年には講談社による記事への抗議や訴訟を派手に展開して話題になったし、作家の景山民夫や俳優の小川知子みたいな有名人の会員もいた。 僕の記憶がはじまるのは、こういう時代だ。 僕が覚えている最初の家は、西武線武蔵境駅の近くにあった。とはいえ、記憶はほとんどない。その後新宿区の戸山公園のそばに引っ越したけれど、その家にも1、2年しか住まなかったと思う。 武蔵境の家も戸山公園の家も、特に豪邸というわけじゃなくて普通の一軒家だった。だけど、次に住んだ東京の池田山から、家はいきなり大きくなった。引っ越したのは1993年か1994年だったと思うけれど、このころから羽振りがよくなったんだろう。 隆法が池田山で住んだのはワンフロア100万円(と隆法は言っていた気がする)とかいう高級マンションで、それを6フロア。賃貸だから、毎月数百万円の家賃を払っていたことになる。TVの対談で惨敗 80年代から90年代前半の日本社会はちょっとした新興宗教ブームだった。経済的には豊かになってヒマな人が増えたり、終末思想が流行ったことなんかが背景にあるのかもしれないけれど、いろいろな宗教が増えていった。 幸福の科学もそのひとつだけれど、もっとも有名なのは、やはりオウム真理教だろう。今では考えられないけれど、当時はオウムを支持する文化人がたくさんいたし、創始者の麻原彰晃がTVのバラエティ番組に出たりもしていた。 もちろんオウムや幸福の科学を批判するマスコミは少なくなかったけれど、今とは比べものにならないくらい新興宗教に追い風が吹いていた時代だったわけだ。 やめておけばよかったのに、我らが大川隆法もTVに出ている。1991年に『サンデープロジェクト』(テレビ朝日)でジャーナリストの田原総一朗さんと対談をしたんだけれど、これがひどかった。 隆法は、自分の話をするのは好きだけれど対話や議論はまったくできない。そんな人間が百戦錬磨の田原さんと対決するのは無謀すぎる。もし僕が隆法のそばにいたら全力で止めたけれど、まあ隆法が言うことを聞くわけがない。 対談では案の定、隆法が押されっぱなしだった。なんとかして余裕があるそぶりを見せようとしながらも、どんどん劣勢になっていく隆法が可哀想になるくらいだった。きっと、終わった後は汗びっしょりだったと思う。 繊細な隆法は例によって大いに傷つき、それ以降TVには出ていない。〈深キョンも星野源もエジキに…幸福の科学が「守護霊本」を量産しまくる納得理由【写真あり】〉へ続く(宏洋/Webオリジナル(外部転載))
僕の母親でもある彼女のことを、今後は恭子さんと書こう。
隆法と出会ったころの恭子さんは、まだ東大の学生だった。ボランティアとして幸福の科学に参加していたみたいだ。
先ほどの関谷の本によると、2人がお互いを意識したのは1987年11月に茨城県の大洗町で開かれた研修会だったらしいけれど、この年の年末には、隆法は恭子さんとの結婚を決めている。
出会って1か月で結婚とはえらいスピード感だけれど、隆法の恭子さんへの気持ちは本物だったと思う。そして恭子さんも、隆法を愛していた。
つまり隆法にとっての恭子さんは、30を過ぎた隆法がようやく恋愛を成就した相手だったということになる。
……だけど後に、恭子さんは、隆法の、生涯3度目の失恋の相手にもなる。そのことは後で書こう。
翌1988年4月には杉並会館で隆法と恭子さんの結婚式が行われ、恭子さんは実質的なナンバー2である主宰補佐になる。
結婚で勢いづいたわけではないだろうけれど、幸福の科学は順調に大きくなっていった。
もちろんトラブルはいろいろあっただろうし、隆法のワンマンは悪化していったと思うけれど、本をポンポン出し、お金も会員も増えていった。1989年の2月には長男、つまり僕が生まれ、その後隆法と恭子さんは、僕を含め三男二女をもうけている。
このころになると、幸福の科学は世間からも注目されはじめる。1991年には講談社による記事への抗議や訴訟を派手に展開して話題になったし、作家の景山民夫や俳優の小川知子みたいな有名人の会員もいた。
僕の記憶がはじまるのは、こういう時代だ。
僕が覚えている最初の家は、西武線武蔵境駅の近くにあった。とはいえ、記憶はほとんどない。その後新宿区の戸山公園のそばに引っ越したけれど、その家にも1、2年しか住まなかったと思う。
武蔵境の家も戸山公園の家も、特に豪邸というわけじゃなくて普通の一軒家だった。だけど、次に住んだ東京の池田山から、家はいきなり大きくなった。引っ越したのは1993年か1994年だったと思うけれど、このころから羽振りがよくなったんだろう。
隆法が池田山で住んだのはワンフロア100万円(と隆法は言っていた気がする)とかいう高級マンションで、それを6フロア。賃貸だから、毎月数百万円の家賃を払っていたことになる。
80年代から90年代前半の日本社会はちょっとした新興宗教ブームだった。経済的には豊かになってヒマな人が増えたり、終末思想が流行ったことなんかが背景にあるのかもしれないけれど、いろいろな宗教が増えていった。
幸福の科学もそのひとつだけれど、もっとも有名なのは、やはりオウム真理教だろう。今では考えられないけれど、当時はオウムを支持する文化人がたくさんいたし、創始者の麻原彰晃がTVのバラエティ番組に出たりもしていた。
もちろんオウムや幸福の科学を批判するマスコミは少なくなかったけれど、今とは比べものにならないくらい新興宗教に追い風が吹いていた時代だったわけだ。
やめておけばよかったのに、我らが大川隆法もTVに出ている。1991年に『サンデープロジェクト』(テレビ朝日)でジャーナリストの田原総一朗さんと対談をしたんだけれど、これがひどかった。
隆法は、自分の話をするのは好きだけれど対話や議論はまったくできない。そんな人間が百戦錬磨の田原さんと対決するのは無謀すぎる。もし僕が隆法のそばにいたら全力で止めたけれど、まあ隆法が言うことを聞くわけがない。 対談では案の定、隆法が押されっぱなしだった。なんとかして余裕があるそぶりを見せようとしながらも、どんどん劣勢になっていく隆法が可哀想になるくらいだった。きっと、終わった後は汗びっしょりだったと思う。 繊細な隆法は例によって大いに傷つき、それ以降TVには出ていない。〈深キョンも星野源もエジキに…幸福の科学が「守護霊本」を量産しまくる納得理由【写真あり】〉へ続く(宏洋/Webオリジナル(外部転載))
隆法は、自分の話をするのは好きだけれど対話や議論はまったくできない。そんな人間が百戦錬磨の田原さんと対決するのは無謀すぎる。もし僕が隆法のそばにいたら全力で止めたけれど、まあ隆法が言うことを聞くわけがない。
対談では案の定、隆法が押されっぱなしだった。なんとかして余裕があるそぶりを見せようとしながらも、どんどん劣勢になっていく隆法が可哀想になるくらいだった。きっと、終わった後は汗びっしょりだったと思う。
繊細な隆法は例によって大いに傷つき、それ以降TVには出ていない。
〈深キョンも星野源もエジキに…幸福の科学が「守護霊本」を量産しまくる納得理由【写真あり】〉へ続く
(宏洋/Webオリジナル(外部転載))