「みんなが東大コースで勉強する隣でシャブを吸ってた」予備校のトイレで覚醒剤を初体験…東大を目指し上京した浪人生が、シャブ中になるまで

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

東大を目指す予備校生だったものの覚醒剤と出会い、ヤクザの道に進んだ末に逮捕。その後、一念発起して司法試験に挑み、弁護士になった諸橋仁智氏(46)。
【画像】大学3年生で背中に刺青、若い衆に…怖いと評判のヤクザ弁護士の素顔を見る
そんな彼に、成績優秀だった少年時代、予備校のトイレで覚醒剤を初体験した際の強烈な記憶、勉強よりも密売に精を出した浪人時代などについて、話を聞いた。(全3回の1回目/続きを読む)
諸橋仁智氏
◆◆◆
――まず、どんなご家庭で育ったのか気になります。ご実家は、なにか家業を営んでいたのでしょうか?
諸橋仁智(以下、諸橋) 福島県いわき市で製麺業をやってました。もともといわき市ではすごく大きい商家で、曽祖父が本家から離れた際に製麺業を始めて、3代ぐらい続いたのかな。
両親と僕の3人家族。実家は僕の母の家で、父は婿養子でした。なので、母が商売を切り盛りして、父が主に僕の面倒を見てましたね。授業参観なんかは、父が来てました。
ざっくり言うと、けっこうな金持ちでした。ほんと、何不自由なかったですね。家も、敷地のなかに工場があったぐらいだったからデカかったし。
――さらに小学校から成績優秀で、高校も進学校に入学と。地元では、ちょっと名士の子というか。
諸橋 そうですね。成績は優秀で、性格も明るくて。成績に関しては、小学生の頃から塾の先生に「東大に行きなよ」と言われてたし、自分でも「行く」と言ってました。
だから地元の連中が、僕が弁護士になったと聞いても「やっぱりね」と特に驚かない感じでした。ただし、その空白期間を知ったら、めちゃくちゃ驚くと思いますけどね。
中学生のときに父ががんで亡くなって――何不自由なく育つなか、中学生のときにお父様が亡くなる。諸橋 たしか、喉頭がんだったと思います。がんが見つかって、3ヶ月か4ヶ月で亡くなりました。――それほどショックを受けなかったそうですね。諸橋 中学生だったからこそというか。若干反抗期だったし、いまで言うところの中二病みたいなもので「お父さん、がんだって」って話を聞かされても「ふーん。しょうがないじゃん、どうせ人は死ぬんだから」みたいな感覚で。実際、そんなことを言ってましたしね。 なので、「お父さんが死んだ。つらいよ……」ってならなかったんですよ。とはいえ、後々で「ああ、あのときってやっぱりショックだったんだな」と思うことはありましたけどね。――お母さんとの2人暮らしがイヤで、高校生の頃から夜遊びをするようになったとのことですが、家のなかが寂しくなったことに耐えられなかったのでしょうか。母とふたりきりの家を避け、ファミレスで友人と過ごした青春諸橋 そこも反抗期的なもので。家で母とふたりで仲良くしゃべる気にならないって、思春期なら普通だと思うんですよね。べつに母がメソメソしていたということはなくて、母とふたりきりで家にいるってのが、なんか恥ずかしかったんですよ。まだ、父がいて3人だったらよかったんだけど。――「晩ごはんよー」って呼ばれるのもちょっと、みたいな。諸橋 そうそう。ご飯を一緒に食べるのもイヤで、晩ごはんはまったくもって一緒に食べなかったです。夜遅くまで友達と遊んで、一緒にファミレスで食べてましたね。――夜遊びは、高校の友達と?諸橋 同じ高校の友達はひとりだけで、あとは中学のときの仲間ばかりでしたね。ゲーセンに行けば、だいたい仲間がいるんですよ。昔はスマホなんてなかったけど、普通にたまり場が決まっていたし、行けば必ず誰かがいて。 それで「飯食いに行こうぜ」って、みんなでファミレスに行って、そのまま22時、23時まで過ごすっていう。まぁ、ケンカしたりもあったけど、それぐらいは高校生だったら普通じゃないですか。高校までは真面目なほうだったけど、ガリ勉タイプではなかったです。そういうところに出入りしていたので。――青春のひとコマって感じですね。諸橋 僕的に“グレる、グレない”のラインは、“違法なものに手を出すか、出さないか”だから。――でも、その夜更かしがグレる根源であったと。諸橋 そうですね。深夜の2時、3時まで起きているのが当たり前の生活が始まって。でも、これもまだ普通じゃないですか。だけど、僕の場合はそれが出発点だった気がするんですよ。生活リズムが変わると、人間関係も変わっちゃうんだなって。 いちばん生活リズムを崩したのは、東大受験に失敗してから予備校に通うために上京するまでの2ヶ月間。センター試験は受けたけど、勉強せずに遊んでいたからぜんぜんダメで。もう午前中の時点で、手応えを感じられなくて、あきらめて家に帰っちゃったんですよ。で、試験が終わって2月と3月は暇だから、高校の夜遊び仲間たちと遊びまくって、さらに生活リズムが狂ってしまった。――予備校はどこへ。諸橋 東京にある予備校です。通ったのは、東大コースですね。最初は「よし、1年間がんばるぞ」みたいな気持ちがあったんですよ。実際、まだ「1年勉強すれば大丈夫だろう」っていう自信はあったし、現役のときも高3の秋のセンター模試で8割は取ってたから、本番1ヵ月前にキュッと力を入れれば十分だろうって。まぁ、浅はかでしたけど。 それにまわりは東大を狙う子しかいないから、勉強する以外することがないんじゃないかって。だけど、そこにもワルがいたんですよね。――そのワルから覚醒剤のパケを勧められたそうですね。多浪のコミュニティが喫煙所にたまっていた諸橋 いまはそんなことないだろうけど、90年代なかばはそんな連中が結構いたんですよ。ただ、その手の人たちって僕より先輩で。3浪、4浪、5浪といった多浪のコミュニティが出来上がっちゃっていて、予備校の喫煙所にたまっていたんです。しかも、高校からその予備校に通っているから、めちゃくちゃゆるいけど先輩後輩の関係もあって。 僕もタバコを吸いに喫煙所に行ったら、すでに多浪の方々がいて。僕も真面目じゃない風体だったから「どこから来たの?」って声をかけられて。先輩だからって偉そうにする人がいないんですよ。だからこっちも最初からタメ語で話せて、毎日一緒にいるうちに仲良くなって。 そうしたら、そのうちのひとりとタバコ吸ってるときでしたね。「あるよ。やる?」「へぇ、やるやる!」って。――パケを見せられて、それがなにかすぐにわかりましたか。諸橋 わかりますよ(笑)。ビニールのアレに入っていて、もうバリバリじゃないですか。正直、ヤバいなとは思いました。 ただ、声をかけてきたヤツって、すごいフレンドリーだったんですよ。いっつも「諸ちゃん、諸ちゃん」って仲良くしてくれて。それもあっての「やる?」だったので、「やるやる!」と乗っかっちゃった感じですね。「ドアの向こうで、みんな東大目指して勉強してる」というドキドキ感――どこで試したのですか。諸橋 予備校のトイレ。アブリで。彼がアルミホイルを持って、そのうえに覚醒剤を置いて、アルミの下からライターであぶって。ストローがないから、ボールペンを分解してリフィルとか抜いてストロー代わりにして吸いました。そのボールペンをバラす光景が今でも脳裏に焼き付いてます。――なにかしらの効き目を感じましたか。諸橋 あんまりピンとこなかったですね。いま思えば、パケを見せられてかなり興奮していたのもあったけど、ふかしていたんですよね。やっぱり怖くて、しっかりと煙を吸って肺に入れなかった。吸っているふりをして「おお~!」みたいな感じだったんじゃないかな。さすがに、こないだまで高校生で、田舎から出てきたばっかのヤツがいきなりシャブは吸えないですよ。 ただ、ドキドキ感はすさまじかったです。だって、ちょっと向こうじゃ、みんなが東大を目指して勉強してるんですよ。そんななかで、シャブやってるわけですから。この感覚は、ヤバかったですね。いま思い出しても、本を書いていてもそうだったし、いろんなYouTubeに出してもらってこの話をしていますけど、そのたびに、あのドキドキ感がぶりかえすというか。0時を超えた雀荘には売人がいた――その後、浪人時代に入り浸っていた雀荘で売人と知り合ったそうですが、雀荘が覚醒剤との接点の場となることは珍しくないのでしょうか。諸橋 今はないですが、昔はそこそこあったと思います。ただし、昼じゃなくて夜。0時を超えてからの雀荘。その後に僕も売人になったわけですけど、どこで新しい顧客を見つけるかといったら雀荘やポーカーゲーム屋でしたから。売人と出会いやすい、顧客を開拓しやすいマーケットなんですよね。――諸橋さんの場合は、売人からどのような声掛けを?諸橋 徹マンをやってると、打った相手と初対面でも朝方には仲良くなっちゃうんですよ。で、「ちょっと休憩して、飯いかない?」「行きます、行きます」ってなって、朝から酒。酔っ払ってポロッとクスリの話が出ようものなら、「あるよ。欲しいんだったらやるよ」とくるんですよ。そうやって繋がりましたね。 イラン人からも買うようになったんですけど、たしかイラン人の価格設定が1パケ1万円、2パケ1万5000円、3パケ2万円って1パケ以降は5000円ずつ上がる。で、5パケ3万円を買って、そのうちの1パケを友達に1万円で売ったのが、売人への第一歩でしたね。 雀荘で知り合った売人に、その話をしたら「そんなの高いよ。俺がもっと安く出してやるよ」となって、そのうち「預けておくよ。金は売り上げてからでいいよ」ってパケを大量に確保して。――商品確保の手間がなくなると、もう後に引けなくなりそうですね。覚醒剤は「いま出せるよ」が必要諸橋 楽だったんです。友達から頼まれてから仕入れに行くと、時間のロスがあるじゃないですか。やりたい人って「あー、冷やし中華食べたい」みたいな感覚で欲しくなるから、「明日なら出せるよ」じゃダメなんです。「いま出せるよ」が必要で。シャブを預かってからは常時在庫ありに近い状態だったので、「あいつに連絡すればあるよ」って有名になって。 予備校の連中にもさばいたし、そこから「諸ちゃん、ほしがってるヤツがいるんだけど」って紹介されて顧客が増えていくっていう。――その頃、先生はすでに覚醒剤にどっぷり?諸橋 1浪の夏にはアブリで嗜むようになっていましたけど「この1パケで1週間持たせたいな」とか「週末のお楽しみに取っておこうかな。でも、今日は月曜だけどちょっとダルいから、吸っちゃおう」とか、そんなレベル。それでも東大は目指していたので「ああ、勉強やらなきゃ」と焦ってはいました。――覚醒剤の売り文句に「集中力が出る」なんてありますが、覚醒剤の力を借りて受験勉強に打ち込もうといった考えはあったのでしょうか。エッチ、掃除、博打にはすごく強い諸橋 勉強に集中したいからって買ってく人はいました。予備校でやってた人たちは、それを言い訳にしてましたから。でも、僕は勉強に使おうとは思わなかった。そうやって使って勉強できている人を見たことがなくて、「効果ないな」って。 集中力は出ることは出るんです。エロ本なんて一晩中ずーっと見てられるんですよ。隅から隅まで、通販の広告まで漏れなく、一文字一文字、1冊まるごと。掃除なんか相当に汚くしていた部屋でもガーッと綺麗にしちゃうし、博打も寝ないで頑張ってしまう。エッチ、掃除、博打にはすごく強いけど、勉強だけはダメ。――浪人兼売人として過ごしながら、再びセンター試験を受けたんですよね。諸橋 僕は受験にガッと行くときは、シャブを一回全部バッと切ろうと思ってました。だから、年末年始はシャブをやってないんですよ。でも、まったく勉強してなかったのでダメでしたね。 それでも東大に行きたかったので、母親に頼んで2浪させてもらって。1浪目に勉強してなかったので、ここからでも勉強すればまだ間に合うと。2浪ぐらいまでだったら、まだ許容範囲みたいな感じで「クスリを切って、東大を目指して頑張ろう」と。 だけど、勉強はしなかったです。シャブがやめられなくて。しかも、予備校の申し込みもしてないんですよ。母からもらった予備校の代金も使っちゃって。母親には「図書館で勉強する」なんて話してましたけどね。不貞腐れちゃって「もういいや」という状態で出会ったのは…――2浪して成蹊大学に進みますが、東大を目指していた身としては納得できましたか。諸橋 その頃にはもう不貞腐れちゃっていて、「もういいや」みたいな。勉強もイヤになったし、シャブはやめられないし。あと、90年代なかばの当時は就職氷河期で「大学を出ても就職先はないよ」みたいになっていて、学歴と違うことで挽回しようみたいな。東大に行けば就職先はあったでしょうけど、学生起業がもてはやされていたので、そっちを目指そうかなとかって考えたり。 まぁ、そうならずにヤクザになるきっかけとなったアニキと出会ったり、アパートで火事を起こしたりするんですけどね。(#2に続く)写真=石川啓次/文藝春秋〈20代で総長のカバン持ち、シャブの売上は月に200万円超え…東大を目指していた予備校生が“ヤクザ“に入門した理由「俺もついに売人か…」〉へ続く(平田 裕介)
――何不自由なく育つなか、中学生のときにお父様が亡くなる。
諸橋 たしか、喉頭がんだったと思います。がんが見つかって、3ヶ月か4ヶ月で亡くなりました。
――それほどショックを受けなかったそうですね。
諸橋 中学生だったからこそというか。若干反抗期だったし、いまで言うところの中二病みたいなもので「お父さん、がんだって」って話を聞かされても「ふーん。しょうがないじゃん、どうせ人は死ぬんだから」みたいな感覚で。実際、そんなことを言ってましたしね。
なので、「お父さんが死んだ。つらいよ……」ってならなかったんですよ。とはいえ、後々で「ああ、あのときってやっぱりショックだったんだな」と思うことはありましたけどね。
――お母さんとの2人暮らしがイヤで、高校生の頃から夜遊びをするようになったとのことですが、家のなかが寂しくなったことに耐えられなかったのでしょうか。
諸橋 そこも反抗期的なもので。家で母とふたりで仲良くしゃべる気にならないって、思春期なら普通だと思うんですよね。べつに母がメソメソしていたということはなくて、母とふたりきりで家にいるってのが、なんか恥ずかしかったんですよ。まだ、父がいて3人だったらよかったんだけど。
――「晩ごはんよー」って呼ばれるのもちょっと、みたいな。
諸橋 そうそう。ご飯を一緒に食べるのもイヤで、晩ごはんはまったくもって一緒に食べなかったです。夜遅くまで友達と遊んで、一緒にファミレスで食べてましたね。
――夜遊びは、高校の友達と?
諸橋 同じ高校の友達はひとりだけで、あとは中学のときの仲間ばかりでしたね。ゲーセンに行けば、だいたい仲間がいるんですよ。昔はスマホなんてなかったけど、普通にたまり場が決まっていたし、行けば必ず誰かがいて。
それで「飯食いに行こうぜ」って、みんなでファミレスに行って、そのまま22時、23時まで過ごすっていう。まぁ、ケンカしたりもあったけど、それぐらいは高校生だったら普通じゃないですか。高校までは真面目なほうだったけど、ガリ勉タイプではなかったです。そういうところに出入りしていたので。
――青春のひとコマって感じですね。
諸橋 僕的に“グレる、グレない”のラインは、“違法なものに手を出すか、出さないか”だから。
――でも、その夜更かしがグレる根源であったと。
諸橋 そうですね。深夜の2時、3時まで起きているのが当たり前の生活が始まって。でも、これもまだ普通じゃないですか。だけど、僕の場合はそれが出発点だった気がするんですよ。生活リズムが変わると、人間関係も変わっちゃうんだなって。
いちばん生活リズムを崩したのは、東大受験に失敗してから予備校に通うために上京するまでの2ヶ月間。センター試験は受けたけど、勉強せずに遊んでいたからぜんぜんダメで。もう午前中の時点で、手応えを感じられなくて、あきらめて家に帰っちゃったんですよ。で、試験が終わって2月と3月は暇だから、高校の夜遊び仲間たちと遊びまくって、さらに生活リズムが狂ってしまった。
――予備校はどこへ。諸橋 東京にある予備校です。通ったのは、東大コースですね。最初は「よし、1年間がんばるぞ」みたいな気持ちがあったんですよ。実際、まだ「1年勉強すれば大丈夫だろう」っていう自信はあったし、現役のときも高3の秋のセンター模試で8割は取ってたから、本番1ヵ月前にキュッと力を入れれば十分だろうって。まぁ、浅はかでしたけど。 それにまわりは東大を狙う子しかいないから、勉強する以外することがないんじゃないかって。だけど、そこにもワルがいたんですよね。――そのワルから覚醒剤のパケを勧められたそうですね。多浪のコミュニティが喫煙所にたまっていた諸橋 いまはそんなことないだろうけど、90年代なかばはそんな連中が結構いたんですよ。ただ、その手の人たちって僕より先輩で。3浪、4浪、5浪といった多浪のコミュニティが出来上がっちゃっていて、予備校の喫煙所にたまっていたんです。しかも、高校からその予備校に通っているから、めちゃくちゃゆるいけど先輩後輩の関係もあって。 僕もタバコを吸いに喫煙所に行ったら、すでに多浪の方々がいて。僕も真面目じゃない風体だったから「どこから来たの?」って声をかけられて。先輩だからって偉そうにする人がいないんですよ。だからこっちも最初からタメ語で話せて、毎日一緒にいるうちに仲良くなって。 そうしたら、そのうちのひとりとタバコ吸ってるときでしたね。「あるよ。やる?」「へぇ、やるやる!」って。――パケを見せられて、それがなにかすぐにわかりましたか。諸橋 わかりますよ(笑)。ビニールのアレに入っていて、もうバリバリじゃないですか。正直、ヤバいなとは思いました。 ただ、声をかけてきたヤツって、すごいフレンドリーだったんですよ。いっつも「諸ちゃん、諸ちゃん」って仲良くしてくれて。それもあっての「やる?」だったので、「やるやる!」と乗っかっちゃった感じですね。「ドアの向こうで、みんな東大目指して勉強してる」というドキドキ感――どこで試したのですか。諸橋 予備校のトイレ。アブリで。彼がアルミホイルを持って、そのうえに覚醒剤を置いて、アルミの下からライターであぶって。ストローがないから、ボールペンを分解してリフィルとか抜いてストロー代わりにして吸いました。そのボールペンをバラす光景が今でも脳裏に焼き付いてます。――なにかしらの効き目を感じましたか。諸橋 あんまりピンとこなかったですね。いま思えば、パケを見せられてかなり興奮していたのもあったけど、ふかしていたんですよね。やっぱり怖くて、しっかりと煙を吸って肺に入れなかった。吸っているふりをして「おお~!」みたいな感じだったんじゃないかな。さすがに、こないだまで高校生で、田舎から出てきたばっかのヤツがいきなりシャブは吸えないですよ。 ただ、ドキドキ感はすさまじかったです。だって、ちょっと向こうじゃ、みんなが東大を目指して勉強してるんですよ。そんななかで、シャブやってるわけですから。この感覚は、ヤバかったですね。いま思い出しても、本を書いていてもそうだったし、いろんなYouTubeに出してもらってこの話をしていますけど、そのたびに、あのドキドキ感がぶりかえすというか。0時を超えた雀荘には売人がいた――その後、浪人時代に入り浸っていた雀荘で売人と知り合ったそうですが、雀荘が覚醒剤との接点の場となることは珍しくないのでしょうか。諸橋 今はないですが、昔はそこそこあったと思います。ただし、昼じゃなくて夜。0時を超えてからの雀荘。その後に僕も売人になったわけですけど、どこで新しい顧客を見つけるかといったら雀荘やポーカーゲーム屋でしたから。売人と出会いやすい、顧客を開拓しやすいマーケットなんですよね。――諸橋さんの場合は、売人からどのような声掛けを?諸橋 徹マンをやってると、打った相手と初対面でも朝方には仲良くなっちゃうんですよ。で、「ちょっと休憩して、飯いかない?」「行きます、行きます」ってなって、朝から酒。酔っ払ってポロッとクスリの話が出ようものなら、「あるよ。欲しいんだったらやるよ」とくるんですよ。そうやって繋がりましたね。 イラン人からも買うようになったんですけど、たしかイラン人の価格設定が1パケ1万円、2パケ1万5000円、3パケ2万円って1パケ以降は5000円ずつ上がる。で、5パケ3万円を買って、そのうちの1パケを友達に1万円で売ったのが、売人への第一歩でしたね。 雀荘で知り合った売人に、その話をしたら「そんなの高いよ。俺がもっと安く出してやるよ」となって、そのうち「預けておくよ。金は売り上げてからでいいよ」ってパケを大量に確保して。――商品確保の手間がなくなると、もう後に引けなくなりそうですね。覚醒剤は「いま出せるよ」が必要諸橋 楽だったんです。友達から頼まれてから仕入れに行くと、時間のロスがあるじゃないですか。やりたい人って「あー、冷やし中華食べたい」みたいな感覚で欲しくなるから、「明日なら出せるよ」じゃダメなんです。「いま出せるよ」が必要で。シャブを預かってからは常時在庫ありに近い状態だったので、「あいつに連絡すればあるよ」って有名になって。 予備校の連中にもさばいたし、そこから「諸ちゃん、ほしがってるヤツがいるんだけど」って紹介されて顧客が増えていくっていう。――その頃、先生はすでに覚醒剤にどっぷり?諸橋 1浪の夏にはアブリで嗜むようになっていましたけど「この1パケで1週間持たせたいな」とか「週末のお楽しみに取っておこうかな。でも、今日は月曜だけどちょっとダルいから、吸っちゃおう」とか、そんなレベル。それでも東大は目指していたので「ああ、勉強やらなきゃ」と焦ってはいました。――覚醒剤の売り文句に「集中力が出る」なんてありますが、覚醒剤の力を借りて受験勉強に打ち込もうといった考えはあったのでしょうか。エッチ、掃除、博打にはすごく強い諸橋 勉強に集中したいからって買ってく人はいました。予備校でやってた人たちは、それを言い訳にしてましたから。でも、僕は勉強に使おうとは思わなかった。そうやって使って勉強できている人を見たことがなくて、「効果ないな」って。 集中力は出ることは出るんです。エロ本なんて一晩中ずーっと見てられるんですよ。隅から隅まで、通販の広告まで漏れなく、一文字一文字、1冊まるごと。掃除なんか相当に汚くしていた部屋でもガーッと綺麗にしちゃうし、博打も寝ないで頑張ってしまう。エッチ、掃除、博打にはすごく強いけど、勉強だけはダメ。――浪人兼売人として過ごしながら、再びセンター試験を受けたんですよね。諸橋 僕は受験にガッと行くときは、シャブを一回全部バッと切ろうと思ってました。だから、年末年始はシャブをやってないんですよ。でも、まったく勉強してなかったのでダメでしたね。 それでも東大に行きたかったので、母親に頼んで2浪させてもらって。1浪目に勉強してなかったので、ここからでも勉強すればまだ間に合うと。2浪ぐらいまでだったら、まだ許容範囲みたいな感じで「クスリを切って、東大を目指して頑張ろう」と。 だけど、勉強はしなかったです。シャブがやめられなくて。しかも、予備校の申し込みもしてないんですよ。母からもらった予備校の代金も使っちゃって。母親には「図書館で勉強する」なんて話してましたけどね。不貞腐れちゃって「もういいや」という状態で出会ったのは…――2浪して成蹊大学に進みますが、東大を目指していた身としては納得できましたか。諸橋 その頃にはもう不貞腐れちゃっていて、「もういいや」みたいな。勉強もイヤになったし、シャブはやめられないし。あと、90年代なかばの当時は就職氷河期で「大学を出ても就職先はないよ」みたいになっていて、学歴と違うことで挽回しようみたいな。東大に行けば就職先はあったでしょうけど、学生起業がもてはやされていたので、そっちを目指そうかなとかって考えたり。 まぁ、そうならずにヤクザになるきっかけとなったアニキと出会ったり、アパートで火事を起こしたりするんですけどね。(#2に続く)写真=石川啓次/文藝春秋〈20代で総長のカバン持ち、シャブの売上は月に200万円超え…東大を目指していた予備校生が“ヤクザ“に入門した理由「俺もついに売人か…」〉へ続く(平田 裕介)
――予備校はどこへ。
諸橋 東京にある予備校です。通ったのは、東大コースですね。最初は「よし、1年間がんばるぞ」みたいな気持ちがあったんですよ。実際、まだ「1年勉強すれば大丈夫だろう」っていう自信はあったし、現役のときも高3の秋のセンター模試で8割は取ってたから、本番1ヵ月前にキュッと力を入れれば十分だろうって。まぁ、浅はかでしたけど。
それにまわりは東大を狙う子しかいないから、勉強する以外することがないんじゃないかって。だけど、そこにもワルがいたんですよね。
――そのワルから覚醒剤のパケを勧められたそうですね。
諸橋 いまはそんなことないだろうけど、90年代なかばはそんな連中が結構いたんですよ。ただ、その手の人たちって僕より先輩で。3浪、4浪、5浪といった多浪のコミュニティが出来上がっちゃっていて、予備校の喫煙所にたまっていたんです。しかも、高校からその予備校に通っているから、めちゃくちゃゆるいけど先輩後輩の関係もあって。
僕もタバコを吸いに喫煙所に行ったら、すでに多浪の方々がいて。僕も真面目じゃない風体だったから「どこから来たの?」って声をかけられて。先輩だからって偉そうにする人がいないんですよ。だからこっちも最初からタメ語で話せて、毎日一緒にいるうちに仲良くなって。
そうしたら、そのうちのひとりとタバコ吸ってるときでしたね。「あるよ。やる?」「へぇ、やるやる!」って。
――パケを見せられて、それがなにかすぐにわかりましたか。諸橋 わかりますよ(笑)。ビニールのアレに入っていて、もうバリバリじゃないですか。正直、ヤバいなとは思いました。 ただ、声をかけてきたヤツって、すごいフレンドリーだったんですよ。いっつも「諸ちゃん、諸ちゃん」って仲良くしてくれて。それもあっての「やる?」だったので、「やるやる!」と乗っかっちゃった感じですね。「ドアの向こうで、みんな東大目指して勉強してる」というドキドキ感――どこで試したのですか。諸橋 予備校のトイレ。アブリで。彼がアルミホイルを持って、そのうえに覚醒剤を置いて、アルミの下からライターであぶって。ストローがないから、ボールペンを分解してリフィルとか抜いてストロー代わりにして吸いました。そのボールペンをバラす光景が今でも脳裏に焼き付いてます。――なにかしらの効き目を感じましたか。諸橋 あんまりピンとこなかったですね。いま思えば、パケを見せられてかなり興奮していたのもあったけど、ふかしていたんですよね。やっぱり怖くて、しっかりと煙を吸って肺に入れなかった。吸っているふりをして「おお~!」みたいな感じだったんじゃないかな。さすがに、こないだまで高校生で、田舎から出てきたばっかのヤツがいきなりシャブは吸えないですよ。 ただ、ドキドキ感はすさまじかったです。だって、ちょっと向こうじゃ、みんなが東大を目指して勉強してるんですよ。そんななかで、シャブやってるわけですから。この感覚は、ヤバかったですね。いま思い出しても、本を書いていてもそうだったし、いろんなYouTubeに出してもらってこの話をしていますけど、そのたびに、あのドキドキ感がぶりかえすというか。0時を超えた雀荘には売人がいた――その後、浪人時代に入り浸っていた雀荘で売人と知り合ったそうですが、雀荘が覚醒剤との接点の場となることは珍しくないのでしょうか。諸橋 今はないですが、昔はそこそこあったと思います。ただし、昼じゃなくて夜。0時を超えてからの雀荘。その後に僕も売人になったわけですけど、どこで新しい顧客を見つけるかといったら雀荘やポーカーゲーム屋でしたから。売人と出会いやすい、顧客を開拓しやすいマーケットなんですよね。――諸橋さんの場合は、売人からどのような声掛けを?諸橋 徹マンをやってると、打った相手と初対面でも朝方には仲良くなっちゃうんですよ。で、「ちょっと休憩して、飯いかない?」「行きます、行きます」ってなって、朝から酒。酔っ払ってポロッとクスリの話が出ようものなら、「あるよ。欲しいんだったらやるよ」とくるんですよ。そうやって繋がりましたね。 イラン人からも買うようになったんですけど、たしかイラン人の価格設定が1パケ1万円、2パケ1万5000円、3パケ2万円って1パケ以降は5000円ずつ上がる。で、5パケ3万円を買って、そのうちの1パケを友達に1万円で売ったのが、売人への第一歩でしたね。 雀荘で知り合った売人に、その話をしたら「そんなの高いよ。俺がもっと安く出してやるよ」となって、そのうち「預けておくよ。金は売り上げてからでいいよ」ってパケを大量に確保して。――商品確保の手間がなくなると、もう後に引けなくなりそうですね。覚醒剤は「いま出せるよ」が必要諸橋 楽だったんです。友達から頼まれてから仕入れに行くと、時間のロスがあるじゃないですか。やりたい人って「あー、冷やし中華食べたい」みたいな感覚で欲しくなるから、「明日なら出せるよ」じゃダメなんです。「いま出せるよ」が必要で。シャブを預かってからは常時在庫ありに近い状態だったので、「あいつに連絡すればあるよ」って有名になって。 予備校の連中にもさばいたし、そこから「諸ちゃん、ほしがってるヤツがいるんだけど」って紹介されて顧客が増えていくっていう。――その頃、先生はすでに覚醒剤にどっぷり?諸橋 1浪の夏にはアブリで嗜むようになっていましたけど「この1パケで1週間持たせたいな」とか「週末のお楽しみに取っておこうかな。でも、今日は月曜だけどちょっとダルいから、吸っちゃおう」とか、そんなレベル。それでも東大は目指していたので「ああ、勉強やらなきゃ」と焦ってはいました。――覚醒剤の売り文句に「集中力が出る」なんてありますが、覚醒剤の力を借りて受験勉強に打ち込もうといった考えはあったのでしょうか。エッチ、掃除、博打にはすごく強い諸橋 勉強に集中したいからって買ってく人はいました。予備校でやってた人たちは、それを言い訳にしてましたから。でも、僕は勉強に使おうとは思わなかった。そうやって使って勉強できている人を見たことがなくて、「効果ないな」って。 集中力は出ることは出るんです。エロ本なんて一晩中ずーっと見てられるんですよ。隅から隅まで、通販の広告まで漏れなく、一文字一文字、1冊まるごと。掃除なんか相当に汚くしていた部屋でもガーッと綺麗にしちゃうし、博打も寝ないで頑張ってしまう。エッチ、掃除、博打にはすごく強いけど、勉強だけはダメ。――浪人兼売人として過ごしながら、再びセンター試験を受けたんですよね。諸橋 僕は受験にガッと行くときは、シャブを一回全部バッと切ろうと思ってました。だから、年末年始はシャブをやってないんですよ。でも、まったく勉強してなかったのでダメでしたね。 それでも東大に行きたかったので、母親に頼んで2浪させてもらって。1浪目に勉強してなかったので、ここからでも勉強すればまだ間に合うと。2浪ぐらいまでだったら、まだ許容範囲みたいな感じで「クスリを切って、東大を目指して頑張ろう」と。 だけど、勉強はしなかったです。シャブがやめられなくて。しかも、予備校の申し込みもしてないんですよ。母からもらった予備校の代金も使っちゃって。母親には「図書館で勉強する」なんて話してましたけどね。不貞腐れちゃって「もういいや」という状態で出会ったのは…――2浪して成蹊大学に進みますが、東大を目指していた身としては納得できましたか。諸橋 その頃にはもう不貞腐れちゃっていて、「もういいや」みたいな。勉強もイヤになったし、シャブはやめられないし。あと、90年代なかばの当時は就職氷河期で「大学を出ても就職先はないよ」みたいになっていて、学歴と違うことで挽回しようみたいな。東大に行けば就職先はあったでしょうけど、学生起業がもてはやされていたので、そっちを目指そうかなとかって考えたり。 まぁ、そうならずにヤクザになるきっかけとなったアニキと出会ったり、アパートで火事を起こしたりするんですけどね。(#2に続く)写真=石川啓次/文藝春秋〈20代で総長のカバン持ち、シャブの売上は月に200万円超え…東大を目指していた予備校生が“ヤクザ“に入門した理由「俺もついに売人か…」〉へ続く(平田 裕介)
――パケを見せられて、それがなにかすぐにわかりましたか。
諸橋 わかりますよ(笑)。ビニールのアレに入っていて、もうバリバリじゃないですか。正直、ヤバいなとは思いました。
ただ、声をかけてきたヤツって、すごいフレンドリーだったんですよ。いっつも「諸ちゃん、諸ちゃん」って仲良くしてくれて。それもあっての「やる?」だったので、「やるやる!」と乗っかっちゃった感じですね。
――どこで試したのですか。
諸橋 予備校のトイレ。アブリで。彼がアルミホイルを持って、そのうえに覚醒剤を置いて、アルミの下からライターであぶって。ストローがないから、ボールペンを分解してリフィルとか抜いてストロー代わりにして吸いました。そのボールペンをバラす光景が今でも脳裏に焼き付いてます。
――なにかしらの効き目を感じましたか。
諸橋 あんまりピンとこなかったですね。いま思えば、パケを見せられてかなり興奮していたのもあったけど、ふかしていたんですよね。やっぱり怖くて、しっかりと煙を吸って肺に入れなかった。吸っているふりをして「おお~!」みたいな感じだったんじゃないかな。さすがに、こないだまで高校生で、田舎から出てきたばっかのヤツがいきなりシャブは吸えないですよ。
ただ、ドキドキ感はすさまじかったです。だって、ちょっと向こうじゃ、みんなが東大を目指して勉強してるんですよ。そんななかで、シャブやってるわけですから。この感覚は、ヤバかったですね。いま思い出しても、本を書いていてもそうだったし、いろんなYouTubeに出してもらってこの話をしていますけど、そのたびに、あのドキドキ感がぶりかえすというか。
――その後、浪人時代に入り浸っていた雀荘で売人と知り合ったそうですが、雀荘が覚醒剤との接点の場となることは珍しくないのでしょうか。
諸橋 今はないですが、昔はそこそこあったと思います。ただし、昼じゃなくて夜。0時を超えてからの雀荘。その後に僕も売人になったわけですけど、どこで新しい顧客を見つけるかといったら雀荘やポーカーゲーム屋でしたから。売人と出会いやすい、顧客を開拓しやすいマーケットなんですよね。
――諸橋さんの場合は、売人からどのような声掛けを?諸橋 徹マンをやってると、打った相手と初対面でも朝方には仲良くなっちゃうんですよ。で、「ちょっと休憩して、飯いかない?」「行きます、行きます」ってなって、朝から酒。酔っ払ってポロッとクスリの話が出ようものなら、「あるよ。欲しいんだったらやるよ」とくるんですよ。そうやって繋がりましたね。 イラン人からも買うようになったんですけど、たしかイラン人の価格設定が1パケ1万円、2パケ1万5000円、3パケ2万円って1パケ以降は5000円ずつ上がる。で、5パケ3万円を買って、そのうちの1パケを友達に1万円で売ったのが、売人への第一歩でしたね。 雀荘で知り合った売人に、その話をしたら「そんなの高いよ。俺がもっと安く出してやるよ」となって、そのうち「預けておくよ。金は売り上げてからでいいよ」ってパケを大量に確保して。――商品確保の手間がなくなると、もう後に引けなくなりそうですね。覚醒剤は「いま出せるよ」が必要諸橋 楽だったんです。友達から頼まれてから仕入れに行くと、時間のロスがあるじゃないですか。やりたい人って「あー、冷やし中華食べたい」みたいな感覚で欲しくなるから、「明日なら出せるよ」じゃダメなんです。「いま出せるよ」が必要で。シャブを預かってからは常時在庫ありに近い状態だったので、「あいつに連絡すればあるよ」って有名になって。 予備校の連中にもさばいたし、そこから「諸ちゃん、ほしがってるヤツがいるんだけど」って紹介されて顧客が増えていくっていう。――その頃、先生はすでに覚醒剤にどっぷり?諸橋 1浪の夏にはアブリで嗜むようになっていましたけど「この1パケで1週間持たせたいな」とか「週末のお楽しみに取っておこうかな。でも、今日は月曜だけどちょっとダルいから、吸っちゃおう」とか、そんなレベル。それでも東大は目指していたので「ああ、勉強やらなきゃ」と焦ってはいました。――覚醒剤の売り文句に「集中力が出る」なんてありますが、覚醒剤の力を借りて受験勉強に打ち込もうといった考えはあったのでしょうか。エッチ、掃除、博打にはすごく強い諸橋 勉強に集中したいからって買ってく人はいました。予備校でやってた人たちは、それを言い訳にしてましたから。でも、僕は勉強に使おうとは思わなかった。そうやって使って勉強できている人を見たことがなくて、「効果ないな」って。 集中力は出ることは出るんです。エロ本なんて一晩中ずーっと見てられるんですよ。隅から隅まで、通販の広告まで漏れなく、一文字一文字、1冊まるごと。掃除なんか相当に汚くしていた部屋でもガーッと綺麗にしちゃうし、博打も寝ないで頑張ってしまう。エッチ、掃除、博打にはすごく強いけど、勉強だけはダメ。――浪人兼売人として過ごしながら、再びセンター試験を受けたんですよね。諸橋 僕は受験にガッと行くときは、シャブを一回全部バッと切ろうと思ってました。だから、年末年始はシャブをやってないんですよ。でも、まったく勉強してなかったのでダメでしたね。 それでも東大に行きたかったので、母親に頼んで2浪させてもらって。1浪目に勉強してなかったので、ここからでも勉強すればまだ間に合うと。2浪ぐらいまでだったら、まだ許容範囲みたいな感じで「クスリを切って、東大を目指して頑張ろう」と。 だけど、勉強はしなかったです。シャブがやめられなくて。しかも、予備校の申し込みもしてないんですよ。母からもらった予備校の代金も使っちゃって。母親には「図書館で勉強する」なんて話してましたけどね。不貞腐れちゃって「もういいや」という状態で出会ったのは…――2浪して成蹊大学に進みますが、東大を目指していた身としては納得できましたか。諸橋 その頃にはもう不貞腐れちゃっていて、「もういいや」みたいな。勉強もイヤになったし、シャブはやめられないし。あと、90年代なかばの当時は就職氷河期で「大学を出ても就職先はないよ」みたいになっていて、学歴と違うことで挽回しようみたいな。東大に行けば就職先はあったでしょうけど、学生起業がもてはやされていたので、そっちを目指そうかなとかって考えたり。 まぁ、そうならずにヤクザになるきっかけとなったアニキと出会ったり、アパートで火事を起こしたりするんですけどね。(#2に続く)写真=石川啓次/文藝春秋〈20代で総長のカバン持ち、シャブの売上は月に200万円超え…東大を目指していた予備校生が“ヤクザ“に入門した理由「俺もついに売人か…」〉へ続く(平田 裕介)
――諸橋さんの場合は、売人からどのような声掛けを?
諸橋 徹マンをやってると、打った相手と初対面でも朝方には仲良くなっちゃうんですよ。で、「ちょっと休憩して、飯いかない?」「行きます、行きます」ってなって、朝から酒。酔っ払ってポロッとクスリの話が出ようものなら、「あるよ。欲しいんだったらやるよ」とくるんですよ。そうやって繋がりましたね。
イラン人からも買うようになったんですけど、たしかイラン人の価格設定が1パケ1万円、2パケ1万5000円、3パケ2万円って1パケ以降は5000円ずつ上がる。で、5パケ3万円を買って、そのうちの1パケを友達に1万円で売ったのが、売人への第一歩でしたね。
雀荘で知り合った売人に、その話をしたら「そんなの高いよ。俺がもっと安く出してやるよ」となって、そのうち「預けておくよ。金は売り上げてからでいいよ」ってパケを大量に確保して。
――商品確保の手間がなくなると、もう後に引けなくなりそうですね。
諸橋 楽だったんです。友達から頼まれてから仕入れに行くと、時間のロスがあるじゃないですか。やりたい人って「あー、冷やし中華食べたい」みたいな感覚で欲しくなるから、「明日なら出せるよ」じゃダメなんです。「いま出せるよ」が必要で。シャブを預かってからは常時在庫ありに近い状態だったので、「あいつに連絡すればあるよ」って有名になって。
予備校の連中にもさばいたし、そこから「諸ちゃん、ほしがってるヤツがいるんだけど」って紹介されて顧客が増えていくっていう。
――その頃、先生はすでに覚醒剤にどっぷり?
諸橋 1浪の夏にはアブリで嗜むようになっていましたけど「この1パケで1週間持たせたいな」とか「週末のお楽しみに取っておこうかな。でも、今日は月曜だけどちょっとダルいから、吸っちゃおう」とか、そんなレベル。それでも東大は目指していたので「ああ、勉強やらなきゃ」と焦ってはいました。
――覚醒剤の売り文句に「集中力が出る」なんてありますが、覚醒剤の力を借りて受験勉強に打ち込もうといった考えはあったのでしょうか。
諸橋 勉強に集中したいからって買ってく人はいました。予備校でやってた人たちは、それを言い訳にしてましたから。でも、僕は勉強に使おうとは思わなかった。そうやって使って勉強できている人を見たことがなくて、「効果ないな」って。
集中力は出ることは出るんです。エロ本なんて一晩中ずーっと見てられるんですよ。隅から隅まで、通販の広告まで漏れなく、一文字一文字、1冊まるごと。掃除なんか相当に汚くしていた部屋でもガーッと綺麗にしちゃうし、博打も寝ないで頑張ってしまう。エッチ、掃除、博打にはすごく強いけど、勉強だけはダメ。
――浪人兼売人として過ごしながら、再びセンター試験を受けたんですよね。諸橋 僕は受験にガッと行くときは、シャブを一回全部バッと切ろうと思ってました。だから、年末年始はシャブをやってないんですよ。でも、まったく勉強してなかったのでダメでしたね。 それでも東大に行きたかったので、母親に頼んで2浪させてもらって。1浪目に勉強してなかったので、ここからでも勉強すればまだ間に合うと。2浪ぐらいまでだったら、まだ許容範囲みたいな感じで「クスリを切って、東大を目指して頑張ろう」と。 だけど、勉強はしなかったです。シャブがやめられなくて。しかも、予備校の申し込みもしてないんですよ。母からもらった予備校の代金も使っちゃって。母親には「図書館で勉強する」なんて話してましたけどね。不貞腐れちゃって「もういいや」という状態で出会ったのは…――2浪して成蹊大学に進みますが、東大を目指していた身としては納得できましたか。諸橋 その頃にはもう不貞腐れちゃっていて、「もういいや」みたいな。勉強もイヤになったし、シャブはやめられないし。あと、90年代なかばの当時は就職氷河期で「大学を出ても就職先はないよ」みたいになっていて、学歴と違うことで挽回しようみたいな。東大に行けば就職先はあったでしょうけど、学生起業がもてはやされていたので、そっちを目指そうかなとかって考えたり。 まぁ、そうならずにヤクザになるきっかけとなったアニキと出会ったり、アパートで火事を起こしたりするんですけどね。(#2に続く)写真=石川啓次/文藝春秋〈20代で総長のカバン持ち、シャブの売上は月に200万円超え…東大を目指していた予備校生が“ヤクザ“に入門した理由「俺もついに売人か…」〉へ続く(平田 裕介)
――浪人兼売人として過ごしながら、再びセンター試験を受けたんですよね。
諸橋 僕は受験にガッと行くときは、シャブを一回全部バッと切ろうと思ってました。だから、年末年始はシャブをやってないんですよ。でも、まったく勉強してなかったのでダメでしたね。
それでも東大に行きたかったので、母親に頼んで2浪させてもらって。1浪目に勉強してなかったので、ここからでも勉強すればまだ間に合うと。2浪ぐらいまでだったら、まだ許容範囲みたいな感じで「クスリを切って、東大を目指して頑張ろう」と。
だけど、勉強はしなかったです。シャブがやめられなくて。しかも、予備校の申し込みもしてないんですよ。母からもらった予備校の代金も使っちゃって。母親には「図書館で勉強する」なんて話してましたけどね。
――2浪して成蹊大学に進みますが、東大を目指していた身としては納得できましたか。
諸橋 その頃にはもう不貞腐れちゃっていて、「もういいや」みたいな。勉強もイヤになったし、シャブはやめられないし。あと、90年代なかばの当時は就職氷河期で「大学を出ても就職先はないよ」みたいになっていて、学歴と違うことで挽回しようみたいな。東大に行けば就職先はあったでしょうけど、学生起業がもてはやされていたので、そっちを目指そうかなとかって考えたり。
まぁ、そうならずにヤクザになるきっかけとなったアニキと出会ったり、アパートで火事を起こしたりするんですけどね。(#2に続く)
写真=石川啓次/文藝春秋〈20代で総長のカバン持ち、シャブの売上は月に200万円超え…東大を目指していた予備校生が“ヤクザ“に入門した理由「俺もついに売人か…」〉へ続く(平田 裕介)
写真=石川啓次/文藝春秋〈20代で総長のカバン持ち、シャブの売上は月に200万円超え…東大を目指していた予備校生が“ヤクザ“に入門した理由「俺もついに売人か…」〉へ続く(平田 裕介)
〈20代で総長のカバン持ち、シャブの売上は月に200万円超え…東大を目指していた予備校生が“ヤクザ“に入門した理由「俺もついに売人か…」〉へ続く
(平田 裕介)

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SNSでもご購読できます。