ヤクザから16歳で覚醒剤を教えられ…33年間やめられず廃人寸前まで堕ちた55歳女性YouTuberが語る薬物依存の恐怖

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「覚醒剤やめますか? それとも人間やめますか?」。40年前に流れていたCMである。覚醒剤の恐ろしさがどんなに啓蒙されても、手を出してしまう人が後を絶たない。件のCMが流れていた頃に覚醒剤を覚え、以来33年間を手放せなかった55歳の女性YouTuberに薬物依存の恐ろしさを語ってもらった。
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【写真5枚】キャバ嬢時代、イケイケだった頃の万年さん。173センチのスレンダー美女として人気者だった祖父は大物右翼「私のチャンネルの登録者数は女性比率が高くて25%を占めます。その中には私みたいに薬物依存に苦しんでいる女性もいる。彼女たちに、『私も何度も同じ過ちを繰り返してきたけどこうして止められた、大丈夫だから一緒に頑張ろう』と呼びかけています」

自身のYouTubeチャンネルで33年間に及んだ薬物経験について語る万年蘭さん。加工アプリを使っているため実際の見た目は変わるが、素顔も55歳とは思えぬくらい若い こう語るのは、今年7月にYouTubeデビューした万年蘭さん(55)だ。いま彼女はアウトローYouTube界隈でにわかに人気を集めている。覚醒剤の経験者は星の数ほどいるが、33年間も捕まらずに続けてきた人は珍しい。そればかりか彼女は「元ポン中」(覚醒剤中毒者のこと)を自称し、実名であけすけに過去を語り出したのだ。 万年さんは1967年生まれ。祖父は昭和の大物右翼・総会屋として知られる万年東一氏で、父も総会屋という“反社一家”で生まれ育った。「子供ながらに、なんでうちのお父さんはいつも家にいるんだろうと思っていました。それでいて、小学校低学年だというのにお年玉が最低20万円、多いと50万円くらいになるのです。さらに、それを賭けての家族麻雀もさせられていました」引っ越し先にあった覚醒剤 父は一人娘に優しかったが、母は子育てに無関心だった。朝ごはんやお弁当を作ってもらった記憶すらない。そして、万年さんが小学4年生のときに離婚して家を出ていってしまった。 家の中にポツンと一人残される日々。寂しさを紛らわすために、当時竹の子族が流行していた原宿の街で遊び倒した。やがて、父親は肝臓ガンが悪化して入院。そんななか、中二の時に警察沙汰を起こしたことがきっかけとなり母方に引き取られることになった。「家を出た母は元ヤクザの愛人となっていました。私にはつっけんでしたが、男が来る時だけ態度が豹変する。夜は家にいなく、代わりに食卓の上に千円札が置いてあるだけだった。こんな家にはいたくないと、16歳でヤクザの知り合いを頼って家を飛び出しました」 高校生だったが年齢を偽り、高島平のスナックで働き始めた。住まいは知り合いのヤクザがアパートの一室を用意してくれたが、「そこがいつの間にか競馬のノミ屋の拠点になってしまったのです。私は土日に電話番。さらに、覚醒剤のパケも置かれるようになった」 薬物に興味はあったがすぐには手を出さず、おかしな行動を続ける男たちを観察し続けた。皆、覚醒剤を入れると急に背中を丸めて大人しくなる。一日中黙って針を研ぎ続ける者。「盗聴器がしかけられている」と言い出してラジカセを分解しだす者。「全員廃人じゃんって思って見ていました。私はいつか自分の決めたタイミングでやりたくなった時、やってみようって思っていました。経験者から『最初の1回目が肝心。ちゃんと楽しくキマれば、バッドトリップに入らず楽しく遊べる』と言われていたからです」男はサルになる その日は半年も経たずにやってきた。16歳の大晦日。友達たちと初詣に出かける直前、急にお腹が痛くなった。これは一発入れるしかない。その場にいた男に「やりたい」と伝えると、パケを取り出し準備をしてくれた。だが、手をプルプルさせながら針を刺している男たちに任せるのは怖い。「自分でやる」。見よう見まねで刺してみた。すると、「急にアドレナリンが出る感じでお腹の痛みがスパッと止まった。あー、これはいいと思いました。外に出ても凍えるくらい冷え込んでいるのに、まったく寒さを感じない。あらゆる不快感が消えて頭がスッキリするんです。朝まで遊んでもまったく眠くならなかった」 その後、男とも一緒に薬物を使った。一度覚えると男女で堕ちていくのが定番パターンだが、「私はそうはならなかった。確かには薬物を使った関係は気持ちがいいものですが、私にとっては苦痛の方が大きかったんです。覚醒剤を打った男は24時間延々と続けたがる。でも、あっちの方は全然勃たなくなるのです。『ちょっと待っててね』って必死に自分でしごき続けている。サルですよ。私はゆっくり時間をかけてを楽しみたいタイプで、とてもじゃないがあの状態にはついていけない。一人で楽しむのが好きでした」「トゥナイト」にも出演 酒をいくら飲んでも酔わないし、朝まで平気で起きていられる。接客が格段に楽になった。やがて、男たちと関わるのが嫌になって巣鴨の寮付きのキャンパスクラブ(後のキャバクラ)へ。だが、薬物を入手するために元のアパートへの出入りは続けていた。「打つ量はいつもセーブしていました。一回で1グラムを10回くらいに分けるような使い方です。あの頃は、自分ではいつでもやめられるって思っていて、むしろ、やめようと思わないようにしていた。タバコも同じで、やめようと思えば逆に吸いたくなっちゃうじゃないですか」 だが、気づけば睡眠薬のハルシオンも併用するほどのヘビーな薬物中毒者になっていた。仕事は順調で、池袋、歌舞伎町と店を転々としたが、どこでも重宝された。雑誌のグラビアに載ったり、山本晋也氏の風俗街レポートで有名だったテレビ番組「トゥナイト」に出演したこともある。そんなステータスを維持するためにも必要なのはクスリだった。 20歳半ばのころ、死にかけた経験がある。池袋のマルイでエスカレーターに乗っている時、急にチカチカと視界に星が現れ動悸が止まらなくなった。うずくまって腕を見てみると、異常なくらい毛細血管が浮き出ていた。通行人が「救急車呼びますか」と聞いてきたが、「大丈夫です」と振り切り、這うようにして帰宅。 鏡を見ると、体がマネキン人形のように蒼白になっていた。もう一発入れたら治るんじゃないか。試してみると、かえって症状が悪化してしまった。「風呂に入ったり、冷房で体を冷やしたり、あれこれやったけどまったく収まらなくて、一日中のたうち回っていました。このまま死ぬか、救急車を呼んで捕まるか、ギリギリのところでした」子供たちが針を 30歳で水商売から足を洗い、34歳で男児を出産。その後、別の男との間にも二人の男児を授かったが、いずれの父親も姿を消した。生活していくためには自分が働かなければならない。まだ小さい子供を母に預けて、運送会社の倉庫作業員の夜勤も始めた。つらい肉体労働で気を紛らわすのに必要としたのが覚醒剤だった。「楽しいとかそういうんじゃないですね。いつもどうやって仕入れるか考えてしまう思考回路が出来上がってしまっているんです」 1年ほどクスリを絶ったこともあるが、最後は「もうそろそろいいだろう」と売人に電話してしまうのだ。「子供たちに隠れて夜中に起きてゴソゴソ注射器を取り出してトイレでこっそり打つ。買い物に出かけて帰ってきたら、子供たちが針を絨毯の上に挿して遊んでいたこともあった。さすがにあの時ばかりは罪悪感に苦しみました」 気づくと売人の男と半同棲生活を送っていた。この男と出会ったのが運の尽き。男と大喧嘩して、パトカー20台がかけつける騒ぎを起こす。男には前科があったので、警察はすぐさま薬物を疑い二人を連行した。「その時は私も居直って『するならしろよ』と尿検査を拒みませんでした。私が33年間一回も捕まらなかったのは、男と一緒にはまらず一人で楽しんでいたから。結局、男とクスリがセットになってしまったら、行き着くところまでいって破滅するしかないんです」刑務所でもやめようとは思わなかった 初犯だったため執行猶予を得られたが、半年も経たずして再び男と喧嘩してまた警察沙汰に。任意採尿を頑なに拒んだが、最後は令状を持ってこられて強制採尿された。そして、前科分と合わせて2年8カ月間刑務所に行くことになった。「それでもクスリをやめようとは思わなかった。服役中は男への復讐心しかありませんでした。あの男とさえ出会わなければ捕まらなかったのにと、男のせいにしてしまったのです。女子刑務所って殺人、窃盗、運び屋などさまざまな罪を背負った人たちが集まっているんですが、一番多いのがポン中なんです。彼女たちと休み時間になるといつもクスリの話で盛り上がる。『あの時のネタは効いたよ』なんて話していると、またやりたくなるのです」(刑務所暮らしについては別稿「女性刑務所は『前歯のない人ばかり』 元受刑者が語る殺人犯と並んで浴びた『15秒シャワー』」へ) 刑期を終えて家に帰ると、隠し持っていた覚醒剤のパケを手に取った。そこで初めて逡巡する自分がいた。「いまのこのクリーンな状態を捨ててしまって本当にいいのかって自問自答しました。せっかく3年間もヤクを抜いたこの綺麗な体を汚してしまうのはもったいなくないか。33年覚醒剤を続けてきて、どれだけ周囲の信頼を失ってきたのか。気づいたらまともな人間関係なんか残っていなかった。成長した子供たちのことも考え、初めて真剣にやめようと決意しました」「ねえさん」と慕ってくれるリスナー 以来、懲役に行った期間も合わせると7年、覚醒剤から足を洗った生活を続けている。 刑務所から出てきた時は50歳になっていたが、下の子供二人はまだ学校に通っているので働かなければならない。運送屋、防水加工、鉄筋屋などのガテン系の職場を転々としてきた。そんな地味な暮らしを5年続けて55歳になった今年、知人の紹介でたまたま出会ったのが、自身が経験した3度の刑務所暮らしをパロディー風に紹介しているVTuberの懲役太郎氏だった。「誰も経験しないような破天荒な人生を歩んできたんだから、逆にそれを武器にして商売にしちゃえばいいんじゃないか」 そんな勧めを受け、軽い遊びのつもりでYouTubeを始めてみたら思いの外、反響が出た。たった2カ月で登録者数は6500人まで増え、今月から収益化できるように。稼ぎはまだ微々たるものだが手応えを感じている。「毎日のようにコツコツ生配信を続けています。たいした芸もなく、みっともない半生を振り返って面白おかしく喋り続けているだけなんですが、ありがたいことにファンも増えてきて……。堕ちるところまで堕ちてしまったこんな自分でも、必要とされる場所があったんだと思いました」 一方、アンチからは「どうせまた手を出すに決まっている」と叩かれ続ける日々だ。「もちろん、そう思われても仕方ない。ポン中とはそういうものです。でも、必死にもがきながら頑張っている弱い人たちを切り捨てない社会であるべきだとも思う。だから、私を応援してくれる人がいる限り頑張っていこうと思っています」デイリー新潮編集部
「私のチャンネルの登録者数は女性比率が高くて25%を占めます。その中には私みたいに薬物依存に苦しんでいる女性もいる。彼女たちに、『私も何度も同じ過ちを繰り返してきたけどこうして止められた、大丈夫だから一緒に頑張ろう』と呼びかけています」
こう語るのは、今年7月にYouTubeデビューした万年蘭さん(55)だ。いま彼女はアウトローYouTube界隈でにわかに人気を集めている。覚醒剤の経験者は星の数ほどいるが、33年間も捕まらずに続けてきた人は珍しい。そればかりか彼女は「元ポン中」(覚醒剤中毒者のこと)を自称し、実名であけすけに過去を語り出したのだ。
万年さんは1967年生まれ。祖父は昭和の大物右翼・総会屋として知られる万年東一氏で、父も総会屋という“反社一家”で生まれ育った。
「子供ながらに、なんでうちのお父さんはいつも家にいるんだろうと思っていました。それでいて、小学校低学年だというのにお年玉が最低20万円、多いと50万円くらいになるのです。さらに、それを賭けての家族麻雀もさせられていました」
父は一人娘に優しかったが、母は子育てに無関心だった。朝ごはんやお弁当を作ってもらった記憶すらない。そして、万年さんが小学4年生のときに離婚して家を出ていってしまった。
家の中にポツンと一人残される日々。寂しさを紛らわすために、当時竹の子族が流行していた原宿の街で遊び倒した。やがて、父親は肝臓ガンが悪化して入院。そんななか、中二の時に警察沙汰を起こしたことがきっかけとなり母方に引き取られることになった。
「家を出た母は元ヤクザの愛人となっていました。私にはつっけんでしたが、男が来る時だけ態度が豹変する。夜は家にいなく、代わりに食卓の上に千円札が置いてあるだけだった。こんな家にはいたくないと、16歳でヤクザの知り合いを頼って家を飛び出しました」
高校生だったが年齢を偽り、高島平のスナックで働き始めた。住まいは知り合いのヤクザがアパートの一室を用意してくれたが、
「そこがいつの間にか競馬のノミ屋の拠点になってしまったのです。私は土日に電話番。さらに、覚醒剤のパケも置かれるようになった」
薬物に興味はあったがすぐには手を出さず、おかしな行動を続ける男たちを観察し続けた。皆、覚醒剤を入れると急に背中を丸めて大人しくなる。一日中黙って針を研ぎ続ける者。「盗聴器がしかけられている」と言い出してラジカセを分解しだす者。
「全員廃人じゃんって思って見ていました。私はいつか自分の決めたタイミングでやりたくなった時、やってみようって思っていました。経験者から『最初の1回目が肝心。ちゃんと楽しくキマれば、バッドトリップに入らず楽しく遊べる』と言われていたからです」
その日は半年も経たずにやってきた。16歳の大晦日。友達たちと初詣に出かける直前、急にお腹が痛くなった。これは一発入れるしかない。その場にいた男に「やりたい」と伝えると、パケを取り出し準備をしてくれた。だが、手をプルプルさせながら針を刺している男たちに任せるのは怖い。「自分でやる」。見よう見まねで刺してみた。すると、
「急にアドレナリンが出る感じでお腹の痛みがスパッと止まった。あー、これはいいと思いました。外に出ても凍えるくらい冷え込んでいるのに、まったく寒さを感じない。あらゆる不快感が消えて頭がスッキリするんです。朝まで遊んでもまったく眠くならなかった」
その後、男とも一緒に薬物を使った。一度覚えると男女で堕ちていくのが定番パターンだが、
「私はそうはならなかった。確かには薬物を使った関係は気持ちがいいものですが、私にとっては苦痛の方が大きかったんです。覚醒剤を打った男は24時間延々と続けたがる。でも、あっちの方は全然勃たなくなるのです。『ちょっと待っててね』って必死に自分でしごき続けている。サルですよ。私はゆっくり時間をかけてを楽しみたいタイプで、とてもじゃないがあの状態にはついていけない。一人で楽しむのが好きでした」
酒をいくら飲んでも酔わないし、朝まで平気で起きていられる。接客が格段に楽になった。やがて、男たちと関わるのが嫌になって巣鴨の寮付きのキャンパスクラブ(後のキャバクラ)へ。だが、薬物を入手するために元のアパートへの出入りは続けていた。
「打つ量はいつもセーブしていました。一回で1グラムを10回くらいに分けるような使い方です。あの頃は、自分ではいつでもやめられるって思っていて、むしろ、やめようと思わないようにしていた。タバコも同じで、やめようと思えば逆に吸いたくなっちゃうじゃないですか」
だが、気づけば睡眠薬のハルシオンも併用するほどのヘビーな薬物中毒者になっていた。仕事は順調で、池袋、歌舞伎町と店を転々としたが、どこでも重宝された。雑誌のグラビアに載ったり、山本晋也氏の風俗街レポートで有名だったテレビ番組「トゥナイト」に出演したこともある。そんなステータスを維持するためにも必要なのはクスリだった。
20歳半ばのころ、死にかけた経験がある。池袋のマルイでエスカレーターに乗っている時、急にチカチカと視界に星が現れ動悸が止まらなくなった。うずくまって腕を見てみると、異常なくらい毛細血管が浮き出ていた。通行人が「救急車呼びますか」と聞いてきたが、「大丈夫です」と振り切り、這うようにして帰宅。
鏡を見ると、体がマネキン人形のように蒼白になっていた。もう一発入れたら治るんじゃないか。試してみると、かえって症状が悪化してしまった。
「風呂に入ったり、冷房で体を冷やしたり、あれこれやったけどまったく収まらなくて、一日中のたうち回っていました。このまま死ぬか、救急車を呼んで捕まるか、ギリギリのところでした」
30歳で水商売から足を洗い、34歳で男児を出産。その後、別の男との間にも二人の男児を授かったが、いずれの父親も姿を消した。生活していくためには自分が働かなければならない。まだ小さい子供を母に預けて、運送会社の倉庫作業員の夜勤も始めた。つらい肉体労働で気を紛らわすのに必要としたのが覚醒剤だった。
「楽しいとかそういうんじゃないですね。いつもどうやって仕入れるか考えてしまう思考回路が出来上がってしまっているんです」
1年ほどクスリを絶ったこともあるが、最後は「もうそろそろいいだろう」と売人に電話してしまうのだ。
「子供たちに隠れて夜中に起きてゴソゴソ注射器を取り出してトイレでこっそり打つ。買い物に出かけて帰ってきたら、子供たちが針を絨毯の上に挿して遊んでいたこともあった。さすがにあの時ばかりは罪悪感に苦しみました」
気づくと売人の男と半同棲生活を送っていた。この男と出会ったのが運の尽き。男と大喧嘩して、パトカー20台がかけつける騒ぎを起こす。男には前科があったので、警察はすぐさま薬物を疑い二人を連行した。
「その時は私も居直って『するならしろよ』と尿検査を拒みませんでした。私が33年間一回も捕まらなかったのは、男と一緒にはまらず一人で楽しんでいたから。結局、男とクスリがセットになってしまったら、行き着くところまでいって破滅するしかないんです」
初犯だったため執行猶予を得られたが、半年も経たずして再び男と喧嘩してまた警察沙汰に。任意採尿を頑なに拒んだが、最後は令状を持ってこられて強制採尿された。そして、前科分と合わせて2年8カ月間刑務所に行くことになった。
「それでもクスリをやめようとは思わなかった。服役中は男への復讐心しかありませんでした。あの男とさえ出会わなければ捕まらなかったのにと、男のせいにしてしまったのです。女子刑務所って殺人、窃盗、運び屋などさまざまな罪を背負った人たちが集まっているんですが、一番多いのがポン中なんです。彼女たちと休み時間になるといつもクスリの話で盛り上がる。『あの時のネタは効いたよ』なんて話していると、またやりたくなるのです」(刑務所暮らしについては別稿「女性刑務所は『前歯のない人ばかり』 元受刑者が語る殺人犯と並んで浴びた『15秒シャワー』」へ)
刑期を終えて家に帰ると、隠し持っていた覚醒剤のパケを手に取った。そこで初めて逡巡する自分がいた。
「いまのこのクリーンな状態を捨ててしまって本当にいいのかって自問自答しました。せっかく3年間もヤクを抜いたこの綺麗な体を汚してしまうのはもったいなくないか。33年覚醒剤を続けてきて、どれだけ周囲の信頼を失ってきたのか。気づいたらまともな人間関係なんか残っていなかった。成長した子供たちのことも考え、初めて真剣にやめようと決意しました」
以来、懲役に行った期間も合わせると7年、覚醒剤から足を洗った生活を続けている。
刑務所から出てきた時は50歳になっていたが、下の子供二人はまだ学校に通っているので働かなければならない。運送屋、防水加工、鉄筋屋などのガテン系の職場を転々としてきた。そんな地味な暮らしを5年続けて55歳になった今年、知人の紹介でたまたま出会ったのが、自身が経験した3度の刑務所暮らしをパロディー風に紹介しているVTuberの懲役太郎氏だった。
「誰も経験しないような破天荒な人生を歩んできたんだから、逆にそれを武器にして商売にしちゃえばいいんじゃないか」
そんな勧めを受け、軽い遊びのつもりでYouTubeを始めてみたら思いの外、反響が出た。たった2カ月で登録者数は6500人まで増え、今月から収益化できるように。稼ぎはまだ微々たるものだが手応えを感じている。
「毎日のようにコツコツ生配信を続けています。たいした芸もなく、みっともない半生を振り返って面白おかしく喋り続けているだけなんですが、ありがたいことにファンも増えてきて……。堕ちるところまで堕ちてしまったこんな自分でも、必要とされる場所があったんだと思いました」
一方、アンチからは「どうせまた手を出すに決まっている」と叩かれ続ける日々だ。
「もちろん、そう思われても仕方ない。ポン中とはそういうものです。でも、必死にもがきながら頑張っている弱い人たちを切り捨てない社会であるべきだとも思う。だから、私を応援してくれる人がいる限り頑張っていこうと思っています」
デイリー新潮編集部

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