「全身刺青のヤクザと除染作業をやってると…」サラ金の取り立て、おっぱいパブの呼び込みも経験…大藪春彦賞作家・赤松利市(67)の人生がヤバすぎた!

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サラ金の回収、ヤクザにまざって行なった福島の除染作業、そしておっぱいパブの呼び込み……。路上生活も経験し、アンダーグラウンドな世界を覗き込んできた作家の赤松利市氏(67)が今、注目を集めている。
【写真】ヤバすぎる人生を歩んだ赤松利市を写真で一気に見る 新刊『救い難き人』(徳間書店)を発売したばかりの彼に、60歳を過ぎてから作家デビューを果たしたワケ、そして栄光と苦悩にまみれた歩みを尋ねた。 ◆◆◆カネと欲……魔力に取り憑かれた男たちの闘争がはじまる〈 身なりを整えてからロッカーに目を戻した。

その棚の奥に仕舞っていたモンを睨み付けた。 四つに畳んだ紙切れや。 お母ちゃんから貰った紙切れや。 『恨』の字が書かれた紙切れや。(『救い難き人』より)〉 絵も音も動きも使わぬ文章表現だけで、これほどの迫力を打ち出せるものなのか。 読んでいるあいだ、そう感嘆しきりとなるのが、赤松利市さんによる最新小説『救い難き人』だ。文藝春秋 撮影/石川啓次 主人公の朴マンスは14歳で母を亡くす。母親の命を奪ったのは、関西のとある地域でパチンコ王として君臨する、彼の父親だった。父への復讐を固く誓ったマンスは、先輩・井尻の手引きで父のパチンコ店に見習いとして潜り込む。巨大なパチンコ業界の表舞台と舞台裏の双方で、金と欲の魔力に取り憑かれた男たちの闘争が繰り広げられる……、というのがあらましである。62歳で作家デビュー。それまでの歩みは……「今回は苦心しました。この7月に刊行と相なったんですが、それまでの1年以上をかけて、全面改稿を6度しています。 当初は三人称視点で、ある程度客観的な書き方をしていたのを、複数人物のあいだで話者が入れ替わっていくタイプの一人称視点語りに、ガラリと書き換えてもいます。一人ひとりの人間の内部で起きていることを、つぶさに表現したくなったので、そうするとどうしても根本から直すよりほかなかった」 これまでの作品とは、文体や文章の密度も異なる。 赤松利市さんは、2017年に62歳でデビューを果たした「遅咲き小説家」。その経緯は後述するが、これまでにものした作品群は、不器用かつハードに生きる男たちの姿を、アップテンポなストーリー展開で、スルスルと読ませる文体で書くのが特長だった。 一本釣り漁師たちが舞い込んだ儲け話に翻弄されていく『鯖』、障害を持つ娘を抱えた男が東日本大震災復興事業に一枚噛もうと試みる『ボダ子』、大阪を舞台にトランスジェンダーが躍動する『犬』……といった具合である。 今作も、人呼んで「最後の無頼派」らしい破天荒さは全開なれど、叙述のスタイルが短文を畳みかけるようになっており、読み味がこれまでよりゴツゴツとしていると感じさせる。「以前は、どんどん浮かんでくる文章を脳内で組み立てておき、パソコンに向かったらそれを一気に外へ吐き出すといった書き方でした。原稿用紙20枚分くらいなら、脳内に書き溜めておいたものです。 だからずいぶん筆が早いと言われ、作品を量産できた。しかしそのやり方では、小説として頭打ちになると感じていた。抵抗なく読める文章より、もっと一文ずつが読者に響くものを目指そうと考えるようになりました」 それで今作では、脳内にとめどなく浮かぶ文章をそのままアウトプットするのではなく、溢れ出るものをまずは留めて呑み込み、それでも出てこようとするものを絞り出して書くこととした。 いったん書き上げたあとも、安易に流れ出た文章はないか一文ずつ見直す作業を繰り返し、優に原稿用紙100枚分以上の文章を削ぎ落とした。小学校時代、アメリカで味わった差別の記憶 文章を磨き上げた効果もあってのことか。作中では主人公のマンスをはじめ、登場人物の存在感が際立っている。得体の知れない怪物たちがうごめき絡まり合っているような、迫力ある描写が続く。 また、作品が抱えるテーマもくっきりと浮かび上がる。「私の作品を貫くテーマは、貧困、差別、そして社会に翻弄される人間、となります。『救い難き人』の場合は『色』と『欲』が強く前に出ていますが、色や欲がどこから生じるかといえば、無定見な差別だったりします。出自や国籍による根深い差別が、人を怪物にしてしまうさまを今回は描き出したかったのです。差別に端を発する話をつくる根底には、私自身の体験があります」 赤松さんは香川県の生まれで、その分野では世界的に著名な研究者を父に持つ。一見、差別が身近にある環境とは思えないのだが……。 語ってくれたのは、子ども時代の記憶だ。「小学生のころ私は、父の仕事の関係で米国ワシントン州に住んでいました。北西部で穏健な地域とはいえ、アジア人に対する人種差別がはっきりとありました。 小学校5年生のときです。仲良しの女の子がいて、いい雰囲気になってキスしようとしたら、直前で避けられた。その子いわく『気持ちは盛り上がってるのに、なんか嫌なの』。 また、所属していた野球チームで、練習時に小腹が空くのでランチボックスにリンゴを入れて持っていくと、意地悪なチームメートに取り上げられたことがあります。返せと追いかけ捕まえると、『日本人のリンゴなんか食べるかよ』と捨て台詞を吐きながらリンゴを地面に捨てられました。 こういうことは、米国にいるあいだにたくさん経験しました。所詮子どものやることと言われればそれまでですが、やられた側はいつまでも覚えているものです。 日本に帰る前、西海岸に立ち寄ってディズニーランドへ連れて行ってもらいました。アトラクションで一番感激したのは『イッツ・ア・スモールワールド』。乗り物に乗って、いろんな国の子どもたちが、それぞれの国の言葉で同じ歌を歌っている様子を見て回りますね。最後に広場へ出ると、全員が集合して大合唱を繰り広げている。ああ、この光景が理想のかたちだ。子どもながらに思いました。 アメリカで肌身に感じてきた現実とはかけ離れたものだったから、なおさら胸に沁みました」新卒で消費者金融に就職。送られたのは「地獄」だった 新作『救い難き人』でテーマに据えた「差別」に原点となる体験があったように、赤松利市作品のリアリティ溢れるエピソードや迫力ある描写は、作者自身の人生経験が色濃く反映しているようだ。 60歳を過ぎて文筆に専念するようになるまでの半生は、さてどんなものだったのか。ご本人に教えてもらおう。 世界トップクラスの実績を誇る研究者を父に持ち、少年時代を米国で過ごしたことは先述の通り。日本に戻った赤松青年は、進学校から関西大学へ進み、多ジャンルの本を読み漁る学生生活を送った。 就職は早々に関西を本拠とする大手百貨店の内定をとっていたが、これを辞退。当時業界として成長期にあった消費者金融大手へ入社する。「父がその企業の会長と懇意で、相談を受けたのだそうです。うちでも新卒採用を始めたところだ、息子を預けてくれないかと。私は大人たちの事情に従って、泣く泣く進路を変えました。 ですが、やるならとことんやってやろうと、すぐに気持ちを切り替えた。最初に赴任したのは小規模な奈良支店だったので、もっとバリバリ仕事をしたい、きついところへ行かせてくれと頼み込んだ。すると不良債権を膨大に抱え、内部で『地獄の岡山』と囁かれていた岡山支店へ転勤となりました。『地獄』でとにかく貸金回収に励んだところ、入社2年目で回収額全国トップとなり、社長賞をもらいました」 消費者金融の回収業務というハードな仕事で、入社2年目の新米がいきなりトップに立てるものなのか。貸したカネの回収方法「やり方から根本的に変えましたから。他の社員は皆、何キロも車を走らせて債務者に夜討ち朝駆けをかけ、千円単位の利子分だけ回収してくるといったことを熱心にやっていました。私の目には非効率の極みに映った。 本来ならこちらが取りに行くのではなく、お客様に振り込んでもらえるようにすべきです。そのためのしくみを考えればいい。そこでまずは、自分の担当するお客様全員と話し合う機会をいただき、こう持ちかけました。 素人のお客様が借りてプロのこちらが貸したのだから、返済が滞っている現状に対する責任は、読みが甘かったこちらにあります。ただし、貸した以上は返していただかねばならない。ここはお互い協力して生活再建を始めましょう、と。 同意いただけたお客様とは、いっしょに家計の貸借対照表をつくりました。昨日は何を食べましたか、それに使った卵はいくらでしたかと細かく聞き取り、表にまとめていく。ひと月分を細かく算出して、これなら最終的に5000円残りますね、その5000円をうちの返済に充ててくれませんか、とお願いするのです」 なるほどそこまですれば、相手も払わざるを得ない。「いえ実際には、そこまでやっても、たいていのお客様は振り込んできません。とはいえ腹を立てている場合じゃない。大事なのは、振り込まれなかった約束日に、こちらから先方へ出向くことです。そうしてこちらから謝る。 私、誠心誠意を込めてやったつもりでしたが、まだ足りなかったみたいです。もういっぺん最初から生活の見直しをやりましょう、お付き合いくださいますかと。 これを5回も繰り返せば、以降はきっちり決まった日に返済金が振り込まれるようになります。他の社員が夜討ち朝駆けしているときに、私は銀行通帳の数字だけチェックすればよくなったのです」貸す側と債務者。明日はどっちに転んでいるか分からない…… それにしても、よくぞそこまで独自のノウハウやシナリオを思い描けるものだ。どうやって思いつくのか。「貸す側と借りる側、取り立てる債権者と返済の義務を背負った債務者の双方の立場があって、私はそのときたまたま貸す側であり債権者の立場でしたけど、いつ座る椅子が入れ替わってもおかしくないぞとはよく思っていました。明日はどっちに転んでいるか、だれにもわからない、人間なんてそんなものじゃないですか。だから、立場に寄りかかった態度だけはとらないようにと発想していました」 若くして結果を出した赤松さんは、当然のごとく出世していく。「岡山支店から本社へ呼ばれ、総務部そして営業企画本部へ。会社が上場準備に入るのを機に、新しい営業マニュアルの作成を任されます。 これが大仕事でした。全社から選りすぐった5人を率いて、超人的に働いた。毎日、朝の4時か5時まで仕事をして、一杯ひっかけてからサウナで寝て、朝9時にはまた出社というのを半年間続けました。私以外の5人は全員途中でリタイヤし入院。最後の1人は夜中、私に襲いかかってきました。 マニュアルが完成したとき、プロジェクトチームで残っていたのは私だけという有り様でした」起業し従業員が100人以上に。訪れた“我が世の春” 特異な星の下に生まれついたのか、それともみずから嵐を呼び寄せているのか定かでないが、赤松さんの人生はさらに流転する。「マニュアルづくりを終えたあと、さすがに私も燃え尽き症候群になり、しばらく休みをもらいました。郷里の香川県へ帰り、釣り糸を垂らす日々を送ります。 釣り場の近くにゴルフ場があって、陽の光に照らされ輝く緑を眺めていたら、ガムシャラに働く現場へ戻る気が失せていった。ちょうど30歳を越えることだし、もう引退して余生を送ろうとその場で決心しました。 眼前にゴルフ場が広がっていたこともあって、これからは芝でも刈って暮らそうと思いました。家に戻って父に心境を打ち明けると、日本には傑出したゴルフ場コース管理者が5人いると教えられ、そのうちのひとりを紹介してもいいと言われました。父の専門は植物病理学で、各地のゴルフ場とのつながりもあったのです。 興味が湧いたのでゴルフ場管理の仕事を現場で学ばせてもらうことにしました。1ヶ月ほど見せてもらったところ、この業界も『自然が相手だから』というのを言い訳に非効率がまかり通っていると感じました。 ゴルフ場コース管理の仕事は、もっと数値化・定量化・効率化できる。そんな思いを頭の中で即ビジネスモデルとして構築し、自分で事業を始めることにしました。 会社を立ち上げ、全国のゴルフ場のコース管理を請け負うようになり、2年後には従業員が100人を超えるまでに成長しました。当時は我が世の春を満喫していましたね」 活動の場を変えても成功をつかむことができるのは、能力や器の大きさゆえか。ただし、良い状態が長く続かないのもまた、赤松さんの人生の特徴となっている。「仕事は順調だったものの、今度は家族に問題が起きました。中学生の娘が境界性人格障害と診断されたのです。目を離すと危険な行動に走る恐れがあるので、ずっと娘といっしょにいることにしました。 会社のことなど二の次になって放り投げていたら、あっさり崩壊した。『あんな社長いらないんじゃないか』と社員の反逆に遭って、私が切られてしまいました。 後悔の気持ちなどは湧きません。物理的に自分が娘についていなければいけないのだから、他に選択肢はありませんでした」反社にまざって南相馬市の除染作業に従事 仕事を失った赤松さんが、次に向かったのは東日本大震災の被災地だった。 ときは2011年の秋。復興作業が急ピッチでおこなわれていた時期であり、働き口には事欠かなかった。「石巻に行って土木作業員をやり、その後は南相馬に移って除染作業に従事します。そのほうが条件がよかったので。除染作業の現場はかなりアウトローな世界でした。他で職につけず流れてきた者が多いので、反社の人間も多かった。周りの従業員の何人かは全身に入れ墨が入っていました。 水田除染といって表土を剥ぎ取り入れ替える作業を請け負い、人集めから任されたんですが、思うように集まらないし、手配ができてもこちらの要求通りに動いてもらえなかったりで、まったくうまくいかない。私ら現場の者は、元請け、一次、二次と降りてくる重層の下請け構造のしわ寄せをすべて背負わされることもあって、すっかり嫌気が差しました。 ある日曜日、私は早朝に除染作業員宿舎を抜け出し、ひとりこっそり夜行バスで東京へ向かいました。怪しまれないように、荷物は丸ごと置いたままです」「バレたら逮捕です。すべて自己負担でどうぞ」 東京に着いたとき、赤松さんの所持金は5000円だった。住むところのアテなどなく、浅草の漫画喫茶に転がり込んだ。「働かなければ食うにも困るので、インターネットに出ている求人に片っ端から応募しました。ただ、たいていは年齢ではねられる。その時点で58歳でした。 それでも3件だけ、面接してくれるというところがありました。ひとつは新宿歌舞伎町にあるキャバクラの黒服の仕事。スーツを着てこいと言われたんですが、こちらは作業服しか持っていない。歌舞伎町で安くそろえられるからまずは買ってこいというので、ふざけるなと啖呵を切って連絡を断ちました。 ふたつめは、黙って荷物を運べばカネは支払うというもの。この上なく怪しいのに加えて、注意点があるという。バレたら逮捕される恐れがある、その場合当方は関知しないし補償もしない、すべて自己負担でどうぞとのこと。これもやめておきました。 みっつめは、おっパブ(風俗店)の呼び込み。最初は接客業と聞いてキャバクラかなと思ったら……店内が薄暗くて不自然に高いついたてが席ごとにある。それで、あぁ……そういうことかと思いました。でも1日10時間勤務で時給1000円、休憩なしですが、日当の半分は取っ払いでくれるというのでそこに決めました。1年以上働きましたね。ただし寝泊まりは漫画喫茶のまま。荷物が増えるのも嫌なので、住所不定の生活を続けていました」 そんな日々を送りながら、赤松さんは漫画喫茶で小説を書き上げ、2017年に『藻屑蟹』で第1回大藪春彦新人賞を受賞することとなる。「61歳になったとき、ふと思いました。このまま自分の人生は終わっちゃうのかなと。 もう一度、何かしてみようか。小説はどうだろう。それくらいしかできることもないし。そう考えて書き上げたものを見出していただけた。拾い上げてくれた編集者には、足を向けて寝られません」「人は誰でも一皮むけば救い難き人ですよ」 作家デビューを果たしたあと、堰を切ったように作品を発表し続けてきた。ただし先述の通り、今作には例外的に執筆に長い時間をかけた。自身の到達点を示したいとの思いが高まってのことだ。「この作品にすべてを注ぎ込んで書き上げたとはっきり言えます。自分の最高傑作です。 そういえば何ヶ月も改稿を重ねる過程で、タイトルも変えました。『救い難き人』という言葉を見つけられたことには、かなり満足しています。 そこにどんな意味を込めているのか、ですか? 救い難き人というのは、登場人物全員について当てはまりますね。まあ人はだれでも一皮剥けば、救い難き人ということなのかもしれません。 ただ『救い難き』ということは、救うのが難しいだけで、救いようはある。だれの人生だって救えるんだ、とは信じていたいものです」撮影 石川啓次/文藝春秋(山内 宏泰)
新刊『救い難き人』(徳間書店)を発売したばかりの彼に、60歳を過ぎてから作家デビューを果たしたワケ、そして栄光と苦悩にまみれた歩みを尋ねた。
◆◆◆
〈 身なりを整えてからロッカーに目を戻した。
その棚の奥に仕舞っていたモンを睨み付けた。
四つに畳んだ紙切れや。
お母ちゃんから貰った紙切れや。
『恨』の字が書かれた紙切れや。
(『救い難き人』より)〉
絵も音も動きも使わぬ文章表現だけで、これほどの迫力を打ち出せるものなのか。
読んでいるあいだ、そう感嘆しきりとなるのが、赤松利市さんによる最新小説『救い難き人』だ。
文藝春秋 撮影/石川啓次
主人公の朴マンスは14歳で母を亡くす。母親の命を奪ったのは、関西のとある地域でパチンコ王として君臨する、彼の父親だった。父への復讐を固く誓ったマンスは、先輩・井尻の手引きで父のパチンコ店に見習いとして潜り込む。巨大なパチンコ業界の表舞台と舞台裏の双方で、金と欲の魔力に取り憑かれた男たちの闘争が繰り広げられる……、というのがあらましである。
「今回は苦心しました。この7月に刊行と相なったんですが、それまでの1年以上をかけて、全面改稿を6度しています。
当初は三人称視点で、ある程度客観的な書き方をしていたのを、複数人物のあいだで話者が入れ替わっていくタイプの一人称視点語りに、ガラリと書き換えてもいます。一人ひとりの人間の内部で起きていることを、つぶさに表現したくなったので、そうするとどうしても根本から直すよりほかなかった」
これまでの作品とは、文体や文章の密度も異なる。
赤松利市さんは、2017年に62歳でデビューを果たした「遅咲き小説家」。その経緯は後述するが、これまでにものした作品群は、不器用かつハードに生きる男たちの姿を、アップテンポなストーリー展開で、スルスルと読ませる文体で書くのが特長だった。
一本釣り漁師たちが舞い込んだ儲け話に翻弄されていく『鯖』、障害を持つ娘を抱えた男が東日本大震災復興事業に一枚噛もうと試みる『ボダ子』、大阪を舞台にトランスジェンダーが躍動する『犬』……といった具合である。
今作も、人呼んで「最後の無頼派」らしい破天荒さは全開なれど、叙述のスタイルが短文を畳みかけるようになっており、読み味がこれまでよりゴツゴツとしていると感じさせる。
「以前は、どんどん浮かんでくる文章を脳内で組み立てておき、パソコンに向かったらそれを一気に外へ吐き出すといった書き方でした。原稿用紙20枚分くらいなら、脳内に書き溜めておいたものです。
だからずいぶん筆が早いと言われ、作品を量産できた。しかしそのやり方では、小説として頭打ちになると感じていた。抵抗なく読める文章より、もっと一文ずつが読者に響くものを目指そうと考えるようになりました」
それで今作では、脳内にとめどなく浮かぶ文章をそのままアウトプットするのではなく、溢れ出るものをまずは留めて呑み込み、それでも出てこようとするものを絞り出して書くこととした。
いったん書き上げたあとも、安易に流れ出た文章はないか一文ずつ見直す作業を繰り返し、優に原稿用紙100枚分以上の文章を削ぎ落とした。
小学校時代、アメリカで味わった差別の記憶 文章を磨き上げた効果もあってのことか。作中では主人公のマンスをはじめ、登場人物の存在感が際立っている。得体の知れない怪物たちがうごめき絡まり合っているような、迫力ある描写が続く。 また、作品が抱えるテーマもくっきりと浮かび上がる。「私の作品を貫くテーマは、貧困、差別、そして社会に翻弄される人間、となります。『救い難き人』の場合は『色』と『欲』が強く前に出ていますが、色や欲がどこから生じるかといえば、無定見な差別だったりします。出自や国籍による根深い差別が、人を怪物にしてしまうさまを今回は描き出したかったのです。差別に端を発する話をつくる根底には、私自身の体験があります」 赤松さんは香川県の生まれで、その分野では世界的に著名な研究者を父に持つ。一見、差別が身近にある環境とは思えないのだが……。 語ってくれたのは、子ども時代の記憶だ。「小学生のころ私は、父の仕事の関係で米国ワシントン州に住んでいました。北西部で穏健な地域とはいえ、アジア人に対する人種差別がはっきりとありました。 小学校5年生のときです。仲良しの女の子がいて、いい雰囲気になってキスしようとしたら、直前で避けられた。その子いわく『気持ちは盛り上がってるのに、なんか嫌なの』。 また、所属していた野球チームで、練習時に小腹が空くのでランチボックスにリンゴを入れて持っていくと、意地悪なチームメートに取り上げられたことがあります。返せと追いかけ捕まえると、『日本人のリンゴなんか食べるかよ』と捨て台詞を吐きながらリンゴを地面に捨てられました。 こういうことは、米国にいるあいだにたくさん経験しました。所詮子どものやることと言われればそれまでですが、やられた側はいつまでも覚えているものです。 日本に帰る前、西海岸に立ち寄ってディズニーランドへ連れて行ってもらいました。アトラクションで一番感激したのは『イッツ・ア・スモールワールド』。乗り物に乗って、いろんな国の子どもたちが、それぞれの国の言葉で同じ歌を歌っている様子を見て回りますね。最後に広場へ出ると、全員が集合して大合唱を繰り広げている。ああ、この光景が理想のかたちだ。子どもながらに思いました。 アメリカで肌身に感じてきた現実とはかけ離れたものだったから、なおさら胸に沁みました」新卒で消費者金融に就職。送られたのは「地獄」だった 新作『救い難き人』でテーマに据えた「差別」に原点となる体験があったように、赤松利市作品のリアリティ溢れるエピソードや迫力ある描写は、作者自身の人生経験が色濃く反映しているようだ。 60歳を過ぎて文筆に専念するようになるまでの半生は、さてどんなものだったのか。ご本人に教えてもらおう。 世界トップクラスの実績を誇る研究者を父に持ち、少年時代を米国で過ごしたことは先述の通り。日本に戻った赤松青年は、進学校から関西大学へ進み、多ジャンルの本を読み漁る学生生活を送った。 就職は早々に関西を本拠とする大手百貨店の内定をとっていたが、これを辞退。当時業界として成長期にあった消費者金融大手へ入社する。「父がその企業の会長と懇意で、相談を受けたのだそうです。うちでも新卒採用を始めたところだ、息子を預けてくれないかと。私は大人たちの事情に従って、泣く泣く進路を変えました。 ですが、やるならとことんやってやろうと、すぐに気持ちを切り替えた。最初に赴任したのは小規模な奈良支店だったので、もっとバリバリ仕事をしたい、きついところへ行かせてくれと頼み込んだ。すると不良債権を膨大に抱え、内部で『地獄の岡山』と囁かれていた岡山支店へ転勤となりました。『地獄』でとにかく貸金回収に励んだところ、入社2年目で回収額全国トップとなり、社長賞をもらいました」 消費者金融の回収業務というハードな仕事で、入社2年目の新米がいきなりトップに立てるものなのか。貸したカネの回収方法「やり方から根本的に変えましたから。他の社員は皆、何キロも車を走らせて債務者に夜討ち朝駆けをかけ、千円単位の利子分だけ回収してくるといったことを熱心にやっていました。私の目には非効率の極みに映った。 本来ならこちらが取りに行くのではなく、お客様に振り込んでもらえるようにすべきです。そのためのしくみを考えればいい。そこでまずは、自分の担当するお客様全員と話し合う機会をいただき、こう持ちかけました。 素人のお客様が借りてプロのこちらが貸したのだから、返済が滞っている現状に対する責任は、読みが甘かったこちらにあります。ただし、貸した以上は返していただかねばならない。ここはお互い協力して生活再建を始めましょう、と。 同意いただけたお客様とは、いっしょに家計の貸借対照表をつくりました。昨日は何を食べましたか、それに使った卵はいくらでしたかと細かく聞き取り、表にまとめていく。ひと月分を細かく算出して、これなら最終的に5000円残りますね、その5000円をうちの返済に充ててくれませんか、とお願いするのです」 なるほどそこまですれば、相手も払わざるを得ない。「いえ実際には、そこまでやっても、たいていのお客様は振り込んできません。とはいえ腹を立てている場合じゃない。大事なのは、振り込まれなかった約束日に、こちらから先方へ出向くことです。そうしてこちらから謝る。 私、誠心誠意を込めてやったつもりでしたが、まだ足りなかったみたいです。もういっぺん最初から生活の見直しをやりましょう、お付き合いくださいますかと。 これを5回も繰り返せば、以降はきっちり決まった日に返済金が振り込まれるようになります。他の社員が夜討ち朝駆けしているときに、私は銀行通帳の数字だけチェックすればよくなったのです」貸す側と債務者。明日はどっちに転んでいるか分からない…… それにしても、よくぞそこまで独自のノウハウやシナリオを思い描けるものだ。どうやって思いつくのか。「貸す側と借りる側、取り立てる債権者と返済の義務を背負った債務者の双方の立場があって、私はそのときたまたま貸す側であり債権者の立場でしたけど、いつ座る椅子が入れ替わってもおかしくないぞとはよく思っていました。明日はどっちに転んでいるか、だれにもわからない、人間なんてそんなものじゃないですか。だから、立場に寄りかかった態度だけはとらないようにと発想していました」 若くして結果を出した赤松さんは、当然のごとく出世していく。「岡山支店から本社へ呼ばれ、総務部そして営業企画本部へ。会社が上場準備に入るのを機に、新しい営業マニュアルの作成を任されます。 これが大仕事でした。全社から選りすぐった5人を率いて、超人的に働いた。毎日、朝の4時か5時まで仕事をして、一杯ひっかけてからサウナで寝て、朝9時にはまた出社というのを半年間続けました。私以外の5人は全員途中でリタイヤし入院。最後の1人は夜中、私に襲いかかってきました。 マニュアルが完成したとき、プロジェクトチームで残っていたのは私だけという有り様でした」起業し従業員が100人以上に。訪れた“我が世の春” 特異な星の下に生まれついたのか、それともみずから嵐を呼び寄せているのか定かでないが、赤松さんの人生はさらに流転する。「マニュアルづくりを終えたあと、さすがに私も燃え尽き症候群になり、しばらく休みをもらいました。郷里の香川県へ帰り、釣り糸を垂らす日々を送ります。 釣り場の近くにゴルフ場があって、陽の光に照らされ輝く緑を眺めていたら、ガムシャラに働く現場へ戻る気が失せていった。ちょうど30歳を越えることだし、もう引退して余生を送ろうとその場で決心しました。 眼前にゴルフ場が広がっていたこともあって、これからは芝でも刈って暮らそうと思いました。家に戻って父に心境を打ち明けると、日本には傑出したゴルフ場コース管理者が5人いると教えられ、そのうちのひとりを紹介してもいいと言われました。父の専門は植物病理学で、各地のゴルフ場とのつながりもあったのです。 興味が湧いたのでゴルフ場管理の仕事を現場で学ばせてもらうことにしました。1ヶ月ほど見せてもらったところ、この業界も『自然が相手だから』というのを言い訳に非効率がまかり通っていると感じました。 ゴルフ場コース管理の仕事は、もっと数値化・定量化・効率化できる。そんな思いを頭の中で即ビジネスモデルとして構築し、自分で事業を始めることにしました。 会社を立ち上げ、全国のゴルフ場のコース管理を請け負うようになり、2年後には従業員が100人を超えるまでに成長しました。当時は我が世の春を満喫していましたね」 活動の場を変えても成功をつかむことができるのは、能力や器の大きさゆえか。ただし、良い状態が長く続かないのもまた、赤松さんの人生の特徴となっている。「仕事は順調だったものの、今度は家族に問題が起きました。中学生の娘が境界性人格障害と診断されたのです。目を離すと危険な行動に走る恐れがあるので、ずっと娘といっしょにいることにしました。 会社のことなど二の次になって放り投げていたら、あっさり崩壊した。『あんな社長いらないんじゃないか』と社員の反逆に遭って、私が切られてしまいました。 後悔の気持ちなどは湧きません。物理的に自分が娘についていなければいけないのだから、他に選択肢はありませんでした」反社にまざって南相馬市の除染作業に従事 仕事を失った赤松さんが、次に向かったのは東日本大震災の被災地だった。 ときは2011年の秋。復興作業が急ピッチでおこなわれていた時期であり、働き口には事欠かなかった。「石巻に行って土木作業員をやり、その後は南相馬に移って除染作業に従事します。そのほうが条件がよかったので。除染作業の現場はかなりアウトローな世界でした。他で職につけず流れてきた者が多いので、反社の人間も多かった。周りの従業員の何人かは全身に入れ墨が入っていました。 水田除染といって表土を剥ぎ取り入れ替える作業を請け負い、人集めから任されたんですが、思うように集まらないし、手配ができてもこちらの要求通りに動いてもらえなかったりで、まったくうまくいかない。私ら現場の者は、元請け、一次、二次と降りてくる重層の下請け構造のしわ寄せをすべて背負わされることもあって、すっかり嫌気が差しました。 ある日曜日、私は早朝に除染作業員宿舎を抜け出し、ひとりこっそり夜行バスで東京へ向かいました。怪しまれないように、荷物は丸ごと置いたままです」「バレたら逮捕です。すべて自己負担でどうぞ」 東京に着いたとき、赤松さんの所持金は5000円だった。住むところのアテなどなく、浅草の漫画喫茶に転がり込んだ。「働かなければ食うにも困るので、インターネットに出ている求人に片っ端から応募しました。ただ、たいていは年齢ではねられる。その時点で58歳でした。 それでも3件だけ、面接してくれるというところがありました。ひとつは新宿歌舞伎町にあるキャバクラの黒服の仕事。スーツを着てこいと言われたんですが、こちらは作業服しか持っていない。歌舞伎町で安くそろえられるからまずは買ってこいというので、ふざけるなと啖呵を切って連絡を断ちました。 ふたつめは、黙って荷物を運べばカネは支払うというもの。この上なく怪しいのに加えて、注意点があるという。バレたら逮捕される恐れがある、その場合当方は関知しないし補償もしない、すべて自己負担でどうぞとのこと。これもやめておきました。 みっつめは、おっパブ(風俗店)の呼び込み。最初は接客業と聞いてキャバクラかなと思ったら……店内が薄暗くて不自然に高いついたてが席ごとにある。それで、あぁ……そういうことかと思いました。でも1日10時間勤務で時給1000円、休憩なしですが、日当の半分は取っ払いでくれるというのでそこに決めました。1年以上働きましたね。ただし寝泊まりは漫画喫茶のまま。荷物が増えるのも嫌なので、住所不定の生活を続けていました」 そんな日々を送りながら、赤松さんは漫画喫茶で小説を書き上げ、2017年に『藻屑蟹』で第1回大藪春彦新人賞を受賞することとなる。「61歳になったとき、ふと思いました。このまま自分の人生は終わっちゃうのかなと。 もう一度、何かしてみようか。小説はどうだろう。それくらいしかできることもないし。そう考えて書き上げたものを見出していただけた。拾い上げてくれた編集者には、足を向けて寝られません」「人は誰でも一皮むけば救い難き人ですよ」 作家デビューを果たしたあと、堰を切ったように作品を発表し続けてきた。ただし先述の通り、今作には例外的に執筆に長い時間をかけた。自身の到達点を示したいとの思いが高まってのことだ。「この作品にすべてを注ぎ込んで書き上げたとはっきり言えます。自分の最高傑作です。 そういえば何ヶ月も改稿を重ねる過程で、タイトルも変えました。『救い難き人』という言葉を見つけられたことには、かなり満足しています。 そこにどんな意味を込めているのか、ですか? 救い難き人というのは、登場人物全員について当てはまりますね。まあ人はだれでも一皮剥けば、救い難き人ということなのかもしれません。 ただ『救い難き』ということは、救うのが難しいだけで、救いようはある。だれの人生だって救えるんだ、とは信じていたいものです」撮影 石川啓次/文藝春秋(山内 宏泰)
文章を磨き上げた効果もあってのことか。作中では主人公のマンスをはじめ、登場人物の存在感が際立っている。得体の知れない怪物たちがうごめき絡まり合っているような、迫力ある描写が続く。
また、作品が抱えるテーマもくっきりと浮かび上がる。
「私の作品を貫くテーマは、貧困、差別、そして社会に翻弄される人間、となります。『救い難き人』の場合は『色』と『欲』が強く前に出ていますが、色や欲がどこから生じるかといえば、無定見な差別だったりします。出自や国籍による根深い差別が、人を怪物にしてしまうさまを今回は描き出したかったのです。差別に端を発する話をつくる根底には、私自身の体験があります」
赤松さんは香川県の生まれで、その分野では世界的に著名な研究者を父に持つ。一見、差別が身近にある環境とは思えないのだが……。
語ってくれたのは、子ども時代の記憶だ。
「小学生のころ私は、父の仕事の関係で米国ワシントン州に住んでいました。北西部で穏健な地域とはいえ、アジア人に対する人種差別がはっきりとありました。 小学校5年生のときです。仲良しの女の子がいて、いい雰囲気になってキスしようとしたら、直前で避けられた。その子いわく『気持ちは盛り上がってるのに、なんか嫌なの』。 また、所属していた野球チームで、練習時に小腹が空くのでランチボックスにリンゴを入れて持っていくと、意地悪なチームメートに取り上げられたことがあります。返せと追いかけ捕まえると、『日本人のリンゴなんか食べるかよ』と捨て台詞を吐きながらリンゴを地面に捨てられました。 こういうことは、米国にいるあいだにたくさん経験しました。所詮子どものやることと言われればそれまでですが、やられた側はいつまでも覚えているものです。 日本に帰る前、西海岸に立ち寄ってディズニーランドへ連れて行ってもらいました。アトラクションで一番感激したのは『イッツ・ア・スモールワールド』。乗り物に乗って、いろんな国の子どもたちが、それぞれの国の言葉で同じ歌を歌っている様子を見て回りますね。最後に広場へ出ると、全員が集合して大合唱を繰り広げている。ああ、この光景が理想のかたちだ。子どもながらに思いました。 アメリカで肌身に感じてきた現実とはかけ離れたものだったから、なおさら胸に沁みました」新卒で消費者金融に就職。送られたのは「地獄」だった 新作『救い難き人』でテーマに据えた「差別」に原点となる体験があったように、赤松利市作品のリアリティ溢れるエピソードや迫力ある描写は、作者自身の人生経験が色濃く反映しているようだ。 60歳を過ぎて文筆に専念するようになるまでの半生は、さてどんなものだったのか。ご本人に教えてもらおう。 世界トップクラスの実績を誇る研究者を父に持ち、少年時代を米国で過ごしたことは先述の通り。日本に戻った赤松青年は、進学校から関西大学へ進み、多ジャンルの本を読み漁る学生生活を送った。 就職は早々に関西を本拠とする大手百貨店の内定をとっていたが、これを辞退。当時業界として成長期にあった消費者金融大手へ入社する。「父がその企業の会長と懇意で、相談を受けたのだそうです。うちでも新卒採用を始めたところだ、息子を預けてくれないかと。私は大人たちの事情に従って、泣く泣く進路を変えました。 ですが、やるならとことんやってやろうと、すぐに気持ちを切り替えた。最初に赴任したのは小規模な奈良支店だったので、もっとバリバリ仕事をしたい、きついところへ行かせてくれと頼み込んだ。すると不良債権を膨大に抱え、内部で『地獄の岡山』と囁かれていた岡山支店へ転勤となりました。『地獄』でとにかく貸金回収に励んだところ、入社2年目で回収額全国トップとなり、社長賞をもらいました」 消費者金融の回収業務というハードな仕事で、入社2年目の新米がいきなりトップに立てるものなのか。貸したカネの回収方法「やり方から根本的に変えましたから。他の社員は皆、何キロも車を走らせて債務者に夜討ち朝駆けをかけ、千円単位の利子分だけ回収してくるといったことを熱心にやっていました。私の目には非効率の極みに映った。 本来ならこちらが取りに行くのではなく、お客様に振り込んでもらえるようにすべきです。そのためのしくみを考えればいい。そこでまずは、自分の担当するお客様全員と話し合う機会をいただき、こう持ちかけました。 素人のお客様が借りてプロのこちらが貸したのだから、返済が滞っている現状に対する責任は、読みが甘かったこちらにあります。ただし、貸した以上は返していただかねばならない。ここはお互い協力して生活再建を始めましょう、と。 同意いただけたお客様とは、いっしょに家計の貸借対照表をつくりました。昨日は何を食べましたか、それに使った卵はいくらでしたかと細かく聞き取り、表にまとめていく。ひと月分を細かく算出して、これなら最終的に5000円残りますね、その5000円をうちの返済に充ててくれませんか、とお願いするのです」 なるほどそこまですれば、相手も払わざるを得ない。「いえ実際には、そこまでやっても、たいていのお客様は振り込んできません。とはいえ腹を立てている場合じゃない。大事なのは、振り込まれなかった約束日に、こちらから先方へ出向くことです。そうしてこちらから謝る。 私、誠心誠意を込めてやったつもりでしたが、まだ足りなかったみたいです。もういっぺん最初から生活の見直しをやりましょう、お付き合いくださいますかと。 これを5回も繰り返せば、以降はきっちり決まった日に返済金が振り込まれるようになります。他の社員が夜討ち朝駆けしているときに、私は銀行通帳の数字だけチェックすればよくなったのです」貸す側と債務者。明日はどっちに転んでいるか分からない…… それにしても、よくぞそこまで独自のノウハウやシナリオを思い描けるものだ。どうやって思いつくのか。「貸す側と借りる側、取り立てる債権者と返済の義務を背負った債務者の双方の立場があって、私はそのときたまたま貸す側であり債権者の立場でしたけど、いつ座る椅子が入れ替わってもおかしくないぞとはよく思っていました。明日はどっちに転んでいるか、だれにもわからない、人間なんてそんなものじゃないですか。だから、立場に寄りかかった態度だけはとらないようにと発想していました」 若くして結果を出した赤松さんは、当然のごとく出世していく。「岡山支店から本社へ呼ばれ、総務部そして営業企画本部へ。会社が上場準備に入るのを機に、新しい営業マニュアルの作成を任されます。 これが大仕事でした。全社から選りすぐった5人を率いて、超人的に働いた。毎日、朝の4時か5時まで仕事をして、一杯ひっかけてからサウナで寝て、朝9時にはまた出社というのを半年間続けました。私以外の5人は全員途中でリタイヤし入院。最後の1人は夜中、私に襲いかかってきました。 マニュアルが完成したとき、プロジェクトチームで残っていたのは私だけという有り様でした」起業し従業員が100人以上に。訪れた“我が世の春” 特異な星の下に生まれついたのか、それともみずから嵐を呼び寄せているのか定かでないが、赤松さんの人生はさらに流転する。「マニュアルづくりを終えたあと、さすがに私も燃え尽き症候群になり、しばらく休みをもらいました。郷里の香川県へ帰り、釣り糸を垂らす日々を送ります。 釣り場の近くにゴルフ場があって、陽の光に照らされ輝く緑を眺めていたら、ガムシャラに働く現場へ戻る気が失せていった。ちょうど30歳を越えることだし、もう引退して余生を送ろうとその場で決心しました。 眼前にゴルフ場が広がっていたこともあって、これからは芝でも刈って暮らそうと思いました。家に戻って父に心境を打ち明けると、日本には傑出したゴルフ場コース管理者が5人いると教えられ、そのうちのひとりを紹介してもいいと言われました。父の専門は植物病理学で、各地のゴルフ場とのつながりもあったのです。 興味が湧いたのでゴルフ場管理の仕事を現場で学ばせてもらうことにしました。1ヶ月ほど見せてもらったところ、この業界も『自然が相手だから』というのを言い訳に非効率がまかり通っていると感じました。 ゴルフ場コース管理の仕事は、もっと数値化・定量化・効率化できる。そんな思いを頭の中で即ビジネスモデルとして構築し、自分で事業を始めることにしました。 会社を立ち上げ、全国のゴルフ場のコース管理を請け負うようになり、2年後には従業員が100人を超えるまでに成長しました。当時は我が世の春を満喫していましたね」 活動の場を変えても成功をつかむことができるのは、能力や器の大きさゆえか。ただし、良い状態が長く続かないのもまた、赤松さんの人生の特徴となっている。「仕事は順調だったものの、今度は家族に問題が起きました。中学生の娘が境界性人格障害と診断されたのです。目を離すと危険な行動に走る恐れがあるので、ずっと娘といっしょにいることにしました。 会社のことなど二の次になって放り投げていたら、あっさり崩壊した。『あんな社長いらないんじゃないか』と社員の反逆に遭って、私が切られてしまいました。 後悔の気持ちなどは湧きません。物理的に自分が娘についていなければいけないのだから、他に選択肢はありませんでした」反社にまざって南相馬市の除染作業に従事 仕事を失った赤松さんが、次に向かったのは東日本大震災の被災地だった。 ときは2011年の秋。復興作業が急ピッチでおこなわれていた時期であり、働き口には事欠かなかった。「石巻に行って土木作業員をやり、その後は南相馬に移って除染作業に従事します。そのほうが条件がよかったので。除染作業の現場はかなりアウトローな世界でした。他で職につけず流れてきた者が多いので、反社の人間も多かった。周りの従業員の何人かは全身に入れ墨が入っていました。 水田除染といって表土を剥ぎ取り入れ替える作業を請け負い、人集めから任されたんですが、思うように集まらないし、手配ができてもこちらの要求通りに動いてもらえなかったりで、まったくうまくいかない。私ら現場の者は、元請け、一次、二次と降りてくる重層の下請け構造のしわ寄せをすべて背負わされることもあって、すっかり嫌気が差しました。 ある日曜日、私は早朝に除染作業員宿舎を抜け出し、ひとりこっそり夜行バスで東京へ向かいました。怪しまれないように、荷物は丸ごと置いたままです」「バレたら逮捕です。すべて自己負担でどうぞ」 東京に着いたとき、赤松さんの所持金は5000円だった。住むところのアテなどなく、浅草の漫画喫茶に転がり込んだ。「働かなければ食うにも困るので、インターネットに出ている求人に片っ端から応募しました。ただ、たいていは年齢ではねられる。その時点で58歳でした。 それでも3件だけ、面接してくれるというところがありました。ひとつは新宿歌舞伎町にあるキャバクラの黒服の仕事。スーツを着てこいと言われたんですが、こちらは作業服しか持っていない。歌舞伎町で安くそろえられるからまずは買ってこいというので、ふざけるなと啖呵を切って連絡を断ちました。 ふたつめは、黙って荷物を運べばカネは支払うというもの。この上なく怪しいのに加えて、注意点があるという。バレたら逮捕される恐れがある、その場合当方は関知しないし補償もしない、すべて自己負担でどうぞとのこと。これもやめておきました。 みっつめは、おっパブ(風俗店)の呼び込み。最初は接客業と聞いてキャバクラかなと思ったら……店内が薄暗くて不自然に高いついたてが席ごとにある。それで、あぁ……そういうことかと思いました。でも1日10時間勤務で時給1000円、休憩なしですが、日当の半分は取っ払いでくれるというのでそこに決めました。1年以上働きましたね。ただし寝泊まりは漫画喫茶のまま。荷物が増えるのも嫌なので、住所不定の生活を続けていました」 そんな日々を送りながら、赤松さんは漫画喫茶で小説を書き上げ、2017年に『藻屑蟹』で第1回大藪春彦新人賞を受賞することとなる。「61歳になったとき、ふと思いました。このまま自分の人生は終わっちゃうのかなと。 もう一度、何かしてみようか。小説はどうだろう。それくらいしかできることもないし。そう考えて書き上げたものを見出していただけた。拾い上げてくれた編集者には、足を向けて寝られません」「人は誰でも一皮むけば救い難き人ですよ」 作家デビューを果たしたあと、堰を切ったように作品を発表し続けてきた。ただし先述の通り、今作には例外的に執筆に長い時間をかけた。自身の到達点を示したいとの思いが高まってのことだ。「この作品にすべてを注ぎ込んで書き上げたとはっきり言えます。自分の最高傑作です。 そういえば何ヶ月も改稿を重ねる過程で、タイトルも変えました。『救い難き人』という言葉を見つけられたことには、かなり満足しています。 そこにどんな意味を込めているのか、ですか? 救い難き人というのは、登場人物全員について当てはまりますね。まあ人はだれでも一皮剥けば、救い難き人ということなのかもしれません。 ただ『救い難き』ということは、救うのが難しいだけで、救いようはある。だれの人生だって救えるんだ、とは信じていたいものです」撮影 石川啓次/文藝春秋(山内 宏泰)
「小学生のころ私は、父の仕事の関係で米国ワシントン州に住んでいました。北西部で穏健な地域とはいえ、アジア人に対する人種差別がはっきりとありました。
小学校5年生のときです。仲良しの女の子がいて、いい雰囲気になってキスしようとしたら、直前で避けられた。その子いわく『気持ちは盛り上がってるのに、なんか嫌なの』。
また、所属していた野球チームで、練習時に小腹が空くのでランチボックスにリンゴを入れて持っていくと、意地悪なチームメートに取り上げられたことがあります。返せと追いかけ捕まえると、『日本人のリンゴなんか食べるかよ』と捨て台詞を吐きながらリンゴを地面に捨てられました。
こういうことは、米国にいるあいだにたくさん経験しました。所詮子どものやることと言われればそれまでですが、やられた側はいつまでも覚えているものです。
日本に帰る前、西海岸に立ち寄ってディズニーランドへ連れて行ってもらいました。アトラクションで一番感激したのは『イッツ・ア・スモールワールド』。乗り物に乗って、いろんな国の子どもたちが、それぞれの国の言葉で同じ歌を歌っている様子を見て回りますね。最後に広場へ出ると、全員が集合して大合唱を繰り広げている。ああ、この光景が理想のかたちだ。子どもながらに思いました。
アメリカで肌身に感じてきた現実とはかけ離れたものだったから、なおさら胸に沁みました」
新作『救い難き人』でテーマに据えた「差別」に原点となる体験があったように、赤松利市作品のリアリティ溢れるエピソードや迫力ある描写は、作者自身の人生経験が色濃く反映しているようだ。
60歳を過ぎて文筆に専念するようになるまでの半生は、さてどんなものだったのか。ご本人に教えてもらおう。
世界トップクラスの実績を誇る研究者を父に持ち、少年時代を米国で過ごしたことは先述の通り。日本に戻った赤松青年は、進学校から関西大学へ進み、多ジャンルの本を読み漁る学生生活を送った。 就職は早々に関西を本拠とする大手百貨店の内定をとっていたが、これを辞退。当時業界として成長期にあった消費者金融大手へ入社する。「父がその企業の会長と懇意で、相談を受けたのだそうです。うちでも新卒採用を始めたところだ、息子を預けてくれないかと。私は大人たちの事情に従って、泣く泣く進路を変えました。 ですが、やるならとことんやってやろうと、すぐに気持ちを切り替えた。最初に赴任したのは小規模な奈良支店だったので、もっとバリバリ仕事をしたい、きついところへ行かせてくれと頼み込んだ。すると不良債権を膨大に抱え、内部で『地獄の岡山』と囁かれていた岡山支店へ転勤となりました。『地獄』でとにかく貸金回収に励んだところ、入社2年目で回収額全国トップとなり、社長賞をもらいました」 消費者金融の回収業務というハードな仕事で、入社2年目の新米がいきなりトップに立てるものなのか。貸したカネの回収方法「やり方から根本的に変えましたから。他の社員は皆、何キロも車を走らせて債務者に夜討ち朝駆けをかけ、千円単位の利子分だけ回収してくるといったことを熱心にやっていました。私の目には非効率の極みに映った。 本来ならこちらが取りに行くのではなく、お客様に振り込んでもらえるようにすべきです。そのためのしくみを考えればいい。そこでまずは、自分の担当するお客様全員と話し合う機会をいただき、こう持ちかけました。 素人のお客様が借りてプロのこちらが貸したのだから、返済が滞っている現状に対する責任は、読みが甘かったこちらにあります。ただし、貸した以上は返していただかねばならない。ここはお互い協力して生活再建を始めましょう、と。 同意いただけたお客様とは、いっしょに家計の貸借対照表をつくりました。昨日は何を食べましたか、それに使った卵はいくらでしたかと細かく聞き取り、表にまとめていく。ひと月分を細かく算出して、これなら最終的に5000円残りますね、その5000円をうちの返済に充ててくれませんか、とお願いするのです」 なるほどそこまですれば、相手も払わざるを得ない。「いえ実際には、そこまでやっても、たいていのお客様は振り込んできません。とはいえ腹を立てている場合じゃない。大事なのは、振り込まれなかった約束日に、こちらから先方へ出向くことです。そうしてこちらから謝る。 私、誠心誠意を込めてやったつもりでしたが、まだ足りなかったみたいです。もういっぺん最初から生活の見直しをやりましょう、お付き合いくださいますかと。 これを5回も繰り返せば、以降はきっちり決まった日に返済金が振り込まれるようになります。他の社員が夜討ち朝駆けしているときに、私は銀行通帳の数字だけチェックすればよくなったのです」貸す側と債務者。明日はどっちに転んでいるか分からない…… それにしても、よくぞそこまで独自のノウハウやシナリオを思い描けるものだ。どうやって思いつくのか。「貸す側と借りる側、取り立てる債権者と返済の義務を背負った債務者の双方の立場があって、私はそのときたまたま貸す側であり債権者の立場でしたけど、いつ座る椅子が入れ替わってもおかしくないぞとはよく思っていました。明日はどっちに転んでいるか、だれにもわからない、人間なんてそんなものじゃないですか。だから、立場に寄りかかった態度だけはとらないようにと発想していました」 若くして結果を出した赤松さんは、当然のごとく出世していく。「岡山支店から本社へ呼ばれ、総務部そして営業企画本部へ。会社が上場準備に入るのを機に、新しい営業マニュアルの作成を任されます。 これが大仕事でした。全社から選りすぐった5人を率いて、超人的に働いた。毎日、朝の4時か5時まで仕事をして、一杯ひっかけてからサウナで寝て、朝9時にはまた出社というのを半年間続けました。私以外の5人は全員途中でリタイヤし入院。最後の1人は夜中、私に襲いかかってきました。 マニュアルが完成したとき、プロジェクトチームで残っていたのは私だけという有り様でした」起業し従業員が100人以上に。訪れた“我が世の春” 特異な星の下に生まれついたのか、それともみずから嵐を呼び寄せているのか定かでないが、赤松さんの人生はさらに流転する。「マニュアルづくりを終えたあと、さすがに私も燃え尽き症候群になり、しばらく休みをもらいました。郷里の香川県へ帰り、釣り糸を垂らす日々を送ります。 釣り場の近くにゴルフ場があって、陽の光に照らされ輝く緑を眺めていたら、ガムシャラに働く現場へ戻る気が失せていった。ちょうど30歳を越えることだし、もう引退して余生を送ろうとその場で決心しました。 眼前にゴルフ場が広がっていたこともあって、これからは芝でも刈って暮らそうと思いました。家に戻って父に心境を打ち明けると、日本には傑出したゴルフ場コース管理者が5人いると教えられ、そのうちのひとりを紹介してもいいと言われました。父の専門は植物病理学で、各地のゴルフ場とのつながりもあったのです。 興味が湧いたのでゴルフ場管理の仕事を現場で学ばせてもらうことにしました。1ヶ月ほど見せてもらったところ、この業界も『自然が相手だから』というのを言い訳に非効率がまかり通っていると感じました。 ゴルフ場コース管理の仕事は、もっと数値化・定量化・効率化できる。そんな思いを頭の中で即ビジネスモデルとして構築し、自分で事業を始めることにしました。 会社を立ち上げ、全国のゴルフ場のコース管理を請け負うようになり、2年後には従業員が100人を超えるまでに成長しました。当時は我が世の春を満喫していましたね」 活動の場を変えても成功をつかむことができるのは、能力や器の大きさゆえか。ただし、良い状態が長く続かないのもまた、赤松さんの人生の特徴となっている。「仕事は順調だったものの、今度は家族に問題が起きました。中学生の娘が境界性人格障害と診断されたのです。目を離すと危険な行動に走る恐れがあるので、ずっと娘といっしょにいることにしました。 会社のことなど二の次になって放り投げていたら、あっさり崩壊した。『あんな社長いらないんじゃないか』と社員の反逆に遭って、私が切られてしまいました。 後悔の気持ちなどは湧きません。物理的に自分が娘についていなければいけないのだから、他に選択肢はありませんでした」反社にまざって南相馬市の除染作業に従事 仕事を失った赤松さんが、次に向かったのは東日本大震災の被災地だった。 ときは2011年の秋。復興作業が急ピッチでおこなわれていた時期であり、働き口には事欠かなかった。「石巻に行って土木作業員をやり、その後は南相馬に移って除染作業に従事します。そのほうが条件がよかったので。除染作業の現場はかなりアウトローな世界でした。他で職につけず流れてきた者が多いので、反社の人間も多かった。周りの従業員の何人かは全身に入れ墨が入っていました。 水田除染といって表土を剥ぎ取り入れ替える作業を請け負い、人集めから任されたんですが、思うように集まらないし、手配ができてもこちらの要求通りに動いてもらえなかったりで、まったくうまくいかない。私ら現場の者は、元請け、一次、二次と降りてくる重層の下請け構造のしわ寄せをすべて背負わされることもあって、すっかり嫌気が差しました。 ある日曜日、私は早朝に除染作業員宿舎を抜け出し、ひとりこっそり夜行バスで東京へ向かいました。怪しまれないように、荷物は丸ごと置いたままです」「バレたら逮捕です。すべて自己負担でどうぞ」 東京に着いたとき、赤松さんの所持金は5000円だった。住むところのアテなどなく、浅草の漫画喫茶に転がり込んだ。「働かなければ食うにも困るので、インターネットに出ている求人に片っ端から応募しました。ただ、たいていは年齢ではねられる。その時点で58歳でした。 それでも3件だけ、面接してくれるというところがありました。ひとつは新宿歌舞伎町にあるキャバクラの黒服の仕事。スーツを着てこいと言われたんですが、こちらは作業服しか持っていない。歌舞伎町で安くそろえられるからまずは買ってこいというので、ふざけるなと啖呵を切って連絡を断ちました。 ふたつめは、黙って荷物を運べばカネは支払うというもの。この上なく怪しいのに加えて、注意点があるという。バレたら逮捕される恐れがある、その場合当方は関知しないし補償もしない、すべて自己負担でどうぞとのこと。これもやめておきました。 みっつめは、おっパブ(風俗店)の呼び込み。最初は接客業と聞いてキャバクラかなと思ったら……店内が薄暗くて不自然に高いついたてが席ごとにある。それで、あぁ……そういうことかと思いました。でも1日10時間勤務で時給1000円、休憩なしですが、日当の半分は取っ払いでくれるというのでそこに決めました。1年以上働きましたね。ただし寝泊まりは漫画喫茶のまま。荷物が増えるのも嫌なので、住所不定の生活を続けていました」 そんな日々を送りながら、赤松さんは漫画喫茶で小説を書き上げ、2017年に『藻屑蟹』で第1回大藪春彦新人賞を受賞することとなる。「61歳になったとき、ふと思いました。このまま自分の人生は終わっちゃうのかなと。 もう一度、何かしてみようか。小説はどうだろう。それくらいしかできることもないし。そう考えて書き上げたものを見出していただけた。拾い上げてくれた編集者には、足を向けて寝られません」「人は誰でも一皮むけば救い難き人ですよ」 作家デビューを果たしたあと、堰を切ったように作品を発表し続けてきた。ただし先述の通り、今作には例外的に執筆に長い時間をかけた。自身の到達点を示したいとの思いが高まってのことだ。「この作品にすべてを注ぎ込んで書き上げたとはっきり言えます。自分の最高傑作です。 そういえば何ヶ月も改稿を重ねる過程で、タイトルも変えました。『救い難き人』という言葉を見つけられたことには、かなり満足しています。 そこにどんな意味を込めているのか、ですか? 救い難き人というのは、登場人物全員について当てはまりますね。まあ人はだれでも一皮剥けば、救い難き人ということなのかもしれません。 ただ『救い難き』ということは、救うのが難しいだけで、救いようはある。だれの人生だって救えるんだ、とは信じていたいものです」撮影 石川啓次/文藝春秋(山内 宏泰)
世界トップクラスの実績を誇る研究者を父に持ち、少年時代を米国で過ごしたことは先述の通り。日本に戻った赤松青年は、進学校から関西大学へ進み、多ジャンルの本を読み漁る学生生活を送った。
就職は早々に関西を本拠とする大手百貨店の内定をとっていたが、これを辞退。当時業界として成長期にあった消費者金融大手へ入社する。
「父がその企業の会長と懇意で、相談を受けたのだそうです。うちでも新卒採用を始めたところだ、息子を預けてくれないかと。私は大人たちの事情に従って、泣く泣く進路を変えました。
ですが、やるならとことんやってやろうと、すぐに気持ちを切り替えた。最初に赴任したのは小規模な奈良支店だったので、もっとバリバリ仕事をしたい、きついところへ行かせてくれと頼み込んだ。すると不良債権を膨大に抱え、内部で『地獄の岡山』と囁かれていた岡山支店へ転勤となりました。
『地獄』でとにかく貸金回収に励んだところ、入社2年目で回収額全国トップとなり、社長賞をもらいました」
消費者金融の回収業務というハードな仕事で、入社2年目の新米がいきなりトップに立てるものなのか。
「やり方から根本的に変えましたから。他の社員は皆、何キロも車を走らせて債務者に夜討ち朝駆けをかけ、千円単位の利子分だけ回収してくるといったことを熱心にやっていました。私の目には非効率の極みに映った。
本来ならこちらが取りに行くのではなく、お客様に振り込んでもらえるようにすべきです。そのためのしくみを考えればいい。そこでまずは、自分の担当するお客様全員と話し合う機会をいただき、こう持ちかけました。
素人のお客様が借りてプロのこちらが貸したのだから、返済が滞っている現状に対する責任は、読みが甘かったこちらにあります。ただし、貸した以上は返していただかねばならない。ここはお互い協力して生活再建を始めましょう、と。
同意いただけたお客様とは、いっしょに家計の貸借対照表をつくりました。昨日は何を食べましたか、それに使った卵はいくらでしたかと細かく聞き取り、表にまとめていく。ひと月分を細かく算出して、これなら最終的に5000円残りますね、その5000円をうちの返済に充ててくれませんか、とお願いするのです」
なるほどそこまですれば、相手も払わざるを得ない。
「いえ実際には、そこまでやっても、たいていのお客様は振り込んできません。とはいえ腹を立てている場合じゃない。大事なのは、振り込まれなかった約束日に、こちらから先方へ出向くことです。そうしてこちらから謝る。
私、誠心誠意を込めてやったつもりでしたが、まだ足りなかったみたいです。もういっぺん最初から生活の見直しをやりましょう、お付き合いくださいますかと。
これを5回も繰り返せば、以降はきっちり決まった日に返済金が振り込まれるようになります。他の社員が夜討ち朝駆けしているときに、私は銀行通帳の数字だけチェックすればよくなったのです」
それにしても、よくぞそこまで独自のノウハウやシナリオを思い描けるものだ。どうやって思いつくのか。
「貸す側と借りる側、取り立てる債権者と返済の義務を背負った債務者の双方の立場があって、私はそのときたまたま貸す側であり債権者の立場でしたけど、いつ座る椅子が入れ替わってもおかしくないぞとはよく思っていました。明日はどっちに転んでいるか、だれにもわからない、人間なんてそんなものじゃないですか。だから、立場に寄りかかった態度だけはとらないようにと発想していました」
若くして結果を出した赤松さんは、当然のごとく出世していく。
「岡山支店から本社へ呼ばれ、総務部そして営業企画本部へ。会社が上場準備に入るのを機に、新しい営業マニュアルの作成を任されます。
これが大仕事でした。全社から選りすぐった5人を率いて、超人的に働いた。毎日、朝の4時か5時まで仕事をして、一杯ひっかけてからサウナで寝て、朝9時にはまた出社というのを半年間続けました。私以外の5人は全員途中でリタイヤし入院。最後の1人は夜中、私に襲いかかってきました。
マニュアルが完成したとき、プロジェクトチームで残っていたのは私だけという有り様でした」
起業し従業員が100人以上に。訪れた“我が世の春” 特異な星の下に生まれついたのか、それともみずから嵐を呼び寄せているのか定かでないが、赤松さんの人生はさらに流転する。「マニュアルづくりを終えたあと、さすがに私も燃え尽き症候群になり、しばらく休みをもらいました。郷里の香川県へ帰り、釣り糸を垂らす日々を送ります。 釣り場の近くにゴルフ場があって、陽の光に照らされ輝く緑を眺めていたら、ガムシャラに働く現場へ戻る気が失せていった。ちょうど30歳を越えることだし、もう引退して余生を送ろうとその場で決心しました。 眼前にゴルフ場が広がっていたこともあって、これからは芝でも刈って暮らそうと思いました。家に戻って父に心境を打ち明けると、日本には傑出したゴルフ場コース管理者が5人いると教えられ、そのうちのひとりを紹介してもいいと言われました。父の専門は植物病理学で、各地のゴルフ場とのつながりもあったのです。 興味が湧いたのでゴルフ場管理の仕事を現場で学ばせてもらうことにしました。1ヶ月ほど見せてもらったところ、この業界も『自然が相手だから』というのを言い訳に非効率がまかり通っていると感じました。 ゴルフ場コース管理の仕事は、もっと数値化・定量化・効率化できる。そんな思いを頭の中で即ビジネスモデルとして構築し、自分で事業を始めることにしました。 会社を立ち上げ、全国のゴルフ場のコース管理を請け負うようになり、2年後には従業員が100人を超えるまでに成長しました。当時は我が世の春を満喫していましたね」 活動の場を変えても成功をつかむことができるのは、能力や器の大きさゆえか。ただし、良い状態が長く続かないのもまた、赤松さんの人生の特徴となっている。「仕事は順調だったものの、今度は家族に問題が起きました。中学生の娘が境界性人格障害と診断されたのです。目を離すと危険な行動に走る恐れがあるので、ずっと娘といっしょにいることにしました。 会社のことなど二の次になって放り投げていたら、あっさり崩壊した。『あんな社長いらないんじゃないか』と社員の反逆に遭って、私が切られてしまいました。 後悔の気持ちなどは湧きません。物理的に自分が娘についていなければいけないのだから、他に選択肢はありませんでした」反社にまざって南相馬市の除染作業に従事 仕事を失った赤松さんが、次に向かったのは東日本大震災の被災地だった。 ときは2011年の秋。復興作業が急ピッチでおこなわれていた時期であり、働き口には事欠かなかった。「石巻に行って土木作業員をやり、その後は南相馬に移って除染作業に従事します。そのほうが条件がよかったので。除染作業の現場はかなりアウトローな世界でした。他で職につけず流れてきた者が多いので、反社の人間も多かった。周りの従業員の何人かは全身に入れ墨が入っていました。 水田除染といって表土を剥ぎ取り入れ替える作業を請け負い、人集めから任されたんですが、思うように集まらないし、手配ができてもこちらの要求通りに動いてもらえなかったりで、まったくうまくいかない。私ら現場の者は、元請け、一次、二次と降りてくる重層の下請け構造のしわ寄せをすべて背負わされることもあって、すっかり嫌気が差しました。 ある日曜日、私は早朝に除染作業員宿舎を抜け出し、ひとりこっそり夜行バスで東京へ向かいました。怪しまれないように、荷物は丸ごと置いたままです」「バレたら逮捕です。すべて自己負担でどうぞ」 東京に着いたとき、赤松さんの所持金は5000円だった。住むところのアテなどなく、浅草の漫画喫茶に転がり込んだ。「働かなければ食うにも困るので、インターネットに出ている求人に片っ端から応募しました。ただ、たいていは年齢ではねられる。その時点で58歳でした。 それでも3件だけ、面接してくれるというところがありました。ひとつは新宿歌舞伎町にあるキャバクラの黒服の仕事。スーツを着てこいと言われたんですが、こちらは作業服しか持っていない。歌舞伎町で安くそろえられるからまずは買ってこいというので、ふざけるなと啖呵を切って連絡を断ちました。 ふたつめは、黙って荷物を運べばカネは支払うというもの。この上なく怪しいのに加えて、注意点があるという。バレたら逮捕される恐れがある、その場合当方は関知しないし補償もしない、すべて自己負担でどうぞとのこと。これもやめておきました。 みっつめは、おっパブ(風俗店)の呼び込み。最初は接客業と聞いてキャバクラかなと思ったら……店内が薄暗くて不自然に高いついたてが席ごとにある。それで、あぁ……そういうことかと思いました。でも1日10時間勤務で時給1000円、休憩なしですが、日当の半分は取っ払いでくれるというのでそこに決めました。1年以上働きましたね。ただし寝泊まりは漫画喫茶のまま。荷物が増えるのも嫌なので、住所不定の生活を続けていました」 そんな日々を送りながら、赤松さんは漫画喫茶で小説を書き上げ、2017年に『藻屑蟹』で第1回大藪春彦新人賞を受賞することとなる。「61歳になったとき、ふと思いました。このまま自分の人生は終わっちゃうのかなと。 もう一度、何かしてみようか。小説はどうだろう。それくらいしかできることもないし。そう考えて書き上げたものを見出していただけた。拾い上げてくれた編集者には、足を向けて寝られません」「人は誰でも一皮むけば救い難き人ですよ」 作家デビューを果たしたあと、堰を切ったように作品を発表し続けてきた。ただし先述の通り、今作には例外的に執筆に長い時間をかけた。自身の到達点を示したいとの思いが高まってのことだ。「この作品にすべてを注ぎ込んで書き上げたとはっきり言えます。自分の最高傑作です。 そういえば何ヶ月も改稿を重ねる過程で、タイトルも変えました。『救い難き人』という言葉を見つけられたことには、かなり満足しています。 そこにどんな意味を込めているのか、ですか? 救い難き人というのは、登場人物全員について当てはまりますね。まあ人はだれでも一皮剥けば、救い難き人ということなのかもしれません。 ただ『救い難き』ということは、救うのが難しいだけで、救いようはある。だれの人生だって救えるんだ、とは信じていたいものです」撮影 石川啓次/文藝春秋(山内 宏泰)
特異な星の下に生まれついたのか、それともみずから嵐を呼び寄せているのか定かでないが、赤松さんの人生はさらに流転する。
「マニュアルづくりを終えたあと、さすがに私も燃え尽き症候群になり、しばらく休みをもらいました。郷里の香川県へ帰り、釣り糸を垂らす日々を送ります。
釣り場の近くにゴルフ場があって、陽の光に照らされ輝く緑を眺めていたら、ガムシャラに働く現場へ戻る気が失せていった。ちょうど30歳を越えることだし、もう引退して余生を送ろうとその場で決心しました。
眼前にゴルフ場が広がっていたこともあって、これからは芝でも刈って暮らそうと思いました。家に戻って父に心境を打ち明けると、日本には傑出したゴルフ場コース管理者が5人いると教えられ、そのうちのひとりを紹介してもいいと言われました。父の専門は植物病理学で、各地のゴルフ場とのつながりもあったのです。
興味が湧いたのでゴルフ場管理の仕事を現場で学ばせてもらうことにしました。1ヶ月ほど見せてもらったところ、この業界も『自然が相手だから』というのを言い訳に非効率がまかり通っていると感じました。
ゴルフ場コース管理の仕事は、もっと数値化・定量化・効率化できる。そんな思いを頭の中で即ビジネスモデルとして構築し、自分で事業を始めることにしました。
会社を立ち上げ、全国のゴルフ場のコース管理を請け負うようになり、2年後には従業員が100人を超えるまでに成長しました。当時は我が世の春を満喫していましたね」
活動の場を変えても成功をつかむことができるのは、能力や器の大きさゆえか。ただし、良い状態が長く続かないのもまた、赤松さんの人生の特徴となっている。「仕事は順調だったものの、今度は家族に問題が起きました。中学生の娘が境界性人格障害と診断されたのです。目を離すと危険な行動に走る恐れがあるので、ずっと娘といっしょにいることにしました。 会社のことなど二の次になって放り投げていたら、あっさり崩壊した。『あんな社長いらないんじゃないか』と社員の反逆に遭って、私が切られてしまいました。 後悔の気持ちなどは湧きません。物理的に自分が娘についていなければいけないのだから、他に選択肢はありませんでした」反社にまざって南相馬市の除染作業に従事 仕事を失った赤松さんが、次に向かったのは東日本大震災の被災地だった。 ときは2011年の秋。復興作業が急ピッチでおこなわれていた時期であり、働き口には事欠かなかった。「石巻に行って土木作業員をやり、その後は南相馬に移って除染作業に従事します。そのほうが条件がよかったので。除染作業の現場はかなりアウトローな世界でした。他で職につけず流れてきた者が多いので、反社の人間も多かった。周りの従業員の何人かは全身に入れ墨が入っていました。 水田除染といって表土を剥ぎ取り入れ替える作業を請け負い、人集めから任されたんですが、思うように集まらないし、手配ができてもこちらの要求通りに動いてもらえなかったりで、まったくうまくいかない。私ら現場の者は、元請け、一次、二次と降りてくる重層の下請け構造のしわ寄せをすべて背負わされることもあって、すっかり嫌気が差しました。 ある日曜日、私は早朝に除染作業員宿舎を抜け出し、ひとりこっそり夜行バスで東京へ向かいました。怪しまれないように、荷物は丸ごと置いたままです」「バレたら逮捕です。すべて自己負担でどうぞ」 東京に着いたとき、赤松さんの所持金は5000円だった。住むところのアテなどなく、浅草の漫画喫茶に転がり込んだ。「働かなければ食うにも困るので、インターネットに出ている求人に片っ端から応募しました。ただ、たいていは年齢ではねられる。その時点で58歳でした。 それでも3件だけ、面接してくれるというところがありました。ひとつは新宿歌舞伎町にあるキャバクラの黒服の仕事。スーツを着てこいと言われたんですが、こちらは作業服しか持っていない。歌舞伎町で安くそろえられるからまずは買ってこいというので、ふざけるなと啖呵を切って連絡を断ちました。 ふたつめは、黙って荷物を運べばカネは支払うというもの。この上なく怪しいのに加えて、注意点があるという。バレたら逮捕される恐れがある、その場合当方は関知しないし補償もしない、すべて自己負担でどうぞとのこと。これもやめておきました。 みっつめは、おっパブ(風俗店)の呼び込み。最初は接客業と聞いてキャバクラかなと思ったら……店内が薄暗くて不自然に高いついたてが席ごとにある。それで、あぁ……そういうことかと思いました。でも1日10時間勤務で時給1000円、休憩なしですが、日当の半分は取っ払いでくれるというのでそこに決めました。1年以上働きましたね。ただし寝泊まりは漫画喫茶のまま。荷物が増えるのも嫌なので、住所不定の生活を続けていました」 そんな日々を送りながら、赤松さんは漫画喫茶で小説を書き上げ、2017年に『藻屑蟹』で第1回大藪春彦新人賞を受賞することとなる。「61歳になったとき、ふと思いました。このまま自分の人生は終わっちゃうのかなと。 もう一度、何かしてみようか。小説はどうだろう。それくらいしかできることもないし。そう考えて書き上げたものを見出していただけた。拾い上げてくれた編集者には、足を向けて寝られません」「人は誰でも一皮むけば救い難き人ですよ」 作家デビューを果たしたあと、堰を切ったように作品を発表し続けてきた。ただし先述の通り、今作には例外的に執筆に長い時間をかけた。自身の到達点を示したいとの思いが高まってのことだ。「この作品にすべてを注ぎ込んで書き上げたとはっきり言えます。自分の最高傑作です。 そういえば何ヶ月も改稿を重ねる過程で、タイトルも変えました。『救い難き人』という言葉を見つけられたことには、かなり満足しています。 そこにどんな意味を込めているのか、ですか? 救い難き人というのは、登場人物全員について当てはまりますね。まあ人はだれでも一皮剥けば、救い難き人ということなのかもしれません。 ただ『救い難き』ということは、救うのが難しいだけで、救いようはある。だれの人生だって救えるんだ、とは信じていたいものです」撮影 石川啓次/文藝春秋(山内 宏泰)
活動の場を変えても成功をつかむことができるのは、能力や器の大きさゆえか。ただし、良い状態が長く続かないのもまた、赤松さんの人生の特徴となっている。
「仕事は順調だったものの、今度は家族に問題が起きました。中学生の娘が境界性人格障害と診断されたのです。目を離すと危険な行動に走る恐れがあるので、ずっと娘といっしょにいることにしました。
会社のことなど二の次になって放り投げていたら、あっさり崩壊した。『あんな社長いらないんじゃないか』と社員の反逆に遭って、私が切られてしまいました。
後悔の気持ちなどは湧きません。物理的に自分が娘についていなければいけないのだから、他に選択肢はありませんでした」
反社にまざって南相馬市の除染作業に従事 仕事を失った赤松さんが、次に向かったのは東日本大震災の被災地だった。 ときは2011年の秋。復興作業が急ピッチでおこなわれていた時期であり、働き口には事欠かなかった。「石巻に行って土木作業員をやり、その後は南相馬に移って除染作業に従事します。そのほうが条件がよかったので。除染作業の現場はかなりアウトローな世界でした。他で職につけず流れてきた者が多いので、反社の人間も多かった。周りの従業員の何人かは全身に入れ墨が入っていました。 水田除染といって表土を剥ぎ取り入れ替える作業を請け負い、人集めから任されたんですが、思うように集まらないし、手配ができてもこちらの要求通りに動いてもらえなかったりで、まったくうまくいかない。私ら現場の者は、元請け、一次、二次と降りてくる重層の下請け構造のしわ寄せをすべて背負わされることもあって、すっかり嫌気が差しました。 ある日曜日、私は早朝に除染作業員宿舎を抜け出し、ひとりこっそり夜行バスで東京へ向かいました。怪しまれないように、荷物は丸ごと置いたままです」「バレたら逮捕です。すべて自己負担でどうぞ」 東京に着いたとき、赤松さんの所持金は5000円だった。住むところのアテなどなく、浅草の漫画喫茶に転がり込んだ。「働かなければ食うにも困るので、インターネットに出ている求人に片っ端から応募しました。ただ、たいていは年齢ではねられる。その時点で58歳でした。 それでも3件だけ、面接してくれるというところがありました。ひとつは新宿歌舞伎町にあるキャバクラの黒服の仕事。スーツを着てこいと言われたんですが、こちらは作業服しか持っていない。歌舞伎町で安くそろえられるからまずは買ってこいというので、ふざけるなと啖呵を切って連絡を断ちました。 ふたつめは、黙って荷物を運べばカネは支払うというもの。この上なく怪しいのに加えて、注意点があるという。バレたら逮捕される恐れがある、その場合当方は関知しないし補償もしない、すべて自己負担でどうぞとのこと。これもやめておきました。 みっつめは、おっパブ(風俗店)の呼び込み。最初は接客業と聞いてキャバクラかなと思ったら……店内が薄暗くて不自然に高いついたてが席ごとにある。それで、あぁ……そういうことかと思いました。でも1日10時間勤務で時給1000円、休憩なしですが、日当の半分は取っ払いでくれるというのでそこに決めました。1年以上働きましたね。ただし寝泊まりは漫画喫茶のまま。荷物が増えるのも嫌なので、住所不定の生活を続けていました」 そんな日々を送りながら、赤松さんは漫画喫茶で小説を書き上げ、2017年に『藻屑蟹』で第1回大藪春彦新人賞を受賞することとなる。「61歳になったとき、ふと思いました。このまま自分の人生は終わっちゃうのかなと。 もう一度、何かしてみようか。小説はどうだろう。それくらいしかできることもないし。そう考えて書き上げたものを見出していただけた。拾い上げてくれた編集者には、足を向けて寝られません」「人は誰でも一皮むけば救い難き人ですよ」 作家デビューを果たしたあと、堰を切ったように作品を発表し続けてきた。ただし先述の通り、今作には例外的に執筆に長い時間をかけた。自身の到達点を示したいとの思いが高まってのことだ。「この作品にすべてを注ぎ込んで書き上げたとはっきり言えます。自分の最高傑作です。 そういえば何ヶ月も改稿を重ねる過程で、タイトルも変えました。『救い難き人』という言葉を見つけられたことには、かなり満足しています。 そこにどんな意味を込めているのか、ですか? 救い難き人というのは、登場人物全員について当てはまりますね。まあ人はだれでも一皮剥けば、救い難き人ということなのかもしれません。 ただ『救い難き』ということは、救うのが難しいだけで、救いようはある。だれの人生だって救えるんだ、とは信じていたいものです」撮影 石川啓次/文藝春秋(山内 宏泰)
仕事を失った赤松さんが、次に向かったのは東日本大震災の被災地だった。
ときは2011年の秋。復興作業が急ピッチでおこなわれていた時期であり、働き口には事欠かなかった。
「石巻に行って土木作業員をやり、その後は南相馬に移って除染作業に従事します。そのほうが条件がよかったので。除染作業の現場はかなりアウトローな世界でした。他で職につけず流れてきた者が多いので、反社の人間も多かった。周りの従業員の何人かは全身に入れ墨が入っていました。
水田除染といって表土を剥ぎ取り入れ替える作業を請け負い、人集めから任されたんですが、思うように集まらないし、手配ができてもこちらの要求通りに動いてもらえなかったりで、まったくうまくいかない。私ら現場の者は、元請け、一次、二次と降りてくる重層の下請け構造のしわ寄せをすべて背負わされることもあって、すっかり嫌気が差しました。
ある日曜日、私は早朝に除染作業員宿舎を抜け出し、ひとりこっそり夜行バスで東京へ向かいました。怪しまれないように、荷物は丸ごと置いたままです」
東京に着いたとき、赤松さんの所持金は5000円だった。住むところのアテなどなく、浅草の漫画喫茶に転がり込んだ。
「働かなければ食うにも困るので、インターネットに出ている求人に片っ端から応募しました。ただ、たいていは年齢ではねられる。その時点で58歳でした。
それでも3件だけ、面接してくれるというところがありました。ひとつは新宿歌舞伎町にあるキャバクラの黒服の仕事。スーツを着てこいと言われたんですが、こちらは作業服しか持っていない。歌舞伎町で安くそろえられるからまずは買ってこいというので、ふざけるなと啖呵を切って連絡を断ちました。
ふたつめは、黙って荷物を運べばカネは支払うというもの。この上なく怪しいのに加えて、注意点があるという。バレたら逮捕される恐れがある、その場合当方は関知しないし補償もしない、すべて自己負担でどうぞとのこと。これもやめておきました。
みっつめは、おっパブ(風俗店)の呼び込み。最初は接客業と聞いてキャバクラかなと思ったら……店内が薄暗くて不自然に高いついたてが席ごとにある。それで、あぁ……そういうことかと思いました。でも1日10時間勤務で時給1000円、休憩なしですが、日当の半分は取っ払いでくれるというのでそこに決めました。1年以上働きましたね。ただし寝泊まりは漫画喫茶のまま。荷物が増えるのも嫌なので、住所不定の生活を続けていました」
そんな日々を送りながら、赤松さんは漫画喫茶で小説を書き上げ、2017年に『藻屑蟹』で第1回大藪春彦新人賞を受賞することとなる。「61歳になったとき、ふと思いました。このまま自分の人生は終わっちゃうのかなと。 もう一度、何かしてみようか。小説はどうだろう。それくらいしかできることもないし。そう考えて書き上げたものを見出していただけた。拾い上げてくれた編集者には、足を向けて寝られません」「人は誰でも一皮むけば救い難き人ですよ」 作家デビューを果たしたあと、堰を切ったように作品を発表し続けてきた。ただし先述の通り、今作には例外的に執筆に長い時間をかけた。自身の到達点を示したいとの思いが高まってのことだ。「この作品にすべてを注ぎ込んで書き上げたとはっきり言えます。自分の最高傑作です。 そういえば何ヶ月も改稿を重ねる過程で、タイトルも変えました。『救い難き人』という言葉を見つけられたことには、かなり満足しています。 そこにどんな意味を込めているのか、ですか? 救い難き人というのは、登場人物全員について当てはまりますね。まあ人はだれでも一皮剥けば、救い難き人ということなのかもしれません。 ただ『救い難き』ということは、救うのが難しいだけで、救いようはある。だれの人生だって救えるんだ、とは信じていたいものです」撮影 石川啓次/文藝春秋(山内 宏泰)
そんな日々を送りながら、赤松さんは漫画喫茶で小説を書き上げ、2017年に『藻屑蟹』で第1回大藪春彦新人賞を受賞することとなる。
「61歳になったとき、ふと思いました。このまま自分の人生は終わっちゃうのかなと。
もう一度、何かしてみようか。小説はどうだろう。それくらいしかできることもないし。そう考えて書き上げたものを見出していただけた。拾い上げてくれた編集者には、足を向けて寝られません」
作家デビューを果たしたあと、堰を切ったように作品を発表し続けてきた。ただし先述の通り、今作には例外的に執筆に長い時間をかけた。自身の到達点を示したいとの思いが高まってのことだ。
「この作品にすべてを注ぎ込んで書き上げたとはっきり言えます。自分の最高傑作です。
そういえば何ヶ月も改稿を重ねる過程で、タイトルも変えました。『救い難き人』という言葉を見つけられたことには、かなり満足しています。
そこにどんな意味を込めているのか、ですか? 救い難き人というのは、登場人物全員について当てはまりますね。まあ人はだれでも一皮剥けば、救い難き人ということなのかもしれません。
ただ『救い難き』ということは、救うのが難しいだけで、救いようはある。だれの人生だって救えるんだ、とは信じていたいものです」
撮影 石川啓次/文藝春秋(山内 宏泰)
(山内 宏泰)

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