「収入減でマイホームを売らざるをえなくなった28歳正社員」は、「昭和世代の親たち」に比べて何がいけなかったのか

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かつて「一億総中流社会」と言われた日本の「中流」が危機に瀕している。日本の経済成長を支えた中間層は、バブル崩壊から30年がたったいま、驚くほど貧しくなった。「中流」の象徴と考えられてきた「正社員」も、その暮らしぶりは「安泰」とは程遠い。「中流」の暮らしはもはや幻なのか……。建設会社に正社員として勤める松井さん(28歳・男性)は、収入の激減により、3000万円の住宅ローンで建てた夢のマイホームを築4年で売る決断をした。

松井さん一家のその後を追った。【本記事は、NHKスペシャル取材班『中流危機』(8月23日発売)から抜粋・編集したものです。】3人の子育てをする妻の「葛藤」自宅を引き渡す日が決まり、ゆかりさんは引っ越しの準備を始めていた。引っ越し先はまだ探している最中だったが、住宅ローンの残債もあるなか、支出は抑えなければならない。次の賃貸住宅は、いまよりかなり狭くなることを見越し、荷物を大幅に減らさなければならなかった。ゆかりさんが捨てるものと残すものを仕分けていると、5歳の長女が何かを訴え始めた。「ダメダメ、ダメこれは」お気に入りだというジャングルジムのおもちゃにのぼり、「これは捨ててほしくない」ことを、必死に母親に伝えていたのだ。ゆかりさんは困った顔をした。今回の引っ越しに伴うことだけでなく、これから子どもたちが成長するに連れても、我慢をさせてしまうかもしれない。そのことに、ゆかりさんは不安を抱いていた。「これから小学生になって、習い事したいとか言われたらどうしようって。好きなことはやらせてあげたいし、あんまり我慢させちゃうのもなって思うし。ここからが勝負ですね」ゆかりさんは、母親としての葛藤を抱えていた。実は、住宅ローンの支払いが難しくなった背景には、出産と育児でゆかりさんの収入が途絶えたことも影響していた。マイホームを購入したときは、ゆかりさんはパートタイムで働き、「扶養の範囲内」である年収130万円まで稼いで、家計の「足し」にしてきた。その後、妊娠が判明。望んでいた第三子だった。出産と育児の間ゆかりさんの収入は途絶え、家計の「足し」どころか、康介さんの減収分を補うこともできなくなってしまったのだ。イメージ画像(Gettyimages)出産後、ゆかりさんはなるべく早く仕事に復帰しようと、長男が6ヵ月になった頃から、再びパートタイムとして働き始めた。しかし3人の子育てと仕事の両立は、簡単ではないという。突然子どもが熱を出すことは、日常茶飯事。さらにコロナ禍で幼稚園の休園も発生し、思うように働くことができない日々が続いていた。住まいを手放さなくて済む方法はなかったのか、自宅の売却が決まってからも、ゆかりさんは葛藤しているようだった。「悔しいですよね。もうちょっと何かできたんじゃないかなって思ったけど、めちゃめちゃ働けるわけじゃないし、子育てもしているし。働けたと思っても、やっぱり子どもの幼稚園の早退とかあると、思うようにいかないから。なんかもう、もどかしい」「親たちって、ほんとにすごいな」康介さんとゆかりさんにインタビューをしているとき、印象に残る言葉があった。「家を持つのは、大変なんだなって勉強しました、ほんとに親たちがすごいなって思うもんね、今になって。子育てしながら家もちゃんと持っててさ、すごいなって」康介さんもゆかりさんも、いつか自分の家を持つことは、さほど遠くない夢だったという。親世代は、50代の夫婦にあたる世代だ。28歳と25歳の2人からみると、親世代は、余裕はなくても、なんとか住宅ローンを返し、子どもが望む教育を受けさせることができていた、とみえているのだった。イメージ画像(GettyImages)康介さんとゆかりさんは、収入が下がったことが「想定外」だったとはいえ、家を手放さざるをえなくなったことについては「自分たちが計画不足で甘かったです」と、自分たちの責任として受け止めていた。共感の声が続々「夢すら見られない状況がおかしい」一方で、今回の松井さん家族の状況について『NHKスペシャル』で放送したところ、ツイッターの投稿には、「この夫婦に『考えが甘い』って言うのは簡単だけど、夢すら見られない今の状況がおかしいよ」「今の時代に残業代抜きの給料で住宅ローンが組めるんか?と思う」「20代が辛い思いをしているのは、やるせないな。そしてその影響は子どもたちにも」「若い夫婦がせっかく手に入れた家を売って賃貸住宅に引っ越しする。見ていて辛い。真面目に働く国民がこのような状況になっていることに心が痛む」といった、共感の声があがっていた。イメージ画像(GettyImages)たしかに、本人たちが言うように夫婦に「計画の甘さ」があったのかもしれないが、分不相応の高い買い物をしたわけではない。親世代の「中流家庭」であれば、子どもを産み、マイホームを建てることは、「手の届くところにある夢」だったことだ。しかしそれから25年が経ち、いまの若者たちは、そもそも「夢すら見られない」という現実に直面していた。「賃金の右肩上がり」を一度も実感できない若者世代にとって、将来を見据えながら人生設計を立てることは、一層難しくなっていると感じた。平凡な暮らしでいい9月末、『NHKスペシャル』の放送から約2週間後、康介さんたちは新しいアパートに引っ越していた。新居を訪ねると「新たなスタートという気持ちで、頑張っていますよ」と、笑顔で迎え入れてくれた。家賃は6万円ほどで、これまでと比べるとだいぶ部屋数も減り、3人育てるには少し手狭のようにもみえたが、「僕たちの身の丈に合っていますよね」と康介さんは答えた。2ヵ月前に出会ったときには生後9ヵ月で、立つ練習をしていた長男は、母親のゆかりさんをめがけて、すたすたと歩けるまでに成長していた。イメージ画像(GettyImages)これからどんな風に生活していきたいか、二人に尋ねるとゆかりさんと康介さんは、それぞれこう答えた。「平凡な暮らしでよいよね。家族仲良く、笑顔で元気に、普通に暮らせたらそれでいい」「あとは娘たちに嫌われなきゃいいかな、『パパ大好き』でいてほしいな(笑)。不安はある、不安はあるけど、やるしかないよね」子どもたちが成人するまでは、夫婦で工夫しながら頑張っていきたい。先の見えない不安があるなかでも前を向いて一歩一歩、二人は進もうとしていた。2023年現在岸田政権は、若い世代の所得を増やすことや、すべての子ども・子育て世帯を切れ目なく支援することを掲げ、政策を進めていくと表明している。具体的な政策として、一定の年収を超えると扶養を外れる、いわゆる「年収の壁」について制度を見直すことや、多子世帯などに配慮した住宅ローンの金利負担軽減策などを検討する方針を打ち出した。もしこれらの支援制度がすでに整っていれば、松井さん家族は家を手放さなくて済む方法もあったのではないかと、頭をよぎることがある。現場の声に耳を傾け、必要な人たちに必要な支援が速やかに届くことを願う。「正社員になれない」「自家用車を持てない」「持ち家に住めない」……「中流」の生活はもはや「高嶺の花」になった日本。なぜ日本の中流階層は急激に貧しくなってしまったのか? 国、企業、労働者は何ができるのか?NHKスペシャル取材班『中流危機』(8月23日発売)は、全国の中間層の現実を徹底取材し、その処方箋を探ります。
かつて「一億総中流社会」と言われた日本の「中流」が危機に瀕している。
日本の経済成長を支えた中間層は、バブル崩壊から30年がたったいま、驚くほど貧しくなった。
「中流」の象徴と考えられてきた「正社員」も、その暮らしぶりは「安泰」とは程遠い。「中流」の暮らしはもはや幻なのか……。
建設会社に正社員として勤める松井さん(28歳・男性)は、収入の激減により、3000万円の住宅ローンで建てた夢のマイホームを築4年で売る決断をした。
松井さん一家のその後を追った。
【本記事は、NHKスペシャル取材班『中流危機』(8月23日発売)から抜粋・編集したものです。】
自宅を引き渡す日が決まり、ゆかりさんは引っ越しの準備を始めていた。引っ越し先はまだ探している最中だったが、住宅ローンの残債もあるなか、支出は抑えなければならない。次の賃貸住宅は、いまよりかなり狭くなることを見越し、荷物を大幅に減らさなければならなかった。ゆかりさんが捨てるものと残すものを仕分けていると、5歳の長女が何かを訴え始めた。
「ダメダメ、ダメこれは」
お気に入りだというジャングルジムのおもちゃにのぼり、「これは捨ててほしくない」ことを、必死に母親に伝えていたのだ。ゆかりさんは困った顔をした。
今回の引っ越しに伴うことだけでなく、これから子どもたちが成長するに連れても、我慢をさせてしまうかもしれない。そのことに、ゆかりさんは不安を抱いていた。
「これから小学生になって、習い事したいとか言われたらどうしようって。好きなことはやらせてあげたいし、あんまり我慢させちゃうのもなって思うし。ここからが勝負ですね」
ゆかりさんは、母親としての葛藤を抱えていた。実は、住宅ローンの支払いが難しくなった背景には、出産と育児でゆかりさんの収入が途絶えたことも影響していた。
マイホームを購入したときは、ゆかりさんはパートタイムで働き、「扶養の範囲内」である年収130万円まで稼いで、家計の「足し」にしてきた。その後、妊娠が判明。望んでいた第三子だった。出産と育児の間ゆかりさんの収入は途絶え、家計の「足し」どころか、康介さんの減収分を補うこともできなくなってしまったのだ。
イメージ画像(Gettyimages)
出産後、ゆかりさんはなるべく早く仕事に復帰しようと、長男が6ヵ月になった頃から、再びパートタイムとして働き始めた。しかし3人の子育てと仕事の両立は、簡単ではないという。
突然子どもが熱を出すことは、日常茶飯事。さらにコロナ禍で幼稚園の休園も発生し、思うように働くことができない日々が続いていた。住まいを手放さなくて済む方法はなかったのか、自宅の売却が決まってからも、ゆかりさんは葛藤しているようだった。
「悔しいですよね。もうちょっと何かできたんじゃないかなって思ったけど、めちゃめちゃ働けるわけじゃないし、子育てもしているし。働けたと思っても、やっぱり子どもの幼稚園の早退とかあると、思うようにいかないから。なんかもう、もどかしい」
康介さんとゆかりさんにインタビューをしているとき、印象に残る言葉があった。
「家を持つのは、大変なんだなって勉強しました、ほんとに親たちがすごいなって思うもんね、今になって。子育てしながら家もちゃんと持っててさ、すごいなって」
康介さんもゆかりさんも、いつか自分の家を持つことは、さほど遠くない夢だったという。親世代は、50代の夫婦にあたる世代だ。28歳と25歳の2人からみると、親世代は、余裕はなくても、なんとか住宅ローンを返し、子どもが望む教育を受けさせることができていた、とみえているのだった。
イメージ画像(GettyImages)
康介さんとゆかりさんは、収入が下がったことが「想定外」だったとはいえ、家を手放さざるをえなくなったことについては「自分たちが計画不足で甘かったです」と、自分たちの責任として受け止めていた。
一方で、今回の松井さん家族の状況について『NHKスペシャル』で放送したところ、ツイッターの投稿には、
「この夫婦に『考えが甘い』って言うのは簡単だけど、夢すら見られない今の状況がおかしいよ」
「今の時代に残業代抜きの給料で住宅ローンが組めるんか?と思う」
「20代が辛い思いをしているのは、やるせないな。そしてその影響は子どもたちにも」
「若い夫婦がせっかく手に入れた家を売って賃貸住宅に引っ越しする。見ていて辛い。真面目に働く国民がこのような状況になっていることに心が痛む」
といった、共感の声があがっていた。
イメージ画像(GettyImages)
たしかに、本人たちが言うように夫婦に「計画の甘さ」があったのかもしれないが、分不相応の高い買い物をしたわけではない。親世代の「中流家庭」であれば、子どもを産み、マイホームを建てることは、「手の届くところにある夢」だったことだ。
しかしそれから25年が経ち、いまの若者たちは、そもそも「夢すら見られない」という現実に直面していた。「賃金の右肩上がり」を一度も実感できない若者世代にとって、将来を見据えながら人生設計を立てることは、一層難しくなっていると感じた。
9月末、『NHKスペシャル』の放送から約2週間後、康介さんたちは新しいアパートに引っ越していた。新居を訪ねると「新たなスタートという気持ちで、頑張っていますよ」と、笑顔で迎え入れてくれた。
家賃は6万円ほどで、これまでと比べるとだいぶ部屋数も減り、3人育てるには少し手狭のようにもみえたが、「僕たちの身の丈に合っていますよね」と康介さんは答えた。2ヵ月前に出会ったときには生後9ヵ月で、立つ練習をしていた長男は、母親のゆかりさんをめがけて、すたすたと歩けるまでに成長していた。
イメージ画像(GettyImages)
これからどんな風に生活していきたいか、二人に尋ねるとゆかりさんと康介さんは、それぞれこう答えた。
「平凡な暮らしでよいよね。家族仲良く、笑顔で元気に、普通に暮らせたらそれでいい」
「あとは娘たちに嫌われなきゃいいかな、『パパ大好き』でいてほしいな(笑)。不安はある、不安はあるけど、やるしかないよね」
子どもたちが成人するまでは、夫婦で工夫しながら頑張っていきたい。先の見えない不安があるなかでも前を向いて一歩一歩、二人は進もうとしていた。
2023年現在岸田政権は、若い世代の所得を増やすことや、すべての子ども・子育て世帯を切れ目なく支援することを掲げ、政策を進めていくと表明している。具体的な政策として、一定の年収を超えると扶養を外れる、いわゆる「年収の壁」について制度を見直すことや、多子世帯などに配慮した住宅ローンの金利負担軽減策などを検討する方針を打ち出した。
もしこれらの支援制度がすでに整っていれば、松井さん家族は家を手放さなくて済む方法もあったのではないかと、頭をよぎることがある。現場の声に耳を傾け、必要な人たちに必要な支援が速やかに届くことを願う。
「正社員になれない」「自家用車を持てない」「持ち家に住めない」
なぜ日本の中流階層は急激に貧しくなってしまったのか? 国、企業、労働者は何ができるのか?
NHKスペシャル取材班『中流危機』(8月23日発売)は、全国の中間層の現実を徹底取材し、その処方箋を探ります。

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