「原口一博」衆院議員が明かす「私が“がん闘病”を告白した理由」 ウィッグ姿への中傷で痛感した“患者の現実”、「当初は“逃げよう”と思っていた……」

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国会会期中の2023年4月25日、自身のツイッター上で「悪性リンパ腫」に罹患し、闘病中であることを告白した立憲民主党の衆院議員・原口一博氏(64)。無論、政治家にとって自らの健康状態は、最もデリケートな機密事項であることは言うまでもない。病気であることが政敵や有権者に知れ渡れば、政治活動や選挙にも影響が出かねないからだ。そんなリスクを抱えてなお、なぜ告白に踏み切ったのか。そして、闘病を経て見えてきたこととは――。ご本人に直接伺った。
【写真をみる】闘病と並行しながら議員活動を行う原口一博衆院議員。かつて難病を公表した際には故・安倍晋三元総理大臣から励ましのメッセージも喉に違和感が… 原口氏は1959年生まれ。東京大学文学部を卒業後、松下政経塾に入塾。佐賀県議会議員選挙に出馬し、当選。政治家としての人生をスタートさせる。1996年の衆院選に新進党から立候補して初当選。国政進出を果たした。2009年に発足した民主党・鳩山由紀夫内閣では総務大臣に就任。現在は立憲民主党に所属し、当選9回を誇る、永田町の重鎮の一人である。原口一博衆院議員――まず、現在の病状について聞かせてください。原口一博氏(以下、原口) 先月に国会でもご報告させてもらいましたが、おかげさまで扁桃腺のがんもマーカー上の数値を見ても異常は、見られないということでした。現在も治療は続けていますが、標準治療は間も無く終わります。が、念には念をということで、再発防止のために、友人・知人などから教わった、民間療法を続けています。――そもそも、どのようにして病気の発症を知ったのでしょうか。原口 最初に「あれ、おかしいな」と感じたきっかけは、昨年の12月あたりでした。地元で国政報告をしていると、思うように声が出ないんです。どうも喉に違和感がある。扁桃腺がちょっと腫れぼったいというか。それと、目にチカチカと光が入ってくる。ただ、当初は、喉を怪我したからじゃないか、と思って放っておいたんですね。思い当たる節があったものですから。目のほうは「飛蚊症かな」と、気楽に考えていました。牡蠣の天婦羅が熱々で――思い当たる節とは?原口 会食で牡蠣の天麩羅を頂いたのですが、それが熱々で、飲み込むとき、喉に軽い火傷を負ってしまったのです。その影響で喉が痛むのだろうと。だから、そのうちに治るんじゃないかと思っていました。ところが、いつまで経っても、症状が全く回復しない。むしろ、どんどん声が出にくくなっていく。さすがにこれはおかしいと思い、年が明けた1月17日に、地元・佐賀の病院に行きました。その際、先生もさすがにちょっとおかしいと思ったのか、生体検査を受けることになったのです。――そこで「悪性リンパ腫」と診断を受けたのですか。原口 いえ、それが逆だったんですよ。悪性リンパ腫を疑われはしたものの、その時の簡易的な検査では、実はひっかからず、「シロ」と診断されたのです。正直、ほっとしましたね。先生も、「それにしては扁桃腺が大きいですけどね」などと訝しげでしたけど、とにかく悪性リンパ腫という診断は出なかった。何もなくてよかったなと。病魔の恐怖から解放された私は、東京での政治活動に戻りました。話があるから――病院からの一報を受けて安堵されたものの、まもなく事態が急変したそうですが。原口 1月26日のことでした。突然先生から電話がかかってきたのです。「話があるから佐賀に戻ってきてくれ」と。 わざわざ直接話をするために呼び戻すわけですから、当然、いい知らせなわけがないじゃないですか。「やっぱり悪性リンパ腫だったんだ……」と、ピンときて、目の前が真っ暗になりました。 そして、次にパッと思い浮かんだのは「逃げる」でした。といっても、現実逃避というわけではありません。どうせ残された時間が少ないのなら、病院で闘病しながら死ぬのではなく、最後まで政治家として、国会議員として、できる限りの活動をして、仕事を全うしようということです。とにかく病気から逃げて、逃げて、逃げまくろうと思いましたね。とはいえ、当然ながら、逃げられるわけはないですよね。すぐにその考えは心の奥に押しやられ、病院行きを決意しました。――医師から電話があった翌日、佐賀へと戻り、病院に向かわれたのですね。原口 悪い予感を胸に病院に行くと、先生からこう告げられました。「これは『びまん性大細胞型B細胞リンパ腫』で、悪性リンパ腫の中でもとりわけ悪質な方で、進行がとても早いがんです」と。そして、とにもかくにも、まずは精密検査を受けることになりました。すでに扁桃腺が大きくなっている状態であれば、ステージ2以上であるのは確定とのこと。検査の焦点は、ステージが2なのか、もう取り返しがつかないところまでもっと進行しているのか、そこの見極めとなったのです。しんどい時も――結果はどうでしたか。原口 幸いにして、ステージ2でした。この検査結果を知った時が一番ほっとしましたね。転移はしていなかった。きちんと治療をすれば、がんは抑えられるレベルだったわけですから。そこからはもう気持ちを切り替えて、治療を行おうと決意しました。――どんな闘病生活を送ったのでしょうか。原口 肥大した扁桃腺の切除や、抗がん剤を注入するための「ポート」を鎖骨の下に埋め込むため、3回ほど手術がありましたが、それ以外は抗がん剤の投与が基本。丸一日入院して投与するのを、期間を空けて計6回というものでした。その間、日々の政治活動は続けてもいいとのことで、これは大変ありがたかったですね。しかも、抗がん剤による副作用についても、緩和ケアの体制が整っている病院だったので、その点もラッキーでした。 とはいえ、しんどい時もありました。まだ病気を公表する前の話ですが、入院して、4回目の抗がん剤治療を受けた翌日、山口4区の衆院補欠選挙に出馬した、有田芳生候補を応援するために、佐賀から下関まで向かったのです。その道中も、応援演説中も、ものすごいく吐き気に襲われ続けまして。後日、先生に「吐き気がひどかったんですけど、どうしてですか。これまでこんなことはなかったのに」と尋ねたら、「抗がん剤治療を受けた翌日に、佐賀から下関に行くような動きは普通じゃないです」と呆れられました。頭をくしゃくしゃと――抗がん剤治療の激しい副作用に耐えながら政治活動を続けられました。では、なぜ病気を公表しようと思ったのでしょうか。原口 当初は、そこまで公表しようとは考えていなかったのです。というのも、がんのステージがわかり、きちんと治療すれば治ることがハッキリ判明した。さらに今年は、衆院の補選や、統一地方選がある。私が病気を公表することで、選挙にも影響が出るかもしれない。そんな話を主治医にしたら、「この病気で苦しんでいる人たちがたくさんいる。病気自体もそうだが、周囲の目もそうだ。よければぜひ公表してこの病気について発信してほしい」と。その時はあまりピンと来なかったのですが、同じ病気に苦しむ人たちを励ますことができるなら、ぜひ力になろうと思い、タイミングを見定めて公表することを決意しました。 ところが、その矢先にアクシデントが発生したんですね。4月10日の決算委員会で、私が質問に立ち、松野くん(※松野博一官房長官のこと。松野氏は原口氏の松下政経塾の後輩にあたる)に質問したのです。ところが、返ってきた答えが、全く期待外れなものだった。その時、私はいつもの癖で、頭をくしゃくしゃと掻きむしったんです。実は当時、すでに抗がん剤治療の影響で毛髪がなく、ウィッグを着用していたのですが、そのことをすっかり忘れていた。おかげでウィッグがずれてしまい、それがスポーツ紙に書かれてしまった。故・安倍元総理からのメッセージ――当時の様子はネットを中心に拡散し、ものすごい反響がありました。原口 この時、たくさんの励ましの言葉ももちろんいただいたのですが、それに匹敵するくらい、差別的な発言も受けました。「ウィッグもズレているが、発言もズレている」「病気ならやめた方がいい」などなど……。病気や治療自体よりも、こうした、患者さんへの差別的な視線があることを、身をもって知ることになりましたね。先生が言っていたのはこういうことか、と。――そして4月25日には、正式に病名と、闘病中であることを発表されました。原口 僕は、これまでさまざまな経験をしてきました。8年前には、院内感染で生死の境を彷徨った。この時は本当に苦しく、死ぬんじゃないかと思ったほどでした。その2年後には、右腕と右足を骨折し、再び入院。国指定の難病である「骨形成不全症」であることも公表しました。その際には、昨年亡くなった安倍晋三元総理大臣が「僕も難病を抱えている。一緒に頑張りましょう」という励ましのメッセージを送ってくださいました。一方で、「人から世話をしてもらっている人が、人のお世話をできるわけがない」という心無い言葉も浴びました。がん患者は“終わった人”と見なされる そして今回は、院内感染や国指定の難病とは違って、がん、悪性リンパ腫という多くの人たちにとって身近な病気に罹ったわけです。これまでと大きく違うところは、公表した直後から、治療について各方面たくさんの情報をお寄せいただいた。これは大変ありがたかったです。 ですが、一方で、がんやその患者に対する誤解や偏見が多いということを改めて知りました。先ほど申し上げたような、あからさまな差別発言だけではありません。端的に言えば、がんに罹った人は“もう終わった人”と見なされてしまうのです。まるで幽霊のように扱われる。もちろん、その背景には、大病を患った人への気遣いも含まれているとは思います。でも、医療は日々進歩していて、がんも、他の病気と同じように、きちんと治療すれば回復する見込みは十分にあるし、当然ながら治療中だって仕事もできるんです。にもかかわらず、組織や会社の中では、まるで腫れ物に触るように扱われてしまうという現実がある。 情報を発信することができる立場にある私がこの病気に罹ったことは、まさに運命なのではないかと感じています。闘病中も議員活動をしっかり続けることを示せたわけですし、今後もこれまでと同様に活動することで、がん患者や、がん闘病から復帰され方々が、少しでも励まされ、差別や偏見に苛まれることなく、楽しく生活できる社会になってほしいと考えています。デイリー新潮編集部
原口氏は1959年生まれ。東京大学文学部を卒業後、松下政経塾に入塾。佐賀県議会議員選挙に出馬し、当選。政治家としての人生をスタートさせる。1996年の衆院選に新進党から立候補して初当選。国政進出を果たした。2009年に発足した民主党・鳩山由紀夫内閣では総務大臣に就任。現在は立憲民主党に所属し、当選9回を誇る、永田町の重鎮の一人である。
――まず、現在の病状について聞かせてください。
原口一博氏(以下、原口) 先月に国会でもご報告させてもらいましたが、おかげさまで扁桃腺のがんもマーカー上の数値を見ても異常は、見られないということでした。現在も治療は続けていますが、標準治療は間も無く終わります。が、念には念をということで、再発防止のために、友人・知人などから教わった、民間療法を続けています。
――そもそも、どのようにして病気の発症を知ったのでしょうか。
原口 最初に「あれ、おかしいな」と感じたきっかけは、昨年の12月あたりでした。地元で国政報告をしていると、思うように声が出ないんです。どうも喉に違和感がある。扁桃腺がちょっと腫れぼったいというか。それと、目にチカチカと光が入ってくる。ただ、当初は、喉を怪我したからじゃないか、と思って放っておいたんですね。思い当たる節があったものですから。目のほうは「飛蚊症かな」と、気楽に考えていました。
――思い当たる節とは?
原口 会食で牡蠣の天麩羅を頂いたのですが、それが熱々で、飲み込むとき、喉に軽い火傷を負ってしまったのです。その影響で喉が痛むのだろうと。だから、そのうちに治るんじゃないかと思っていました。ところが、いつまで経っても、症状が全く回復しない。むしろ、どんどん声が出にくくなっていく。さすがにこれはおかしいと思い、年が明けた1月17日に、地元・佐賀の病院に行きました。その際、先生もさすがにちょっとおかしいと思ったのか、生体検査を受けることになったのです。
――そこで「悪性リンパ腫」と診断を受けたのですか。
原口 いえ、それが逆だったんですよ。悪性リンパ腫を疑われはしたものの、その時の簡易的な検査では、実はひっかからず、「シロ」と診断されたのです。正直、ほっとしましたね。先生も、「それにしては扁桃腺が大きいですけどね」などと訝しげでしたけど、とにかく悪性リンパ腫という診断は出なかった。何もなくてよかったなと。病魔の恐怖から解放された私は、東京での政治活動に戻りました。
――病院からの一報を受けて安堵されたものの、まもなく事態が急変したそうですが。
原口 1月26日のことでした。突然先生から電話がかかってきたのです。「話があるから佐賀に戻ってきてくれ」と。
わざわざ直接話をするために呼び戻すわけですから、当然、いい知らせなわけがないじゃないですか。「やっぱり悪性リンパ腫だったんだ……」と、ピンときて、目の前が真っ暗になりました。
そして、次にパッと思い浮かんだのは「逃げる」でした。といっても、現実逃避というわけではありません。どうせ残された時間が少ないのなら、病院で闘病しながら死ぬのではなく、最後まで政治家として、国会議員として、できる限りの活動をして、仕事を全うしようということです。とにかく病気から逃げて、逃げて、逃げまくろうと思いましたね。とはいえ、当然ながら、逃げられるわけはないですよね。すぐにその考えは心の奥に押しやられ、病院行きを決意しました。
――医師から電話があった翌日、佐賀へと戻り、病院に向かわれたのですね。
原口 悪い予感を胸に病院に行くと、先生からこう告げられました。「これは『びまん性大細胞型B細胞リンパ腫』で、悪性リンパ腫の中でもとりわけ悪質な方で、進行がとても早いがんです」と。そして、とにもかくにも、まずは精密検査を受けることになりました。すでに扁桃腺が大きくなっている状態であれば、ステージ2以上であるのは確定とのこと。検査の焦点は、ステージが2なのか、もう取り返しがつかないところまでもっと進行しているのか、そこの見極めとなったのです。
――結果はどうでしたか。
原口 幸いにして、ステージ2でした。この検査結果を知った時が一番ほっとしましたね。転移はしていなかった。きちんと治療をすれば、がんは抑えられるレベルだったわけですから。そこからはもう気持ちを切り替えて、治療を行おうと決意しました。
――どんな闘病生活を送ったのでしょうか。
原口 肥大した扁桃腺の切除や、抗がん剤を注入するための「ポート」を鎖骨の下に埋め込むため、3回ほど手術がありましたが、それ以外は抗がん剤の投与が基本。丸一日入院して投与するのを、期間を空けて計6回というものでした。その間、日々の政治活動は続けてもいいとのことで、これは大変ありがたかったですね。しかも、抗がん剤による副作用についても、緩和ケアの体制が整っている病院だったので、その点もラッキーでした。
とはいえ、しんどい時もありました。まだ病気を公表する前の話ですが、入院して、4回目の抗がん剤治療を受けた翌日、山口4区の衆院補欠選挙に出馬した、有田芳生候補を応援するために、佐賀から下関まで向かったのです。その道中も、応援演説中も、ものすごいく吐き気に襲われ続けまして。後日、先生に「吐き気がひどかったんですけど、どうしてですか。これまでこんなことはなかったのに」と尋ねたら、「抗がん剤治療を受けた翌日に、佐賀から下関に行くような動きは普通じゃないです」と呆れられました。
――抗がん剤治療の激しい副作用に耐えながら政治活動を続けられました。では、なぜ病気を公表しようと思ったのでしょうか。
原口 当初は、そこまで公表しようとは考えていなかったのです。というのも、がんのステージがわかり、きちんと治療すれば治ることがハッキリ判明した。さらに今年は、衆院の補選や、統一地方選がある。私が病気を公表することで、選挙にも影響が出るかもしれない。そんな話を主治医にしたら、「この病気で苦しんでいる人たちがたくさんいる。病気自体もそうだが、周囲の目もそうだ。よければぜひ公表してこの病気について発信してほしい」と。その時はあまりピンと来なかったのですが、同じ病気に苦しむ人たちを励ますことができるなら、ぜひ力になろうと思い、タイミングを見定めて公表することを決意しました。
ところが、その矢先にアクシデントが発生したんですね。4月10日の決算委員会で、私が質問に立ち、松野くん(※松野博一官房長官のこと。松野氏は原口氏の松下政経塾の後輩にあたる)に質問したのです。ところが、返ってきた答えが、全く期待外れなものだった。その時、私はいつもの癖で、頭をくしゃくしゃと掻きむしったんです。実は当時、すでに抗がん剤治療の影響で毛髪がなく、ウィッグを着用していたのですが、そのことをすっかり忘れていた。おかげでウィッグがずれてしまい、それがスポーツ紙に書かれてしまった。
――当時の様子はネットを中心に拡散し、ものすごい反響がありました。
原口 この時、たくさんの励ましの言葉ももちろんいただいたのですが、それに匹敵するくらい、差別的な発言も受けました。「ウィッグもズレているが、発言もズレている」「病気ならやめた方がいい」などなど……。病気や治療自体よりも、こうした、患者さんへの差別的な視線があることを、身をもって知ることになりましたね。先生が言っていたのはこういうことか、と。
――そして4月25日には、正式に病名と、闘病中であることを発表されました。
原口 僕は、これまでさまざまな経験をしてきました。8年前には、院内感染で生死の境を彷徨った。この時は本当に苦しく、死ぬんじゃないかと思ったほどでした。その2年後には、右腕と右足を骨折し、再び入院。国指定の難病である「骨形成不全症」であることも公表しました。その際には、昨年亡くなった安倍晋三元総理大臣が「僕も難病を抱えている。一緒に頑張りましょう」という励ましのメッセージを送ってくださいました。一方で、「人から世話をしてもらっている人が、人のお世話をできるわけがない」という心無い言葉も浴びました。
そして今回は、院内感染や国指定の難病とは違って、がん、悪性リンパ腫という多くの人たちにとって身近な病気に罹ったわけです。これまでと大きく違うところは、公表した直後から、治療について各方面たくさんの情報をお寄せいただいた。これは大変ありがたかったです。
ですが、一方で、がんやその患者に対する誤解や偏見が多いということを改めて知りました。先ほど申し上げたような、あからさまな差別発言だけではありません。端的に言えば、がんに罹った人は“もう終わった人”と見なされてしまうのです。まるで幽霊のように扱われる。もちろん、その背景には、大病を患った人への気遣いも含まれているとは思います。でも、医療は日々進歩していて、がんも、他の病気と同じように、きちんと治療すれば回復する見込みは十分にあるし、当然ながら治療中だって仕事もできるんです。にもかかわらず、組織や会社の中では、まるで腫れ物に触るように扱われてしまうという現実がある。
情報を発信することができる立場にある私がこの病気に罹ったことは、まさに運命なのではないかと感じています。闘病中も議員活動をしっかり続けることを示せたわけですし、今後もこれまでと同様に活動することで、がん患者や、がん闘病から復帰され方々が、少しでも励まされ、差別や偏見に苛まれることなく、楽しく生活できる社会になってほしいと考えています。
デイリー新潮編集部

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