今回は、『後悔しない死の迎え方』(ダイヤモンド社)の著者で現役看護師である後閑愛実(以下、後閑)が、熊谷生協病院名誉院長で小児科医でもある小堀勝充先生(以下、小堀)に、子どもの看取りについて聞く対談の第2弾をお届けします。最期を覚悟していた18歳で骨肉腫と診断された少女小堀 生きることを諦めないという意味で、子どもたちの生きる力はすごいなって感じています。骨肉腫で亡くなった18歳の女の子の話なのですが、この子は中学3年生のときに足に痛身が出ていくつかの病院に行ったけど診断がなかなかつかなくて、半年ぐらいたってようやく骨肉腫という診断がつきました。
後閑 診断がつくのに時間がかかったんですね。その間は不安だったでしょうね。小堀 はい。診断がついた時には片足を切断しなければいけなくなっていたんです。それでも車椅子でできるだけ学校に行っていました。高校3年生の夏休みに、全身転移しているのがわかって、積極的な治療を断念し、私が訪問診療で関わるようになりました。PHOTO:iStock後閑 本人はその時に自分の状況を知っていたんですか?小堀 訪問診療で、たまたまご両親が不在の時に、本人が病気のことをどれくらい理解しているか聞いてみました。「自分の病気は骨肉腫という病気だということは知っている」「足を切断したり、転移があったら、もう無理だっていうことも知っている」と言いました。でも、「先生からは何も聞いてない」「先生は親にだけ説明して、親は私に何も説明してくれない。だけど、今の状況から考えて、自分はもうすぐ最期を迎えるんだなっていう覚悟はしている。ただ苦しくないようにしていきたい」と言っていました。後閑 高校生ですものね。自分でネットとかで調べたんでしょうか…。つらいですね。小堀 訪問診療に行くようになって、だんだん食事が喉を通らなくなってきました。リンパ節転移が食道を圧迫していたんです。だけど飲み込む瞬間に味はわかるというので、点滴をしながら、飲み込んで吐いてっていうのを繰り返していました。その状態でも受験勉強をして医療系専門学校を合格しました。4月から入学するんだけど、3月に試験が終わって自由になったときに、何かやりたいことがあるかと聞いたら、大阪のユニバ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)に行きたいと言いました。後閑 なるほど。それは実現させてあげたいですね。小堀 誰と行くのかと聴いたら、彼氏と行きたいと言ったんです。家族や周りのスタッフは全員無理って言ったんだけど、私だけが行けばって言いました。何かあったときのための病院だけ教えとくから、彼氏には何かあったらそこに連れてってもらうようにして、2人でいけばいいんじゃないって伝えました。最終的に本人の意向と医者の私がいいって言ったっていうんで2人で行くことになりました。後閑 先生、ナイスアシストしましたね。彼氏と遊んだ後で5時間の点滴を打つ条件付きで小堀 ただやっぱり点滴しなきゃいけないので、ユニバ行った後に宿泊する近くの病院をいくつかあたって、状況を説明して点滴をしてほしいというお願いをしたら、ほとんどの病院は断られたんだけど、1ヶ所だけ本当に何があっても覚悟して来るんでしたらいいですよって言って引き受けてくれたんです。朝一番で点滴をしてから新幹線で行って、ユニバで遊んで夕方4時ぐらいにはもうユニバ出てきて、その病院に行って9時10時ぐらいまで点滴をするっていうのをやって、次の日の午前中大阪で少し遊んで、午後には新幹線乗って夕方帰ってきた時点ですぐにまた点滴をするっていう、そういう条件付きで行ってきました。後閑 向こうの病院の先生もよく引き受けてくれましたね。本当に素晴らしいし、患者さんからしたらめちゃくちゃありがたい。小堀 本当ですね。その先生がいなかったら行けなかったです。どこもダメだったら私がホテルとかで待っているから、夕方から点滴してあげるよって言って、付いて行こうとしたら絶対駄目って言われました。後閑 彼氏との二人旅ですからね。それは野暮ですよ。小堀 まあそれがうまくいったんで、その翌週には家族と箱根旅行に行かれたんです。一切食べられないので、とにかく旅行の前後で点滴をするっていう処置をしながらだったけど楽しめたようでした。4月に入って呼吸状態が悪くなってきて在宅酸素療法が始まるんだけど、酸素ボンベを持って酸素を吸いながらも学校に行って、授業を受けていました。もちろん口から食べられないから学校に行く前に点滴して、帰ってきたら点滴してというのを続けながら。後閑 やりたいことを諦めないというか、うまく言葉にできないですが本当にすごいですね。小堀 学校に行ってとにかく友達をいっぱい作りたいんだと言っていました。みんなで楽しく過ごしたいと。大学の新歓合宿も行ったんですよ。でもいよいよゴールデンウィーク直前に動けなくなってきました。当初はお父さんお母さんも覚悟しているとは言っていたんだけど、やっぱり動けなくなってきたら、家で看取る覚悟が揺らいで、最終的に大学病院に入院したいって言って、大学病院に行って1週間たたないで亡くなりました。だけど入院する直前まで学校に行って新歓合宿行って友達をいっぱい作ろうとしていて、この子ほど前向きに生きた人はいないかなと思います。この子は、ある意味で周りの大人たちより死ぬことを覚悟していたし、今生きていることを一番楽しみたいと言って、最後まで前向きに生きた子でしたね。後閑 病気に限らず、人はいつ死ぬかってわかりません。病気であっても何かやりたいって思うことは本当に素敵なことだし、病気だから、終末期だからってことで諦めたくはないですね。現実にはなかなか難しいことではありますが……。小堀 骨肉腫っていう病気が、この子を強くしたのかもしれないし、死ぬことを覚悟しつつやりたいことを諦めない、本当にすごい子だったなと思います。「死」を隠さず、子どもにどう病状を説明するか後閑 その子は先生やご両親から病気のことを最初聞かされていなくて、自分のことを自分で調べて知っていましたけど、自分の病気や予後を知らない子に対して小堀先生は、話しますか?小堀 話します。「人生はそんなに長くないよ」「だから病気があって病気の治療しながらやってくけども、みんなと同じように100歳までは生きられないよ」「君の人生はかなり短いよ」と話が理解できる子には話をしています。それから兄弟に対しても、「あなたの、お兄ちゃんお姉ちゃん、弟妹は病気なので、そんなに長くは生きられないよ」とちゃんと伝えます。「いよいよになったら入院するかもしれないし、お家で寝たきりになるかもしれないけど、それまでは兄弟として楽しく接してあげてね」っていうことは子どもたちにも話をしていきます。後閑 なるほど。この辺に関してはごまかさず、「治療してればよくなるよ」とかって安易な励ましはしないってことですね。小堀 私が関わるようになる時点で治療はできなくなっているので、そんなことは絶対言わない。これはね、子どもたちの方が受けとめるんですよ。子どもたちは自分が死ぬっていうことに関してものすごい恐怖を感じるんだけど、死んだらどうなるかを考えると、お空にいけるのかなとか、いろんなことを考えて、亡くなった後のことを想像できるようになるようです。そうするとね、それほど大きな恐怖を抱かなくなる。逆に10代の方が、そういう夢を見なくなってくるので、現実として恐怖を味わうようになるかもしれないです。そこはその子の性格と年齢を考えながら説明をしていくんだけど、原則「治るよ」とか、「以前のように元気なるよ」とは言わない。「今の病気を少しでも良くして、少しでも短い人生を長くするために、頑張る必要があるけれども、治るっていうことは、今の医学ではできないよ」ていう話はします。後閑 昔、入院していた高齢の女性の患者さんで、意識あるうちはずっと自分でお化粧していた患者さんがいて、その人も「もうちょっとでお迎えが来て、先に逝った旦那に会えるから、いつ会ってもいいように綺麗にしとかないと」って言っていた人がいて、意識がなくなってもこちらも化粧水と乳液だけは欠かさず毎日していた患者さんがいました。最期は綺麗にエンゼルメイクして旅立たれました。小堀 年齢が上がれば上がるほどやっぱり自分の家族とか友人が先に逝っているので、その人たちのところにまた会いに行くんだよっていうふうにして、自分の死を受け止めて身支度している人っていうのは結構多いかなと思います。「自分が亡くなったら天国に行けるかな」「ちゃんとお父さんとお母さんの言うこと聞いてきたからいけるかな」「治療頑張ったからいけるかな」っていうようなことを言うのは聴いたことがあります。そうすると「そうだね。天国に先に行って、お父さんお母さんが来るのを待ってればいいんじゃない」って言うと「そうしよう」って言うぐらい子どもたちは素直きいてくれます。後閑 下手に「死」を隠すから、本人はむしろ怖くなるし不安になるんだと思います。ちゃんと話し合うって、子どもにも大人にも大事ですよね。周りは現実から目を逸らし考えないようにすることもできる、中には本人からも目を逸らすようになることもあります。でも本人は現実から逃れることはできないから、ひとりで「死」と向き合わなければならなくなります。それはとても孤独でつらい状況ではないでしょうか。一緒に苦しんで、一緒に向き合って、これからのことを考えていく。そうして安心して死ねると思えるから、安心してそれまで生きられるんだと思います。小堀 それを支えるためにはいろんな体制や人材も必要です。子どもが病気であっても生きることを諦めないでいられるように「医療的ケア児及びその家族に対する支援に関する法律」が2年前にできました。それに合わせて昨年度各都道府県に「医療的ケア児等支援センター」ができて、この4月から稼働しています。後閑 そうなんですね。小堀 小児の在宅医療やっている人たちの間ではこれをどうやって魂のある法律に変えて、在宅医療医療的ケア児そういうのも含めて、あと終末期の子どもたちも含めてフォローしていく。体制や人材を作っていこうという、そういう流れに今なってきているというとこです。後閑 知らなかったですが、そんないい流れになっているんですね。小堀 私はたまたま小児在宅をやっているから知っているけど、そうじゃない人たちは小児科医ですら在宅やってないと知らないっていう状況なので、これはやっぱり広げていかないといけないでしょうね。後閑 誰だって死は迎える。それがいつになるかは誰にもわかりません。常に考える必要はないけれど、死を遠ざけるのではなく、必ずくるものと準備や覚悟はしつつ、今生きることを諦めないでいけたらいいですよね。どれだけ生きたかより、どう生きたか、それの方がずっと大事だと思います。一人ひとりが考えていかないとですね。(患者さんのエピソードは、プライバシーに配慮し、個人が特定されないように背景の一部を変更しています。)小堀勝充医師小堀勝充(こぼりかつみ) 熊谷生協病院名誉院長 小児科専門医。プライマリーケア連合学会認定医・指導医。病児保育室「こぐまちゃんち」施設長。小児科医でありながら、小児のみならず、同時に高齢者の訪問診療を行い、埼玉県北部地域で必要とされている医療の発展に携わっている。
今回は、『後悔しない死の迎え方』(ダイヤモンド社)の著者で現役看護師である後閑愛実(以下、後閑)が、熊谷生協病院名誉院長で小児科医でもある小堀勝充先生(以下、小堀)に、子どもの看取りについて聞く対談の第2弾をお届けします。
小堀 生きることを諦めないという意味で、子どもたちの生きる力はすごいなって感じています。骨肉腫で亡くなった18歳の女の子の話なのですが、この子は中学3年生のときに足に痛身が出ていくつかの病院に行ったけど診断がなかなかつかなくて、半年ぐらいたってようやく骨肉腫という診断がつきました。
後閑 診断がつくのに時間がかかったんですね。その間は不安だったでしょうね。
小堀 はい。診断がついた時には片足を切断しなければいけなくなっていたんです。それでも車椅子でできるだけ学校に行っていました。高校3年生の夏休みに、全身転移しているのがわかって、積極的な治療を断念し、私が訪問診療で関わるようになりました。
PHOTO:iStock
後閑 本人はその時に自分の状況を知っていたんですか?
小堀 訪問診療で、たまたまご両親が不在の時に、本人が病気のことをどれくらい理解しているか聞いてみました。
「自分の病気は骨肉腫という病気だということは知っている」「足を切断したり、転移があったら、もう無理だっていうことも知っている」と言いました。でも、「先生からは何も聞いてない」「先生は親にだけ説明して、親は私に何も説明してくれない。だけど、今の状況から考えて、自分はもうすぐ最期を迎えるんだなっていう覚悟はしている。ただ苦しくないようにしていきたい」と言っていました。
後閑 高校生ですものね。自分でネットとかで調べたんでしょうか…。つらいですね。
小堀 訪問診療に行くようになって、だんだん食事が喉を通らなくなってきました。リンパ節転移が食道を圧迫していたんです。だけど飲み込む瞬間に味はわかるというので、点滴をしながら、飲み込んで吐いてっていうのを繰り返していました。その状態でも受験勉強をして医療系専門学校を合格しました。4月から入学するんだけど、3月に試験が終わって自由になったときに、何かやりたいことがあるかと聞いたら、大阪のユニバ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)に行きたいと言いました。
後閑 なるほど。それは実現させてあげたいですね。
小堀 誰と行くのかと聴いたら、彼氏と行きたいと言ったんです。家族や周りのスタッフは全員無理って言ったんだけど、私だけが行けばって言いました。何かあったときのための病院だけ教えとくから、彼氏には何かあったらそこに連れてってもらうようにして、2人でいけばいいんじゃないって伝えました。最終的に本人の意向と医者の私がいいって言ったっていうんで2人で行くことになりました。
後閑 先生、ナイスアシストしましたね。
小堀 ただやっぱり点滴しなきゃいけないので、ユニバ行った後に宿泊する近くの病院をいくつかあたって、状況を説明して点滴をしてほしいというお願いをしたら、ほとんどの病院は断られたんだけど、1ヶ所だけ本当に何があっても覚悟して来るんでしたらいいですよって言って引き受けてくれたんです。
朝一番で点滴をしてから新幹線で行って、ユニバで遊んで夕方4時ぐらいにはもうユニバ出てきて、その病院に行って9時10時ぐらいまで点滴をするっていうのをやって、次の日の午前中大阪で少し遊んで、午後には新幹線乗って夕方帰ってきた時点ですぐにまた点滴をするっていう、そういう条件付きで行ってきました。
後閑 向こうの病院の先生もよく引き受けてくれましたね。本当に素晴らしいし、患者さんからしたらめちゃくちゃありがたい。
小堀 本当ですね。その先生がいなかったら行けなかったです。どこもダメだったら私がホテルとかで待っているから、夕方から点滴してあげるよって言って、付いて行こうとしたら絶対駄目って言われました。
後閑 彼氏との二人旅ですからね。それは野暮ですよ。
小堀 まあそれがうまくいったんで、その翌週には家族と箱根旅行に行かれたんです。一切食べられないので、とにかく旅行の前後で点滴をするっていう処置をしながらだったけど楽しめたようでした。
4月に入って呼吸状態が悪くなってきて在宅酸素療法が始まるんだけど、酸素ボンベを持って酸素を吸いながらも学校に行って、授業を受けていました。もちろん口から食べられないから学校に行く前に点滴して、帰ってきたら点滴してというのを続けながら。
後閑 やりたいことを諦めないというか、うまく言葉にできないですが本当にすごいですね。
小堀 学校に行ってとにかく友達をいっぱい作りたいんだと言っていました。みんなで楽しく過ごしたいと。大学の新歓合宿も行ったんですよ。でもいよいよゴールデンウィーク直前に動けなくなってきました。当初はお父さんお母さんも覚悟しているとは言っていたんだけど、やっぱり動けなくなってきたら、家で看取る覚悟が揺らいで、最終的に大学病院に入院したいって言って、大学病院に行って1週間たたないで亡くなりました。
だけど入院する直前まで学校に行って新歓合宿行って友達をいっぱい作ろうとしていて、この子ほど前向きに生きた人はいないかなと思います。この子は、ある意味で周りの大人たちより死ぬことを覚悟していたし、今生きていることを一番楽しみたいと言って、最後まで前向きに生きた子でしたね。
後閑 病気に限らず、人はいつ死ぬかってわかりません。病気であっても何かやりたいって思うことは本当に素敵なことだし、病気だから、終末期だからってことで諦めたくはないですね。現実にはなかなか難しいことではありますが……。
小堀 骨肉腫っていう病気が、この子を強くしたのかもしれないし、死ぬことを覚悟しつつやりたいことを諦めない、本当にすごい子だったなと思います。
後閑 その子は先生やご両親から病気のことを最初聞かされていなくて、自分のことを自分で調べて知っていましたけど、自分の病気や予後を知らない子に対して小堀先生は、話しますか?
小堀 話します。「人生はそんなに長くないよ」「だから病気があって病気の治療しながらやってくけども、みんなと同じように100歳までは生きられないよ」「君の人生はかなり短いよ」と話が理解できる子には話をしています。それから兄弟に対しても、「あなたの、お兄ちゃんお姉ちゃん、弟妹は病気なので、そんなに長くは生きられないよ」とちゃんと伝えます。
「いよいよになったら入院するかもしれないし、お家で寝たきりになるかもしれないけど、それまでは兄弟として楽しく接してあげてね」っていうことは子どもたちにも話をしていきます。
後閑 なるほど。この辺に関してはごまかさず、「治療してればよくなるよ」とかって安易な励ましはしないってことですね。
小堀 私が関わるようになる時点で治療はできなくなっているので、そんなことは絶対言わない。これはね、子どもたちの方が受けとめるんですよ。子どもたちは自分が死ぬっていうことに関してものすごい恐怖を感じるんだけど、死んだらどうなるかを考えると、お空にいけるのかなとか、いろんなことを考えて、亡くなった後のことを想像できるようになるようです。
そうするとね、それほど大きな恐怖を抱かなくなる。逆に10代の方が、そういう夢を見なくなってくるので、現実として恐怖を味わうようになるかもしれないです。そこはその子の性格と年齢を考えながら説明をしていくんだけど、原則「治るよ」とか、「以前のように元気なるよ」とは言わない。「今の病気を少しでも良くして、少しでも短い人生を長くするために、頑張る必要があるけれども、治るっていうことは、今の医学ではできないよ」ていう話はします。
後閑 昔、入院していた高齢の女性の患者さんで、意識あるうちはずっと自分でお化粧していた患者さんがいて、その人も「もうちょっとでお迎えが来て、先に逝った旦那に会えるから、いつ会ってもいいように綺麗にしとかないと」って言っていた人がいて、意識がなくなってもこちらも化粧水と乳液だけは欠かさず毎日していた患者さんがいました。最期は綺麗にエンゼルメイクして旅立たれました。
小堀 年齢が上がれば上がるほどやっぱり自分の家族とか友人が先に逝っているので、その人たちのところにまた会いに行くんだよっていうふうにして、自分の死を受け止めて身支度している人っていうのは結構多いかなと思います。「自分が亡くなったら天国に行けるかな」「ちゃんとお父さんとお母さんの言うこと聞いてきたからいけるかな」「治療頑張ったからいけるかな」っていうようなことを言うのは聴いたことがあります。
そうすると「そうだね。天国に先に行って、お父さんお母さんが来るのを待ってればいいんじゃない」って言うと「そうしよう」って言うぐらい子どもたちは素直きいてくれます。
後閑 下手に「死」を隠すから、本人はむしろ怖くなるし不安になるんだと思います。ちゃんと話し合うって、子どもにも大人にも大事ですよね。周りは現実から目を逸らし考えないようにすることもできる、中には本人からも目を逸らすようになることもあります。
でも本人は現実から逃れることはできないから、ひとりで「死」と向き合わなければならなくなります。それはとても孤独でつらい状況ではないでしょうか。一緒に苦しんで、一緒に向き合って、これからのことを考えていく。そうして安心して死ねると思えるから、安心してそれまで生きられるんだと思います。
後閑 そうなんですね。
小堀 小児の在宅医療やっている人たちの間ではこれをどうやって魂のある法律に変えて、在宅医療医療的ケア児そういうのも含めて、あと終末期の子どもたちも含めてフォローしていく。体制や人材を作っていこうという、そういう流れに今なってきているというとこです。
後閑 知らなかったですが、そんないい流れになっているんですね。
小堀 私はたまたま小児在宅をやっているから知っているけど、そうじゃない人たちは小児科医ですら在宅やってないと知らないっていう状況なので、これはやっぱり広げていかないといけないでしょうね。
後閑 誰だって死は迎える。それがいつになるかは誰にもわかりません。常に考える必要はないけれど、死を遠ざけるのではなく、必ずくるものと準備や覚悟はしつつ、今生きることを諦めないでいけたらいいですよね。どれだけ生きたかより、どう生きたか、それの方がずっと大事だと思います。一人ひとりが考えていかないとですね。
(患者さんのエピソードは、プライバシーに配慮し、個人が特定されないように背景の一部を変更しています。)
小堀勝充医師
小堀勝充(こぼりかつみ) 熊谷生協病院名誉院長 小児科専門医。プライマリーケア連合学会認定医・指導医。病児保育室「こぐまちゃんち」施設長。小児科医でありながら、小児のみならず、同時に高齢者の訪問診療を行い、埼玉県北部地域で必要とされている医療の発展に携わっている。