日本最大の暴力団「6代目山口組を訴えた男」 再三の襲撃を受けても命拾いする強運

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2022年の年末、暴力団をめぐり奇妙な出来事が起きた。
「ルフィ」と6代目山口組のただならぬ関係…特殊詐欺事件に絡み組事務所ガサ入れの過去 12月20日、神奈川県横浜市にある稲川会の施設・稲川会館に6代目山口組のナンバー2である、高山清司若頭が来訪。侠友会の寺岡修会長と面会した。 寺岡会長は6代目山口組脱退後に神戸山口組の2015年時の結成に加わった、対立組織の有力者だったが、井上邦雄組長の誕生日の8月22日に神戸山口組を脱退。同組織から絶縁処分になっていた。

高山若頭と面会した寺岡会長は稼業の引退を伝え、翌日には兵庫県淡路署に解散届を提出、自身は引退した。侠友会の組員は6代目山口組直参の2代目竹中組(安東美樹組長、本拠地は兵庫県淡路市)に移籍したとされている。6代目を裏切った寺岡会長にけじめをとらせなかった高山若頭に対し、6代目内部からは不満も漏れ聞こえてくる。 寺岡会長が引退した理由については諸説あるが、報じられていない両者の共通点がある。この2人はある男性から裁判を起こされていた被告同士だったのである。 日本最大の暴力団6代目山口組に対して前代未聞の民事訴訟を起こした人物は川上道大氏(75)。「日本タイムズ」という地域のミニ新聞の発行人だ。川上氏自身は寺岡会長が引退した理由について「私の裁判が高山と寺岡の今回の件に関わっておるんでしょう。そう思いましたよ」と話している。 川上氏は22年7月に、6代目山口組の司忍(篠田建市)組長、高山若頭、直参の2代目若林組・篠原重則組長、かつて6代目山口組の中国四国ブロック長だった侠友会の寺岡会長に対して民事訴訟を起こた。内容は、川上氏への殺人未遂等について使用者責任があるため、連帯して3億円を支払えというものだ。川上氏は被告らに対して同時に刑事告訴もしている。■最初は自宅への発砲 なぜ川上氏は山口組に命を狙われたのか。訴状と川上氏の話をもとに、かいつまんで経緯を説明しよう。「日本タイムズ」は1993年に「四国タイムズ」として創刊して月1回発行、2021年に「日本タイムズ」と改称した。「四国タイムズ」時代から、談合問題や地元香川県の政治家のクビを飛ばす特ダネを連発。三井環大阪高検公安部長(当時)が告発した検察裏金問題の火付け役としても知られる。ローカル新聞としてはけた外れの破壊力といえる。 創刊当初から地元・香川銀行による建設会社への不正融資問題を追及してきたが、それが原因で、香川県高松市に本拠を置く山口組系暴力団・若林組(1958年結成、2002年に篠原重則組長が2代目に就任)から3度も命を狙われることになってしまう。 命を狙われるようになったのは1997年から。自宅に4発(5発目は暴発)の銃弾が撃ち込まれた。在宅しているところを見計らって発砲されており、明らかに脅しのための「壁撃ち」ではなく殺意を持った襲撃だった。犯人は若林組のK組員だったと「四国タイムズ」は指摘している。 次は98年。若林組組員から川上氏は暴力行為を受け、暴力をふるった組員は逮捕された。99年には組員から香川銀行の不正融資は書くなと恫喝される。これも組員は逮捕された。 2000年には家族を乗せていた乗用車を窃盗車によって止め、組員から鉄パイプで殴りかかられた。この組員は別件で刑務所送りになったが、出所後に謎の自殺をしてしまい、未解決事件になった。■5代目山口組を訴える 一部の未解決事件について川上氏は香川県警に告訴したが、警察の動きは鈍かった。そこで事件で使用された拳銃の入手ルートなどを解明するため、2004年、川上氏は神戸地裁で民事裁判を起こした。訴えた相手は5代目山口組だ。 民事訴訟の被告となったのは5代目山口組の渡辺芳則組長、二代目若林組の篠原組長、同組の森隆若頭、同舎弟の広沢律一氏などだった。5代目山口組の渡辺組長は傘下の若林組に対して使用者責任があることを問われた。この時代には末端の組員の犯行でも組長に使用者責任者が問われるようになっていたのである。 だが渡辺組長は川上氏の裁判以外にも使用者責任を問われる裁判を抱えていた。そこに川上氏から裁判を起こされ、頭を抱えた5代目山口組執行部は、川上氏に交渉人を使わして訴訟取り下げを図ることになった。交渉人は盛力会の盛力健児会長だった。盛力会長は地元が川上氏と同じ香川県であり、川上氏の空手の師匠の知人でもあったからだ。 両者は膝と膝をつき合わせ数度に及び交渉。5代目山口組は、事件の真相解明と川上氏の家族の安全を保障に協力することを約束した。川上氏は渡辺組長に対する訴訟を取り下げ、残りの被告については神戸地裁で裁判を継続させることにした。2006年3月、またしても襲撃は起きた だが6代目山口組体制になり、事態は一転する。 2005年7月に5代目山口組の渡辺組長が引退し、6代目に司忍組長が就任。司組長は拳銃不所持の使用者責任を問われて2006年2月に府中刑務所に収監された。すると若林組は森裕之本部長を破門する。そして同年3月のある晩、川上氏はまたしても襲撃された。 帰宅する川上氏を待ち受けていた全身黒ずくめの男が自宅前で銃撃。銃弾は数メートルの至近距離から3発放たれた。川上氏は自宅敷地内へと俊敏に飛び込みかろうじて銃撃をかわした。命からがら家に駆けこんだが、最後の1発を被弾して右足踵が血に染まっていた。 実行犯は若林組を破門された森元本部長だった。森元本部長は拳銃を持って警察に自主して逮捕され、懲役15年の実刑判決を受けて宮城刑務所に収監された。 一方、川上氏は6代目山口組と若林組に対して改めて損害賠償責任訴訟を起こした。森元本部長が偽装破門をしている疑いがきわめて濃厚だったからだ。「森裕之元本部長は篠原組長の息子の養父になっています。破門をされて私を襲撃した後もその親族関係は解消されていませんでした。使用者責任を回避するために偽装破門をしたとしか考えられませんよ。山口組は6代目体制になったことで、私に危害を加えないという5代目の約束を反故にしたんです」(川上氏) 若林組の篠原組長は2007年に6代目山口組の事務局長に昇格している。一方で、5代目時代の執行部や重鎮たちは引退や死去、排除されていた。川上にとって山口組とのパイプ役だった盛力会長も2009年に6代目山口組から除籍され、引退していた。押さえになる幹部は六代目山口組にはほとんどいなくなっていた。 川上氏は最高裁まで争ったが、裁判所は森に対してのみ損害賠償責任を認めただけであった。■破門されたヤクザが組に復帰 この判決に納得がいかなかった川上氏は元裁判官である弁護人の生田暉雄氏に相談する。2019年に生田弁護士は森元本部長が収監されている宮城刑務所まで面会に行った。そこで森元本部長は、<6代目山口組の親分や若林組組長を裏切ることはない。おれはいまでも若林組だ>と生田弁護士に話した。 その言葉通りというのか。15年の刑期を務め、21年に出所した森元本部長は“破門”されていたにもかかわらず若林組の本部長に返り咲いたことで「元」が肩書きから外れた。 6代目山口組の責任を追及するため川上氏は再度訴訟を準備。偽装波紋を前提にして、冒頭で述べた訴訟を東京地方裁判所で起こしたのである。神戸山口組侠友会の寺岡会長は事件当時、6代目山口組の中国四国ブロック長だったということで被告に名を連ねることになった。■裁判の行方は 民事訴訟の第2回目期日は昨年12月12日に開かれた。「刑事裁判と平行して訴えています。なにせ日本最大の暴力団の組長や幹部を訴えている裁判ですから、司法当局側は相当慎重で裁判開始まで時間がかかりました。裁判を開きたくないという強い意向を感じました。東京地裁は神戸山口組に属する侠友会は6代目を脱退して反目する組織だからと裁判を分ける分離裁判を申し出ていましたが、それは却下されてしまいました。まさか同じ法廷に並べるわけには行きませんからね。それが12月12日の期日で今後は一緒に審理すると方針が変わったんです」 その約1週間後の20日に、侠友会は高山若頭の裁量で円満に解散し、寺岡会長は引退したのである。川上氏からすれば裁判の進行と侠友会の動きが一致すると思えてくるだろう。 記者も12月の裁判を傍聴したが、裁判長の口ぶりから、この裁判を早く終わらせたいという意向が透けて見えた。証人を一人も呼べず、真相が明らかにならないまま裁判が終結してしまえば川上氏も浮かばれないだろう。 2月20日には前代未聞の裁判の、もしかしたら最後になるかもしれない審理が開かれる。(取材・文=平井康嗣/日刊ゲンダイ)
12月20日、神奈川県横浜市にある稲川会の施設・稲川会館に6代目山口組のナンバー2である、高山清司若頭が来訪。侠友会の寺岡修会長と面会した。
寺岡会長は6代目山口組脱退後に神戸山口組の2015年時の結成に加わった、対立組織の有力者だったが、井上邦雄組長の誕生日の8月22日に神戸山口組を脱退。同組織から絶縁処分になっていた。
高山若頭と面会した寺岡会長は稼業の引退を伝え、翌日には兵庫県淡路署に解散届を提出、自身は引退した。侠友会の組員は6代目山口組直参の2代目竹中組(安東美樹組長、本拠地は兵庫県淡路市)に移籍したとされている。6代目を裏切った寺岡会長にけじめをとらせなかった高山若頭に対し、6代目内部からは不満も漏れ聞こえてくる。
寺岡会長が引退した理由については諸説あるが、報じられていない両者の共通点がある。この2人はある男性から裁判を起こされていた被告同士だったのである。
日本最大の暴力団6代目山口組に対して前代未聞の民事訴訟を起こした人物は川上道大氏(75)。「日本タイムズ」という地域のミニ新聞の発行人だ。川上氏自身は寺岡会長が引退した理由について「私の裁判が高山と寺岡の今回の件に関わっておるんでしょう。そう思いましたよ」と話している。
川上氏は22年7月に、6代目山口組の司忍(篠田建市)組長、高山若頭、直参の2代目若林組・篠原重則組長、かつて6代目山口組の中国四国ブロック長だった侠友会の寺岡会長に対して民事訴訟を起こた。内容は、川上氏への殺人未遂等について使用者責任があるため、連帯して3億円を支払えというものだ。川上氏は被告らに対して同時に刑事告訴もしている。
■最初は自宅への発砲
なぜ川上氏は山口組に命を狙われたのか。訴状と川上氏の話をもとに、かいつまんで経緯を説明しよう。
「日本タイムズ」は1993年に「四国タイムズ」として創刊して月1回発行、2021年に「日本タイムズ」と改称した。「四国タイムズ」時代から、談合問題や地元香川県の政治家のクビを飛ばす特ダネを連発。三井環大阪高検公安部長(当時)が告発した検察裏金問題の火付け役としても知られる。ローカル新聞としてはけた外れの破壊力といえる。
創刊当初から地元・香川銀行による建設会社への不正融資問題を追及してきたが、それが原因で、香川県高松市に本拠を置く山口組系暴力団・若林組(1958年結成、2002年に篠原重則組長が2代目に就任)から3度も命を狙われることになってしまう。
命を狙われるようになったのは1997年から。自宅に4発(5発目は暴発)の銃弾が撃ち込まれた。在宅しているところを見計らって発砲されており、明らかに脅しのための「壁撃ち」ではなく殺意を持った襲撃だった。犯人は若林組のK組員だったと「四国タイムズ」は指摘している。
次は98年。若林組組員から川上氏は暴力行為を受け、暴力をふるった組員は逮捕された。99年には組員から香川銀行の不正融資は書くなと恫喝される。これも組員は逮捕された。
2000年には家族を乗せていた乗用車を窃盗車によって止め、組員から鉄パイプで殴りかかられた。この組員は別件で刑務所送りになったが、出所後に謎の自殺をしてしまい、未解決事件になった。
■5代目山口組を訴える
一部の未解決事件について川上氏は香川県警に告訴したが、警察の動きは鈍かった。そこで事件で使用された拳銃の入手ルートなどを解明するため、2004年、川上氏は神戸地裁で民事裁判を起こした。訴えた相手は5代目山口組だ。
民事訴訟の被告となったのは5代目山口組の渡辺芳則組長、二代目若林組の篠原組長、同組の森隆若頭、同舎弟の広沢律一氏などだった。5代目山口組の渡辺組長は傘下の若林組に対して使用者責任があることを問われた。この時代には末端の組員の犯行でも組長に使用者責任者が問われるようになっていたのである。
だが渡辺組長は川上氏の裁判以外にも使用者責任を問われる裁判を抱えていた。そこに川上氏から裁判を起こされ、頭を抱えた5代目山口組執行部は、川上氏に交渉人を使わして訴訟取り下げを図ることになった。交渉人は盛力会の盛力健児会長だった。盛力会長は地元が川上氏と同じ香川県であり、川上氏の空手の師匠の知人でもあったからだ。
両者は膝と膝をつき合わせ数度に及び交渉。5代目山口組は、事件の真相解明と川上氏の家族の安全を保障に協力することを約束した。川上氏は渡辺組長に対する訴訟を取り下げ、残りの被告については神戸地裁で裁判を継続させることにした。
だが6代目山口組体制になり、事態は一転する。
2005年7月に5代目山口組の渡辺組長が引退し、6代目に司忍組長が就任。司組長は拳銃不所持の使用者責任を問われて2006年2月に府中刑務所に収監された。すると若林組は森裕之本部長を破門する。そして同年3月のある晩、川上氏はまたしても襲撃された。
帰宅する川上氏を待ち受けていた全身黒ずくめの男が自宅前で銃撃。銃弾は数メートルの至近距離から3発放たれた。川上氏は自宅敷地内へと俊敏に飛び込みかろうじて銃撃をかわした。命からがら家に駆けこんだが、最後の1発を被弾して右足踵が血に染まっていた。
実行犯は若林組を破門された森元本部長だった。森元本部長は拳銃を持って警察に自主して逮捕され、懲役15年の実刑判決を受けて宮城刑務所に収監された。
一方、川上氏は6代目山口組と若林組に対して改めて損害賠償責任訴訟を起こした。森元本部長が偽装破門をしている疑いがきわめて濃厚だったからだ。
「森裕之元本部長は篠原組長の息子の養父になっています。破門をされて私を襲撃した後もその親族関係は解消されていませんでした。使用者責任を回避するために偽装破門をしたとしか考えられませんよ。山口組は6代目体制になったことで、私に危害を加えないという5代目の約束を反故にしたんです」(川上氏)
若林組の篠原組長は2007年に6代目山口組の事務局長に昇格している。一方で、5代目時代の執行部や重鎮たちは引退や死去、排除されていた。川上にとって山口組とのパイプ役だった盛力会長も2009年に6代目山口組から除籍され、引退していた。押さえになる幹部は六代目山口組にはほとんどいなくなっていた。
川上氏は最高裁まで争ったが、裁判所は森に対してのみ損害賠償責任を認めただけであった。
■破門されたヤクザが組に復帰
この判決に納得がいかなかった川上氏は元裁判官である弁護人の生田暉雄氏に相談する。2019年に生田弁護士は森元本部長が収監されている宮城刑務所まで面会に行った。そこで森元本部長は、<6代目山口組の親分や若林組組長を裏切ることはない。おれはいまでも若林組だ>と生田弁護士に話した。
その言葉通りというのか。15年の刑期を務め、21年に出所した森元本部長は“破門”されていたにもかかわらず若林組の本部長に返り咲いたことで「元」が肩書きから外れた。
6代目山口組の責任を追及するため川上氏は再度訴訟を準備。偽装波紋を前提にして、冒頭で述べた訴訟を東京地方裁判所で起こしたのである。神戸山口組侠友会の寺岡会長は事件当時、6代目山口組の中国四国ブロック長だったということで被告に名を連ねることになった。
■裁判の行方は
民事訴訟の第2回目期日は昨年12月12日に開かれた。
「刑事裁判と平行して訴えています。なにせ日本最大の暴力団の組長や幹部を訴えている裁判ですから、司法当局側は相当慎重で裁判開始まで時間がかかりました。裁判を開きたくないという強い意向を感じました。東京地裁は神戸山口組に属する侠友会は6代目を脱退して反目する組織だからと裁判を分ける分離裁判を申し出ていましたが、それは却下されてしまいました。まさか同じ法廷に並べるわけには行きませんからね。それが12月12日の期日で今後は一緒に審理すると方針が変わったんです」
その約1週間後の20日に、侠友会は高山若頭の裁量で円満に解散し、寺岡会長は引退したのである。川上氏からすれば裁判の進行と侠友会の動きが一致すると思えてくるだろう。
記者も12月の裁判を傍聴したが、裁判長の口ぶりから、この裁判を早く終わらせたいという意向が透けて見えた。証人を一人も呼べず、真相が明らかにならないまま裁判が終結してしまえば川上氏も浮かばれないだろう。
2月20日には前代未聞の裁判の、もしかしたら最後になるかもしれない審理が開かれる。
(取材・文=平井康嗣/日刊ゲンダイ)

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