《写真あり》「眞子さんが学習院に進学していれば……」先輩である学習院OBOGが漏らした「小室圭さんとの結婚」への複雑な思い

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「眞子さんが学習院に進学していれば……」
《貴重写真》「険しいご表情」で眞子さんを見つめる紀子さま(写真多数) 関係者からは、そんな嘆きに似たような声が聞こえてきたことも。学習院OBOGにとって、2021年の小室圭さんと眞子さんの結婚が、手放しで喜べるものではなかった理由とは? 昭和女子大現代ビジネス研究所研究員の藤澤志穂子氏の新刊『学習院女子と皇室』より一部抜粋・再構成してお届けする。学習院関係者たちは、なぜ眞子さん・小室圭さんの結婚報道に複雑な思いを抱いたのか? JMPA

◆◆◆ 筆者が『学習院女子と皇室』を執筆するきっかけになったのは、この数年の皇室、特に秋篠宮家を巡る報道を目にしたことでした。より正確に言えば、そうした報道を目にした学習院大学の同級生、同窓生の声を聞いたこと、という面が強かったように思います。 筆者は曾祖父、祖母、母と数えて四代目の学習院卒業生であることから、OBやOGの友人、知人が多くいます。 本来なら祝福ムード一辺倒になりそうな小室眞子さんの結婚だったのですが、世間一般と同様、学習院OBOGの反応もいささか複雑なものがありました。「眞子さんが学習院に進学していれば……」 よく聞こえてきたのは、眞子さんが学習院に進学していれば……という嘆きのような声でした。ご本人たちからすれば大きなお世話かとも思うのですが、学習院の同窓生ネットワークで、何とか眞子さんをお守りしたかったという、いわば身内意識というか「親心」にも似た思いからくる嘆きです。学習院関係者の間には、皇族の皆さまに対し、こうしたシンパシーを持つむきが実は多いのです。 2017年9月の婚約内定会見当時の圭さんの職業「パラリーガル」は、法律事務所で弁護士の補佐をする事務職員で、年収はそう高くありません。当時の圭さんの、働きながら経営大学院にも通うという状況は、弁護士を目指すのか、他の道を行くのかも“外野”から見れば不透明でした。筆者には将来の目標が定まっていないように見えました。 そうした20代男性が、大学同窓の女性と結婚するなら、普通は共働きを考えるでしょう。もしくは男性が弁護士になってから結婚に踏み切るか。 もちろん収入の多寡は結婚の条件ではなく、勢いのままに結婚するのも悪いことではありません。親の支援に頼ることもあるでしょう。ですが、それは一般国民の場合であって、さすがに皇族の場合、そうはいかないというのが常識的な見方ではないでしょうか。 ところが、当時のお二人には、いかなる人生設計があったのかがわかりませんでした。 2021年になり、結婚が本決まりになった背景に、ニューヨークにおける小室さんの「就職内定」がありました。 フォーダム大学のロースクールを卒業してマンハッタンの法律事務所に助手として就職する、とのことでした。もちろん助手のままでいるつもりはなく、現地の司法試験に合格して弁護士になるつもりだったのですが、2度の失敗を経て3度目に合格するまでには1年近い時間がかかったのは周知のことでしょう。 合格自体はとても喜ばしいことですし、時折伝わってくる現地での夫妻の様子を見る限り、とても充実した生活を送っているようです。 ただ、米国で活躍する日本人弁護士の多くは、日本の司法試験に合格し、弁護士資格を持って法律事務所に入り、仕事をした上で米国の弁護士資格を取るために派遣される、というのが通常コースです。 ではなぜ、そうしたオーソドックスなコースを辿ろうとしなかったのか。それだけ急ぐ必要があったとすれば、眞子さんの思いが関係していたということでしょうか。眞子さんの一途さに感じる危うさ「皇室を出たい」一心で、結婚に走ったらしい眞子さんの一途さには、同時に「危うさ」を感じます。おそらく男性に免疫のない「純粋培養」の環境で、「お嬢さま学校」を経て大学に進み、人生で初めて本格的にお付き合いしたであろう男性にほれ込み、その一途な思いを貫き通した。そのように筆者の目には映りました。 いま「純粋培養」という表現を用いましたが、眞子さんが小室さんと出会う前、すなわち幼稚園から高校まで、学習院ではどのような教育を受けていたのかを見てみましょう。 学習院は幼稚園、初等科、大学は共学ですが、中学・高校は男女別学で場所も別です。 眞子さん、そして筆者の母校でもある学習院女子中・高等科(学習院女子部)は東京都新宿区戸山にあります。JR高田馬場駅から徒歩20分、東京メトロ東西線の早稲田駅からは徒歩8分、副都心線の西早稲田駅からは徒歩1分ほど。駅名が示すように、早稲田大学のキャンパスに近く、江戸時代には尾張徳川家が下屋敷としていた地域です。戦前には近衛騎兵連隊の兵舎があり、その跡地に戦後の1946年に移転してきました。 もともと学習院は皇族に仕える華族のために設立したという経緯があります。女子部の前身は、華族女学校という名称でした。その「伝統」の名残はいまでもあります。 たとえば、学習院女子部では、歴代皇后から下賜された「御歌」が今も歌い継がれています。その重要度は高く、入学して最初に学ぶのは、古文の授業で御歌の意味、音楽の授業では歌い方です。 特に女子部生の「心の糧」となっている御歌は、昭憲皇太后(明治天皇の妃)が1887年に華族女学校に下賜した「金剛石・水は器」です。これが事実上の校歌として入学式などで歌われているのです。隔絶された「女の園」 他にも名残を感じさせるのは、「女子部言葉」でしょうか。筆者が生まれた頃、昭和40年代にはまだ「ごめん遊ばせ」といった言い回しが生きていたと聞きます。 現存する唯一の女子部言葉が「ごきげんよう」でしょう。かつて華族の家庭で普通に使われていたもので、「おはようございます」「さようなら」も全て「ごきげんよう」です。 守衛さんに「ごきげんよう」とあいさつする生徒を遠目に見て、近隣の学校に通う学生は別の世界のように感じた、と聞いたこともあります。 その近隣の学校としては、隣接する東京都立戸山高校と新宿区立西早稲田中学校があげられます。 しかし、両校と女子部との交流は全くありません。戸山高校とはグラウンドが隣接しており、部活や体育の授業で、たまに先方の敷地内に入り込んでしまうボールを投げ返してもらっていましたが。徒歩圏内に複数のキャンパスを構える早稲田大学との交流も不思議とありません。隔絶された「女の園」と言えなくもないでしょう。 筆者が学習院女子部在籍時に「戸山高校と交流会を持つことはできませんか」と先生に進言したことがありましたが、あっさり却下され、残念に思ったことを覚えています。「万が一なにかのトラブルが起きても困る」といった考えがおありだったのかもしれません。 学習院女子高等科と他校との公式な交流は唯一、東京・目白にある学習院高等科(男子部)と、筑波大学附属高校(東京都文京区)との間で年1回、行われてきた運動部の総合定期戦「附属戦」くらいです。筑波大附属側では「院戦」と呼んでいます。 2021年に第70回の開催を迎えた歴史ある交流試合で、運動部の対戦を、生徒たち総出でサポートします。目白が会場となり、エール交換では筑波大附属の校歌「桐陰会会歌」、学習院の校歌「学習院院歌」を互いに歌いあいます。 筆者自身も運営側として、同年代の筑波大附属の生徒たちと準備に当たりました。ふだん縁のない男子生徒たち、それも進学校の人たちとの交流は刺激になり、大変楽しかったことを覚えています。 とはいえ交流はそれまでで、一緒に運営に当たった筑波大附属の生徒に「学習院大学も受験しますか」と聞いたら「そんなつもりは毛頭ない」と一蹴されたのが印象に残っています。「東大に進むような頭のよい人たちに、我々など全く相手にされないのだな」と考えておりました。 そんな中でも女子部生は、学習院男子部を始め、男子校の文化祭には友人同士で連れ立って出かけたりもしています。休日にそうしたところへ行くことを、禁止されているわけではありません。「制服姿では行かないように」と先生から釘は刺されておりました。 例えば当時近くにあった早稲田実業は高校野球の強豪校であり、私を含む多くの生徒たちが文化祭に足を運びました。1980年代に甲子園で活躍した荒木大輔選手(現野球解説者)の「追っかけ」に励んでいた生徒もいました。他校の男子生徒とお付き合いに発展したケースも少なからずあったはずです。 ただ、それ以上に多かったのは、かっこいい同性の先輩に憧れ、こっそり手紙を渡し、文通に至るというケースでした。今なら少なくともメールでしょうが、まあ、女子校らしい校風ではあります。最初に付き合った男子学生と結婚するケースも… 実際に身近にいる男性は教諭のみ。教育実習で学習院大学から派遣されてくる学生も含め、男性教諭は大人気で、生徒と結婚に至る例もありました。そんな女子のみの「純粋培養」ですから、生徒たちには同年代の男性への免疫があまりありません。 筆者は、大学に進学した途端、最初に付き合った男子学生と、純愛を貫いて結婚する、という例をたくさん見てきました。親が決めた相手とのお見合い結婚も多くあります。 華族女学校の頃の教育を評して「超高級花嫁学校」のようなものだったと評していた人もいます(浅見雅男『学習院』)。もちろん戦後はそうした教育からは離れて行ったのですが、それでもどこか名残のようなものはあったのかもしれません。 もともと眞子さんの場合は、常に皇宮警察の護衛がつかず離れず側にいたでしょうから、いろいろなところに出かけ、誰彼となく気軽に交流できる立場ではなかったでしょう。大学入学まで、あまり男性との接点は多くなかったと推察できます。そんな環境で育った眞子さんが、学習院ではなくICUへ進学して出会ったのが小室さんだったわけです。 少し時間はかかったものの、小室さんが弁護士となったことで、ご夫妻の生活が新しい局面を迎えたのは間違いありません。ご本人たちにとっては「大きなお世話」かもしれませんが、おそらく学習院関係者たちは、どこか身内のような気持ちを抱きながら、今後もお二人を見続けることでしょう。(藤澤 志穂子/Webオリジナル(外部転載))
関係者からは、そんな嘆きに似たような声が聞こえてきたことも。学習院OBOGにとって、2021年の小室圭さんと眞子さんの結婚が、手放しで喜べるものではなかった理由とは?
昭和女子大現代ビジネス研究所研究員の藤澤志穂子氏の新刊『学習院女子と皇室』より一部抜粋・再構成してお届けする。
学習院関係者たちは、なぜ眞子さん・小室圭さんの結婚報道に複雑な思いを抱いたのか? JMPA
◆◆◆
筆者が『学習院女子と皇室』を執筆するきっかけになったのは、この数年の皇室、特に秋篠宮家を巡る報道を目にしたことでした。より正確に言えば、そうした報道を目にした学習院大学の同級生、同窓生の声を聞いたこと、という面が強かったように思います。
筆者は曾祖父、祖母、母と数えて四代目の学習院卒業生であることから、OBやOGの友人、知人が多くいます。
本来なら祝福ムード一辺倒になりそうな小室眞子さんの結婚だったのですが、世間一般と同様、学習院OBOGの反応もいささか複雑なものがありました。
よく聞こえてきたのは、眞子さんが学習院に進学していれば……という嘆きのような声でした。ご本人たちからすれば大きなお世話かとも思うのですが、学習院の同窓生ネットワークで、何とか眞子さんをお守りしたかったという、いわば身内意識というか「親心」にも似た思いからくる嘆きです。学習院関係者の間には、皇族の皆さまに対し、こうしたシンパシーを持つむきが実は多いのです。
2017年9月の婚約内定会見当時の圭さんの職業「パラリーガル」は、法律事務所で弁護士の補佐をする事務職員で、年収はそう高くありません。当時の圭さんの、働きながら経営大学院にも通うという状況は、弁護士を目指すのか、他の道を行くのかも“外野”から見れば不透明でした。筆者には将来の目標が定まっていないように見えました。 そうした20代男性が、大学同窓の女性と結婚するなら、普通は共働きを考えるでしょう。もしくは男性が弁護士になってから結婚に踏み切るか。 もちろん収入の多寡は結婚の条件ではなく、勢いのままに結婚するのも悪いことではありません。親の支援に頼ることもあるでしょう。ですが、それは一般国民の場合であって、さすがに皇族の場合、そうはいかないというのが常識的な見方ではないでしょうか。 ところが、当時のお二人には、いかなる人生設計があったのかがわかりませんでした。 2021年になり、結婚が本決まりになった背景に、ニューヨークにおける小室さんの「就職内定」がありました。 フォーダム大学のロースクールを卒業してマンハッタンの法律事務所に助手として就職する、とのことでした。もちろん助手のままでいるつもりはなく、現地の司法試験に合格して弁護士になるつもりだったのですが、2度の失敗を経て3度目に合格するまでには1年近い時間がかかったのは周知のことでしょう。 合格自体はとても喜ばしいことですし、時折伝わってくる現地での夫妻の様子を見る限り、とても充実した生活を送っているようです。 ただ、米国で活躍する日本人弁護士の多くは、日本の司法試験に合格し、弁護士資格を持って法律事務所に入り、仕事をした上で米国の弁護士資格を取るために派遣される、というのが通常コースです。 ではなぜ、そうしたオーソドックスなコースを辿ろうとしなかったのか。それだけ急ぐ必要があったとすれば、眞子さんの思いが関係していたということでしょうか。眞子さんの一途さに感じる危うさ「皇室を出たい」一心で、結婚に走ったらしい眞子さんの一途さには、同時に「危うさ」を感じます。おそらく男性に免疫のない「純粋培養」の環境で、「お嬢さま学校」を経て大学に進み、人生で初めて本格的にお付き合いしたであろう男性にほれ込み、その一途な思いを貫き通した。そのように筆者の目には映りました。 いま「純粋培養」という表現を用いましたが、眞子さんが小室さんと出会う前、すなわち幼稚園から高校まで、学習院ではどのような教育を受けていたのかを見てみましょう。 学習院は幼稚園、初等科、大学は共学ですが、中学・高校は男女別学で場所も別です。 眞子さん、そして筆者の母校でもある学習院女子中・高等科(学習院女子部)は東京都新宿区戸山にあります。JR高田馬場駅から徒歩20分、東京メトロ東西線の早稲田駅からは徒歩8分、副都心線の西早稲田駅からは徒歩1分ほど。駅名が示すように、早稲田大学のキャンパスに近く、江戸時代には尾張徳川家が下屋敷としていた地域です。戦前には近衛騎兵連隊の兵舎があり、その跡地に戦後の1946年に移転してきました。 もともと学習院は皇族に仕える華族のために設立したという経緯があります。女子部の前身は、華族女学校という名称でした。その「伝統」の名残はいまでもあります。 たとえば、学習院女子部では、歴代皇后から下賜された「御歌」が今も歌い継がれています。その重要度は高く、入学して最初に学ぶのは、古文の授業で御歌の意味、音楽の授業では歌い方です。 特に女子部生の「心の糧」となっている御歌は、昭憲皇太后(明治天皇の妃)が1887年に華族女学校に下賜した「金剛石・水は器」です。これが事実上の校歌として入学式などで歌われているのです。隔絶された「女の園」 他にも名残を感じさせるのは、「女子部言葉」でしょうか。筆者が生まれた頃、昭和40年代にはまだ「ごめん遊ばせ」といった言い回しが生きていたと聞きます。 現存する唯一の女子部言葉が「ごきげんよう」でしょう。かつて華族の家庭で普通に使われていたもので、「おはようございます」「さようなら」も全て「ごきげんよう」です。 守衛さんに「ごきげんよう」とあいさつする生徒を遠目に見て、近隣の学校に通う学生は別の世界のように感じた、と聞いたこともあります。 その近隣の学校としては、隣接する東京都立戸山高校と新宿区立西早稲田中学校があげられます。 しかし、両校と女子部との交流は全くありません。戸山高校とはグラウンドが隣接しており、部活や体育の授業で、たまに先方の敷地内に入り込んでしまうボールを投げ返してもらっていましたが。徒歩圏内に複数のキャンパスを構える早稲田大学との交流も不思議とありません。隔絶された「女の園」と言えなくもないでしょう。 筆者が学習院女子部在籍時に「戸山高校と交流会を持つことはできませんか」と先生に進言したことがありましたが、あっさり却下され、残念に思ったことを覚えています。「万が一なにかのトラブルが起きても困る」といった考えがおありだったのかもしれません。 学習院女子高等科と他校との公式な交流は唯一、東京・目白にある学習院高等科(男子部)と、筑波大学附属高校(東京都文京区)との間で年1回、行われてきた運動部の総合定期戦「附属戦」くらいです。筑波大附属側では「院戦」と呼んでいます。 2021年に第70回の開催を迎えた歴史ある交流試合で、運動部の対戦を、生徒たち総出でサポートします。目白が会場となり、エール交換では筑波大附属の校歌「桐陰会会歌」、学習院の校歌「学習院院歌」を互いに歌いあいます。 筆者自身も運営側として、同年代の筑波大附属の生徒たちと準備に当たりました。ふだん縁のない男子生徒たち、それも進学校の人たちとの交流は刺激になり、大変楽しかったことを覚えています。 とはいえ交流はそれまでで、一緒に運営に当たった筑波大附属の生徒に「学習院大学も受験しますか」と聞いたら「そんなつもりは毛頭ない」と一蹴されたのが印象に残っています。「東大に進むような頭のよい人たちに、我々など全く相手にされないのだな」と考えておりました。 そんな中でも女子部生は、学習院男子部を始め、男子校の文化祭には友人同士で連れ立って出かけたりもしています。休日にそうしたところへ行くことを、禁止されているわけではありません。「制服姿では行かないように」と先生から釘は刺されておりました。 例えば当時近くにあった早稲田実業は高校野球の強豪校であり、私を含む多くの生徒たちが文化祭に足を運びました。1980年代に甲子園で活躍した荒木大輔選手(現野球解説者)の「追っかけ」に励んでいた生徒もいました。他校の男子生徒とお付き合いに発展したケースも少なからずあったはずです。 ただ、それ以上に多かったのは、かっこいい同性の先輩に憧れ、こっそり手紙を渡し、文通に至るというケースでした。今なら少なくともメールでしょうが、まあ、女子校らしい校風ではあります。最初に付き合った男子学生と結婚するケースも… 実際に身近にいる男性は教諭のみ。教育実習で学習院大学から派遣されてくる学生も含め、男性教諭は大人気で、生徒と結婚に至る例もありました。そんな女子のみの「純粋培養」ですから、生徒たちには同年代の男性への免疫があまりありません。 筆者は、大学に進学した途端、最初に付き合った男子学生と、純愛を貫いて結婚する、という例をたくさん見てきました。親が決めた相手とのお見合い結婚も多くあります。 華族女学校の頃の教育を評して「超高級花嫁学校」のようなものだったと評していた人もいます(浅見雅男『学習院』)。もちろん戦後はそうした教育からは離れて行ったのですが、それでもどこか名残のようなものはあったのかもしれません。 もともと眞子さんの場合は、常に皇宮警察の護衛がつかず離れず側にいたでしょうから、いろいろなところに出かけ、誰彼となく気軽に交流できる立場ではなかったでしょう。大学入学まで、あまり男性との接点は多くなかったと推察できます。そんな環境で育った眞子さんが、学習院ではなくICUへ進学して出会ったのが小室さんだったわけです。 少し時間はかかったものの、小室さんが弁護士となったことで、ご夫妻の生活が新しい局面を迎えたのは間違いありません。ご本人たちにとっては「大きなお世話」かもしれませんが、おそらく学習院関係者たちは、どこか身内のような気持ちを抱きながら、今後もお二人を見続けることでしょう。(藤澤 志穂子/Webオリジナル(外部転載))
2017年9月の婚約内定会見当時の圭さんの職業「パラリーガル」は、法律事務所で弁護士の補佐をする事務職員で、年収はそう高くありません。当時の圭さんの、働きながら経営大学院にも通うという状況は、弁護士を目指すのか、他の道を行くのかも“外野”から見れば不透明でした。筆者には将来の目標が定まっていないように見えました。
そうした20代男性が、大学同窓の女性と結婚するなら、普通は共働きを考えるでしょう。もしくは男性が弁護士になってから結婚に踏み切るか。
もちろん収入の多寡は結婚の条件ではなく、勢いのままに結婚するのも悪いことではありません。親の支援に頼ることもあるでしょう。ですが、それは一般国民の場合であって、さすがに皇族の場合、そうはいかないというのが常識的な見方ではないでしょうか。
ところが、当時のお二人には、いかなる人生設計があったのかがわかりませんでした。
2021年になり、結婚が本決まりになった背景に、ニューヨークにおける小室さんの「就職内定」がありました。
フォーダム大学のロースクールを卒業してマンハッタンの法律事務所に助手として就職する、とのことでした。もちろん助手のままでいるつもりはなく、現地の司法試験に合格して弁護士になるつもりだったのですが、2度の失敗を経て3度目に合格するまでには1年近い時間がかかったのは周知のことでしょう。 合格自体はとても喜ばしいことですし、時折伝わってくる現地での夫妻の様子を見る限り、とても充実した生活を送っているようです。 ただ、米国で活躍する日本人弁護士の多くは、日本の司法試験に合格し、弁護士資格を持って法律事務所に入り、仕事をした上で米国の弁護士資格を取るために派遣される、というのが通常コースです。 ではなぜ、そうしたオーソドックスなコースを辿ろうとしなかったのか。それだけ急ぐ必要があったとすれば、眞子さんの思いが関係していたということでしょうか。眞子さんの一途さに感じる危うさ「皇室を出たい」一心で、結婚に走ったらしい眞子さんの一途さには、同時に「危うさ」を感じます。おそらく男性に免疫のない「純粋培養」の環境で、「お嬢さま学校」を経て大学に進み、人生で初めて本格的にお付き合いしたであろう男性にほれ込み、その一途な思いを貫き通した。そのように筆者の目には映りました。 いま「純粋培養」という表現を用いましたが、眞子さんが小室さんと出会う前、すなわち幼稚園から高校まで、学習院ではどのような教育を受けていたのかを見てみましょう。 学習院は幼稚園、初等科、大学は共学ですが、中学・高校は男女別学で場所も別です。 眞子さん、そして筆者の母校でもある学習院女子中・高等科(学習院女子部)は東京都新宿区戸山にあります。JR高田馬場駅から徒歩20分、東京メトロ東西線の早稲田駅からは徒歩8分、副都心線の西早稲田駅からは徒歩1分ほど。駅名が示すように、早稲田大学のキャンパスに近く、江戸時代には尾張徳川家が下屋敷としていた地域です。戦前には近衛騎兵連隊の兵舎があり、その跡地に戦後の1946年に移転してきました。 もともと学習院は皇族に仕える華族のために設立したという経緯があります。女子部の前身は、華族女学校という名称でした。その「伝統」の名残はいまでもあります。 たとえば、学習院女子部では、歴代皇后から下賜された「御歌」が今も歌い継がれています。その重要度は高く、入学して最初に学ぶのは、古文の授業で御歌の意味、音楽の授業では歌い方です。 特に女子部生の「心の糧」となっている御歌は、昭憲皇太后(明治天皇の妃)が1887年に華族女学校に下賜した「金剛石・水は器」です。これが事実上の校歌として入学式などで歌われているのです。隔絶された「女の園」 他にも名残を感じさせるのは、「女子部言葉」でしょうか。筆者が生まれた頃、昭和40年代にはまだ「ごめん遊ばせ」といった言い回しが生きていたと聞きます。 現存する唯一の女子部言葉が「ごきげんよう」でしょう。かつて華族の家庭で普通に使われていたもので、「おはようございます」「さようなら」も全て「ごきげんよう」です。 守衛さんに「ごきげんよう」とあいさつする生徒を遠目に見て、近隣の学校に通う学生は別の世界のように感じた、と聞いたこともあります。 その近隣の学校としては、隣接する東京都立戸山高校と新宿区立西早稲田中学校があげられます。 しかし、両校と女子部との交流は全くありません。戸山高校とはグラウンドが隣接しており、部活や体育の授業で、たまに先方の敷地内に入り込んでしまうボールを投げ返してもらっていましたが。徒歩圏内に複数のキャンパスを構える早稲田大学との交流も不思議とありません。隔絶された「女の園」と言えなくもないでしょう。 筆者が学習院女子部在籍時に「戸山高校と交流会を持つことはできませんか」と先生に進言したことがありましたが、あっさり却下され、残念に思ったことを覚えています。「万が一なにかのトラブルが起きても困る」といった考えがおありだったのかもしれません。 学習院女子高等科と他校との公式な交流は唯一、東京・目白にある学習院高等科(男子部)と、筑波大学附属高校(東京都文京区)との間で年1回、行われてきた運動部の総合定期戦「附属戦」くらいです。筑波大附属側では「院戦」と呼んでいます。 2021年に第70回の開催を迎えた歴史ある交流試合で、運動部の対戦を、生徒たち総出でサポートします。目白が会場となり、エール交換では筑波大附属の校歌「桐陰会会歌」、学習院の校歌「学習院院歌」を互いに歌いあいます。 筆者自身も運営側として、同年代の筑波大附属の生徒たちと準備に当たりました。ふだん縁のない男子生徒たち、それも進学校の人たちとの交流は刺激になり、大変楽しかったことを覚えています。 とはいえ交流はそれまでで、一緒に運営に当たった筑波大附属の生徒に「学習院大学も受験しますか」と聞いたら「そんなつもりは毛頭ない」と一蹴されたのが印象に残っています。「東大に進むような頭のよい人たちに、我々など全く相手にされないのだな」と考えておりました。 そんな中でも女子部生は、学習院男子部を始め、男子校の文化祭には友人同士で連れ立って出かけたりもしています。休日にそうしたところへ行くことを、禁止されているわけではありません。「制服姿では行かないように」と先生から釘は刺されておりました。 例えば当時近くにあった早稲田実業は高校野球の強豪校であり、私を含む多くの生徒たちが文化祭に足を運びました。1980年代に甲子園で活躍した荒木大輔選手(現野球解説者)の「追っかけ」に励んでいた生徒もいました。他校の男子生徒とお付き合いに発展したケースも少なからずあったはずです。 ただ、それ以上に多かったのは、かっこいい同性の先輩に憧れ、こっそり手紙を渡し、文通に至るというケースでした。今なら少なくともメールでしょうが、まあ、女子校らしい校風ではあります。最初に付き合った男子学生と結婚するケースも… 実際に身近にいる男性は教諭のみ。教育実習で学習院大学から派遣されてくる学生も含め、男性教諭は大人気で、生徒と結婚に至る例もありました。そんな女子のみの「純粋培養」ですから、生徒たちには同年代の男性への免疫があまりありません。 筆者は、大学に進学した途端、最初に付き合った男子学生と、純愛を貫いて結婚する、という例をたくさん見てきました。親が決めた相手とのお見合い結婚も多くあります。 華族女学校の頃の教育を評して「超高級花嫁学校」のようなものだったと評していた人もいます(浅見雅男『学習院』)。もちろん戦後はそうした教育からは離れて行ったのですが、それでもどこか名残のようなものはあったのかもしれません。 もともと眞子さんの場合は、常に皇宮警察の護衛がつかず離れず側にいたでしょうから、いろいろなところに出かけ、誰彼となく気軽に交流できる立場ではなかったでしょう。大学入学まで、あまり男性との接点は多くなかったと推察できます。そんな環境で育った眞子さんが、学習院ではなくICUへ進学して出会ったのが小室さんだったわけです。 少し時間はかかったものの、小室さんが弁護士となったことで、ご夫妻の生活が新しい局面を迎えたのは間違いありません。ご本人たちにとっては「大きなお世話」かもしれませんが、おそらく学習院関係者たちは、どこか身内のような気持ちを抱きながら、今後もお二人を見続けることでしょう。(藤澤 志穂子/Webオリジナル(外部転載))
フォーダム大学のロースクールを卒業してマンハッタンの法律事務所に助手として就職する、とのことでした。もちろん助手のままでいるつもりはなく、現地の司法試験に合格して弁護士になるつもりだったのですが、2度の失敗を経て3度目に合格するまでには1年近い時間がかかったのは周知のことでしょう。
合格自体はとても喜ばしいことですし、時折伝わってくる現地での夫妻の様子を見る限り、とても充実した生活を送っているようです。
ただ、米国で活躍する日本人弁護士の多くは、日本の司法試験に合格し、弁護士資格を持って法律事務所に入り、仕事をした上で米国の弁護士資格を取るために派遣される、というのが通常コースです。
ではなぜ、そうしたオーソドックスなコースを辿ろうとしなかったのか。それだけ急ぐ必要があったとすれば、眞子さんの思いが関係していたということでしょうか。
「皇室を出たい」一心で、結婚に走ったらしい眞子さんの一途さには、同時に「危うさ」を感じます。おそらく男性に免疫のない「純粋培養」の環境で、「お嬢さま学校」を経て大学に進み、人生で初めて本格的にお付き合いしたであろう男性にほれ込み、その一途な思いを貫き通した。そのように筆者の目には映りました。
いま「純粋培養」という表現を用いましたが、眞子さんが小室さんと出会う前、すなわち幼稚園から高校まで、学習院ではどのような教育を受けていたのかを見てみましょう。
学習院は幼稚園、初等科、大学は共学ですが、中学・高校は男女別学で場所も別です。
眞子さん、そして筆者の母校でもある学習院女子中・高等科(学習院女子部)は東京都新宿区戸山にあります。JR高田馬場駅から徒歩20分、東京メトロ東西線の早稲田駅からは徒歩8分、副都心線の西早稲田駅からは徒歩1分ほど。駅名が示すように、早稲田大学のキャンパスに近く、江戸時代には尾張徳川家が下屋敷としていた地域です。戦前には近衛騎兵連隊の兵舎があり、その跡地に戦後の1946年に移転してきました。
もともと学習院は皇族に仕える華族のために設立したという経緯があります。女子部の前身は、華族女学校という名称でした。その「伝統」の名残はいまでもあります。
たとえば、学習院女子部では、歴代皇后から下賜された「御歌」が今も歌い継がれています。その重要度は高く、入学して最初に学ぶのは、古文の授業で御歌の意味、音楽の授業では歌い方です。
特に女子部生の「心の糧」となっている御歌は、昭憲皇太后(明治天皇の妃)が1887年に華族女学校に下賜した「金剛石・水は器」です。これが事実上の校歌として入学式などで歌われているのです。
他にも名残を感じさせるのは、「女子部言葉」でしょうか。筆者が生まれた頃、昭和40年代にはまだ「ごめん遊ばせ」といった言い回しが生きていたと聞きます。
現存する唯一の女子部言葉が「ごきげんよう」でしょう。かつて華族の家庭で普通に使われていたもので、「おはようございます」「さようなら」も全て「ごきげんよう」です。
守衛さんに「ごきげんよう」とあいさつする生徒を遠目に見て、近隣の学校に通う学生は別の世界のように感じた、と聞いたこともあります。
その近隣の学校としては、隣接する東京都立戸山高校と新宿区立西早稲田中学校があげられます。 しかし、両校と女子部との交流は全くありません。戸山高校とはグラウンドが隣接しており、部活や体育の授業で、たまに先方の敷地内に入り込んでしまうボールを投げ返してもらっていましたが。徒歩圏内に複数のキャンパスを構える早稲田大学との交流も不思議とありません。隔絶された「女の園」と言えなくもないでしょう。 筆者が学習院女子部在籍時に「戸山高校と交流会を持つことはできませんか」と先生に進言したことがありましたが、あっさり却下され、残念に思ったことを覚えています。「万が一なにかのトラブルが起きても困る」といった考えがおありだったのかもしれません。 学習院女子高等科と他校との公式な交流は唯一、東京・目白にある学習院高等科(男子部)と、筑波大学附属高校(東京都文京区)との間で年1回、行われてきた運動部の総合定期戦「附属戦」くらいです。筑波大附属側では「院戦」と呼んでいます。 2021年に第70回の開催を迎えた歴史ある交流試合で、運動部の対戦を、生徒たち総出でサポートします。目白が会場となり、エール交換では筑波大附属の校歌「桐陰会会歌」、学習院の校歌「学習院院歌」を互いに歌いあいます。 筆者自身も運営側として、同年代の筑波大附属の生徒たちと準備に当たりました。ふだん縁のない男子生徒たち、それも進学校の人たちとの交流は刺激になり、大変楽しかったことを覚えています。 とはいえ交流はそれまでで、一緒に運営に当たった筑波大附属の生徒に「学習院大学も受験しますか」と聞いたら「そんなつもりは毛頭ない」と一蹴されたのが印象に残っています。「東大に進むような頭のよい人たちに、我々など全く相手にされないのだな」と考えておりました。 そんな中でも女子部生は、学習院男子部を始め、男子校の文化祭には友人同士で連れ立って出かけたりもしています。休日にそうしたところへ行くことを、禁止されているわけではありません。「制服姿では行かないように」と先生から釘は刺されておりました。 例えば当時近くにあった早稲田実業は高校野球の強豪校であり、私を含む多くの生徒たちが文化祭に足を運びました。1980年代に甲子園で活躍した荒木大輔選手(現野球解説者)の「追っかけ」に励んでいた生徒もいました。他校の男子生徒とお付き合いに発展したケースも少なからずあったはずです。 ただ、それ以上に多かったのは、かっこいい同性の先輩に憧れ、こっそり手紙を渡し、文通に至るというケースでした。今なら少なくともメールでしょうが、まあ、女子校らしい校風ではあります。最初に付き合った男子学生と結婚するケースも… 実際に身近にいる男性は教諭のみ。教育実習で学習院大学から派遣されてくる学生も含め、男性教諭は大人気で、生徒と結婚に至る例もありました。そんな女子のみの「純粋培養」ですから、生徒たちには同年代の男性への免疫があまりありません。 筆者は、大学に進学した途端、最初に付き合った男子学生と、純愛を貫いて結婚する、という例をたくさん見てきました。親が決めた相手とのお見合い結婚も多くあります。 華族女学校の頃の教育を評して「超高級花嫁学校」のようなものだったと評していた人もいます(浅見雅男『学習院』)。もちろん戦後はそうした教育からは離れて行ったのですが、それでもどこか名残のようなものはあったのかもしれません。 もともと眞子さんの場合は、常に皇宮警察の護衛がつかず離れず側にいたでしょうから、いろいろなところに出かけ、誰彼となく気軽に交流できる立場ではなかったでしょう。大学入学まで、あまり男性との接点は多くなかったと推察できます。そんな環境で育った眞子さんが、学習院ではなくICUへ進学して出会ったのが小室さんだったわけです。 少し時間はかかったものの、小室さんが弁護士となったことで、ご夫妻の生活が新しい局面を迎えたのは間違いありません。ご本人たちにとっては「大きなお世話」かもしれませんが、おそらく学習院関係者たちは、どこか身内のような気持ちを抱きながら、今後もお二人を見続けることでしょう。(藤澤 志穂子/Webオリジナル(外部転載))
その近隣の学校としては、隣接する東京都立戸山高校と新宿区立西早稲田中学校があげられます。
しかし、両校と女子部との交流は全くありません。戸山高校とはグラウンドが隣接しており、部活や体育の授業で、たまに先方の敷地内に入り込んでしまうボールを投げ返してもらっていましたが。徒歩圏内に複数のキャンパスを構える早稲田大学との交流も不思議とありません。隔絶された「女の園」と言えなくもないでしょう。
筆者が学習院女子部在籍時に「戸山高校と交流会を持つことはできませんか」と先生に進言したことがありましたが、あっさり却下され、残念に思ったことを覚えています。「万が一なにかのトラブルが起きても困る」といった考えがおありだったのかもしれません。
学習院女子高等科と他校との公式な交流は唯一、東京・目白にある学習院高等科(男子部)と、筑波大学附属高校(東京都文京区)との間で年1回、行われてきた運動部の総合定期戦「附属戦」くらいです。筑波大附属側では「院戦」と呼んでいます。
2021年に第70回の開催を迎えた歴史ある交流試合で、運動部の対戦を、生徒たち総出でサポートします。目白が会場となり、エール交換では筑波大附属の校歌「桐陰会会歌」、学習院の校歌「学習院院歌」を互いに歌いあいます。
筆者自身も運営側として、同年代の筑波大附属の生徒たちと準備に当たりました。ふだん縁のない男子生徒たち、それも進学校の人たちとの交流は刺激になり、大変楽しかったことを覚えています。
とはいえ交流はそれまでで、一緒に運営に当たった筑波大附属の生徒に「学習院大学も受験しますか」と聞いたら「そんなつもりは毛頭ない」と一蹴されたのが印象に残っています。「東大に進むような頭のよい人たちに、我々など全く相手にされないのだな」と考えておりました。
そんな中でも女子部生は、学習院男子部を始め、男子校の文化祭には友人同士で連れ立って出かけたりもしています。休日にそうしたところへ行くことを、禁止されているわけではありません。「制服姿では行かないように」と先生から釘は刺されておりました。
例えば当時近くにあった早稲田実業は高校野球の強豪校であり、私を含む多くの生徒たちが文化祭に足を運びました。1980年代に甲子園で活躍した荒木大輔選手(現野球解説者)の「追っかけ」に励んでいた生徒もいました。他校の男子生徒とお付き合いに発展したケースも少なからずあったはずです。
ただ、それ以上に多かったのは、かっこいい同性の先輩に憧れ、こっそり手紙を渡し、文通に至るというケースでした。今なら少なくともメールでしょうが、まあ、女子校らしい校風ではあります。
実際に身近にいる男性は教諭のみ。教育実習で学習院大学から派遣されてくる学生も含め、男性教諭は大人気で、生徒と結婚に至る例もありました。そんな女子のみの「純粋培養」ですから、生徒たちには同年代の男性への免疫があまりありません。
筆者は、大学に進学した途端、最初に付き合った男子学生と、純愛を貫いて結婚する、という例をたくさん見てきました。親が決めた相手とのお見合い結婚も多くあります。
華族女学校の頃の教育を評して「超高級花嫁学校」のようなものだったと評していた人もいます(浅見雅男『学習院』)。もちろん戦後はそうした教育からは離れて行ったのですが、それでもどこか名残のようなものはあったのかもしれません。
もともと眞子さんの場合は、常に皇宮警察の護衛がつかず離れず側にいたでしょうから、いろいろなところに出かけ、誰彼となく気軽に交流できる立場ではなかったでしょう。大学入学まで、あまり男性との接点は多くなかったと推察できます。そんな環境で育った眞子さんが、学習院ではなくICUへ進学して出会ったのが小室さんだったわけです。
少し時間はかかったものの、小室さんが弁護士となったことで、ご夫妻の生活が新しい局面を迎えたのは間違いありません。ご本人たちにとっては「大きなお世話」かもしれませんが、おそらく学習院関係者たちは、どこか身内のような気持ちを抱きながら、今後もお二人を見続けることでしょう。(藤澤 志穂子/Webオリジナル(外部転載))
少し時間はかかったものの、小室さんが弁護士となったことで、ご夫妻の生活が新しい局面を迎えたのは間違いありません。ご本人たちにとっては「大きなお世話」かもしれませんが、おそらく学習院関係者たちは、どこか身内のような気持ちを抱きながら、今後もお二人を見続けることでしょう。
(藤澤 志穂子/Webオリジナル(外部転載))

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