【宮地 美陽子】「まさか死んでないよな…」ある日突然、日本人を襲う大災害「最悪のシミュレーション」

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首都直下地震、南海トラフ巨大地震、富士山大噴火……過去にも一度起きた「恐怖の大連動」は、東京・日本をどう壊すのか? 命を守るために、いま何をやるべきか?
東京都知事政務担当特別秘書・宮地美陽子氏による新刊『首都防衛』では、知らなかったでは絶対にすまされない「最悪の被害想定」が描かれている。その具体的なシミュレーションとは?
ある日突然、やってくる20××年の冬、それは現実のものとして襲いかかった。経験したことのない、突き上げるような強烈な揺れは人々の動きを瞬く間に封じ、激しい動揺と恐怖が心をへし折る。毎年の防災訓練で何度も備えてきたはずだったが、その衝撃は想定をはるかに超えていた。

室内に置かれていたテレビやパソコンは床に倒れ、食器棚からはコーヒーカップや皿が勢いよく飛び出す。窓ガラスは飛散し、タンスや本棚は不思議な動きを見せながら傾いていった。使い慣れたスマホは通信障害で機能せず、助けを呼ぶことも、家族や友人の安否を確認することもできない。テレビのニュースで情報を得ようにも停電が阻む。できることは暗闇の中で静かに待つだけだった。 〔PHOTO〕iStock すぐ近くの住宅の窓から真っ赤な炎が猛烈な勢いで吹き出し、悲鳴と怒号が響き渡る。隣家から隣家へ延焼していくのは時間の問題で、商品棚がドミノ倒しになったコンビニから逃げまどう人々の表情はこの世の終わりを感じさせる。日本の首都を襲った大地震の規模は、M7.3。ヒト・モノ・情報が集まる東京には、地球外生命体に強襲されたような信じられない光景が広がった。江東区や江戸川区など11の区は震度7を記録し、人口の多い23区の約6割は震度6以上の揺れが起きる。6000人以上が死亡、負傷者は9万3000人を超え、ライフラインは次々とダメージを受けた。ビル崩壊、大渋滞、「助けて」の声……この日、タクシー運転手の浜田幸男(仮名)は夜の街を流していた。休憩に入ろうとした矢先、常連客からの電話が鳴り「湾岸エリアまで来て、乗せてよ」と頼まれた。「OK!10分ほどで着くから待ってて」と普段と変わらない応答でアクセルを踏み込んだとき、車が持ち上がるような激しい衝撃を感じる。「ドッ、ドーン!」。追突されたときのものではない、地鳴りのような音が響く。それは腹底を揺さぶられるような強いものだった。都会の喧騒を上回る大音量の緊急地震速報がスマホから鳴り響き、必死でハンドルにしがみつくしかない。「車がひっくり返る、もうダメだ」と身を屈めるのがやっとだった。最初の激しい揺れは10秒ほどだったが、1分以上に長く感じた。顔を上げたときには周囲の信号機は倒れ、道路沿いの建物は崩れている。ビルや看板の灯りは消え、歩道には瓦礫やガラスが飛び散り、呆然と立ち尽くす若者たちの姿は映画のワンシーンを見ているようだ。 〔PHOTO〕iStock やや揺れが小さくなったことを感じた浜田は、汗で湿る手で強く握りしめたスマホから家族への電話を繰り返した。だが、一向につながらない。「まさか死んでないよな……」と不安ばかりが募る。ベテランの域に達した運転手でも見たことがない大渋滞が行く手を遮り、やむなくタクシーを路肩に放置することにした。真っ暗な道を月明かりだけを頼りに急ぎ足で自宅に向かう途中、不気味に静まり返った街では、どこからともなく「助けて」というわずかな声が風に木霊し、耳に残った。関西出身の浜田は、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災で母を失った。日本で初めての大都市を直下とする地震で、最大震度7を記録。兵庫県を中心に6434人(災害関連死含む)が死亡、3人が行方不明、4万3792人が負傷した大地震だ。テレビやスマホからの情報が遮断される中、浜田はかつて経験した地震と似たような揺れを感じた。路地を曲がれば自宅という場所にたどり着いたとき、浜田は顔見知りの消防団員に制止される。「立ち入り禁止になっているんです。もう行かない方がいい」。見慣れた道の先には見るも無残な状況が広がっていた。飼い犬の散歩で知り合った近所のシニア夫婦が住む一軒家は倒壊し、あちらこちらに炎が見える。高いビルからは煙が空高く立ち上り、住み慣れた木造二階建ての自宅は隣家に助けを求めるように傾いていた。 〔PHOTO〕iStock 「妻が家にいるんだよ、とにかく行かせてくれよ!」。何度も勢いよく飛び出そうとしたが、必死に制止された。不安と苛立ちが充満したとき、浜田は妻・幸子との“約束”を思い出す。「俺は阪神・淡路大震災で母親を亡くした。今度は南海トラフ巨大地震が起きるというではないか。だから、東京に出てきたんだ。いいか、幸子。何かあったら必ず逃げてくれ。俺も逃げるから後で絶対に合流しよう」大地震で親を失った浜田は、いざというときの対応を妻と話し合っていた。その“約束”を信じ、浜田は避難所に指定されていた小学校に向かった。避難所に帰宅困難者殺到、避難者同士のトラブルも娘の香織がかつて通った校舎の一角は、ラジオから流れる声を聞き漏らすまいとする人々で溢れていた。最新の被害状況を伝え続けるアナウンサーによれば、耐震性の低い住宅は全壊し、古いビルやマンションも崩れている。木造住宅の密集地域では火災が相次ぎ、いたるところで道路は寸断され、鉄道も運行停止。広範囲で停電や断水が発生しているという悲惨な状況だった。「あなた!」。聞き慣れた声に振り向くと、避難所の端で両手を振る幸子が目に涙を一杯にためていた。妊娠中の香織は入院先で無事が確認され、一家の心は少しだけ和らぐ。ただ、自宅を失った一家はしばらく避難所での生活を余儀なくされる。この後さらなる悲劇に襲われることになるとはそのときは知るよしもなかった。首都直下地震の発生翌日、職場や外出先から自宅への帰還が困難になった帰宅困難者が一時滞在施設の場所がわからず、避難所にも殺到した。収容力を超える事態だ。通信の途絶に加え、スマホのバッテリーは切れ、家族らとの連絡が困難になった人々がイライラを募らせる。備蓄の飲用水や食料は限定的で、仮設トイレは衛生環境が悪化。感染症が蔓延することへの不安も広がった。さらに自宅での避難生活を送っていた人も家庭内の備蓄が枯渇し、避難所に次々と訪れる。支援物資やボランティアの供給には地域でバラツキがみられ、人々のストレスも増すばかりだ。高齢者や既往症を持つ人は慣れない環境での生活に症状が悪化し、避難者同士のトラブルも続発する。
20××年の冬、それは現実のものとして襲いかかった。経験したことのない、突き上げるような強烈な揺れは人々の動きを瞬く間に封じ、激しい動揺と恐怖が心をへし折る。毎年の防災訓練で何度も備えてきたはずだったが、その衝撃は想定をはるかに超えていた。
室内に置かれていたテレビやパソコンは床に倒れ、食器棚からはコーヒーカップや皿が勢いよく飛び出す。窓ガラスは飛散し、タンスや本棚は不思議な動きを見せながら傾いていった。使い慣れたスマホは通信障害で機能せず、助けを呼ぶことも、家族や友人の安否を確認することもできない。テレビのニュースで情報を得ようにも停電が阻む。できることは暗闇の中で静かに待つだけだった。
〔PHOTO〕iStock
すぐ近くの住宅の窓から真っ赤な炎が猛烈な勢いで吹き出し、悲鳴と怒号が響き渡る。隣家から隣家へ延焼していくのは時間の問題で、商品棚がドミノ倒しになったコンビニから逃げまどう人々の表情はこの世の終わりを感じさせる。
日本の首都を襲った大地震の規模は、M7.3。ヒト・モノ・情報が集まる東京には、地球外生命体に強襲されたような信じられない光景が広がった。江東区や江戸川区など11の区は震度7を記録し、人口の多い23区の約6割は震度6以上の揺れが起きる。6000人以上が死亡、負傷者は9万3000人を超え、ライフラインは次々とダメージを受けた。
この日、タクシー運転手の浜田幸男(仮名)は夜の街を流していた。休憩に入ろうとした矢先、常連客からの電話が鳴り「湾岸エリアまで来て、乗せてよ」と頼まれた。「OK!10分ほどで着くから待ってて」と普段と変わらない応答でアクセルを踏み込んだとき、車が持ち上がるような激しい衝撃を感じる。
「ドッ、ドーン!」。追突されたときのものではない、地鳴りのような音が響く。それは腹底を揺さぶられるような強いものだった。都会の喧騒を上回る大音量の緊急地震速報がスマホから鳴り響き、必死でハンドルにしがみつくしかない。「車がひっくり返る、もうダメだ」と身を屈めるのがやっとだった。
最初の激しい揺れは10秒ほどだったが、1分以上に長く感じた。顔を上げたときには周囲の信号機は倒れ、道路沿いの建物は崩れている。ビルや看板の灯りは消え、歩道には瓦礫やガラスが飛び散り、呆然と立ち尽くす若者たちの姿は映画のワンシーンを見ているようだ。
〔PHOTO〕iStock
やや揺れが小さくなったことを感じた浜田は、汗で湿る手で強く握りしめたスマホから家族への電話を繰り返した。だが、一向につながらない。「まさか死んでないよな……」と不安ばかりが募る。
ベテランの域に達した運転手でも見たことがない大渋滞が行く手を遮り、やむなくタクシーを路肩に放置することにした。真っ暗な道を月明かりだけを頼りに急ぎ足で自宅に向かう途中、不気味に静まり返った街では、どこからともなく「助けて」というわずかな声が風に木霊し、耳に残った。
関西出身の浜田は、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災で母を失った。日本で初めての大都市を直下とする地震で、最大震度7を記録。兵庫県を中心に6434人(災害関連死含む)が死亡、3人が行方不明、4万3792人が負傷した大地震だ。テレビやスマホからの情報が遮断される中、浜田はかつて経験した地震と似たような揺れを感じた。
路地を曲がれば自宅という場所にたどり着いたとき、浜田は顔見知りの消防団員に制止される。「立ち入り禁止になっているんです。もう行かない方がいい」。
見慣れた道の先には見るも無残な状況が広がっていた。飼い犬の散歩で知り合った近所のシニア夫婦が住む一軒家は倒壊し、あちらこちらに炎が見える。高いビルからは煙が空高く立ち上り、住み慣れた木造二階建ての自宅は隣家に助けを求めるように傾いていた。
〔PHOTO〕iStock
「妻が家にいるんだよ、とにかく行かせてくれよ!」。何度も勢いよく飛び出そうとしたが、必死に制止された。不安と苛立ちが充満したとき、浜田は妻・幸子との“約束”を思い出す。
「俺は阪神・淡路大震災で母親を亡くした。今度は南海トラフ巨大地震が起きるというではないか。だから、東京に出てきたんだ。いいか、幸子。何かあったら必ず逃げてくれ。俺も逃げるから後で絶対に合流しよう」
大地震で親を失った浜田は、いざというときの対応を妻と話し合っていた。その“約束”を信じ、浜田は避難所に指定されていた小学校に向かった。
娘の香織がかつて通った校舎の一角は、ラジオから流れる声を聞き漏らすまいとする人々で溢れていた。最新の被害状況を伝え続けるアナウンサーによれば、耐震性の低い住宅は全壊し、古いビルやマンションも崩れている。木造住宅の密集地域では火災が相次ぎ、いたるところで道路は寸断され、鉄道も運行停止。広範囲で停電や断水が発生しているという悲惨な状況だった。
「あなた!」。聞き慣れた声に振り向くと、避難所の端で両手を振る幸子が目に涙を一杯にためていた。妊娠中の香織は入院先で無事が確認され、一家の心は少しだけ和らぐ。ただ、自宅を失った一家はしばらく避難所での生活を余儀なくされる。この後さらなる悲劇に襲われることになるとはそのときは知るよしもなかった。
首都直下地震の発生翌日、職場や外出先から自宅への帰還が困難になった帰宅困難者が一時滞在施設の場所がわからず、避難所にも殺到した。収容力を超える事態だ。通信の途絶に加え、スマホのバッテリーは切れ、家族らとの連絡が困難になった人々がイライラを募らせる。備蓄の飲用水や食料は限定的で、仮設トイレは衛生環境が悪化。感染症が蔓延することへの不安も広がった。
さらに自宅での避難生活を送っていた人も家庭内の備蓄が枯渇し、避難所に次々と訪れる。支援物資やボランティアの供給には地域でバラツキがみられ、人々のストレスも増すばかりだ。高齢者や既往症を持つ人は慣れない環境での生活に症状が悪化し、避難者同士のトラブルも続発する。

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