東京23区の「危ない土地」も地名を見ればわかる…全国に点在する「水害地名」に使われている漢字の共通点

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※本稿は、谷川彰英『全国水害地名をゆく』(インターナショナル新書)の一部を再編集したものです。
池袋は今や東京でも指折りの大繁華街に発展しているが、それは水害地名の「池袋」に関連しているのか、その謎を解明する。
「袋」地名は全国に分布するが、その大半は土地の形状、つまり「地形」に由来する。全国の多くの都市にある「袋町」という町名は町筋が袋小路風になっていることにちなむが、「袋田」(福島県須賀川市・茨城県久慈郡大子町)、「袋原」(宮城県仙台市太白区)などのように、多くは地形が袋状になっていることによるものが圧倒的に多い。
中でもその「袋」に「池」や「沼」がつく所は低湿地帯で、水害時には水がたまる危険地帯である。「沼袋」は東京都中野区の「沼袋」以外にも岩手県下閉伊郡田野畑村に「沼袋」、岩手県滝沢市に「大釡沼袋」がある。「川」にちなんだ地名としては、宮城県大崎市に「鳴子温泉川袋」、鳥取県鳥取市に「袋河原」などがある。
さて、肝心の「池袋」である。現在の池袋駅とその周辺の繁華街には「袋状の池」などどこにも見当たらない。しかし、確かに「池袋」は存在したのである。そのミステリーを探ってみよう。
池袋駅の東口(実は北口といった方が近い)に「いけふくろう」なる石像が設置されたのは1987(昭和62)年のことである。それまで「国鉄」と呼ばれていたのを「JR」と改称したのを記念して建てられたものである。「梟」の形をしているが、それはただの語呂合わせに過ぎない。その像の後ろに次のようにある。
「池袋」という地名の由来は袋のような盆地の窪地に多くの沼地があった。このような地形の印象から「池袋」というようになったのではないだろうかと言われている。この表現そのものは間違っているとは言えない。問題はその「沼地」がどこにあったかである。
池袋駅近くにはもう一つ「池袋」地名に関するモニュメントがある。西口を出て左手にあるホテルメトロポリタンの前に「元池袋史跡公園」という小さな広場がある。そこに「池袋地名のゆかりの池」という碑が立っている。その脇に「東京都豊島区教育委員会」の名でこう説明されている。
むかしこのあたりに多くの池があり、池袋の地名は、その池からおこったとも伝えられている。池には清らかな水が湧き、あふれて川となった。この流れはいつのころから弦巻川とよばれ、雑司が谷村の用水として利用された。池はしだいに埋まり、水も涸れて今はその形をとどめていない。これは、むかしをしのぶよすがとして池を復元したものである。
この説明によれば、この一帯に多くの池があり、それが由来となって「池袋」という地名ができたことになる。しかし、これは到底受け入れがたい説である。なぜなら、現在の池袋駅周辺は東京23区の中でも最も高い地点にあり、標高33メートルの高台であり、そこに多くの池があったとは到底考えられないからである。
高台であるにもかかわらず「池袋」という地名がついた謎を解く鍵は、昔の「池袋村」は現在の池袋駅周辺ではなく、ずっと北に行った地点にあったことにある。幕末に書かれた『新編武蔵(むさし)風土記稿』には「池袋村 池袋村は地高して東北の方のみ水田あり、其辺地窪にして地形袋の如くなれば村名起りしならん」とあり、さらに次のようにある。
戸数は129、東は新田「堀之内村」、西は「中丸村」、南は「雑司ヶ谷村」。南東は「巣鴨村」と少し接し、北は「金井久保村」に接している。東西は五町(約550メートル)、南北十三町(約1400メートル余り)。
つまり、「池袋村」は南北に長い村で、その位置は現在の池袋駅界隈ではなく、北に2、3キロほど行った所にあった。もうちょっと行けば中山道につながる位置だった。現在の町名で言えば「池袋本町三丁目」に「池袋氷川神社」がある。その神社一帯は地形が窪地になっており、かつては「袋状の池」であったことを推測させる。
現在の池袋駅周辺は「袋状の池」には無縁で、従って水害を被るエリアではなかった。水害を被る可能性を持っていたのは旧池袋村周辺であった。
現在の池袋駅周辺が「池袋」と名付けられるきっかけになったのは、1902(明治35)年、この地に鉄道の信号所が開設されることになり、その名を近隣の有力な「池袋村」からとって「池袋信号所」と名付けたことによる。そして翌1903(明治36)年、信号所が駅に昇格して「池袋駅」となり、今日の繁栄へとつながっていく。
水害地名の「池袋」という地名を負った背景にはこんな歴史が隠されていた。
もし地名に文法みたいなものがあるとすれば、この「落合」ほどその地名の文法にかなったものはない。「落合」という地名はまず間違いなく、川と川が合流する地点を指している。つまり川と川が「落ち合う」地点を意味している。現在川が存在していなくても、地形を見ればそのような形になっていることが多い。それほどに、「落合」という地名は文法に忠実だと言える。
「落合」という地名は東日本に多いが、北は北海道から南は九州まで至る所に分布する。日本列島の特色として、いかに川と川が合流して海に向かって流れているかがわかるというもの。関東に限定しても、茨城県筑西市、栃木県那須烏山市、同下都賀郡壬生町、埼玉県飯能市、東京都多摩市、神奈川県秦野市に「落合」という地名が存在する。
この「落合」という地名がつけられた場所は当然のことながら、水害に見舞われる可能性が極めて高い。2つの河川の水が落ち合うわけだから、水量は倍になって溢れることになる。大きな河川に小規模の支流が流れ込んで水が溢れた例も多い。2019(令和元)年10月の台風19号で大きな被害を出した宮城県丸森町などはその典型である。
実は東京のど真ん中にも「落合」がある。西武新宿線で高田馬場駅を出ると次は下落合駅である。山手線でいうと高田馬場駅と目白駅を結ぶ線から西一帯が「落合」というエリアである。町名でいうと新宿区「上落合」「中落合」「下落合」「西落合」ということになる。
ここの「落合」は江戸時代から存在していた地名で、神田川と妙正寺川が合流した地点につけられた地名である。神田川は徳川家康が江戸に入府した際、水不足に悩む江戸のために井之頭池から水を引いたものだが、この地点で妙正寺川と合流して神田方面へ流れていったのである。
高田馬場駅から神田川方面に向かう小路は「さかえ通り」と呼ばれる飲み屋街だ。この小路は昔からほとんど変わっていない。
その飲み屋街を通り抜けると、道は神田川を越えることになる。その橋を「田島橋」と呼んでいる。現在はコンクリートの橋だが、この橋はすでに江戸時代に架けられていたことが確認されている。現在その橋のたもとは東京富士大学という私立大学のキャンパスになっている。
そこから上流に向かって行くと一つ目の橋が「宮田橋」で、その次が「落合橋」である。この落合橋のやや上流あたりが、神田川と妙正寺川が合流していた地点である。現在は流路変更により妙正寺川は暗渠(高田馬場分水路)に入り、新目白通りの地下を流れて神田川に合流しているが、両河川が落ち合っていたのは、間違いなくこの落合橋の付近であった。
この神田川の流域の「市街化率」(宅地に占める建物敷地の割合)は97パーセント(2009年度)で、全国トップと言われる。簡単に言えば、流域のほとんどが建物で覆われ、降った雨の大部分が神田川に流れ込むということになる。神田川に代表される都市河川はコンクリートで固められているため、逃げ場のない水は容易に護岸を越えて浸水の被害を引き起こす。
とりわけ妙正寺川は昔からしばしば水害を起こしてきたことで有名だ。近年では2005(平成17)年9月、台風14号によって時間雨量100ミリを超える降雨によって浸水の被害を引き起こしている。そのような事情を鑑みて、東京都では早くから妙正寺川に「調節池」の建設を進めてきた。
仏教哲学者井上円了によって精神修養の場として造られた哲学堂公園に沿って「妙正寺川第一調節池」「第二調節池」があり、少し下って「上高田調節池」、そして「落合公園」の下には「落合調節池」が整備されている。これらをまとめて「妙正寺川調節池群」と呼んでいる。
調節池は溢れた川の水を一時的に貯留して水害を防ぐものだが、第二調節池は深さ23メートル、最大で10万立方メートルの水を貯めることができるという。これは小中学校の25メートルプール270個分に相当すると言われている。
落合公園の地下には上部下部の二段構造の調節池が造られており、上部だけで5000立方メートルの水を貯めることができるという。この調節池のお陰で、2019(令和元)年10月の台風19号の豪雨にもかかわらず、神田川水系は水害をまぬかれた。神田川・妙正寺川の流域は新宿区のハザードマップでも危険地帯になってはいるが、昔から情緒溢れる地域でもあった。
———-谷川 彰英(たにかわ・あきひで)筑波大学名誉教授、元副学長地名作家。1945年、長野県松本市生まれ。千葉大学助教授を経て筑波大学教授。柳田国男研究で博士(教育学)の学位を取得。筑波大学退職後は地名作家として全国各地を歩き、多数の地名本を出版。2019年、難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断されるも執筆を継続。主な著書に『京都 地名の由来を歩く』(ベスト新書、2002年)に始まる「地名の由来を歩く」シリーズ(全7冊)などがある。———-
(筑波大学名誉教授、元副学長 谷川 彰英)

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