「足がないことより絶望した!」16歳で交通事故に遭い、両足切断した“車いすモデル”(25)が手術後に“最もショックを受けたこと”

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16歳の時に事故で両足を失い、車椅子で生活するモデル・インフルエンサーの葦原海(あしはら みゅう)さん(25)。TikTokやYouTubeを中心に、SNS総フォロワー数は70万人超を誇る。2022年秋にミラノコレクション、2023年3月にはパリコレクションのランウェイを歩き、“両足のないモデル”として世界的にも注目されている。
【画像】パリコレのランウェイを歩いたことも…16歳で両足切断した“車いすモデル”葦原海さん(25)のグラビアをすべて見る ここでは、そんな葦原さんが自身の“生きざま”を語り尽くした著書『私はないものを数えない。』(サンマーク出版)より一部を抜粋。16歳で交通事故に遭い、両足を切断した直後の彼女の心境を紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く)

葦原海さん(『私はないものを数えない。』より/撮影=Sumiyo IDA)◆◆◆足を失ったことより「やりたいこと」に意識が向いた 足を失ったと気がついたのは、事故に遭ってしばらくしてからだった。 2週間はたっていたと思う。 命そのものがあやうくて、両足切断後も手術をして──そんなこと覚えていないけど──ICUにずっといたから、事故前後の記憶は飛んでいる。 意識が戻って思ったのは、「あ、生きてる」。 両親がいて、母が泣いていた。全身は包帯とビニールでぐるぐる巻き。「骨盤にヒビが入っているから、動かないで」 自分が病院にいること、体がまったく動かせないこと、半端なく、ただごとじゃないことはわかった。足がないことに気づいても大泣きしなかった へんな話だけど、命があることが不思議な感じがした。 大怪我をしたと悟ったけど、どこがどうなっているのかわからなかった。 最初は親も病院の先生も説明してくれなかったから、自分で知った。 ふと布団の中を見て「ん? 足がない」って。 手足を切断した人には、なくなったはずの足が痛むという「幻肢痛」という感覚がある。私も、痛いようなかゆいような感覚はあったので、足がもうないなんて嘘みたいだった。 もちろん、じゃなかったんだけどね。「両足をなくしたと気がついたときのお気持ちは……」 取材や撮影だと、みんなめっちゃ気を遣いながら、恐る恐る聞いてくるけれど、遠慮なくフツーに聞いてもらって、全然、大丈夫。私は大泣きしたわけでも、叫び出したわけでもなかった。 足をなくしたことで凹んだことは一度もない。あまりにも苦痛すぎた「スマホなしに24時間ベッド生活」 足がないことの次に気がついたのが、「あ、スマホがない!」 実は、足がないことよりスマホがないことに絶望した!「でしょ?」って驚かれるけれど、本当だからしょうがない。 だって、16歳だった。 スマホ中毒じゃないけど、友だちや彼氏に連絡がとれないのが一番致命的。 出かけるのが大好きだから、「スマホなしに24時間ベッド生活」というのは、あまりにも苦痛すぎた。 バキバキになって、電源も入らなくなってしまった私のスマホ……。「ねえ、新しいスマホ買って。お願いだから買ってきて」 親が病院に来るたび、しつこくねだった。 足について落ち込んで嘆くこともなく、ひたすら「スマホが欲しい!!!」と言い続けたので、さすがに母も呆れていた。 今思うと、両親、特に母のほうが、事故のことを受け入れられていなかった。 スマホを与えて友だちにどう話すのか、SNSでへんな書き込みをしないか、不安だったんだと思う。「やりたいこと」をやるために スマホが与えられない私は、次の欲しいものについて要求を開始。「いつ車椅子に乗れますか? いつ外出できますか?」 病院の先生に毎日聞いた。 自分が今思い返してもびっくりするけど、歩けなくなることへの不安や、足がなくてイヤだという気持ちが、いっさいなかった。 足がないことはもう変えられないけど、私は猛烈に外に出たい。 友だちと会いたい。 学校に行きたい。 ディズニーに行きたい。 スタバのキャラメルフラペチーノが飲みたい。 それにはどうしたらいいの? 私は、「できないこと」じゃなく「やりたいこと」だけ考えていた。 どうやったら、それがやれるかを。 足がなくてもやれる方法があるなら、やりたい。 泣いてる暇はないし、待ちきれない。人と比べないから自分の道を進める「いつ、退院できますか?」 両足を切断したことを、私のベッドの周囲に家族みんなが集められて、医師の先生からきちんと説明されたときの、私の最初の言葉がこれだった。 母親は今でも、この瞬間の私の第一声に、とても驚いたと言う。 私はとにかく早く、外に出たかった。楽しいことがしたい。友だちと遊びたい。 私がやりたいことをやる方法はたった1つ、「車椅子に乗って退院する」ことだけ。それなら早く実現したい。 私は先生にとにかく早く退院できるようにお願いした。そのための努力はなんでもできる。 YouTubeやTikTokでこの話をしたら、反響がすごかった。「私だったらそんなに強くなれない。明るくできない」そうよく言われる。 たぶんそういう人たちは、「SNSで楽しそうに発信している車椅子ユーザーでモデルの葦原海」と、想像の中の「両足をなくした自分」を比べて、無理だと感じるんだろう。 でも16歳の私は、障がい者にも両足をなくした人にも会ったことがなかった。身近にいない、ネット上で見る機会もない、だから比べる相手もいない。 自分中心にしか考えていなかったから、シンプルに受け入れたんだと思う。好きなように選んで、好きなように楽しむ「両足を失って、変わったことはなんですか?」 よく聞かれるけど、あんまりない。 もともと明るかったから、急に明るくなったわけじゃない。 健常者とは違う立ち位置、ちょっと変わった状況にはなったけれど、足があってもなくても、私は生まれつき「変わった子」だった。 我が道を行く系、というか? だからって「障がいは個性です」というのは、なんか違うと思うけど。 自分1人でできる範囲は狭まったし、できなくなったこともある。 でも、友だち、仕事仲間、親、まわりの人にお願いすれば解決できちゃうことがほとんど。「あれもこれも、できなくなった」という感覚はない。 車椅子ユーザーになって、むしろ生きやすくなった。「やりたくて、できること」が見つけやすくなった「どんなことだって、やればできる! 可能性はゼロじゃない」 両足をなくす前、心のどこかで思っていた。私に限らず、健常者は少なからずそう思っているだろうし、学校なんかでも「夢はかなうと信じよう、ポジティブに考えよう」と教えられがちだ。 でも、「なんでもできる」と言われたら、逆に困らない?「なんでも」ってよくわからないし、「やればできる」って呪いみたいだ。 あまりにもたくさん選択肢がありすぎて、いったい何をしていいのか、迷子になりそう。 そしてできなかったら、「努力が足りない」と自分を責めてしまいそうだ。 だけど今の私は、「これはできない・あれはできない」と、物理的にできないことがはっきりある。 だからこそ、自分が「やりたくて、できること」が見つけやすくなった。 私が一番好きな色は赤だけど、もしもこの世界にある色のすべてが好きで、そのすべての色が似合っていたら困ると思う。 スマホケースの色をなんにするかも選べないだろう。 でも、好きな色と似合う色があったら、「私はこれ」ってすぐに選べる。 できないことがあると、できることがわかるって、これと似た感じだ。何ができるか見えてきたら、やろうと決めてやるだけ 両足をなくして、「私はこれ」って選べるようになった。 無数にあった選択肢がほどよく絞られて、それでもまだまだたくさん選択肢はあって、快適で、ちょうどいい。 好きなように選んで、好きなように楽しんで、だからとてもハッピーだ。 ある意味、生きやすくなったと思ってる。 16歳までの私は、いつも将来や未来ばかり楽しみにしていた。 25歳の私は、今を全力で楽しもうと思うようになった。 できないことがあったら、何ができるかが、はっきり見えてくる。 何ができるか見えてきたら、やろうと決めて、やるだけ。 ね、わりと簡単な話だよね?「普通にナンパしてきた」16歳で両足を失った“車いすモデル”(25)が、歌舞伎町で“チャラ男”に気付かされた衝撃的な事実 へ続く(葦原 海/Webオリジナル(外部転載))
ここでは、そんな葦原さんが自身の“生きざま”を語り尽くした著書『私はないものを数えない。』(サンマーク出版)より一部を抜粋。16歳で交通事故に遭い、両足を切断した直後の彼女の心境を紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く)
葦原海さん(『私はないものを数えない。』より/撮影=Sumiyo IDA)
◆◆◆
足を失ったと気がついたのは、事故に遭ってしばらくしてからだった。
2週間はたっていたと思う。
命そのものがあやうくて、両足切断後も手術をして──そんなこと覚えていないけど──ICUにずっといたから、事故前後の記憶は飛んでいる。
意識が戻って思ったのは、「あ、生きてる」。
両親がいて、母が泣いていた。全身は包帯とビニールでぐるぐる巻き。
「骨盤にヒビが入っているから、動かないで」
自分が病院にいること、体がまったく動かせないこと、半端なく、ただごとじゃないことはわかった。
へんな話だけど、命があることが不思議な感じがした。
大怪我をしたと悟ったけど、どこがどうなっているのかわからなかった。
最初は親も病院の先生も説明してくれなかったから、自分で知った。
ふと布団の中を見て「ん? 足がない」って。
手足を切断した人には、なくなったはずの足が痛むという「幻肢痛」という感覚がある。私も、痛いようなかゆいような感覚はあったので、足がもうないなんて嘘みたいだった。
もちろん、じゃなかったんだけどね。
「両足をなくしたと気がついたときのお気持ちは……」
取材や撮影だと、みんなめっちゃ気を遣いながら、恐る恐る聞いてくるけれど、遠慮なくフツーに聞いてもらって、全然、大丈夫。私は大泣きしたわけでも、叫び出したわけでもなかった。
足をなくしたことで凹んだことは一度もない。
足がないことの次に気がついたのが、
「あ、スマホがない!」
実は、足がないことよりスマホがないことに絶望した!
「でしょ?」って驚かれるけれど、本当だからしょうがない。
だって、16歳だった。
スマホ中毒じゃないけど、友だちや彼氏に連絡がとれないのが一番致命的。
出かけるのが大好きだから、「スマホなしに24時間ベッド生活」というのは、あまりにも苦痛すぎた。
バキバキになって、電源も入らなくなってしまった私のスマホ……。
「ねえ、新しいスマホ買って。お願いだから買ってきて」
親が病院に来るたび、しつこくねだった。
足について落ち込んで嘆くこともなく、ひたすら「スマホが欲しい!!!」と言い続けたので、さすがに母も呆れていた。
今思うと、両親、特に母のほうが、事故のことを受け入れられていなかった。
スマホを与えて友だちにどう話すのか、SNSでへんな書き込みをしないか、不安だったんだと思う。
「やりたいこと」をやるために スマホが与えられない私は、次の欲しいものについて要求を開始。「いつ車椅子に乗れますか? いつ外出できますか?」 病院の先生に毎日聞いた。 自分が今思い返してもびっくりするけど、歩けなくなることへの不安や、足がなくてイヤだという気持ちが、いっさいなかった。 足がないことはもう変えられないけど、私は猛烈に外に出たい。 友だちと会いたい。 学校に行きたい。 ディズニーに行きたい。 スタバのキャラメルフラペチーノが飲みたい。 それにはどうしたらいいの? 私は、「できないこと」じゃなく「やりたいこと」だけ考えていた。 どうやったら、それがやれるかを。 足がなくてもやれる方法があるなら、やりたい。 泣いてる暇はないし、待ちきれない。人と比べないから自分の道を進める「いつ、退院できますか?」 両足を切断したことを、私のベッドの周囲に家族みんなが集められて、医師の先生からきちんと説明されたときの、私の最初の言葉がこれだった。 母親は今でも、この瞬間の私の第一声に、とても驚いたと言う。 私はとにかく早く、外に出たかった。楽しいことがしたい。友だちと遊びたい。 私がやりたいことをやる方法はたった1つ、「車椅子に乗って退院する」ことだけ。それなら早く実現したい。 私は先生にとにかく早く退院できるようにお願いした。そのための努力はなんでもできる。 YouTubeやTikTokでこの話をしたら、反響がすごかった。「私だったらそんなに強くなれない。明るくできない」そうよく言われる。 たぶんそういう人たちは、「SNSで楽しそうに発信している車椅子ユーザーでモデルの葦原海」と、想像の中の「両足をなくした自分」を比べて、無理だと感じるんだろう。 でも16歳の私は、障がい者にも両足をなくした人にも会ったことがなかった。身近にいない、ネット上で見る機会もない、だから比べる相手もいない。 自分中心にしか考えていなかったから、シンプルに受け入れたんだと思う。好きなように選んで、好きなように楽しむ「両足を失って、変わったことはなんですか?」 よく聞かれるけど、あんまりない。 もともと明るかったから、急に明るくなったわけじゃない。 健常者とは違う立ち位置、ちょっと変わった状況にはなったけれど、足があってもなくても、私は生まれつき「変わった子」だった。 我が道を行く系、というか? だからって「障がいは個性です」というのは、なんか違うと思うけど。 自分1人でできる範囲は狭まったし、できなくなったこともある。 でも、友だち、仕事仲間、親、まわりの人にお願いすれば解決できちゃうことがほとんど。「あれもこれも、できなくなった」という感覚はない。 車椅子ユーザーになって、むしろ生きやすくなった。「やりたくて、できること」が見つけやすくなった「どんなことだって、やればできる! 可能性はゼロじゃない」 両足をなくす前、心のどこかで思っていた。私に限らず、健常者は少なからずそう思っているだろうし、学校なんかでも「夢はかなうと信じよう、ポジティブに考えよう」と教えられがちだ。 でも、「なんでもできる」と言われたら、逆に困らない?「なんでも」ってよくわからないし、「やればできる」って呪いみたいだ。 あまりにもたくさん選択肢がありすぎて、いったい何をしていいのか、迷子になりそう。 そしてできなかったら、「努力が足りない」と自分を責めてしまいそうだ。 だけど今の私は、「これはできない・あれはできない」と、物理的にできないことがはっきりある。 だからこそ、自分が「やりたくて、できること」が見つけやすくなった。 私が一番好きな色は赤だけど、もしもこの世界にある色のすべてが好きで、そのすべての色が似合っていたら困ると思う。 スマホケースの色をなんにするかも選べないだろう。 でも、好きな色と似合う色があったら、「私はこれ」ってすぐに選べる。 できないことがあると、できることがわかるって、これと似た感じだ。何ができるか見えてきたら、やろうと決めてやるだけ 両足をなくして、「私はこれ」って選べるようになった。 無数にあった選択肢がほどよく絞られて、それでもまだまだたくさん選択肢はあって、快適で、ちょうどいい。 好きなように選んで、好きなように楽しんで、だからとてもハッピーだ。 ある意味、生きやすくなったと思ってる。 16歳までの私は、いつも将来や未来ばかり楽しみにしていた。 25歳の私は、今を全力で楽しもうと思うようになった。 できないことがあったら、何ができるかが、はっきり見えてくる。 何ができるか見えてきたら、やろうと決めて、やるだけ。 ね、わりと簡単な話だよね?「普通にナンパしてきた」16歳で両足を失った“車いすモデル”(25)が、歌舞伎町で“チャラ男”に気付かされた衝撃的な事実 へ続く(葦原 海/Webオリジナル(外部転載))
スマホが与えられない私は、次の欲しいものについて要求を開始。
「いつ車椅子に乗れますか? いつ外出できますか?」
病院の先生に毎日聞いた。
自分が今思い返してもびっくりするけど、歩けなくなることへの不安や、足がなくてイヤだという気持ちが、いっさいなかった。
足がないことはもう変えられないけど、私は猛烈に外に出たい。
友だちと会いたい。
学校に行きたい。
ディズニーに行きたい。
スタバのキャラメルフラペチーノが飲みたい。
それにはどうしたらいいの?
私は、「できないこと」じゃなく「やりたいこと」だけ考えていた。
どうやったら、それがやれるかを。
足がなくてもやれる方法があるなら、やりたい。
泣いてる暇はないし、待ちきれない。
「いつ、退院できますか?」
両足を切断したことを、私のベッドの周囲に家族みんなが集められて、医師の先生からきちんと説明されたときの、私の最初の言葉がこれだった。
母親は今でも、この瞬間の私の第一声に、とても驚いたと言う。
私はとにかく早く、外に出たかった。楽しいことがしたい。友だちと遊びたい。
私がやりたいことをやる方法はたった1つ、「車椅子に乗って退院する」ことだけ。それなら早く実現したい。
私は先生にとにかく早く退院できるようにお願いした。そのための努力はなんでもできる。
YouTubeやTikTokでこの話をしたら、反響がすごかった。
「私だったらそんなに強くなれない。明るくできない」そうよく言われる。
たぶんそういう人たちは、「SNSで楽しそうに発信している車椅子ユーザーでモデルの葦原海」と、想像の中の「両足をなくした自分」を比べて、無理だと感じるんだろう。
でも16歳の私は、障がい者にも両足をなくした人にも会ったことがなかった。身近にいない、ネット上で見る機会もない、だから比べる相手もいない。
自分中心にしか考えていなかったから、シンプルに受け入れたんだと思う。
好きなように選んで、好きなように楽しむ「両足を失って、変わったことはなんですか?」 よく聞かれるけど、あんまりない。 もともと明るかったから、急に明るくなったわけじゃない。 健常者とは違う立ち位置、ちょっと変わった状況にはなったけれど、足があってもなくても、私は生まれつき「変わった子」だった。 我が道を行く系、というか? だからって「障がいは個性です」というのは、なんか違うと思うけど。 自分1人でできる範囲は狭まったし、できなくなったこともある。 でも、友だち、仕事仲間、親、まわりの人にお願いすれば解決できちゃうことがほとんど。「あれもこれも、できなくなった」という感覚はない。 車椅子ユーザーになって、むしろ生きやすくなった。「やりたくて、できること」が見つけやすくなった「どんなことだって、やればできる! 可能性はゼロじゃない」 両足をなくす前、心のどこかで思っていた。私に限らず、健常者は少なからずそう思っているだろうし、学校なんかでも「夢はかなうと信じよう、ポジティブに考えよう」と教えられがちだ。 でも、「なんでもできる」と言われたら、逆に困らない?「なんでも」ってよくわからないし、「やればできる」って呪いみたいだ。 あまりにもたくさん選択肢がありすぎて、いったい何をしていいのか、迷子になりそう。 そしてできなかったら、「努力が足りない」と自分を責めてしまいそうだ。 だけど今の私は、「これはできない・あれはできない」と、物理的にできないことがはっきりある。 だからこそ、自分が「やりたくて、できること」が見つけやすくなった。 私が一番好きな色は赤だけど、もしもこの世界にある色のすべてが好きで、そのすべての色が似合っていたら困ると思う。 スマホケースの色をなんにするかも選べないだろう。 でも、好きな色と似合う色があったら、「私はこれ」ってすぐに選べる。 できないことがあると、できることがわかるって、これと似た感じだ。何ができるか見えてきたら、やろうと決めてやるだけ 両足をなくして、「私はこれ」って選べるようになった。 無数にあった選択肢がほどよく絞られて、それでもまだまだたくさん選択肢はあって、快適で、ちょうどいい。 好きなように選んで、好きなように楽しんで、だからとてもハッピーだ。 ある意味、生きやすくなったと思ってる。 16歳までの私は、いつも将来や未来ばかり楽しみにしていた。 25歳の私は、今を全力で楽しもうと思うようになった。 できないことがあったら、何ができるかが、はっきり見えてくる。 何ができるか見えてきたら、やろうと決めて、やるだけ。 ね、わりと簡単な話だよね?「普通にナンパしてきた」16歳で両足を失った“車いすモデル”(25)が、歌舞伎町で“チャラ男”に気付かされた衝撃的な事実 へ続く(葦原 海/Webオリジナル(外部転載))
「両足を失って、変わったことはなんですか?」
よく聞かれるけど、あんまりない。
もともと明るかったから、急に明るくなったわけじゃない。
健常者とは違う立ち位置、ちょっと変わった状況にはなったけれど、足があってもなくても、私は生まれつき「変わった子」だった。
我が道を行く系、というか?
だからって「障がいは個性です」というのは、なんか違うと思うけど。
自分1人でできる範囲は狭まったし、できなくなったこともある。
でも、友だち、仕事仲間、親、まわりの人にお願いすれば解決できちゃうことがほとんど。
「あれもこれも、できなくなった」という感覚はない。
車椅子ユーザーになって、むしろ生きやすくなった。
「どんなことだって、やればできる! 可能性はゼロじゃない」
両足をなくす前、心のどこかで思っていた。私に限らず、健常者は少なからずそう思っているだろうし、学校なんかでも「夢はかなうと信じよう、ポジティブに考えよう」と教えられがちだ。
でも、「なんでもできる」と言われたら、逆に困らない?
「なんでも」ってよくわからないし、「やればできる」って呪いみたいだ。
あまりにもたくさん選択肢がありすぎて、いったい何をしていいのか、迷子になりそう。
そしてできなかったら、「努力が足りない」と自分を責めてしまいそうだ。
だけど今の私は、「これはできない・あれはできない」と、物理的にできないことがはっきりある。
だからこそ、自分が「やりたくて、できること」が見つけやすくなった。
私が一番好きな色は赤だけど、もしもこの世界にある色のすべてが好きで、そのすべての色が似合っていたら困ると思う。
スマホケースの色をなんにするかも選べないだろう。
でも、好きな色と似合う色があったら、「私はこれ」ってすぐに選べる。
できないことがあると、できることがわかるって、これと似た感じだ。
両足をなくして、「私はこれ」って選べるようになった。
無数にあった選択肢がほどよく絞られて、それでもまだまだたくさん選択肢はあって、快適で、ちょうどいい。
好きなように選んで、好きなように楽しんで、だからとてもハッピーだ。
ある意味、生きやすくなったと思ってる。 16歳までの私は、いつも将来や未来ばかり楽しみにしていた。 25歳の私は、今を全力で楽しもうと思うようになった。 できないことがあったら、何ができるかが、はっきり見えてくる。 何ができるか見えてきたら、やろうと決めて、やるだけ。 ね、わりと簡単な話だよね?「普通にナンパしてきた」16歳で両足を失った“車いすモデル”(25)が、歌舞伎町で“チャラ男”に気付かされた衝撃的な事実 へ続く(葦原 海/Webオリジナル(外部転載))
ある意味、生きやすくなったと思ってる。
16歳までの私は、いつも将来や未来ばかり楽しみにしていた。
25歳の私は、今を全力で楽しもうと思うようになった。
できないことがあったら、何ができるかが、はっきり見えてくる。
何ができるか見えてきたら、やろうと決めて、やるだけ。
ね、わりと簡単な話だよね?
「普通にナンパしてきた」16歳で両足を失った“車いすモデル”(25)が、歌舞伎町で“チャラ男”に気付かされた衝撃的な事実 へ続く
(葦原 海/Webオリジナル(外部転載))

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