「使っていた薬物は致死量を超えていた」覚せい剤で逮捕の清原和博はなぜ“薬物依存”に陥ってしまったのか

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2016年5月31日。覚せい剤取締法違反によって有罪判決を受けた清原和博氏。清原氏は執行猶予期間中、薬物依存症やうつ病に苦しみ、自殺願望を抱え、もがき続けていたという。いったい彼は、どのようにして苦痛と向き合いながら生活していたのだろうか?
【画像】覚せい剤取締法違反で逮捕されたときの清原和博氏
ここでは、清原氏が薬物依存の怖さ、うつ病との戦い、家族の支えについて語った『薬物依存症の日々』(文春文庫)より一部を抜粋。彼がどんなきっかけで覚せい剤に手を出し、薬物に溺れていったのかを紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く)
清原和博氏 文藝春秋
◆◆◆
振り返ってみると、ぼくが覚せい剤を手にするきっかけになったのもほんの小さな心の穴でした。
おそらくだれにでもあるような満たされない気持ちでした。
2008年10月1日。オリックスで現役を引退した翌日から、ぼくにとっては第二の人生がはじまりました。バットを握らなくなりました。もう手術した左膝の状態を朝から晩まで考えなくてもいいし、もう打たなければならないという緊張や重圧も感じなくてもいい。最初はすごく解放的な気分でした。
家族と過ごす時間が増えて、週末になれば長男が出る少年野球の試合を見に行くことができました。
いっしょにスポーツ用品店に行って、バットやグラブを買う。
バッティングセンターに行って「もっとこうやって打った方がいいよ」と教えてあげる。
ぼくの言ったことを息子が聞いてくれてどんどん上手くなっていく。
こいつ才能あるなあと、親バカのようにうれしくなっているぼくがいる。
毎週、毎週、息子の試合の日が待ち遠しくてしかたありませんでした。今までに手にしたことがなかった種類の幸せを感じていたんです。
今思うと、これ以上ないという幸せの中にいたはずなのに、あの当時のぼくはそれに気がついていませんでした。
野球をやめた瞬間からどこかぽっかりと心に穴が空いたようで、いつも何かが足りないような気がしていました。
つまり自分がもうホームランバッターではなくなったということを受け入れることができなかった。あのホームランの快感をどこかで追い求めていた。それに代わるものを探していたんです。
昔からぼくには趣味がありませんでした。ゴルフにもギャンブルにも夢中にはなれない。野球解説者の仕事にも、タレントとしてテレビ出演する仕事にも、没頭することができませんでした。つくづく野球にしか夢中になれない人間で、野球がなくなったことに対する空白感というのがずっとありました。結局、ぼくは自分の手にあるものに目を向けることができず、失ったものばかりに目を向けていたんだと思います。
そしてぼくは自分のことをだれよりも強い、だれにも負けない人間だと考えていて、つまりは傲慢(ごうまん)だったんです。
自分が描いていた清原和博というのはこんなものじゃない。そう悩むようになって、その心の喪失感を埋めるために、夜の街に飲みに出ることが増えていきました。 あのとき、自分はどういう人生を歩みたかったのか、よくわかりません。ただただ歓声と快感と刺激を求めていたような気がします。 お酒の量がどんどん増えていって、溺れるようになっていきました。 そんなとき夜の酒場で薬物を持っているという人間に出会いました。その人物は白い粉を出して、これをやれば憂うつなんか吹っ飛んでしまうと言いました。そこでぼくは本当にもう軽い気持ちでそれを手にしたんです。 目標を持てず、何者なのかわからない自分が嫌で嫌で、そういう自分から逃げだしたくて、酒を飲んだ勢いでやったんです。 その1回がすべてでした。あとから考えれば、そこからはもう転げ落ちるようでした。 自分ではいつもの自分でいるつもりでした。嫌な気持ちを忘れるために夜な夜な酒を飲んで、覚せい剤をやって、それでも家に帰ればいつものように家族と過ごしている。 家族のまえではいつもと同じ父親でいる。「アパッチ」(編注:子供たちは清原氏をそう呼んでいた)でいる。そうしているつもりでした。 ただ夜になると、家族には言えないもうひとりの自分がいる。はじめは少量の覚せい剤を水で溶かして、それを熱してからストローなどで吸引する「あぶり」という方法でやっていたのですが、だんだんと量が増えていきました。 そうしているうちに覚せい剤を買いにいくために友人や知人との約束をすっぽかしたり、仕事もすっぽかしたり、家族との時間さえ削っていくようになりました。 記憶も曖昧(あいまい)になっていって、自分がどういう行動をしたのか、だれに何を言ったのかもわからなくなっていくんです。暴言を吐いたり暴力を振るったという記憶はないんですが、あとから考えると、そういうこともあったのかもしれないと怖ろしくなります。 おそらく元妻の亜希はそれに気づいて、ずいぶん悩んだのだろうと思います。 でもぼくはそのことに気づいていない。相変わらず「ちょっとだけ不安から逃げるために薬をやっているだけ。いざとなったらいつでもやめられる」と考えていました。 そのときにはすでに薬物に支配されていたんです。 そして、ある日、家に帰ったらだれもいませんでした。 荷物も何もかもなくなっていて、もぬけの殻(から)です。 ぼくがいちばん大切なものを失った瞬間でした。 それでもまだぼくは何が起こったのかを理解できず、受け入れられず、息子が試合をやっているグラウンドや学校にまで行って探しまわったんです。致死量を超えていた ほんとうに何もかもがテキストに書いてある通りで嫌になってしまいます。 家族を失ったぼくはそれで薬物をやめるどころか、孤独を埋めるためにどんどん薬物を使うようになっていきました。 もう半分は自暴自棄になっているので「あぶり」では物足りなくなって注射器を使って、静脈から直接体内へと入れるようになっていったんです。 薬物を使うと頭がすっきりと冴(さ)えて何日も眠らなくても平気になります。ただ効き目が切れると何日間か死んだように眠り続けるんです。 人間の脳というのは快感を覚えると、次からは同じ快感では物足りなくなってしまいます。さらに強い刺激を求めるようになって、薬物はとめどなく増えていくんです。 これはあとから先生に聞いたことですが、ぼくが使っていた覚せい剤の量は致死量を超えていたそうです。あのころは失うものなんてなかったですから、やけになっていたんだと思います。 あまりに大量の薬物を使ったために気を失ってぶっ倒れて、病院にかつぎ込まれたこともありました。医学用語でいうところの「オーバードーズ」で、そのときは頭に電気を流してかろうじて命をとりとめたような状態だったそうです。 もうそのころにはまわりに残っている人たちはみんな、ぼくが薬物依存だと知っていました。父も母も、一部の友人たちも……。 それでもぼくはまだそんな自分を隠しながら、薬物はやめられると信じていました。 このままじゃダメだ、もうやめよう、もうやめなければいけない。そう思っている自分がいる。でも結局はやめられない。薬に逃げて、そんな自分に失望して落ち込んで、自分を責め続けてまた薬に逃げるという繰り返しでした。 命の危険にさらされたのに、さらにそれ以上の薬物を体内に入れてまた倒れました。 集中治療室のようなところに入っているぼくのもとへ両親は駆けつけて、お母さんは医師の足にすがりついて泣いたそうです。「お願いです! 先生、なんとかこの子を助けてやってください!」 それでもぼくはお母さんに薬物のことを打ち明けることができませんでした。自分ではどうにもならないから助けて欲しいと、だれにも言うことができませんでした。 やがて、もうこんな自分をやめるには、命を絶つしかないと考えるようになりました。 ただ、どうやって死のうか考えたとき、ぼくには短刀で腹を切るということくらいしか思い浮かびませんでした。そこで突然、刀を作っている職人さんのところに電話をかけて「短刀を売ってもらうことはできませんか」と相談したりしました。 それでも結局は死ぬことさえできませんでした。 気づけば現実逃避のために覚せい剤を注射している自分がいる。薬物という泥沼に首までどっぷりとつかって、もがくことさえ、身動きすることさえできない。 逮捕されたのはまさにそんなときでした。〈「清原、銀座で大暴れ」執行猶予中の“泥酔騒動”で警察沙汰…薬物依存症に苦しむ清原和博がアルコールに溺れたワケ〉へ続く(清原 和博/文春文庫)
自分が描いていた清原和博というのはこんなものじゃない。そう悩むようになって、その心の喪失感を埋めるために、夜の街に飲みに出ることが増えていきました。
あのとき、自分はどういう人生を歩みたかったのか、よくわかりません。ただただ歓声と快感と刺激を求めていたような気がします。
お酒の量がどんどん増えていって、溺れるようになっていきました。
そんなとき夜の酒場で薬物を持っているという人間に出会いました。その人物は白い粉を出して、これをやれば憂うつなんか吹っ飛んでしまうと言いました。そこでぼくは本当にもう軽い気持ちでそれを手にしたんです。
目標を持てず、何者なのかわからない自分が嫌で嫌で、そういう自分から逃げだしたくて、酒を飲んだ勢いでやったんです。
その1回がすべてでした。あとから考えれば、そこからはもう転げ落ちるようでした。
自分ではいつもの自分でいるつもりでした。嫌な気持ちを忘れるために夜な夜な酒を飲んで、覚せい剤をやって、それでも家に帰ればいつものように家族と過ごしている。 家族のまえではいつもと同じ父親でいる。「アパッチ」(編注:子供たちは清原氏をそう呼んでいた)でいる。そうしているつもりでした。 ただ夜になると、家族には言えないもうひとりの自分がいる。はじめは少量の覚せい剤を水で溶かして、それを熱してからストローなどで吸引する「あぶり」という方法でやっていたのですが、だんだんと量が増えていきました。 そうしているうちに覚せい剤を買いにいくために友人や知人との約束をすっぽかしたり、仕事もすっぽかしたり、家族との時間さえ削っていくようになりました。 記憶も曖昧(あいまい)になっていって、自分がどういう行動をしたのか、だれに何を言ったのかもわからなくなっていくんです。暴言を吐いたり暴力を振るったという記憶はないんですが、あとから考えると、そういうこともあったのかもしれないと怖ろしくなります。 おそらく元妻の亜希はそれに気づいて、ずいぶん悩んだのだろうと思います。 でもぼくはそのことに気づいていない。相変わらず「ちょっとだけ不安から逃げるために薬をやっているだけ。いざとなったらいつでもやめられる」と考えていました。 そのときにはすでに薬物に支配されていたんです。 そして、ある日、家に帰ったらだれもいませんでした。 荷物も何もかもなくなっていて、もぬけの殻(から)です。 ぼくがいちばん大切なものを失った瞬間でした。 それでもまだぼくは何が起こったのかを理解できず、受け入れられず、息子が試合をやっているグラウンドや学校にまで行って探しまわったんです。致死量を超えていた ほんとうに何もかもがテキストに書いてある通りで嫌になってしまいます。 家族を失ったぼくはそれで薬物をやめるどころか、孤独を埋めるためにどんどん薬物を使うようになっていきました。 もう半分は自暴自棄になっているので「あぶり」では物足りなくなって注射器を使って、静脈から直接体内へと入れるようになっていったんです。 薬物を使うと頭がすっきりと冴(さ)えて何日も眠らなくても平気になります。ただ効き目が切れると何日間か死んだように眠り続けるんです。 人間の脳というのは快感を覚えると、次からは同じ快感では物足りなくなってしまいます。さらに強い刺激を求めるようになって、薬物はとめどなく増えていくんです。 これはあとから先生に聞いたことですが、ぼくが使っていた覚せい剤の量は致死量を超えていたそうです。あのころは失うものなんてなかったですから、やけになっていたんだと思います。 あまりに大量の薬物を使ったために気を失ってぶっ倒れて、病院にかつぎ込まれたこともありました。医学用語でいうところの「オーバードーズ」で、そのときは頭に電気を流してかろうじて命をとりとめたような状態だったそうです。 もうそのころにはまわりに残っている人たちはみんな、ぼくが薬物依存だと知っていました。父も母も、一部の友人たちも……。 それでもぼくはまだそんな自分を隠しながら、薬物はやめられると信じていました。 このままじゃダメだ、もうやめよう、もうやめなければいけない。そう思っている自分がいる。でも結局はやめられない。薬に逃げて、そんな自分に失望して落ち込んで、自分を責め続けてまた薬に逃げるという繰り返しでした。 命の危険にさらされたのに、さらにそれ以上の薬物を体内に入れてまた倒れました。 集中治療室のようなところに入っているぼくのもとへ両親は駆けつけて、お母さんは医師の足にすがりついて泣いたそうです。「お願いです! 先生、なんとかこの子を助けてやってください!」 それでもぼくはお母さんに薬物のことを打ち明けることができませんでした。自分ではどうにもならないから助けて欲しいと、だれにも言うことができませんでした。 やがて、もうこんな自分をやめるには、命を絶つしかないと考えるようになりました。 ただ、どうやって死のうか考えたとき、ぼくには短刀で腹を切るということくらいしか思い浮かびませんでした。そこで突然、刀を作っている職人さんのところに電話をかけて「短刀を売ってもらうことはできませんか」と相談したりしました。 それでも結局は死ぬことさえできませんでした。 気づけば現実逃避のために覚せい剤を注射している自分がいる。薬物という泥沼に首までどっぷりとつかって、もがくことさえ、身動きすることさえできない。 逮捕されたのはまさにそんなときでした。〈「清原、銀座で大暴れ」執行猶予中の“泥酔騒動”で警察沙汰…薬物依存症に苦しむ清原和博がアルコールに溺れたワケ〉へ続く(清原 和博/文春文庫)
自分ではいつもの自分でいるつもりでした。嫌な気持ちを忘れるために夜な夜な酒を飲んで、覚せい剤をやって、それでも家に帰ればいつものように家族と過ごしている。
家族のまえではいつもと同じ父親でいる。「アパッチ」(編注:子供たちは清原氏をそう呼んでいた)でいる。そうしているつもりでした。
ただ夜になると、家族には言えないもうひとりの自分がいる。はじめは少量の覚せい剤を水で溶かして、それを熱してからストローなどで吸引する「あぶり」という方法でやっていたのですが、だんだんと量が増えていきました。
そうしているうちに覚せい剤を買いにいくために友人や知人との約束をすっぽかしたり、仕事もすっぽかしたり、家族との時間さえ削っていくようになりました。
記憶も曖昧(あいまい)になっていって、自分がどういう行動をしたのか、だれに何を言ったのかもわからなくなっていくんです。暴言を吐いたり暴力を振るったという記憶はないんですが、あとから考えると、そういうこともあったのかもしれないと怖ろしくなります。
おそらく元妻の亜希はそれに気づいて、ずいぶん悩んだのだろうと思います。
でもぼくはそのことに気づいていない。相変わらず「ちょっとだけ不安から逃げるために薬をやっているだけ。いざとなったらいつでもやめられる」と考えていました。
そのときにはすでに薬物に支配されていたんです。
そして、ある日、家に帰ったらだれもいませんでした。
荷物も何もかもなくなっていて、もぬけの殻(から)です。
ぼくがいちばん大切なものを失った瞬間でした。
それでもまだぼくは何が起こったのかを理解できず、受け入れられず、息子が試合をやっているグラウンドや学校にまで行って探しまわったんです。
ほんとうに何もかもがテキストに書いてある通りで嫌になってしまいます。
家族を失ったぼくはそれで薬物をやめるどころか、孤独を埋めるためにどんどん薬物を使うようになっていきました。
もう半分は自暴自棄になっているので「あぶり」では物足りなくなって注射器を使って、静脈から直接体内へと入れるようになっていったんです。
薬物を使うと頭がすっきりと冴(さ)えて何日も眠らなくても平気になります。ただ効き目が切れると何日間か死んだように眠り続けるんです。
人間の脳というのは快感を覚えると、次からは同じ快感では物足りなくなってしまいます。さらに強い刺激を求めるようになって、薬物はとめどなく増えていくんです。
これはあとから先生に聞いたことですが、ぼくが使っていた覚せい剤の量は致死量を超えていたそうです。あのころは失うものなんてなかったですから、やけになっていたんだと思います。
あまりに大量の薬物を使ったために気を失ってぶっ倒れて、病院にかつぎ込まれたこともありました。医学用語でいうところの「オーバードーズ」で、そのときは頭に電気を流してかろうじて命をとりとめたような状態だったそうです。
もうそのころにはまわりに残っている人たちはみんな、ぼくが薬物依存だと知っていました。父も母も、一部の友人たちも……。 それでもぼくはまだそんな自分を隠しながら、薬物はやめられると信じていました。 このままじゃダメだ、もうやめよう、もうやめなければいけない。そう思っている自分がいる。でも結局はやめられない。薬に逃げて、そんな自分に失望して落ち込んで、自分を責め続けてまた薬に逃げるという繰り返しでした。 命の危険にさらされたのに、さらにそれ以上の薬物を体内に入れてまた倒れました。 集中治療室のようなところに入っているぼくのもとへ両親は駆けつけて、お母さんは医師の足にすがりついて泣いたそうです。「お願いです! 先生、なんとかこの子を助けてやってください!」 それでもぼくはお母さんに薬物のことを打ち明けることができませんでした。自分ではどうにもならないから助けて欲しいと、だれにも言うことができませんでした。 やがて、もうこんな自分をやめるには、命を絶つしかないと考えるようになりました。 ただ、どうやって死のうか考えたとき、ぼくには短刀で腹を切るということくらいしか思い浮かびませんでした。そこで突然、刀を作っている職人さんのところに電話をかけて「短刀を売ってもらうことはできませんか」と相談したりしました。 それでも結局は死ぬことさえできませんでした。 気づけば現実逃避のために覚せい剤を注射している自分がいる。薬物という泥沼に首までどっぷりとつかって、もがくことさえ、身動きすることさえできない。 逮捕されたのはまさにそんなときでした。〈「清原、銀座で大暴れ」執行猶予中の“泥酔騒動”で警察沙汰…薬物依存症に苦しむ清原和博がアルコールに溺れたワケ〉へ続く(清原 和博/文春文庫)
もうそのころにはまわりに残っている人たちはみんな、ぼくが薬物依存だと知っていました。父も母も、一部の友人たちも……。
それでもぼくはまだそんな自分を隠しながら、薬物はやめられると信じていました。
このままじゃダメだ、もうやめよう、もうやめなければいけない。そう思っている自分がいる。でも結局はやめられない。薬に逃げて、そんな自分に失望して落ち込んで、自分を責め続けてまた薬に逃げるという繰り返しでした。
命の危険にさらされたのに、さらにそれ以上の薬物を体内に入れてまた倒れました。
集中治療室のようなところに入っているぼくのもとへ両親は駆けつけて、お母さんは医師の足にすがりついて泣いたそうです。
「お願いです! 先生、なんとかこの子を助けてやってください!」
それでもぼくはお母さんに薬物のことを打ち明けることができませんでした。自分ではどうにもならないから助けて欲しいと、だれにも言うことができませんでした。
やがて、もうこんな自分をやめるには、命を絶つしかないと考えるようになりました。
ただ、どうやって死のうか考えたとき、ぼくには短刀で腹を切るということくらいしか思い浮かびませんでした。そこで突然、刀を作っている職人さんのところに電話をかけて「短刀を売ってもらうことはできませんか」と相談したりしました。
それでも結局は死ぬことさえできませんでした。
気づけば現実逃避のために覚せい剤を注射している自分がいる。薬物という泥沼に首までどっぷりとつかって、もがくことさえ、身動きすることさえできない。
逮捕されたのはまさにそんなときでした。
〈「清原、銀座で大暴れ」執行猶予中の“泥酔騒動”で警察沙汰…薬物依存症に苦しむ清原和博がアルコールに溺れたワケ〉へ続く
(清原 和博/文春文庫)

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