二重作さん(写真:二重作さん提供)浪人という選択を取る人が20年前と比べて2分の1になっている現在。「浪人してでも、志望する大学に行きたい」という人が減っている一方で、浪人生活を経験したことで、人生が変わった人もいます。自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した濱井正吾さんが、さまざまな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったこと・頑張れた理由などを追求していきます。今回は2浪で高知医科大学(現・高知大医学部)に入学、卒業後に「格闘技医学」の開拓者として海外でも講演しながら、スポーツドクターや音楽家のツアードクターとして活躍している二重作(ふたえさく)拓也さんに話を伺いました。
みなさんは、自分と向き合ってきた経験はありますか。きっと、誰しも「断酒していたけど誘惑に負けてしまった」「ダイエットが続かなかった」など、一度は自分で決めたことをつい覆してしまったことがあるのではないかと思います。1浪目は現役時より点数が下がったこの連載の一覧はこちら今回、インタビューした二重作拓也さんも、1浪目に弱点科目の克服から目を背けてしまったことで、センター試験の点数が現役時より30点下がってしまい、受験に失敗した経験があります。しかしその失敗から、戦略的思考に基づいて受験勉強と向き合い、2浪目で小さい頃からの夢であった国公立大学の医学部への合格を叶えました。浪人経験を経て自分の「弱さ」を知った彼は現在、自身が学生時代に格闘技に打ち込んだ経験から、スポーツドクターとしてアスリートの体を支え、さらにはジャンルを超えて身体的・精神的・人間的な「強さ」を伝えていく活動を行っています。今回は、彼の現在の活動の原点となった浪人生活に迫っていきます。二重作さんは、父が理学療法士、母が看護師(※その後、看護系講師)の北九州の医療一家に生まれ、物心つく前に”お受験”をして小中一貫校の名門私学・明治学園に入りました。小学生のころは病弱で、魚や恐竜の図鑑を見るのが好きな内向的な子どもだったそうです。「同級生と比べても足が遅く、球技がまったくできませんでした」そんな彼が格闘技を始めたのは、運動音痴だった自分へのコンプレックスからだったと言います。小学生から始めた空手に打ち込んだ二重作さんは、その甲斐あって、中学2年生のときには所属連盟の全国少年大会で準優勝をするまで上達しました。一方で、もともと運動よりも得意であった勉強にも力を入れていました。小学生時代から医師になるという具体的な目標を持てたのも、同級生とのやりとりで悔しい思いをした経験からでした。「僕の小・中は開業医の子どもが多かったんです。そこで『お前の父さんは理学療法士だけど、俺の父さんは医者だぞ』とバカにされたことがあり、子供心にかなり傷つきましたね。そのとき、僕は『医師になってやる』と思いました。小学生の段階で父親のリベンジマッチが始まっていたんです。経済的には国公立の医学部しか行けなかったので、そこを目標にしました」国公立医学部への道のりは遠かったこうして小学校から中学校に上がっても、二重作さんは、中の上~上の下の成績をキープし続けます。勉強・スポーツに打ち込む中学時代を送った二重作さんは、通っていた明治学園には当時、高等部がなかったこともあり、高校受験の準備を始め、名門校である福岡県立東筑高等学校に進学しました。この学校の文武両道の校風に大いに刺激を受けた二重作さんは、勉強と空手を両立させる3年間を送り、高校生活を通して450人中で80位程度の成績をキープ。それでも国公立の医学部にはまだまだ遠く、D~C判定でした。そして、受験学年である3年生のとき、医学部に行く必要性を強く実感する出来事が起きます。所属していた空手流派の高校生日本代表に選ばれ、7月にアメリカに遠征、USAオープン大会に出場することになったのです。「当時、出場していた国内の試合ではすべて3位以内に入賞し、必ずトロフィーを持って帰ってました。だから『僕は強い』と勘違いしてたんですね(苦笑)。ですが、向こうでは187cmの黒人選手と対戦し、見たこともない軌道の蹴り技をもらって、ぶっ倒されました。口の中は内出血して歯もグラグラ、もうコテンパンにやられました(笑)。わざわざアメリカまで行って、世界の広さと己の弱さを見せつけられたんですね。そこで、人間の体をもっと詳しく知って、フィジカルだけではなく叡智の面も鍛えなければならない、と思ったんです。この敗戦が、医学部をそれまで以上に強く意識する転機になりました」こうして夏から、学校の勉強も自習も気合いを入れて取り組むようになった二重作さん。しかし、火がついたのが受験まであと半年の段階であったため、残念ながら間に合わず、センター試験は640/800点。国公立医学部に行くには最低でもあと40点ほどは必要で、結局、受験した大学の2次試験の合計得点を合わせても合格点に足りず、落ちてしまいました。1浪して全落ち…自分自身が嫌いにこうして現役の受験を消化不良で終えた二重作さんは「目標を途中で変更するのは自分との約束を破るような気がした」と思い、浪人を決断。代々木ゼミナール福岡校の全日コースに入ります。しかし、医学部の判定は現役時のD~Cから上がることはなかったと言います。「1年浪人したらなんとかなるだろう、と楽観的に考えていて、自分のことなのに、切羽詰まった感じはありませんでした。1日10時間ほど勉強をしていたので、遊んでいたわけではないのですが……、ただたんに授業や模試を受けているだけで、必死さがなかったんです」その自身の認識の甘さに気づいたのが、センター試験が終わった後だったそうです。「センター試験は去年640/800点とっているから、まぁプラス40点くらいは取れるんじゃないかと甘い計算をしていたんです。でも、蓋を開けてみれば610/800点で、現役の時より30点ほど下がりました。もう、茫然自失でした……。予備校から帰るときの横断歩道の景色が霞んで見えたことをよく覚えています。自分自身のことが信じられなくなって、嫌いになりました。自分との約束を破ったのは、僕でしたから」結局、この年も前期試験、後期試験で地方の国公立大学医学部を受けるも撃沈。1浪してもどこも受からなかったことを受けて、「あのときくらい自分自身に絶望したことはなかったです。今思えば『本気』じゃなくて『本気のふり』だったんでしょうね」と二重作さんは当時を振り返ります。現役時よりも成績が下がる、という絶望的な状況から2浪を決断した二重作さん。その決断の理由はやはり、医師になるという夢を諦めることへのためらいでした。「一度目指したものを諦めてしまうと、きっと一生引きずると思ったんです。今後の人生で病院に行くたびに、医師に会うたびに、夢を諦めたことを思い出すんだろうな、と。それはどうしても嫌でした」成績が伸びなかったことを受け入れた二重作さんは、落ちた原因を分析しました。その理由として「弱点から逃げたこと」をあげます。「数学の偏差値が50くらいでした。でも、できないことに向き合わずに2次試験で数学のない大学を受ければいいや、と思って1浪目の1年間はずっと逃げ続けたんです。勉学に対する姿勢が完全に間違っていましたね」そして1浪目の勉強を「ダラダラやっていた」ことも反省した彼は、目的達成のために思い切った戦略をとります。「もう逃げない」と決めた2浪目「予備校の授業を1日中受ける全日コースではなく、単科コースを受講するようにしました。自分にとって必要なことを自ら選びとることによって言い訳できない状況を作ったんです。また、本当に実力を伸ばすために、楽しい授業じゃなくて、厳しいけれど実力がつく授業をピンポイントで選びました。数学に関しては、プライドを捨てていちばん簡単な基礎クラスをはじめ、複数の講座を受講するようにしたんです。『できない』は『触れてない』場合も多いので」「もう逃げない」そう決めた二重作さんは、時間配分と効率を考えて、苦手科目は講義を受けながら重点的に勉強し、得意科目は自習でどんどん伸ばす戦略を取りました。この浪人生活を過ごせたのも「もう一度、自分を信じたい」という思いがあったからだそうです。その一方で、この期間も「勉学」と「運動」をセットで行うために空手の道場には通い続けていた二重作さん。このメリハリのついた生活は、集中力を保った状態での学習を可能とし、成績を目ざましく向上させます。模試の成績はB~A判定を取れるようになり3度目のセンター試験に臨みました。「この年、ようやくセンター試験の壁を突破したんです。全体でも720/800点、苦手だった数学も数I+Aと数II+Bで190/200点以上の得点となりました。2浪目は、これでダメならもうやめようと覚悟を決めていたんです。望みが叶わなければ、所詮そこまでだったと。自分を追い込んで向き合うことで、やっと本気になれた気がします」この年は前期試験で滋賀医科大学、後期試験で高知医科大学を受験します。前期では惜しくも落ちてしまいましたが、滑り止めで選んだ慶應義塾大学の理工学部に合格したことで「とりあえず大学生にはなれそうだ」と前期不合格を引きずらずに済んだそうです。パニックで取ったある行動そして2浪目の最後、高知医科大学の試験に臨んだ二重作さん。「数学の試験中、ある問題の解法が見えずにパニックに陥りました。ヤバい、これできないと落ちる、と。その瞬間、激しい頭痛も襲ってきました」と絶体絶命の状況でしたが、深呼吸をして少し仮眠をとることで冷静さを取り戻し、その後はスムーズに解に向かえたそうです。そして、ついに念願の国公立医学部合格を手にしました。「『やっとなりたい自分になれる』ってことが嬉しかったですね。あのとき、思い切って仮眠をとる、という判断ができなかったら、自分は今、医師になれていなかったですね。弱点でしかなかった『数学』が得点源になったり、ギリギリの勝負どころに変わったりする経験もしました。いろんな意味で記憶に残る勝負でした」小学生・中学生の頃からの父への想いで戦ってきたリベンジマッチ、最後のチャンスでの逆転勝利でした。こうして2年の浪人生活で大きく成長した二重作さん。浪人して良かったことについて聞いてみると、「原理・原則から理解する重要性を学べたこと」という言葉が返ってきました。「かつての僕は、数学の公式を丸暗記して使おうとしていました。でも、その公式の成立過程には意味があります。完成したものを覚えるだけではなくて、そこに至るまでの論理立ったプロセスを習得すると無限に応用が可能なのです。スポーツでも、勉学でも、最低限守るべき約束事や基礎があって。なぜそうなるかを理解しながら、1つひとつ積み上げるからこそ次のステージに行けます。原理・原則から理解すれば、指導者のコピーではなく、自分で考えて組み立てられる人になれる。浪人したおかげで、『強さの型』を手にすることができたんです」無事、高知医科大学を卒業した二重作さんは、医師を続ける傍ら、空手選手としても地方大会優勝、全日本大会にも出場。また選手時代の経験や、リングドクター、プロ選手のチームドクターの経験から、「強さの根拠」を見つめた「格闘技医学」を提唱し、そのオリジネーターとして世界各国から招聘されるほか、書籍『強さの磨き方』も上梓しました。チームドクターとして参加(写真:二重作さん提供)スポーツ以外の分野でも、ハードワーカーを診てきた経験を生かし、音楽家のサポートも行っています。ジェフ・ベックやプリンスファミリーらの来日公演に帯同したり、音楽家たちのインタビューをまとめた英語版書籍を発表したりと、幅広く活動しています。ミュージシャンのサポートも(写真:二重作さん提供)「僕はDrという称号のおかげで出会った方にも信頼していただけるのだ、と実感します。おかげさまで、好きなアーティスト、憧れの選手、大きな影響を受けた先輩たちとのご縁をいただき、10代の頃には想像もつかなかった景色をみせてもらっています」なりたい自分になれた「浪人して医学部に入って得たものは、会いたい人たちのお役に立てるパスポートなのかもしれません。僕がそうしてもらってきたように、『私にもできる』『なりたい自分になれる』そんな可能性を感じてもらえるような活動をこれからも心がけていきたいです」人を包み込む心の広さ、優しさを持っている二重作さん。浪人生活で自分の「弱さ」に向き合ったからこそ、人間としての『強さの磨き方』を身につけられたのだと思いました。(濱井 正吾 : 教育系ライター)
二重作さん(写真:二重作さん提供)
浪人という選択を取る人が20年前と比べて2分の1になっている現在。「浪人してでも、志望する大学に行きたい」という人が減っている一方で、浪人生活を経験したことで、人生が変わった人もいます。自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した濱井正吾さんが、さまざまな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったこと・頑張れた理由などを追求していきます。今回は2浪で高知医科大学(現・高知大医学部)に入学、卒業後に「格闘技医学」の開拓者として海外でも講演しながら、スポーツドクターや音楽家のツアードクターとして活躍している二重作(ふたえさく)拓也さんに話を伺いました。
みなさんは、自分と向き合ってきた経験はありますか。
きっと、誰しも「断酒していたけど誘惑に負けてしまった」「ダイエットが続かなかった」など、一度は自分で決めたことをつい覆してしまったことがあるのではないかと思います。
この連載の一覧はこちら
今回、インタビューした二重作拓也さんも、1浪目に弱点科目の克服から目を背けてしまったことで、センター試験の点数が現役時より30点下がってしまい、受験に失敗した経験があります。しかしその失敗から、戦略的思考に基づいて受験勉強と向き合い、2浪目で小さい頃からの夢であった国公立大学の医学部への合格を叶えました。
浪人経験を経て自分の「弱さ」を知った彼は現在、自身が学生時代に格闘技に打ち込んだ経験から、スポーツドクターとしてアスリートの体を支え、さらにはジャンルを超えて身体的・精神的・人間的な「強さ」を伝えていく活動を行っています。
今回は、彼の現在の活動の原点となった浪人生活に迫っていきます。
二重作さんは、父が理学療法士、母が看護師(※その後、看護系講師)の北九州の医療一家に生まれ、物心つく前に”お受験”をして小中一貫校の名門私学・明治学園に入りました。小学生のころは病弱で、魚や恐竜の図鑑を見るのが好きな内向的な子どもだったそうです。
「同級生と比べても足が遅く、球技がまったくできませんでした」
そんな彼が格闘技を始めたのは、運動音痴だった自分へのコンプレックスからだったと言います。小学生から始めた空手に打ち込んだ二重作さんは、その甲斐あって、中学2年生のときには所属連盟の全国少年大会で準優勝をするまで上達しました。
一方で、もともと運動よりも得意であった勉強にも力を入れていました。小学生時代から医師になるという具体的な目標を持てたのも、同級生とのやりとりで悔しい思いをした経験からでした。
「僕の小・中は開業医の子どもが多かったんです。そこで『お前の父さんは理学療法士だけど、俺の父さんは医者だぞ』とバカにされたことがあり、子供心にかなり傷つきましたね。そのとき、僕は『医師になってやる』と思いました。小学生の段階で父親のリベンジマッチが始まっていたんです。経済的には国公立の医学部しか行けなかったので、そこを目標にしました」
こうして小学校から中学校に上がっても、二重作さんは、中の上~上の下の成績をキープし続けます。勉強・スポーツに打ち込む中学時代を送った二重作さんは、通っていた明治学園には当時、高等部がなかったこともあり、高校受験の準備を始め、名門校である福岡県立東筑高等学校に進学しました。
この学校の文武両道の校風に大いに刺激を受けた二重作さんは、勉強と空手を両立させる3年間を送り、高校生活を通して450人中で80位程度の成績をキープ。それでも国公立の医学部にはまだまだ遠く、D~C判定でした。
そして、受験学年である3年生のとき、医学部に行く必要性を強く実感する出来事が起きます。所属していた空手流派の高校生日本代表に選ばれ、7月にアメリカに遠征、USAオープン大会に出場することになったのです。
「当時、出場していた国内の試合ではすべて3位以内に入賞し、必ずトロフィーを持って帰ってました。だから『僕は強い』と勘違いしてたんですね(苦笑)。ですが、向こうでは187cmの黒人選手と対戦し、見たこともない軌道の蹴り技をもらって、ぶっ倒されました。口の中は内出血して歯もグラグラ、もうコテンパンにやられました(笑)。
わざわざアメリカまで行って、世界の広さと己の弱さを見せつけられたんですね。そこで、人間の体をもっと詳しく知って、フィジカルだけではなく叡智の面も鍛えなければならない、と思ったんです。この敗戦が、医学部をそれまで以上に強く意識する転機になりました」
こうして夏から、学校の勉強も自習も気合いを入れて取り組むようになった二重作さん。しかし、火がついたのが受験まであと半年の段階であったため、残念ながら間に合わず、センター試験は640/800点。国公立医学部に行くには最低でもあと40点ほどは必要で、結局、受験した大学の2次試験の合計得点を合わせても合格点に足りず、落ちてしまいました。
こうして現役の受験を消化不良で終えた二重作さんは「目標を途中で変更するのは自分との約束を破るような気がした」と思い、浪人を決断。代々木ゼミナール福岡校の全日コースに入ります。
しかし、医学部の判定は現役時のD~Cから上がることはなかったと言います。
「1年浪人したらなんとかなるだろう、と楽観的に考えていて、自分のことなのに、切羽詰まった感じはありませんでした。1日10時間ほど勉強をしていたので、遊んでいたわけではないのですが……、ただたんに授業や模試を受けているだけで、必死さがなかったんです」
その自身の認識の甘さに気づいたのが、センター試験が終わった後だったそうです。
「センター試験は去年640/800点とっているから、まぁプラス40点くらいは取れるんじゃないかと甘い計算をしていたんです。でも、蓋を開けてみれば610/800点で、現役の時より30点ほど下がりました。もう、茫然自失でした……。予備校から帰るときの横断歩道の景色が霞んで見えたことをよく覚えています。自分自身のことが信じられなくなって、嫌いになりました。自分との約束を破ったのは、僕でしたから」
結局、この年も前期試験、後期試験で地方の国公立大学医学部を受けるも撃沈。1浪してもどこも受からなかったことを受けて、「あのときくらい自分自身に絶望したことはなかったです。今思えば『本気』じゃなくて『本気のふり』だったんでしょうね」と二重作さんは当時を振り返ります。
現役時よりも成績が下がる、という絶望的な状況から2浪を決断した二重作さん。その決断の理由はやはり、医師になるという夢を諦めることへのためらいでした。
「一度目指したものを諦めてしまうと、きっと一生引きずると思ったんです。今後の人生で病院に行くたびに、医師に会うたびに、夢を諦めたことを思い出すんだろうな、と。それはどうしても嫌でした」
成績が伸びなかったことを受け入れた二重作さんは、落ちた原因を分析しました。その理由として「弱点から逃げたこと」をあげます。
「数学の偏差値が50くらいでした。でも、できないことに向き合わずに2次試験で数学のない大学を受ければいいや、と思って1浪目の1年間はずっと逃げ続けたんです。勉学に対する姿勢が完全に間違っていましたね」
そして1浪目の勉強を「ダラダラやっていた」ことも反省した彼は、目的達成のために思い切った戦略をとります。
「予備校の授業を1日中受ける全日コースではなく、単科コースを受講するようにしました。自分にとって必要なことを自ら選びとることによって言い訳できない状況を作ったんです。また、本当に実力を伸ばすために、楽しい授業じゃなくて、厳しいけれど実力がつく授業をピンポイントで選びました。数学に関しては、プライドを捨てていちばん簡単な基礎クラスをはじめ、複数の講座を受講するようにしたんです。『できない』は『触れてない』場合も多いので」
「もう逃げない」そう決めた二重作さんは、時間配分と効率を考えて、苦手科目は講義を受けながら重点的に勉強し、得意科目は自習でどんどん伸ばす戦略を取りました。この浪人生活を過ごせたのも「もう一度、自分を信じたい」という思いがあったからだそうです。
その一方で、この期間も「勉学」と「運動」をセットで行うために空手の道場には通い続けていた二重作さん。このメリハリのついた生活は、集中力を保った状態での学習を可能とし、成績を目ざましく向上させます。模試の成績はB~A判定を取れるようになり3度目のセンター試験に臨みました。
「この年、ようやくセンター試験の壁を突破したんです。全体でも720/800点、苦手だった数学も数I+Aと数II+Bで190/200点以上の得点となりました。2浪目は、これでダメならもうやめようと覚悟を決めていたんです。望みが叶わなければ、所詮そこまでだったと。自分を追い込んで向き合うことで、やっと本気になれた気がします」
この年は前期試験で滋賀医科大学、後期試験で高知医科大学を受験します。前期では惜しくも落ちてしまいましたが、滑り止めで選んだ慶應義塾大学の理工学部に合格したことで「とりあえず大学生にはなれそうだ」と前期不合格を引きずらずに済んだそうです。
そして2浪目の最後、高知医科大学の試験に臨んだ二重作さん。「数学の試験中、ある問題の解法が見えずにパニックに陥りました。ヤバい、これできないと落ちる、と。その瞬間、激しい頭痛も襲ってきました」と絶体絶命の状況でしたが、深呼吸をして少し仮眠をとることで冷静さを取り戻し、その後はスムーズに解に向かえたそうです。そして、ついに念願の国公立医学部合格を手にしました。
「『やっとなりたい自分になれる』ってことが嬉しかったですね。あのとき、思い切って仮眠をとる、という判断ができなかったら、自分は今、医師になれていなかったですね。弱点でしかなかった『数学』が得点源になったり、ギリギリの勝負どころに変わったりする経験もしました。いろんな意味で記憶に残る勝負でした」
小学生・中学生の頃からの父への想いで戦ってきたリベンジマッチ、最後のチャンスでの逆転勝利でした。
こうして2年の浪人生活で大きく成長した二重作さん。浪人して良かったことについて聞いてみると、「原理・原則から理解する重要性を学べたこと」という言葉が返ってきました。
「かつての僕は、数学の公式を丸暗記して使おうとしていました。でも、その公式の成立過程には意味があります。完成したものを覚えるだけではなくて、そこに至るまでの論理立ったプロセスを習得すると無限に応用が可能なのです。
スポーツでも、勉学でも、最低限守るべき約束事や基礎があって。なぜそうなるかを理解しながら、1つひとつ積み上げるからこそ次のステージに行けます。原理・原則から理解すれば、指導者のコピーではなく、自分で考えて組み立てられる人になれる。浪人したおかげで、『強さの型』を手にすることができたんです」
無事、高知医科大学を卒業した二重作さんは、医師を続ける傍ら、空手選手としても地方大会優勝、全日本大会にも出場。また選手時代の経験や、リングドクター、プロ選手のチームドクターの経験から、「強さの根拠」を見つめた「格闘技医学」を提唱し、そのオリジネーターとして世界各国から招聘されるほか、書籍『強さの磨き方』も上梓しました。
チームドクターとして参加(写真:二重作さん提供)
スポーツ以外の分野でも、ハードワーカーを診てきた経験を生かし、音楽家のサポートも行っています。ジェフ・ベックやプリンスファミリーらの来日公演に帯同したり、音楽家たちのインタビューをまとめた英語版書籍を発表したりと、幅広く活動しています。
ミュージシャンのサポートも(写真:二重作さん提供)
「僕はDrという称号のおかげで出会った方にも信頼していただけるのだ、と実感します。おかげさまで、好きなアーティスト、憧れの選手、大きな影響を受けた先輩たちとのご縁をいただき、10代の頃には想像もつかなかった景色をみせてもらっています」
「浪人して医学部に入って得たものは、会いたい人たちのお役に立てるパスポートなのかもしれません。僕がそうしてもらってきたように、『私にもできる』『なりたい自分になれる』そんな可能性を感じてもらえるような活動をこれからも心がけていきたいです」
(濱井 正吾 : 教育系ライター)